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松任「うるわし」第25回記念 同人・会員展

2023-04-25 04:13:17 | 水彩画


水彩人 第25回記念 同人・会員展

会 期  2023年4月26日(水)~4月30日(日)
     10時~17時(最終日16時まで)※入場無料
水彩人は、例年9月に東京都美術館で開催している水彩画専門の公募団体です。
この秋に25周年を迎えるにあたり「うるわし」にて水彩本来の美しさが感じられる20号までの作品を展示します。
是非ご高覧下さいますようお願い申し上げます。
 
会 場  白山市 市民工房「うるわし」 
1階 企画展示室
石川県白山市殿町62-5
076-274-2511

※私は(笹村出)会期中会場にいますが、金曜日はおりません。

 石川県の白山市松任に来ている。松任に満天の湯と言うスーパー銭湯がある。会期中の一週間ここに泊まることにした。松任の駅から歩いて20分というから、会場の「うるわし」までは20分はかかるのだろう。少し遠いいが、サウナがあるのでここに泊まることにした。

 10時からうるわしの会場は開くので、朝の内は絵を描くことにする。松任という街のことはよくは知らないのだが、屋上からは白山がみえると書かれている。上層階だと窓から白山が描ける。松任は歴史のある街だから、絵になる場所があるかも知れない。

 絵は無事にかゆう堂についているだろうか。中盤全紙を2点出品する。宅配便で送れる限度である。今回全員が宅配便だけで輸送をすることにした。かゆう堂という画材屋さんに、搬入と展示の協力をお願いしてある。かゆう堂さんに昨日までに絵はついているはずだ。

 今日一日かけてゆっくりと会場準備になる。何人ぐらい集まるだろうか。5人いれば大丈夫だ。多分大丈夫だと思う。前回の経験があるから大体の要領はわかっている。今回は中盤全紙ぐらいが最大のサイズなので、会場に余裕はあるはずだ。ゆったりとした絵がよく見える会場にしたい。

 水彩人第25回記念 同人・会員展


白山市 市民工房「うるわし」  2023年4月26日(水)〜4月30日(日)


1 秋元  由美子  祭壇を整う女 F10  竹刻筒に薔薇 P20  千葉
2 淺田  ようこ  甘いかおり  京都
3 畔上  撫子   赤いバック  F20  或る日の午後 52×67  東京
4 いとう ゆきこ  アトリエⅠ  F10 アトリエⅡ  F10  埼玉
5 稲村  美保子  葉牡丹A 10  葉牡丹B 10  千葉
6 大原  裕行   十二単 100.3×48  穂  100.3×48  千葉
7 奥山  幸子   想いⅠ F20縦  爽やかⅠF6横  神奈川
8 金田  勝則   けあらしと白鳥 M20  流木 M20  北海道
9 北野  喜代美  窓辺の夕陽Ⅰ F15  窓辺の夕陽Ⅱ S30 石川
10 栗原  直子   レモン F6 縦 ベコニア 20変横  東京
11 小峰  千惠子  遊 F10 忘れもの  F10  東京
12 昆野  朋代   春の出会い 古木の秋  埼玉
13 榊原  康之   秋から冬へ P20  浅春 P20  千葉
14 笹村  出    輝喜名さんの庭 中判全紙  光の庭 中判全紙  沖縄
15 佐瀬  芙美子  音楽Ⅰ 音楽Ⅱ  千葉
16 杉浦  カヨ子  夏の花 F20  秋の花 F20  千葉
17 関   とも子  とっくり湖散策 20  おそるおそる 20  奈良
18 瀧川  信介   雪来る、爺ヶ岳・鹿島槍10号大 五月.穂高 10号大 神奈川
19 西   凉子   ざぼん きざし 枯れる 10  千葉
20 疋田  利江   波の音 F20  千葉
21 平澤  薫    工場地帯の舟 P12横  神奈川
22 松田  憲一   青の景 F20  青のある景 515×728  神奈川
23 三橋  俊雄   風景  千葉
24 山下  美保子  春の風に乗ってⅠ F20  春の風に乗ってⅡ F20 千葉
25 山平  博子   夏樹 冬樹  北海道
26 米倉  三貴   記憶の中の未来 F20 新たな始まり F20  神奈川
27 渡辺  莞二   早苗の頃Ⅰ F15  早苗の頃Ⅱ F15  千葉
28 相川  恵美子  晩秋に朱いつるの実 グリーンの居場所  千葉
29 五十嵐 君枝   蒼日 25  福島
30 石井  博子   静物になった動物 F20  静物になった土 F15  千葉
31 井上  奈保子  夕暮れ 帰り道  東京
32 井上  るり子  春のおとずれ 思い出  神奈川
33 木村  文乃   波 S15  静寂 S15  千葉
34 杉山  昭    作品23−07  千葉
35 高橋  皐    熱海峠の見える風景 F10  千葉
36 伊達  賀代子  ささやかな日々Ⅰ ささやかな日々Ⅱ  埼玉
37 谷中  恵美子  小菊 いろいろ 小菊 いろいろ  千葉
38 はるき      Dreessing M12 連ねる M1  千葉
39 菱沼  幸子   おもかげ めぐり来て…  埼玉
40 堀   美恵子  春 ハーモニー S20  愛知
41 真壁  良子   おにゆず P15 ホウライショウ P15  東京

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第158 水彩画 日曜展示

2023-04-23 04:37:45 | 水彩画
第158 水彩画 日曜展示

10号前後の作品です。






198「花瓶の花」
2023.4






199「海夜明け」
2023.4







200「のぼたん農園」
2023.4






201「一本杉」
2023.4





202「月の海」
2023.4





203「屋良部岳」
2023.4





204「夜明け富士」
2023.4






205「瀬戸内」
2023.4






206「オモト岳」
2023.4


 石垣島の一番過ごしやすい季節である。のぼたん農園で絵を描いていて、過ごしやすい。一日があっという間に過ぎて行く。陽射しはもう真夏と変わらないのだが、まだ30度にはならない。雨は週に一回ぐらいだ。

 霞んでいる日が多く海の色はもう一つだ。山の色は複雑な様子をしている。亜熱帯の常緑樹の色の変化にはまだついて行けない。海の色も毎日見ていると、複雑なものだと思う。日々刻々変わって行く。変わって行く海の変わらないものを描く。

 来週から松任に行く。26日から水彩人展が「うるわし」である。2点出品する。会期中は会場にいる。絵は日々の一枚なのだから、朝早起きして描きたいと思っている。少しは描けるだろうか。ただ、金曜日だけは東京に日帰りしなければならないので、会場に行けない。


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第157 水彩画 日曜展示

2023-04-16 04:36:33 | 水彩画
第157 水彩画 日曜展示






189「のぼたん農園」
中判全紙 2023.4







190「雲ノ平」
2023.4 10号






191「桃の花」
2023.4 10号






192「花鳥山」
2023.4 15号






193「三俣蓮華」
2023.4 15号






194「岬」
2023.4






195「海越しの富士」
2023.4 12号






196「小島」
2023.4 12号






197「のぼたん農園」
2023.4 10号


   石垣に戻り絵を描いている。何かが変わったわけではないが、境川を眺めてきたことで、確かめられたことがある気がする。自分であれば良いと言うことの意味が、前よりはみえてきた気がする。

 描かなければならないものと、描いてはいけないものがある。たぶん絵はそういう物なのだろう。もう少しその当たりを突き詰めてゆきたい。
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絵画の空間について

2023-04-11 06:05:59 | 水彩画


 水牛の「さくら」

 絵画で一番自分を表す物は空間なのだと考えるようになった。絵画は平面に描く作品だから、空間と行っても彫刻のような現実空間ではなく、作り上げられた仮想空間である。一見空間があるように見えるものが絵画だから、その空間の在り方に制作者が一番反映される。

 作品を構成するものには色や線や形があり、表しているものの意味がある。私が描くものはあくまで具象画であるので、山や海や花などの意味が存在する。見るものにはその意味がとても重要になる。しかし、描くものにとっては線の引き方や色の具合の方に重きが置かれ、その結果生まれる空間が自分の世界を反映する。

 普通の絵画論では例えばゴッホの絵で向日葵が描かれているのか、麦畑が描かれているのか。教会が描かれている。と言うような絵のその意味から作者の作品に込めたものをたどろうとする。しかし、ゴッホにとって重要だったのは絵に描かれたものの意味よりも、ゴッホならではの空間感が切実に自分であるかだったはずである。

 ゴッホ以外のものには描くことの出来なかった。深刻で、切迫した空間の世界である。その空間にゴッホのすべてが表現されていると言える。その空間の臨場感がすさまじい物なので、見るものはゴッホの観ていた世界に入り込んでしまう。

 靴であろうが、椅子であろうが、それを見ているゴッホの目がひしひしと伝わってくる。いつの間にかゴッホの目になっているくらいの臨場感のある画面だ。その画面から、自殺するほかなかったゴッホの苦しさにまで、入り込んでしまう。そのすべてが空間にあると言って良いのだろう。

 平面的と言われたマチスの絵も実はその平面構成された空間にすべてがある。切り紙を制作したマチス。純粋に色面の構成で、マチス自身の絵画空間を作り出そうとしたのだ。曖昧な要素をどこまでも切り捨てて、マチス自身の絵画であり得るのか。

 絵画ではあるのだが、数学のような理詰めな世界がマチスにはある。色と形に、絵画の要素を純粋化して行き、その組み合わせで自分の空間が構成できるのかに挑戦している。そのことが、大きさによって同じ色でも意味が違って来るという、マチスの考え方に至る。

 あくまで重要なことは色と形で作り上げられた空間がマチスになっているかどうかなのだ。マチスの思考していた高度な知的な世界が、芸術学の学術書を読んでいるかのような、絵画世界を私には感じさせる。マチスは次の絵画の始まりに見えて、実は近代絵画の結論だった気がする。

 ハイパーリアリズムのような写真以上に現実らしい空間が作り上げられた絵がある。そこでは描かれたものの意味はほとんどなく、作り上げられた現実のようでありそうではない、空間の感触だけが印象に残る。この作者の存在を消し去る空間表現が、現代社会の無個性化あるいは疎外を感じさせる。

 日本人の描いた、明治以降の絵画には日本人の空間があった。侘び寂び軽みのような日本人の芸術世界の哲学を、彷彿とさせる空間がある。それはまるで絵面は異なる、梅原でも、中川一政でも、万鉄五郎でも大きくは違わない。明治時代に出来たのであろう、上質な日本芸術の空気である。

 絵を描くと言うことは自分の空間感に至るということなのだろう。絵に自分の空間を作ると言うことは、天才のみに許されたような仕事だ。多くの人は天才が作った空間の真似をしているに過ぎない。ところがその空間はその天才だけが観た世界だから、真似では話にならないわけだ。

 わたしには一応、天才のマネではいけないということだけは分かった。しかし、凡人が凡人の空間を表したところで、まともな絵とは成らない。絵にならないためにもがいてもがいてありきたりの凡人の空間の絵を描いてきた。それは仕方がないことであった。止むえないことではあった。

 それでも凡人の空間が近づいたなとは思う。ありきたりの普通の目が見た空間である。正しい方角を求めて進んできた以上、凡人にはそれしかやりようがなかったわけだ。天才のマネだけはしないで来れたことぐらいが良かったことかも知れない。

 後は自分の人間修行である。自分がわずかでも深まることが出来れば、絵はいくらかでも絵になるはずだ。凡人が修行をして凡人を越えられるかどうかは分からない。ただ日々精進をして、やり尽くす以外に生きると言うことはない。まあ、この乞食根性が一番の修行の障害なのかも知れない。

 欲しい欲しいの乞食道では、埒があかないのは分かっているのだが、自分にはこれ以外にやりようもない。努力をしないでがっかりするより、努力をしてがっかりした方がまだましだ。まだ、時間は十分にある。すこしづつ、自分の空間というものに、近づきたい。

 意識していれば、いつかはたどり着くかもしれない。まずよく見ること。これしかない。よく見ていれば、稲を見て稲の状態が見えてくる。海を見て海が分かるところまで行かなければ、海の空間はとらえられるはずがない。海が見えないのに、海の絵が描けるはずもない。

 のぼたん農園の絵はまだ描けない。まだ理解できていない途上だからだろう。分かると言うことがなければ、絵画空間の感触は把握できない。それが絵画のおもしろいところだ。一つ一つ似ていて違うのが空間意識だろう。自然と向かい合い、見ているほかない。

 
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第156 水彩画 日曜展示

2023-04-09 04:46:46 | 水彩画
第156 水彩画 日曜展示

  小田原の1週間で描いた絵です。最初の4点は中判全紙です。後は10号ぐらい。完成とは言えないところがある絵もあります。今回は未完成を含めて描いたすべてを展示します。





179「南アルプス」
中判全紙 2023.4





180「南アルプスと一本杉」
2023.4 中判全紙 




181「塩山桃満開」
2023.4 中判全紙






182「篠窪春」
2023.4 中判全紙





183「男鹿半島春」
2023.4







184「三津浜富士」
2023.4





185「能登半島静かな海」
2023.4





186「内灘の農地」
2023.4






187「下田港」
2023.4





188「田子魚港」
2023.4


 小田原では絵を描いた気がする。いつも農作業をしたということなのだが、今回は絵を描くことが中心だった。小田原や山梨の一番美しい季節に十分に絵を描きたいと思った。予想していたとおり、見事な花盛りの季節だった。芽吹きの柔らかい色が心に染みた。

 この柔らかな色調が広い空間に広がっている。もやってはいるのだが、遠くの南アルプスだけは天空に颯爽とある。雪の山岳が輝いている。これを描きたかったのだ。ただただ描いていることで満足が出来た。絵のことよりも、描くという喜びに溢れた。

 篠窪もそうだったのだが、この空間の感触こそ絵にしたいというものなのだろう。この空間を感じている感触はたぶん私だけの物のような気がする。ここに自分の世界の捉え方が在る気がした。ただ、その世界を絵にどこまで出来たのかは、残念ながらまだまだのようだ。

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絵を描くことについて

2023-04-06 04:03:37 | 水彩画

 
  写生で絵を描いている。絵にしたい場所を見て絵を描いている。それで絵が出来上がることもあるが、たいていの場合、半分くらいのところまでである。この後持ち帰り、アトリエで絵を見ている。見ているうちに気付くことがある。またその絵を描いた場所に持って行き描いて居た。

 最近は持って行かないで、アトリエカーの中で描いた風景とは違う風景の中で絵を進める。家のアトリエで描くことはない。閉じた室内の空間では描くことができない。半分野外のような、外の空気の中のアトリエカーの中で描くことができる。

 写生で描く場合、絵にしたいと思った場所で描くのだが、大体は長年描いてきた同じ場所である。あたらしい場所で描くことは少ない。石垣島では新しい場所で描いて居るのだが、まだ絵になる場所ということではない。絵が描ける風景は記憶の中に入った風景である。

 何故、そこが描きたくなるのかということでは、子供のころ見た甲府盆地の独特の空間の中の記憶なのだろうと考えてきた。最近、それだけではないということに気付いた。単純に絵が描きやすい場所を選んできたということだ。

 絵が描きやすいとは、風景がすでに自分の描きたい絵のようになっている場所だ。切り取れば、そのまま絵になるという場所である。それは、目の前に平面として、風景が絵のようになっているところだ。そうした場所はなかなかないのだが、例えば飛行機の上から、見る地表の眺めである。

 これは、平面でそのまま絵になる。同じように、目の前に風景がつい立てのようにあれば、それは絵になると感じた。緑の斜面があり、それが面白いと感じるような、色と形のバランスが取れていれば、もう風景がそのまま絵だと感じた。山北ではそういう風景を良く描いた。そんな描き方だとどうしても俯瞰的な見方が多くなるようだ。

 しかし、その意味は私にとっては、なぜ衝立のように目の前の正面に平に横たわる風景なら、絵にできると考えたのかは重要だと思える。それはどうも、私が人が作った絵画というものを出発点にしていないからの様なのだ。最近そのことにやっと気づいた。

 絵を習うということは過去にある絵を出発点にして、まず絵というものを学び、自分なりの理解をして、絵を描くのだろう。ところが、私の場合、大学時代に過去にあるような絵ではだめだというところから出発した。今あるような絵を描くようなことはくだらないと考えたのだ。小林秀雄氏と岡本太郎氏の影響が強かった。

 絵は自己表現である。絵はいまだかつてないものでなくてはならない。こう考えたのだ。そして絵が美術品であることを毛嫌いした。今もその点同じである。商品絵画を嫌悪している。受けようとしているような絵を卑しいものと考えている。

 そのために、今ある絵の否定から始まっているので、自分の眼だけを頼りに絵を描こうとした。だからずいぶん遠回りをしたし、成果も少なかった。やり方自体は間違っていなかったのだが、そうしたやり方は天才だけに許された方法だったのだろう。才能がそれほどはないのだから、

 ただただ、遠回りして、やっと出発地点あたりまで来たというのが現状である。だから、ここからがいよいよ自分の絵と対峙する時が来たのだと思える。長くやってこれたことには感謝している。そうでなければ訳も分からないところで途切れていた。

 こうしてここまで来てみると、絵がどういうものであるかわからない以上、手探りで描こうとすると、空間というものの困難さに直面した。いわゆる、前景、中景、遠景みたいな絵の見方である。絵というものの、仕組みからはいれば、その処理法のようなものがあるのだろう。

 ところが、自分の絵画法で、空間を捉えるということはできなかった。この空間を捉えるということが、最も絵画で重要なことなのに、できないので避けたのだ。避けて絵できるところを見つけて歩いた結果、平面的に見える場所を描いたのだ。それが俯瞰的な場所だったのだ。真上から見れば、地面は平面である。

 その平面に見えるということと、俯瞰的な風景という関係が、自分の子供のころに見た藤垈から見た甲府盆地だった。やはり絵画で一番重要なことは、この空間の意識だということに気付く。空間を把握するということは自己存在の位置を確認するということになる。空間の意識は一人一人違う。

 空間つまり世界のことだ。絵画が自分の世界観を表現するものであるとすれば、世界をどうとらえているかの重要な意識は空間意識であろう。空間をどのように感じて把握しているかを、自分の意識で明確にするのが絵画するということかもしれない。

 だから、私は人の絵から出発はできなかったのだ。人の世界観で絵を描く気にはなれなかったのだ。その結果の要領の悪い、遠回りをしてきた。それでよかった。私の今の絵画の空間に他人のものは紛れ込んでいない。だから見栄えはしないが、それがいいと思っている。

 私の世界観が、乏しいものであるために絵画が貧しいものであることはやむ得ないことだ。自分にないものを描いて居るよりはずっといいと思っている。自分を磨いてゆく以外にない。つまらない奴が、そこそこましな絵を描いて居るなどというのは、人の何かを借りてくるのがうまいだけだ。

 自分が精進して、少しはましになったときに、絵もいくらか他人にも見せられるものになるはずだ。生きるということは、日々これ精進。どこまで行けたかの証が絵である。ここまでだということが分かる絵であればすごい。自分がましな人間になれるかどうかはわからないが、全力を尽くして、やってみる。

 大した才能もない人間が、努力をしてどこまで行けるかである。これは正直な思いだ。まだ少なくとも10年はあると考えている。うまくすれば、20年である。日々の一枚である。日々の一枚を謙虚に、全力で描いてゆけば、どこかには行き着けるはずだ。そう信じてとぼとぼ進んでゆく。

 評価を気にしない。成果の少ないことを嘆かない。さげすまれることを畏れない。自分に至る道なのだから、自分だけの問題なのだ。自分が納得すればいい。中学生のころ、この「納得」という言葉が理解できなかった。みんなに笑われた。

 笑われたが、納得するということがどのような感じなのかが、どうしても感覚的に理解できなかった。理解するとか、了承するとか、わかるということと納得は違うと思った。腑に落ちて、受け入れることができる。に近い体験的な理解なのだ。理屈でわかったことでも納得できないことはある。

 いわゆる絵が納得いかなかったのだ。どこかに自分の考えている絵はこういうものではないと思っていた。自分の感性だけを信じれば、誰でもそういうことになるのではないだろうか。結局のところ、子供のころからなんにでも反抗する性格が、ここに至ったのだろう。


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第155 水彩画 日曜展示

2023-04-02 04:20:35 | 水彩画
第155 水彩画 日曜展示
10号前後の作品です。







171「下関和布利山(めかりやま)夜明け」
2023.4







172「富士夕照」
2023.4






173「氷見の月」
2023.4






174「夜明けの瓢箪池」
2023.4






175「朝の海.東伊豆」
2023.4







176「美ヶ原高原」
2023.4








177「田子」
2023.4






178「のぼたん農園」
2023.4


 今回はいろんな時期に描いて描きかけだったものを完成させたものが多い。その場で写生して、もう一つ進まなかった絵だ。久しぶりに見てみる今にないものもあるし、もう少し進められる部分もある。もちろん久しぶりに見てもまた、何もできない絵が多いいのだが。

 何か昔の自分と共作しているような気分になる。だんだん進めている内に今の自分の絵になる。描いてみると昔の自分の描いたものが不十分だったという事に気づく。 少しは進んでいるのかもしれない。

 紙の違いという事がある。昔はいろいろな紙で描いていた。今はファブリアーノのモルドメードという紙が多い。紙に反応して描いているから、描いた時に気分の乗らない紙ではだめだ。発色が深い紙が良い。水彩紙には一見美しいように見えるが、表面的な奥行きのない発色をする紙がある。
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絵を描く片岡鶴太郎さん

2023-03-27 04:08:51 | 水彩画

 
 片岡鶴太郎さんという、ものまねで一世を風靡したお笑いタレントだった人だ。役者として渋い役を演じていた。マルチ人間というのだろうか。ボクシングでプロのライセンスを取った。ヨガをやっているらしい。さらに、画家と呼ばれるようになり、美術館まである。

 この人がまだお笑いタレントであった若い頃、何かの写真撮影で、絵を描いているところに現われたことがある。その撮影を見たいわけではなかったのだが、絵を描き始めた場所で撮影を強引に延々と始めたのだ。何の挨拶もなく迷惑な話ではあったのだ。

 そのために撮影の場面を数時間も見せられてしまった。絵の講習会で描き始めた絵だったので、夕方までに描かなければならなかったので、できるだけ無視して描いていた。向こうも邪魔だとは思っていたのだろうが、場所を移動するわけにも行かなかった。

 そのときの、余りにへりくだる鶴太郎さんの態度には、ちょっとうんざりした。タレントと撮影者はこうした力関係なのかと驚いてしまった。まだ鶴太郎さんが駆け出しだった頃なのかも知れない。衣装を何度も何度も着替えさせられるのだ。どの衣装も良くないということで、着せ替え人形である。

 衣装担当が悪いのであって、鶴太郎さんが悪いわけではなかろうに、ヘコヘコ頭を下げ謝りまくる姿には、何とも嫌な気持ちがさせられた。それでも撮影をしているカメラマンは偉い人なのか、でかい態度で指図を繰り返していた。こんなくだらない仕事で、時間を取らすなよ、というような感じだった。

 この時のことを絵を描くようになった鶴太郎さんを見て思い出したのだ。鶴太郎さんは気を遣いすぎる人だということ。鶴太郎さんの絵はまさに気遣いの商品絵画である。鶴太郎さん自身が書いていることだが、絵はものまねの経験を生かして、模写で勉強したという。

 これはという絵を見て、つまり評価されている絵を見て、それを繰返し真似たのだそうだ。その結果、画業20年で冒頭の絵に至ったと言うわけだ。この絵が良いから欲しいという人がいることにも驚くところだ。真似から始める絵の典型を見る気がする。

 絵は真似から始めると、自分の世界に到達できないことになる。出来上がった他人の絵の世界をいくら見ても、それは自分の世界ではない。もちろん商品絵画を目指す人はそれでもいいわけだが。早く目立つためには真似る才能が必要なのかも知れない。

 別段片岡氏をけなそうというのではない。現代社会は資本主義末期の世界だ。すべての者を商品価値で判断する社会の中に生きている。多くの人がその中で生きるのは当然のことだろう。そういう意味で絵に於いてもものまねで始めれば良いという、要領の良い考え方はあるだろう。

 以前イタリアの画家のアトリエまで尋ねて、作品を写真撮影し、模写して、日本で発表していた画家がいた。受賞作が盗作だったとして、取り消されたことがあった。しかし、日本の画家のほとんどは、盗作といえば言える気がする。真似から始めるのが、上手の早道というような世界なのだ。盗作と制作のけじめのようなものが失われている。

 しかし、自己存在を探るというような昔風の藝術主義からいえば、商品絵画は全くの別物なのだ。片岡氏は中川一政の真似をしていたことがある。似て非なるもので、醜いばかりであった。小田原駅に巨大な鶴太郎さんの陶壁画があるので、見れば分かって貰える。表層をいくら真似たところで、中川一政氏の人間の高みには到底及ばない。当然のことだろう。

 絵の中に中川一政の存在に迫る気迫のような世界を見ているわけだから、真似てその絵面にいたろうという、片岡氏の浅薄な姿が嫌みにしか見えなかった。そんな絵の描き方が、現代の絵画世界には実に蔓延しているのだ。評価する側の鑑賞眼の低さがある。絵がそんな表面的なもので判断でされている。

 こんな風に書くと、出来ないからひがんでいるのだろうと思われるのかも知れない。確かに私には真似すら出来ないし、世間的に相手にもされていない。そのことを良かったと思っている。その結果として、たいした絵ではないが、たいしたことない自分の絵が描ければ良いと思って絵を描くことが出来る。それでいいと思うのだ。

 絵が自分の人間の範囲を超えるとすればそれはおかしなことだろう。結局絵の世界観は人間の成長以外にないということだろう。良寛の書の魅力は良寛さんの魅力であるに違いない。そう鶴太郎さんは書家も自称している。ものまねの書ではつまらない。

 鶴太郎さんを見たいから、鶴太郎さんの書を見たとして、そこに鶴太郎さんがいない。誰かの真似をしている鶴太郎さんはいるのかもしれない。それはつまらないことではないだろうか。ものまねのすばらしい鶴太郎さん、何でもそこそこまで行く努力が出来る人間の、すさましい様まで書が表していなければ。

 鶴太郎氏の書は一風変わった代書屋の書き物に見える。最近世間に出回る自称書家の字から日本文化の劣化を如実に感じる事ができる。書の精神性のようなものはどこかに行ってしまった。絵も同じなのだろう。真似をしている内に、藝術と言うものの本質を忘れてしまった。

 カルチャーセンター文化ということなのかもしれない。カルチャーセンターでは要領の良い絵を描く手順を教えるのだろう。サクラはこう描きなさい。水はこう描きなさい。薔薇ならこういう絵の具を使い、こういう手順ですよ。一見それ風になるのかも知れない。

 その要領の良い人が良いカルチャーの先生なのだろう。しかし絵を描くというのはまったくそういうことではない。藝術としての絵に描き方などない。趣味のお絵かきであれば、絵を描く要領というものはあるだろう。そういうことではどうにも成らない物が、自己表現である。

 自己表現は同意しても表現しないで入られないなのものかを、内なるものとして抱えているかどうかである。その内なるものの深遠さが人に伝わるものである。正直自分の絵を考えるとまったく至らない気持ちだ。しかし、いつかはそこまで行くという気持ちは持っている。

 鶴太郎さんの画業20年の絵で言えば、気取っているのだ。巧みに見せようとしている浅はかさが見えてしまう。自分の眼が見ているという感じがしない。こういう描き方を覚えて、描いているように見えてしまう。こういう絵が売れてしまうと言う今の世の中の、浅はかさを感じるところだ。

 鶴太郎さんを実は評価している。すべてを出し尽くしているところだ。誰でもがプロのボクサーにはなれない。お笑いタレントとしても一流。絵も巧みに描きこなす。ヨガの行者のように一日1食だそうだ。日々やりきっている。それならそれで、真似なんかもうしなくても良いだろうにと思うのだ。

 芸一筋でないところが、鶴太郎さんの独特の所だし、このさきの可能性なのではないだろうか。還暦からが勝負ではないか。もしこれだけやれる人が、本気で自分を探して絵を描けば、すごい絵が出来るのかも知れないと思うのだ。今度は熊谷守一仙人の人間の生き方の方を真似たらばどうだろうか。

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第154 水彩画 日曜展示

2023-03-26 04:26:45 | 水彩画
第154 水彩画 日曜展示






164「黄色い花」





165「塩山桃」






166「伊豆田子」
2023.3





167「西伊豆」






168「乗鞍岳」






169「海の草地」






170「黄色いしげみ」


 少し絵を描くことに苦しい1週間だった。それでも展示は続けたいので、何とか描いた絵だ。少し荒くなっているように思う。
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第153 水彩画 日曜展示

2023-03-19 04:25:39 | 水彩画
第153 水彩画 日曜展示





154「ハイビスカス」






155「ひょうたんじま」







156「石垣島の朝焼け」








157「のぼたん農園」






158「名蔵アンパル」






159「瀬戸内の夕日」






160「マヤグスノ滝」






161「与那国島の道」






162「石垣島崎枝」






163「与那国島の耕地」



 こうして絵を見ていると、与那国島へまた絵を描きに行きたい。瀬戸内海を又描きたい。西表島へ行き、また浦内川を描いてみたい。絵を描いていたときの気持ちをまざまざと思い出す。絵を描くと深く記憶される。昔の絵のつづきを描いていると別の世界に入るような気になる。

 思い出して描けるところまで行きたい。頭の中に浮んで来る風景を描いている。思い出の中の風景は絵に必要なものだけになっている。絵は自分の頭の中にあるものだ。現実の風景はそこまで変化したときに絵になって現われる。

 もちろん見て描くことの方が多い。始めて見て絵を描いて絵になるということは先ずは無い。同じ場所を繰返し描いている内に、その場所が頭の中に入る。それで始めて頭の中の風景を描けるような気になる。実際の場所とはまるで違うような絵ではある。


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第152 水彩画 日曜展示

2023-03-12 04:49:37 | 水彩画
第152 水彩画 日曜展示

12号前後の作品






144「田植え」
2023.3








145「石垣の海」
2023.3






146「石垣の海2」
2023.3







147「岩礁」
2023.3







148「耕された畑」
2023.3






149「並木」
2023.3







150「下田港」
2023.3






151「半島」
2023.3








152「山北の家」
2023.3








153「天草の教会」
2023.3


 今週は農作業が忙しい中描いた絵が多い。農作業と絵を描くと言うことは繋がっていて、相性が良い。気分転換に農作業をする。一休みして絵を描く。車アトリエに戻ったとき、気付くことが良くある。絵を描いているときには分からなかったことが、そうだったのかとなる。

 実際に絵を描く時間はそんなに長くはない。描いては置いておく。上手く描き継ぐことが出来れば、最高である。だから一枚の繪が何度も、車の中で持ち出され描いてみている。家に持ち帰りアトリエにかけられていて、また描けそうな気がしたら、車に乗せる。

 車には30枚くらいの絵が乗っている。一日4,5枚の絵を手を付けているだろう。その中に完成してくる絵が出てくる。何度やっても終わりまで進まない絵も多い。どうしてもだめだと思う場合は、絵の倉庫に仕舞っておく。一年位してまた出してくる。何度も何度も手を入れる。中には20年前の絵が急に出来上がると言うこともある。

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美の考え方

2023-03-07 04:11:23 | 水彩画



 子供の頃から絵を描いていて、美術というものをやっているのだと思っていた。小学校でも中学校でも美術の時間と言うでそう思ったのだろう。しかし、高校生の頃になると、絵を描いていながら、自分のやっているのはどうも美術と言うことでは無い。そうした疑問が湧いてきた。

 大げさに芸術作品を作りたいと考えたが、美術品を作ろうなどとは思わなかった。飾れる美しい作品を作りたいと言うより、絵画作品は自分を絞り出す表現なのだとする小林秀雄の考え方を、浅い読み方で考えるようになったのだと思う。その頃から、絵を描くにはむしろ美術という考え方は遠ざけなければならないものと考えるようになった。

 大学に入り岡本太郎の芸術論を読んで、ますます日本の美術工芸は遠ざけなければならないものだと確信するようになった。日本の美術は床の間芸術だ。床の間におかれて、座りのよいものは恥じなければならないと考えるようになった。絵描きは建具屋ではない。居心地の良い部屋の収まりの良いような作品は芸術から遠ざかる。

 自己表現すべき自分というものに、向かい合う必要があると考えるようになった。岡本太郎の考え方は日本の芸術論の中で最も優れていると今でも考えている。正しい考え方であるにもかかわらず、作品が魅力が無いのは、岡本太郎と言う人間に魅力が無いからだと考えた。つまり、自己表現だとすればそういうことになる。

 最近岡本太郎の作品は素晴らしいという人に出会った。そして話を聞いている内に、私にとって岡本太郎がつまらないのは、岡本太郎という人格と私が大分ずれているからのようだ。人間のできの問題では無いと言うことかもしれないと。中川一政が素晴らしいと言っても、岡本太郎評価の人には何のことか到底理解できないだろう。

 自己表現の芸術とは、そういう物になるはずだ。その人の人格と共鳴する人は限られている。人間の思想や哲学、好みはそれぞれのものだから、芸術作品ということになれば、いよいよそれぞれに共鳴するものが違って当たり前である。本来優れた藝術は出会える人も限られているのだろう。

 現代社会は資本主義末期である。ありとあらゆるものが商品化している。当然芸術作品も投機対象になる。値上がりをする作品が評価できる商品であり、作品と言うことになる。そうした美術界の構造が、芸術作品をますます混乱させるものにした。

 商品としての絵画販売に、飾り物としての美しいと言うことが重要な要素になる。美しいという概念にはかなりの共通性がある。美学という学問の領域がある。美とは何かを考える学問。時代や民族によって美というものは変わって行く。平安美人と江戸の美人そして現代の美人。その理由を探るような学問らしい。本当はよく分からない。

 そこで言う美というものは芸術表現と考えて見れば、一つの社会の傾向ぐらいのものだと思う。私が問題にしたいのはそういう意味の美のことではない。真理としての美というものがあるのだろうかという疑問だ。あるとすれば美は絶対的なものになる。

 なぜそれを美しいと感じ、美という概念が出来上がるのかを考える。単純に美というものを、芸術作品とつなげて考えて、その時代の美はその時代の絵画にあると考える人さえ居る。これは間違いやすい狭い考えなのだ。どれが美しい作品であるかと作品を見ているのでは、作品の表現している本質からはずれて行く。

 芸術表現はそれぞれの人間の哲学の表現であるとすれば、美学がと言うものが哲学の一つの枠に過ぎない以上、美は芸術作品の一つの要素に過ぎないと言うことになる。美しいという一要素から作品を考えることは、芸術の全体性から見れば歪んだ見方になりかねない。

 美をどういうものと考えて作品制作をしてゆく必要があるのか。美というもの捉え方を広げなければならないと思う。真善美という言葉がある。ギリシャ哲学に起源がある考え方で、そこでの美の捉え方は、美しいこと、良いこと、価値のあること、調和していることを意味している。

 哲学で考える美とはかなり総合的な美の見方と言うことになる。その社会が追究する方向を美と考える。その意味で美はかなり幅広い考え方と言える。最近になって、美を軽視しないで、美についてもう一度洗い直してみたいと考えるようになった。

 それは動禅を進めていて、一番良い動きをしたいと考えるようになったからだ。一番健康に良い動きでありたいと思っている。一番心が洗われる動きでありたいと考えている。自分というものが無の状態には入れる動きを目標にして行っている。

 すると一番分りやすいことは美しい動きなのだ。自分がどれほど無様に動いているのかは、よく分かっていることなのだが、それでも少しでも美しい動きにしようと考えると、だんだん無の状態に近づくことが多くなってきたのだ。この辺りに美しい動きと自分が考えるものに何かがあると気付いた。

 眼を閉じて行っているので、自分の動きが実際どれほどのものかは分からない。欧州少林寺八段錦と言うユーチューブの動画がある。この動画を見ると美しい動きというものが分かる。なるほどと思うところが沢山出てくる。自分に出来るわけではないと言うことも分かるが、一つの目標として時々見る。

 私が行っている八段錦とはかなり異なる動作である。動きの美しさというものに込められてゆく精神の集中というものがよく分かる。この動画とは逆に力を抜こうとしている。力んでいたのでは、無には成れない。どれだけゆるくゆっくりと動けるかを重視している。つまりそれが美しいと思う動きなのだ。

 膝の曲げ方。その膝に乗る腰の位置。そして上半身の姿勢。よほどの鍛練を積まなければ出来ない動きである。できる限りゆっくりと動く。そして呼吸を深く行う。特に呼吸を止めることを重視している。呼気吸気は深くゆっくりと考えれば良いのだが、同呼吸を止めるかも呼吸を考える植えでは重要である。

 美し動きと考えるて行くうちに、美しい絵というものもあるのではないかと気付いた。今まで美しいと言うことを毛嫌いしてきたわけだが、自分なりの絵の持つ美というものも、考える必要があると思うようになった。これからの絵の課題だ。

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第151 水彩画 日曜展示

2023-03-05 04:11:27 | 水彩画
第151 水彩画 日曜展示

 今回は小さい作品です。







131「与那国島」
2023.3





132「崖の眺め」
2023.3







133「下田港」
2023.3







134「やらぶ岳」
2023.3








135「庭の情景」
2023.3







136「牧場から海」
2023.3








137「田子漁港」
2023,3







138「牧草地」
2023,3






139「宮古島の畑」
2023.3






140「蘇我富士」
2023.3





141「鳥海山」
2023.3






142「夕照」
2023,3





 143「海辺のヤラブ」
 2023.3


 小さい繪ばかりにした。今回描いたものだけではないのだが、小さな絵を3月最初の絵ということにした。小さい繪には小さい繪の面白さがある。水彩絵の具の色は小面積の方が美しく使える気がする。水彩絵の具は大きくなればなるほど、微妙な調子や透明性という特徴を失う。

 大きさとしては中判全紙ぐらいが限界だと感じている。クレーは水彩画を描くことがほとんどだった。最大の大きさが30号ぐらい。大きくなるともう一つおもしろくない。クレーらしい知的で静謐な雰囲気が、失われている。

 その人その人に丁度良い絵の大きさがあるのかも知れない。私には小さな絵の方が合っているのかもしれない。そういうことが分かるのはまだまだ先のことのような気がする。ともかく今は絵の大きさもその時の気持ちで選んでいるだけだ。
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第150 水彩画 日曜展示

2023-02-26 04:30:49 | 水彩画
第150 水彩画 日曜展示

 10号前後の作品です。







121「海」
2023.2








122「フラッグ」
2023.2







123「田んぼ」
2023.2







124「池」
2023.2







125「白い河の道」
2023.2








126「月光の海」
2023.2







127「赤い花」
2023.2






128「のぼたん農園」
2023.2






129「岬」
2023.2






130「宮良川」
2023.2


 絵を描くことが続いている。不思議なくらいおもしろい。小脳的に描いている。小脳的と言うことをよく分かっているわけではないのだが、歩いたり話したりするように、意識しないでも出てくる形で、絵を描いている。

 どこかへ行くために歩くように、自分の世界の方に行ってみようと言うことで描いている。描くこと自体に意識を置かないようにしている。どう描くのかとか。何を描いているのかとか。そういうことはほとんど頭に上ることが無い。

 いい絵を描くというようなこととはかなり遠い。自分の内面を絞り出すというような、重苦しいような描き方でもない。静かに散歩しているように描くようにしている。絵が進むこともあるし、1時間ぐらい絵の前に居るだけと言うこともある。

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第149 水彩画 日曜展示

2023-02-19 04:47:08 | 水彩画
第149 水彩画 日曜展示






111「海底」
2023.2






112「今帰仁城裏」
2023.2






113「角館桜」
2023.2





114「のぼたん農園」
2023.2






115「ヨットのある海」
2023.2





116「洋梨」
2023.2







117「ふらっぐ」
2023.2






118「西表島」
2023.2






119「冬菜の花:篠窪」
2023.2



120「ヤエヤマヤシ」
2023.2


 少し苦労した1週間だった。絵がなかなか進まなかった。一日だけ描けた日があった。描けないときにも描いた方が良いのかどうか分からないのだが、描くことにしているので描いている。描きたいという気持ちは強い。それなのに一日絵の前にいるだけの時もある。

 ヨットの海はなぜか気持ちよく描けた。海の絵は自由に描ける。もう少し海の絵を描いてみた方が良いのかも知れない。のぼたん農園の絵はまだ正面から描けていない。描きたいのだが、難しすぎて絵にはなっていない。自分のものにまだなっていないのかも知れない。

 ヤエヤマヤシはすごい大木なのだ。想像を絶するほど大きなヤシの木なのだ。太さは目通りで直径50センチくらいはある。堂々たる風格の木だ。イシガキニィニィーと言う、絶滅したと思われる蝉が居た場所である。
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