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自給という冒険

2013-06-29 04:51:23 | 暮らし
自給は私にとっては冒険である。とても興味深い冒険だ。三浦雄一郎さんが80歳でエベレストに登った。三浦さんは色々の冒険やってはきたが、80歳での冒険が生涯で一番の冒険であったことだろう。間寛平 さんの冒険と言えば世界一周をヨットとマラソンでやリとげたことだ。植村直己さんの冒険もすごいものである。世界初の五大陸最高峰登頂、犬橇を使った単独行による北極点到達。日本にもすごい冒険家沢山いる。私の自給農業もささやかではあるが、スリルに満ちた冒険なのだ。冒険になるにはルールがいる。単独行とか。年齢とかルールを付けることで面白い冒険になる。自給という冒険は実は人類は長い歴史の中で、様々に挑戦されてきた。自給の冒険もルールを加えることで、冒険家の冒険以上の命がけの冒険になる。例えば、機械は使わず、道具程度の利用に限定したら、相当に厳しい冒険になる。購入の資材は使わない、こんなルールを加えれば、さらに厳しいものになるだろう。

主食の自給は冒険の必要条件だろう。野菜を始め食べ物の自給でも塩や砂糖の自給までやれば、冒険と呼べることになる。衣、食、住というから、これは3点セットのようなものだろう。エネルギーの自給これも一つの冒険のルールになる。水を自給できるか。これも、島の暮らしでは現実である。小学生のころ15少年漂流記を読んで以来、自分の中でくすぶっている、自給の暮らしという冒険の世界がある。どうやれば離れ小島で生き抜けるかを、あれこれ考えたものだ。たぶん山北の山の中で暮らし始めたことも、それにつながっている。鶏を飼う。このこと一つをとっても視点を変えれば、冒険の世界が無限に広がってゆく。胸が高鳴るような、未知の世界が広がる。人間が生きるということは、そこでただ暮らすとしてもそもそも大冒険である。平穏無事とだけは行かない。せっかく生まれてきたのだから、生きるということをより深く、より広く、様々体験してみたいという気持ちがある。無人島に渡って生き残れるか試してみたいものだと、何度思ったことか。

それはミクロの世界も、無限の宇宙も同じように冒険の領域であるように、ただ暮らすということも、自給という視点を加えるだけで、奥行きが深まり冒険的な様相を帯びてくる。これが面白い。自給のお米で1年暮らす。こういうルールを決めてお米を作っている。もし、お米がイノシシにやられて採れなければ、一年間米なしの暮らしになる。こう考えていれば、備蓄とか、多様化とか、色々考えざる得ない。以前、田んぼの崖が崩れて流された時、あんたたちの田んぼは楽しみにやっているのだから、今年は田んぼをいくらか止めてもらって、崖の工事をやったらどうかと言われた。いや、ここのお米がとれなければ、一年食べるお米が無いのだと自給の活動を説明をしたら、呆れられたが理解はしてくれた。自給を冒険にすることで農作業が面白くなるのだ。真剣になるから技術も向上する。

お米、小麦、大豆、お茶、これはグループで作って来た。チームでやることが合理性があると考えたからだ。これも単独行の方がリスクが上がる。三浦さんのように、80歳の自給生活を考えたら大冒険だろう。よほど身体を整えてゆかなくてはならない。野菜一つとっても、それぞれに冒険の世界が広がる。トマト作りでも無農薬という条件でハードルが上がる。タマネギはなるほど苗作りだと気付いた時に、がぜん冒険的に面白くなった。例えば、食糧の自給のために費やした時間の世界記録は何時間か。自己記録は現在、400時間ぐらいか。年齢とともに伸びるのか。最近時間の短縮は出来ていない。今後短縮する事が出来るのか。他人にとってはどうでもいいような小さな冒険であるが、私にはエベレストに登るより、やり遂げたい自給の冒険である。
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