goo blog サービス終了のお知らせ 

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

第165 水彩画 日曜展示

2023-06-11 04:41:23 | 水彩画
第165 水彩画 日曜展示

 10号前後の作品。





256「海」
2023.6







257「漁港」
2023.6






258「能登島」
2023.6








259「海」
2023.6







260「のぼたん農園」
2023.6






261「熱い畑」
2023.6





262「由布岳」
2023.6






263「森」
2023.6






264「アカ花」
2023.6





265「月夜」
2023.6






266「のぼたん農園」
2023.6


 どの絵も描けるだけ描いている。最近絵にやりすぎはないと考えるようになった。もうやれることはないと言うところまで描き尽くす気持ちでいる。その方が自分の絵になる。何度も描くと言うことで絵が重くなる。重くなったときには白を使ってもう一度起している。透明性が失われる。

 絵がダメになることを怖れなくなった。恐れなければ成らないことは自分の絵にならないことだ。水彩画の最初に出来る美しい調子に引っ張られてはダメだ。それは万人の感じる美しさで、自分の美しさではまだない。誰がやって出てしまうような調子に引っ張られていたのでは自分にならない。

 自分の世界は自分の意志で作り上げたものだ。偶然生まれるようなものではない。水彩画は油彩画以上に踏み込んで行けるものだ。しつこく描いた墨絵のようなものだ。真っ黒な画面である。そうならないのは水彩画だからだ。センにも色にも自分の意志を貫く。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第164 水彩画 日曜展示

2023-06-04 04:05:45 | 水彩画
第164 水彩画 日曜展示

小田原に来て描いた絵を展示する。







248「小川と柿木」
2023.6







249「能登島」
2023.6






250「妙高山」
2023.6







251「箱根外輪山」
2023.6






252「下田港」
2023,6







253「小さな薔薇」
2023,6





254「三津富士」
2023.6







255「甲府盆地からの南アルプス」
2023.6 中盤全紙


 小田原に来て、農作業のない日に絵を描いていた。スマホに緊急土砂災害情報が入るような荒れた天気のひもあったが、絵には別段影響はなかった。戻って田んぼに行くと田んぼの真ん中に穴が開いて水が流れ落ちていた。大変な雨が降ったようだ。

 南アルプスが肉眼では見えていたわけではないが、私の脳裏にははっきりと連山姿を正す。という事だった。どんどん記憶の中の風景に入っていっている。そのことが良いことなのか、悪いことなのかは考えない。それがやりたいことなのだから、やれることをやろうと思う。

 雨の甲府盆地は懐かしかった。暮らしていたころの感触迄思い出された。草取りをした手触り迄思い出す。暑かったせみ時雨。竹藪のざわめき。おばあさんのこと、おじいさんのこと。思いだす記憶はは確かに自分のものなのだろう。そのことと今見るという事とは、どのようにつながるのか。それを描いているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私絵画の意味の確認

2023-06-03 04:17:10 | 水彩画


 「私絵画」という言葉は私小説という言葉から考えた造語である。私小説という分野があるのならば、絵画の分野として私絵画があってもいいのではないか。と考えたのだ。絵画の中には宗教絵画とか、装飾絵画とか、純粋絵画とか、政治的絵画とか、一応範疇があるのではないだろうか。

 絵画の社会的な役割が失われてゆく時代の中で、描かれた絵画の役割から考える絵画ではなく、描く行為そのものに意味を見出す絵画活動があってもいいのではないかと考えるようになった。社会性を失った絵画の芸術としての意味の確認である。

 自分が芸術のつもりで、やっていることを考えてみると、そう考えざる得ないような描き方なのだ。自分の生き方に、絵を描くことは不可欠なものなのだが、社会性がない。社会とつながりのない絵画に意味があるのかと、かなり悩んだ時期があった。

 伝統的にそのような絵画の在り方が全くなかったわけではなく、富岡鉄斎は自らを儒学者と考えており、画家という狭い範疇で考えられることを好まなかった。人間の完成を目指した人であり、その方法の一つの絵画を写生で描くという事があったと考えて良いようだ。

 日本には伝統的に絵画道のような、絵を描く目的が道を究めるというような考え方がある。道という考え方は中国の儒教から来ているのだろう。生きることの目的として、道を究めるというような精神修養と絵画することを結びつけて考えるあり方でないだろうか。

 禅画というものになると、禅の修行を行い悟りの領域に達した僧がその精神を絵にして表わしたものと言う事になる。絵が描かれることもあるが、併せて字が書かれているものが多い。絵の修業から入るもあるし、禅の修行から入るもあるという事だろう。

 「私絵画」の到達点が、中川一政氏である。と考えるとわかりやすい。中川一政氏は僧侶になるつもりで絵を描いたと自著に書いている。確かに生涯只管打画に生きたと人である。丹田で絵を描くと言われ、禅の心境と極めて近い精神の絵画である。書も絵画も96歳で死ぬまで向上を続けている。

 修行を比較しても仕方がないことであるが、中川一政氏を学んで行きたい。自分の内側に向って、絵を描くことは非常に勇気がいる。怖いことである。評価基準のない世界である。進んでいるのか、後退しているのかもわからない。自分を信じて描き続けなければならない。

 良い仲間が必要である。禅の修行も一人で行ってはならないとされている。禅僧が自分の修業の状態を知るためには、これぞと思う先達の僧に会う事らしい。会えば自分の状態はおのずとわかることらしい。絵もそういうものではないだろうか。絵を並べてみればわかる。自分の状況が分からないようでは、そもそも初めから埒外の人である。

 具体的に方法を考えてみる。まずは見て描くことが出来なければならない。見るという事を突き詰めなければならない。ただ見たところで、絵になるものの何かが見えているわけではない。本質を見るという事は感動の正体を見るという事になる。

 何に感動してその感動の根源は見えているのかである。美しいなあというようなことでも、その見えている深さは全くそれぞれである。田んぼを見て美しいと見ることは誰にでもあるかもしれない。田んぼの土や水の色合いが美しい。水面の輝きが美しい。植えられたイネが生き生きとして美しくしい。畔の形が面白い。

 実は感動はそういう表面的な事だけではない。このお米を食べて命が生かされるという事に感動する人もいるのだろう。粘った田んぼの土壌の感触は、微生物で満たされ、得も言われるものである。この自然の綜合性に感動する人もいる。ぬるんだ水の肌に沁み込んでくる心地よさ。水面を渡ってくる風の匂いに、恍惚とする。人の感動の深さは計り知れないものだ。

 そして、田んぼで自分の身体がどれほど辛い作業をこなしたのか。田植えをし、成長し、穂を出し、実りの秋となる。そのすべてを含めて感動というものはある。これは私が子供のころから農作業に触れてきたという事があるから見える感動である。深い感動は生きざまに繋がっている。

 モネの庭には感動に満ちた極限の喜びがある。庭には家があり、家庭があり暮らす人がいる。日々の暮らしの空気がそこに満ちている。作り上げられた庭というものに世界観が込められてくる。その世界観に感動する。あの睡蓮池を掘り下げた気持ちも、絵に現れた見る喜びの、感動の根源になっているのだろう。

 庭という生活空間に生きる人間の感触をふくめて、モネは見ているのだ。ただ睡蓮の葉を描くという行為に、見るというすごさが溢れてくるのは、モネという人間の精神が、感動をもって睡蓮の葉を見ているからだ。ただ表面の形や色を見て居る眼とはまるで違うのだ。ただの眼とモネの眼を言った人がいるが、人間の見る深さの違いを分かっていない。

 庭を作り、庭を見て、感動して、そして描く。この繰り返しの中に物の極限の姿まで見える眼が宿ることになる。見るということに賭けた人の生き方が、モネの物の見方の根底にはある。見るために庭を作る。庭を作らなければ絵を描くための見るには至らない。

 分からなければ、形だけを見ても何も見えない。だから、まず行為することだろう。登山した山を書くことと見た山を書くことは違う。そして、絵を描くときには、物はその意味を失う。単なる色になる。単なる線になる。単なる点になる。睡蓮の説明を描いているわけではない。睡蓮を見た感動の方を、画面の上再構築しているのだ。

 だから、物の意味はない。そこには画面という世界で、自分の深いところで見て、感動した世界を再構築しているだけなのだ。その世界が人類全体に感動を呼び起こすほど深いものなのだ。それは睡蓮池を見るのとは別の感動なのだ。モネの精神世界に感動するのである。

 やっとそういう事が理解できて来たところだ。絵になる訳ではない。自分の絵がまだまだ及びもつかないという事だけは分かる。それが分かっただけでも一歩前進だと考えている。及ばない原因はまだ見え方が足りないからだ。私の精神世界が及ばないからだ。

 そこまで進むことが出来るかどうかは、不明であるが、やることは分かった。物を身体で作る。そしてその本質に触れる。本質を見る。後は描くだけだ。まだまだあいまいだから、曖昧な絵に終わっている。それらしいところまでは来ているのだが、肝心の部分がまだまだの絵だ。

 のぼたん農園を作る。そして描く。この繰り返しをやり続けたい。どこまでできるかはわからないが、やれる限り私絵画をやってみたい。そのことは楽しいことであるので身体が許せる間は続くことだろう。やりたいことである。辛い修行ではなく、楽しい修行である。楽観主義の修行である。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵を語る会

2023-06-02 04:30:31 | 水彩画

 車の中の描いている状態。紙はファブリアーノで中判全紙。


  
 この甲府盆地の風景を見ながら上の絵を描いている。1955年に見ていた記憶を描いている。

 絵を語る会は、水彩人展を始めるより前からやっていた。春日部洋先生が水彩画の研究会の集まりを持ってくれていた。春日部先生は水彩画について熱い思いがあった。月一回都内のあちこちの場所を借てやっていた。美術家連盟の部屋を借りて行う事が多かった。

 メンバーは6,7人で、今水彩人にいる人では、三橋さんと栗原さんと私の3人になる。毎月描いた水彩画を持ち寄るのだから、それなりに大変だった水彩画のことは全く知らなかったので、とても勉強になったと思う。春日部先生が批評してくれたということもあるが、自分がなぜこの絵を描いたのかということを語ることが中心だった。

 春日部先生が亡くなった後も残ったメンバーで続けてきた。そして水彩人の中でも復活させて再開した。絵を語ることなど良くない。というような職人気質の絵描きの方が多いだろう。頭を使うことを絵描きの恥とするのは、どうも日本の職人の修行と同じで、無理偏にげんこつと書くというのが職人世界。

 黙って修行するのが一番だとおかしな伝統が、芸術家である絵描きにまで及んでいる。つまり日本の絵かきは基本は装飾美術の職人なのだ。芸術としての絵画はほんの一部の人のやってきたことに過ぎない。

 商品絵画である以上、自分の技術は教えない方がいい。技術にパテントを取るような精神なのだ。実際に特許を取った作家もいるらしい。などと、平気で言う人がいる。人の絵を批評するのも、教えることになるからやめていると聞いたのには呆れた。

 絵画をその程度のものと、考えていることになる。そういう人の絵はまるで成長がない。それはそうだろう、盗んできた技術を組み合わせてでっちあげることを制作だと考えているのだ。獲得した技術は次の絵では捨てるべきものなのだ。制作は一作一作新しいものになる。

 中川一政氏は絵を語る意味を重いものとしてとらえている。絵は丹田で描くが、絵は頭で考える必要があるとしている。盛んに研究会をされていたし、筆記試験までしたそうだ。絵を描くことは知的なことだから、まず頭で考えるのは当然のことになる。

 筆記試験もいいが、考えるためには語ることが重要である。口に出して言う事で初めて明確になることが沢山ある。自覚である。ただ思っているだけでは自覚にならない。頭の中にあることは実はとても曖昧なことなのだ。わかったつもりでも口に出して説明ができないことばかりだ。

 自覚するためには頭で考えることが必要になる。口に出せば、考えていたことが実はずいぶん曖昧であることが自覚できる。それを明確にしようとすることが、絵を考えることになる。絵のことなど実は少しも考えていないのが普通のことなのだ。

 これが絵を語る会の重要な点である。描いた絵をなぜこの絵を描いたのかを語る。語っているうちに何故描いたのかが初めて明確になることもある。わかっているようでも、人にわかるように伝えられる能力は、なかなかないものだ。

 絵は感性で描けばいいと考える人もいるのだろうが、それは危険な考え方だと思っている。感性は若い時の方が鋭い。その人らしい感性があふれている。若いころは良かったのだが、今はどうだろうか。若いころの模写をしている。そういう人は良くいる。それが感性だけで描いて居ると、停滞して、繰り返しになり、陳腐化する。本人は手際は上手にはなるもので、鼻高々なのだが新鮮さが失われる。

 身体を使うスポーツであっても、世界レベルになるためには良いコーチについて、その人にあう適切な訓練が必要である。もちろん競技者自身が考えることも重要である。ただただやればいいと考えるのは、長嶋茂雄選手のような一部の天才のことである。

 天才と自分を思えないので、頭を使って訓練を繰り返している。絵の成長のために必要なことが他人とのかかわりである。良い仲間を持ち切磋琢磨しなければ、絵が良くなることはない。中川一政氏には武者小路実篤氏や梅原龍三郎氏や岸田劉生氏や岡本一平氏や石井鶴蔵氏がいる。それらの人の支持があってこそ、あの下手な絵をあそこまで高めることができた。

 頭の訓練だと思って、毎日ブログを書いている。ブログを書き初めて気づくことの方が多い。書きだした時とは別の結論になっていることもままある。頭の中で思っていることは案外に論理的ではない。ブログで文章にしてみて、初めて意味が明確になる。

 私のブログは絵を描くために役立っている。今書いて居るこのブログも自分の絵の描き方を明確にできた。そのうえで、雨の中今日も甲府盆地の空間を描く。思い出しながら、よく見ながら、絵を描いている。そしてこの絵が語れるようなものになるように描く。

 絵を語る会もブログと同じなのだ。言葉に出してみることで気づくことがままある。語っている内に、自分の絵の方向が見えてくるという事がある。水彩画の研究会をやろうと、春日部先生に言われて参加したものだが、研究の仕方も様々に提案があり、だんだん絵を語る会に収束したものだ。

 絵を語る会があったからこそ、私の絵は出来てきたと思う。絵を語るのは良いのだが、一人で語る訳にもいかない。良い聞き手がいてこそ、絵を語る会は成立する。良い聞き手にならなければならない。そう考えて参加している。みんなが自由に心の中を語れる場にしたいと思っている。

 まずは今日も昨日より良い絵を描くこと以外にはない。ただひたすらに絵を描く。それは素晴らしいことだし、実にやりがいがある。良い仲間もいる。良い発表の場もある。石垣島で十二分に絵を描くことができる。いよいよ本領はこれからである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶の写生画

2023-06-01 06:06:34 | 水彩画

 写生に行く道具。

 小田原に来た時にはできれば、甲府盆地に絵を描きに行きたいと考えている。子供の頃見た景色を確認したいという気持ちがある。大抵は記憶で絵を描いている。記憶に鮮明に残っているものが自分だと思うからだ。記憶は見たものではあるが、自分の脳が記録したものである。

 一度記憶されたものも、忘れてゆくものが大半であるが、頭の中に景色によっては残っている。それはよほど印象が強かったものなのだろう。また、記憶に残るような特別な要因がそこにはあると思われる。その集積こそ自分という人間に繋がっているような気がしているのだ。

 今回も篠窪を見に行った。見に行った篠窪は記憶の中の篠窪とは違う。当然違うのだが、もちろん同じだというところもある。この記憶と同じという事は、何かを意味している。時々確認することで、記憶の中に残っているものが絵に描けるような具体的な記憶になる。

 ボナールは散歩に行くのが写生で、家に帰りすれ違った人を写生したそうだ。その絵を見た人が誰だかわかったという。ボナールは自分の家の絵が多いいのだが、奥さんが良く描かれている。奥さんが死んでから後にかかれたものが多い。ほとんどの絵が思い出して描いているという事になる。

 見ているものを描くのではなく、見ることで沸き起こった感動の方を描く。確かにそうなのだが、感動したことが脳裏に残ってゆくという事になる。記憶が積み重なり、一枚の絵という形で画面に固まってくる。それは今見ている以上に、自分の奥底の眼が見ていることだと考えている。

 感動した雲がある。その雲は次に感動した雲と重なる。それが様々に重なりながら、私の雲になる。空は自由だから、どう描いてもいいのだが、この風景にはこの雲でなければならないというものがある。そう言っていいのかは微妙なことだが、今はそう思っている。

 思い出して、例えば能登島を描きだした時、この雲だという雲を描く。能登島も記憶の中にあるのだが、雲も同じである。その雲は能登島で見たくもかもしれないが、石垣で今見ている雲かもしれない。空があり、海があり、そして島がある。私の能登島はまだ橋がかかっていない。

 絵というものは自分を描くだと思っている。もちろん一般論ではない。私にとってはという事になるだが、絵で表現するのは自分である。私が絵を描くのは私の奥底まで進んでゆく道しるべのようなものだ。絵を描くという行為によって、自分を確認できないかと考えている。

 道元禅師が只管打坐こそ自分に至る道だと示されたように、只管打画こそ自分の道だと考えている。絵を描くことで日々を確かに生きることが出来れば、それでいい。その為の方法が私の場合、記憶の写生画である。日本全国で何度も通った場所が私の頭の中にある。

 篠窪、下田、今井浜、甲府盆地、安曇野、平戸、天草、阿蘇、瀬戸内、箱根、佐渡、鳥海山、御岳山、妙高山、雲ノ平、霧ヶ峰、更埴、数えだすと全国に数十の場所がある。逆言えば記憶の風景はそれだけの数なのかもしれない。

 そこに共通しているのは、広がった空間である。その原点は生まれた藤垈の向昌院からの景色だ。それが美しいというようなものではなく、その空間感覚が、物を見るときの基本に置かれている。いわば絵の基準線である。そうならなければ収まったという感じがしない。

 時々その場所に戻る必要がある。基準点の確認と修正である。それで何時も小田原に来ると、甲府盆地を描きに行く。もちろんその時は見ながら描くわけだが、見ながら描いていても、記憶の風景を描いているともいえる。坊ケ峰は今も麦畑でおおわれている。

 甲府の街が隅の方にポツンとある。甲府盆地は水田が広がり、かつて湖だったという姿に見える。今の甲府盆地を見ながら、記憶をたどることになる。見て絵は描くのだが、見ていて見ていないともいえる。見た感動を描くのだが、感動は記憶の中に濃縮されている。

 絵を見る者にしてもそうではないだろうか。松本俊介の都会の情景を見て、自分の記憶が反応しているような気がする。松本俊介の物語を、自分の物語として見ている。それで心のどこかに響いてくる。私が中川一政の絵に感動してしまうのもそういう事ではないか。

 自分の記憶の集積で人の絵を見ている。それはゴッホでも、マチスでも同じことなのだが、最近だんだん日本の画家の絵が、染みてくる。それは日本に暮らす人間としての記憶の集積が、日本人の伝統文化のようなものに繋がって言るからなのではないかと思いだした。

 マチス展を先日東京都美術館に見に行った。見て驚いたことに、マチスが以前よりわからなくなった。以前は知的に絵を考える人だと思っていたが、フランス的感性の絵に見えて仕方がなかった。もしそうだとすれば、デュフィ―などとどう違うのだろうか。

 学生のことはマチスは近代絵画の結論だと思っていた。近代絵画はセザンヌで始まり、マチスで終わったと思っていた。知性的絵画である。マチスから始まれる私たちは幸せだと考えていた。マチスが作り上げた色彩論を使い、新しい絵画が出来ると考えていた。

 ところがあれから、50年絵を描いて、マチスの次はなかったという事に気づかざる得ない。マチスから始まることが出来ることを幸せと思っていた、浅はかさが身に染みる。日本人は日本の文化の蓄積を思い起こすいがいない。それは絵画が終わろうとしている時代でも変わらない。

 絵画は社会的なものではなくなり、個人的なものになる。個人的なものと言っても、マチス展に並ぶ凄い人の波を思うと、絵は違うものになった気がする。若い人が沢山マチスを見ていた。マチスは間違いなく、次の時代に繋がっている。たぶんそれはデザイン的な世界なのだろう。

 マチスが作り上げた、色彩論的絵画は、大いに利用価値があるという事だろう。デザイナーにはマチスは不可欠だが、私がかつて見ていたマチスはそういうものではなかった。何故マチスならではの色面の組み合わせが美しいのか。それはAIでも分析できるような、論理性のあるものだ。曖昧さなどないから、共通のものとして今後も利用されることになる。

 しかし絵画としての意味は、もう私にはマチスはあまり縁がないような気がした。これから描く私絵画は、記憶の風景画である。記憶の静物画である。それは社会的なものではないが、意味を通じ合える人も少数居るのかもしれない。

 これからこの道を一筋に進めてみるつもりだ。そして、わずかでも前に進むように努力を続けてゆきたい。日々の一枚。昨日より今日こそましな絵を描く。そのつもりで何とか努力を続けたい。今日はまず花鳥山で絵を描く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第163 水彩画 日曜展示

2023-05-28 04:48:45 | 水彩画
第163 水彩画 日曜展示
3号前後です。





239「溜め池」
2023.5




240「





241「角館桜」
2023.5






242「座喜味城裏」
2023.5








243「のぼたん農園」
2023.5






244「草地」
2023.5








245「篠窪」
2023.5







246「芦ノ湖」
2023.5






247「桃の里」
2023.5



 絵は平行して描いている。一枚の繪が完成するまでその絵だけを描いているわけでは無い。その時その画面で進められることはそう多くはない。一日4,5枚の絵に手を付ける。乾くのを待っている間に次の絵に取り掛かることもある。

 水彩画は重ねて描いて行くのだが、下の色の乾き具合が微妙だ。何年も経っている植えに描く場合と、まだ生乾きの時とではまったく反応が違う。一度紙のサイジングが効かなくなってから、何度も重ねて色を出す表現もある。その独特の調子は深いことがある。

 あらゆる方法を使って描く。決まった方法はない。その時その時に思いついた方法を使う。紙によっても描き方は変わる。ファブリアーノでも、様々だ。和紙ならなおさら変わる。画題もまったく色々である。画題は余り関係が無いのかも知れない。どの絵も自分に近づけば同じようなものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アトリエカーで絵を描く

2023-05-26 04:03:53 | 水彩画

 ひこばえが出てきた稲。果たしてこのひこばえが、幼保を形成してしまうものなのか。あるいはしっかりした新しい稲になるのか。それはまだ分からない。無効分ゲツのような小さいまま穂が突いてしまうこともある。この後観察が重要になる。普通よりも1週間早く刈り取れば、幼保が形成されないという山岡理論は果たして正しいものだろうか。

 アトリエカーで毎日絵を描いている。ここ1年半はのぼたん農園のどこかに車を止めて絵を描いている。のぼたん農園を見ながら描いていることもあるが、ほとんどの場合、どこか別の風景や静物を描いている。それがあまり良い事とは思っては居ない。

 いまの絵の描き方が良い描き方だからやっていると言うより、分からないままにやりたいことを続けているだけなのだ。絵を描いていて何が良いか分からない。自分なりに頭で考えるのも良いのだろうが、絵に関してはどんなことでもその時の気持ちに任せている。だいたいはアトリエカーの中に座ってから始まる。

 人が良いというようなことは、絵を描くうえではまるで役に立つことはあまりない。例え中川一政の本に書いてあるからと言って、参考になるようなことはまったくない。おなじだと思うことはあるし、違うなと思うこともある。おなじだから良かったとも思わない。他人の絵の描き方が、役に立つことなどあり得ないと思っている。そう中川一政も描いている。

 絵を描くと言うことは自分というものを、やり尽くしたいということに繋がっている。自分を知り、自分というもののいのちを燃やし尽くしたい。生まれたからにはそうでなければ残念なことになると思っている。絵を描くことが好きだから、絵を描くと言うことを、巡り巡って修行だと考えてやっている。だから人の考えてくれる、絵の描き方では何も役立たない。

 だから裏返せば、私の絵の描き方が他の人に役立つはずもない。ただ絵を書くと言うことが、表現藝術ではなくなり、人間探求の方法になったのではないかということだ。このことは、絵を描くすべての人が自覚した方が良いと思う。余計なお世話かも知れないが、今更訳の分からない絵の描き方をしている人がいることにあきれる。

 もちろん商品絵画は、藝術としてではなく、これからも存在して行くことだろう。それは私には別ジャンルの話だ。絵画を藝術として考える、と言う意味は、絵画として表現されたものが、社会や人間に影響を与える価値あるものという意味だ。

 そういう絵画の藝術としての役割がすでに終わったのだと思っている。私の考える狭い意味での藝術としての絵画作品という意味で考えると、そうした絵画はそもそも、極めて少ないものだったと思う。たまたまそういういのちを揺さぶる絵画と出会えることは、幸運なことなのだ。

 私の絵がそうした芸術作品にはおよびもつかないから、こんな考えを持ったわけではない。様々な表現藝術によって、現代社会も人間も影響を受けている。特に20世紀が映像の世紀と言われるように、藝術としての映像が人間や社会に大きな影響を与えるように変わったのだ。

 音楽や映像が、新しい機器が作られることによって、人間に大きく影響を与えてる。しかし、絵画の表現法は実に内職仕事のようなもので、この様々な表現が溢れる社会の中では、影響力という意味ではほとんど無に等しい。むしろ無に等しいからこそ、個人の中に戻ったのではないか。

 人間が外部世界から大きな刺激を受け続けている。社会に流されて生きざる得ない。そこで、人間が生きるためには、自らの行為の中に自分の確立を探る時代に移行しつつある。何をしたいのか。農作業をしたいとすれば、農作業をしたい自分の、その奥にある意味を探ることになる。

 結局世界がどうであるにしろ、生きると言うことは自分一人の問題である。この自分が生きるという、誰にとっても最も重要な問題に、藝術を通して直面する必要があるということだ。絵描きというものは本来そういう人のことであり、商品絵画や装飾画を描く人は、藝術とは縁のない人なのだ。

 農家に生まれて、いつの間にか農家になり、暮らしに負われて農業を続ける人は多いだろう。それでは農業が指しておもしろくはないに違いない。自分が農作業をやりたいとすれば、そういう農業ではない。芽が出る瞬間を見たいから種を蒔く。

 絵を描きたいと言うことは、絵を描くと言うことで自分に直面すると言うことで無ければならない。他人が良しとする絵ではなく、自分自身が良しとする絵に向かわなければならない。それはどんな絵なのかは、自分の中を探る以外にない。こんな絵を描きたいというものが、その人のある面を表しているはずだ。

 しかし、ここでいうこんな絵は他人が描いた絵のことだ。まだ自分が描いていない、自分の描く絵はまたその絵とは別の絵と言うことになる。自分の中の眼がこれならば、自分の絵だと言えるような絵のことだ。その絵に向かって日々努力を続ける。

 その絵は、生きている以上限りなく成長して行くはずだ。ここまで描ければその次が見えてくる。さらにその次を求めて、描き続けることになるのだろう。生きている間は成長を続けるということだろう。日々の絶筆。その覚悟が私絵画の道だ。

 どのくらい日々を真剣に生きる事ができるか。もし本当に生きる事ができているのであれば、それは絵に現われてくる。現われてくるような絵の描き方をしなくてはならない。生きていることと直結している絵の書き方であればそうならなければ嘘だ。

 観ている世界を移している間はまだ、絵空事で、私絵画ではない。良い絵を描こうというのでは無い。自分に至る覚悟があれば、自ずと自分の何ものかが絵に現われてくるはずだ。ちゃちな自分ではあるが、ちゃちなまま現われればそれでいい。そのちゃちな自分を磨いて行くことになる。

 問題は昨日描いた絵より、今日描く絵がわずかでも進んでいることだ。何かを日々つかまなければならない。少なくともその覚悟で絵は描かなければならない。どこまで行けるのかは分からない。そんな先のことではなく、今日一日精一杯描けるかだけを考える。

 それは、絵だけのことではない。のぼたん農園も同じである。最善を尽くすと言うことしか無い。今台風2号が石垣島をめがけて進んでいる。どれだけ、風よけのネットを張ったとしても、稲が飛ばされてしまうときには飛ばされて終わるだろう。

 問題は、収穫だけではない。やれることをやりきる事ができるかが問題なのだ。考え得ることすべてをやる事しか無い。そのやりきることを重ねて行くの、自給農である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第162 水彩画 日曜展示

2023-05-21 04:31:27 | 水彩画
第162 水彩画 日曜展示

6号前後です。




229「洋梨」
2023.5







230「角館桜」
2023.5







231「石垣海」
2023.5







232「のぼたん農園」
2023.5







233「亜熱帯のしげみ」
2023.5






234「シーラ原」
2023.5






235「境川村大窪」
2023.5







236「岩手山」
2023.5







237「山羊小屋」
2023.5






238「雲海富士」
2023.5



 中川一政は96歳で無くなる歳まで、毎年個展を続けた。それは前の個展よりも少しでも良くなるつもりで個展を続けたのだそうだ。その結果確かに、死ぬまで絵は良くなり続けている。もし95歳で亡くなり、96歳の絵がないとすれば、印象も変わるかも知れない。

 禅坊主のつもりで、修行を続けたそうだ。すべてに私の目標とする人である。毎週展示しているのは先週よりも少しでも良くなりたいと思うからである。中川一政のようなめざましい結果ではないが、1ヶ月前よりは少しは。1年前よりは少しは。

 そう思いながら描いている。前より良くなるとは、自分が描いた絵だと思える絵を描きたいと言うことである。それは自分が生きているような絵だと言うことだ。自分のいのちが宿るような絵だ。そう思うとまだまだと思う、いつか100歳になったときに、良い努力が出来たと思いたい。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸術としての絵画とは何か。

2023-05-18 04:14:58 | 水彩画


  山城隆一氏の猫の絵

 最近絵を描いていると言う若い人に何人か会う機会があった。その人達の描いているものが、絵には見えなかった。私の考えてきた絵とはだいぶ違う。本当のところは良くは分からないのだが、昔からの絵の見方から言えば、イラストレーションとか、装飾品というように見えた。

 折角絵を描いているのだから、悪くは言いたくないし、絵を描くという気持ちは大切だと思う。絵を描くことは若い人のこれからの人生を豊かにしてくれる物に違いないと思う。だからどうせ絵を描くのであれば自分自信を深めるために描いてもらいと思う。

 若い人の絵を描いているいう物が、何であるかと言うことを考えてみようとは思わない。私のやっている絵画とは違うと言う判断ぐらいしか出来ない。私は何をしているのだろうかと改めて考えた。失われて行く文化の中自分が進んでいるような気分になって考えた。

 何時の時代にも消えて行く文化はある。先日大阪の文楽の保存研修生の話をラジオでしていた。無料で何年も教えてくれるのだそうだが、昨年は1人だけで、今年は誰も居ないのだそうだ。人間国宝までいる世界で、後継者が途絶えかかっている。文楽は見たこともないし、残る方が良いのかも分からない。藝術としての絵画もそうなのだろうか。

 テレビでプレパトと言う番組がある。かなり嫌いな番組なのだが、我が家では好きな俳句番組と言うことで、時に俳句を見せられてしまう。先生の毒舌が番組の売りである。それを面白おかしくタレントが反応して盛り上げる。そこがどうも嫌いだ。

 俳句エンターテイメントで、江戸時代には神社の境内などで行われた、俳句興行と近いものがある。短時間にどれだけ俳句を作るかを見せたらしい。俳諧連歌なども興行されたようだ。北斎など絵を描くパフォーマンスもやはり神社で興行にしている。

 ハイク時間が終わると水彩画が始まることがある。さすがにこれは消させてもらう。多摩美の講師の人が先生らしい。嫌なので見ないことにしているので、生徒がどういう物を描いているのか。どういう絵が評価されているのかは分からない。今回、どんな絵を描く先生なのかと思ってホームページを見せてもらった。

 ホームページにでていた作品を、藝術としての絵画だとは私にはどうしても思えない。これはものの説明図である。絵として必要な作家の世界観が感じられない。先生と言われる人が絵だとしているものを、わざわざ絵ではないとここに書くのは、テレビが絵でないものを絵画だとするのは、困ったことだと思うからだ。

 猫を描くのであれば、竹内栖鳳の猫まで行かなければ絵として猫を描いたとは言えない。猫を描くなら猫のいのちが見えなければ猫はかけないだろう。竹内栖鳳の絵は、猫を描くことをとおして、描いた作者の人間性や崇高な世界まで表現されている。

 もう一人のねこの画家がグラフィックデザイナーの山城隆一氏だ。この人は猫を通して造形をしている。グラフィックデザイナーとして、著名だった山城隆一氏は絵画を描いているつもりは無かったのかも知れないが、これは素晴らしい絵画だと私は考えてきた。猫を通して、山城隆一の愛情の溢れた世界観がここに在る。山城隆一の観ている世界の質の良さが伝わってくる。

 プレパトの先生は、猫の通俗的な説明をしているにすぎない図だ。しかし、こういう人が多摩美の講師であるとすれば、美術大学の出身者の絵が、私には絵とは見えないものになって行くのもなるほどと思える。やはり、世の中の方が変わったのだ。

 絵画の意味が変わったと言う可能性よりも、文化の劣化が進んだと考えた方が良いかもしれない。中川一政の絵がすごいのは、これほど下手な絵はないと言うところにあると、岡本太郎は言っている。岡本太郎はさすが中川一政の絵画を見抜いていた。下手は絵の内。

 上手いは絵の外。これは熊谷守一仙人の言った言葉だ。絵であるためには、そこに生命力があるかどうかになる。絵がいきて立ち上がっているのが絵だ。生きものが生きているか死んでいるものかは、見る人が見れば分かるだろう。絵にもいのちがあるのだ。生きていれば立ち上がり、生命力を発している。これが絵の唯一の見分け方だ。

 中川一政ほど下手な絵を良いなどと言ったら笑われるだろうというのが、劣化した時代の絵の見方かもしれない。江戸時代庶民が浮世絵の北斎を評価できたのだ。北斎の海の抽象世界を理解できたのだ。フランスではまだクールベの上手な海が良かった時代である。

 クールベの上手さと、ベラスケスの上手さを、近くによって比べて見たらわかる。クールベは確かに上手い。上手いけれどそこにクールベが現われない。ベラスケスの絵はそばに寄れば抽象画である。生のベラスケスの呼吸が伝わる。これほどの表現を出来た人は他には居ないだろう。本質的な意味でのリアリズムである。絵画は人間のみていると言う感動の表現なのだ。

 感動しているのは制作者なのだ。見ることでそのものの本質に到達し、そして感動をする。絵はその感動を絵にしようとするものだ。見ているものの形を写すだけでは絵ではない。まず感動もしないものは絵にならない。本質に至らなければ、人間の崇高な感動はない。

 日本全体が文化に自信を失っている。そのために頼れるところが写真のように描けるという技術だけなのだ。これは恥ずかしいことだと考えるべきなのだ。人間の豊かな精神性を忘れてしまったと言える。機械でもできる。むしろ機械の方が上手に出来るものを、人間が写真のように描けることを自慢しているのは恥ずかしいことなのだ。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第161 水彩画 日曜展示

2023-05-14 04:04:18 | 水彩画
第161 水彩画 日曜展示
10号前後の作品です。






221「噴煙」
2023.5






222「戸隠山」
2023.5






223「田ノ原湿原」
2023.5







224「駿河湾富士」
2023.5







225「紅葉の飯豊山」
2023.5







226「東京湾」
2023.5






227「八代岡公園の桜」
2023.5






228「海越しの鳥海山」
2024.5


 今回は途中だった絵を完成させたものである。以前、描いて描ききれなかった絵を今見ると、何だか描けそうな気がしてどんどん進めてみた。以前何で絵が止まったかが少し分かった気がした。自分の絵を描いていなかったからだと思った。

 絵を描こうとしていて、自分が見ているという意味が分かっていなかったために、絵に決断がなかった。良い絵を描こうという意識が強すぎた。今はそれがなくなったために、自分の見ているに迫れば良いと言うことになった。これで楽になった。

 どんどん進めて、自分の絵として絵が立ち上がって来るところまで行けば良いという気持ちで描ける。まだまだな理由もだんだん分かってきた。自分の見ると言うことが曖昧なのだ。見ることを深める必要があるということの意味は少し分かった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中川一政の文章と絵画

2023-05-13 06:01:56 | 水彩画


 中川一政は少年時代に懸賞金を求めて文章の投稿をしていたという。そうした投稿されたものをまとめたものも出版されている。そうした文章を読んでみると、絵からは想像も出来ない、かなりまっとうな文学志向という文章である。残念ながら、魅力は余り感じない。

 文学者にはならなかったが、全10巻の中川一政全文集が出ている。この文集はほぼ年代順に出来ているのだが、絵と同じで、後に行くほど魅力あるものになっている。もちろん才能はある人なのだろうが、文章も同じなのだが、96歳の死ぬその日まで成長し続けた人なのだ。

 日本の絵描きの中で、きちっとした文章を書いたのは中川一政と岡本太郎が双璧である。中川一政は文章は緻密な、かなり論理的と言えるものである。そして絵には飛躍がある。飛躍はあるが、絵もよくよく見ると、かなり緻密に出来ている。中川一政の自由で奔放にみえる画風は、かなり計算されたものと考えて良いのだろう。

 友人であった梅原龍三郎は才能が豊かな人は感じたままそのまま描けば良いと、ルノワールに言われたというほど、生涯そのままで押し切った絵画である。だんだん良くなったと言うより、始めから梅原龍三郎そのものの絵画である。

 中川一政の場合、80歳以降の絵を中川一政の絵画と言って良いのではないだろうか。中川一政氏は最晩年まで毎年個展を開いていた。毎年個展をやる楽しみは、去年より絵良くなっているからだと書いている。絵が良くならないなら個展をやる意味がないとまで書いている。

 生涯努力を続け、中川一政に至った人だ。その努力は好きだから出来たと書いている。好きなことだけをやることができたことを幸せだとも書いている。本当に見習わなければならない人である。好きなことを正しく論理的に考えて、ひたすら行えば、自分に至る事ができると証明した人だ。

 ある意味禅僧である。禅僧は自分が成長したかどうかを、自分が良しとする人間に見てもらうらしい。確かに禅僧の立派な人は見て分かる。見て分かるほど、人間力が違う。私は高校生の時に山本素峯先生にお会いしてその人間力に圧倒された。修行した人間の力を感じた。

 中川一政氏は生涯絵を描く修行を続けたような人だ。何度かお見かけをしたことはある。話も聞かせていただいたことがあるが、絵描きというより高僧のような印象であった。人間の力が図抜けている人だと感じた。絵とまるで同じような印象である。自由奔放で、ありながら品格が高く、崇高な世界を感じさせる。

 それは文章でも同じで、最晩年の文章はまるで井伏鱒二を思わせるような自由さで書かれている。その文章も素晴らしいもので、絵の神髄をえぐり出すように書いている。絵を描くものなら必ず読む必要がある。全文集を2セット持っているので、お譲りしてもいい。

 岡本太郎は文章家として、中川一政氏と双璧である。素晴らしい芸術論を書いている。岡本太郎の両親である、岡本一平とかの子は中川一政氏と友人である。赤ん坊の太郎氏が柱に犬のように繋がれていた話を書いている。まだ絵を描くようになる前の文学者を目指していた頃の話だ。

 一平の絵をよくよく見ていると、かの子がその絵をくれたのだそうだ。キャンバスがなくなったときに、なんとその一平の油彩画の上に自分の絵を描いてしまったという。その一平の絵の上に描いた絵が、展覧会で岸田劉生に評価されて、絵描きになる決意をしたと書かれている。

 岡本太郎は晩年絵が固まった。成長が止まったのだろう。努力が足りなかったのかも知れない。絵のことはあんなに良く理解しているのに、何故自分の絵でそのことを証明できなかったのかと思う。一番良くない点は絵の具の塗り方が悪い。

 ペンキのような塗り方なのだ。風呂屋のペンキ絵を感じさせる。絵の具の物としての魅力に欠ける。そうなった理由は努力不足なのではないか。アイデアが先行して太陽の塔になったのだろう。あれはウルトラマンのキャラクターと大差はない。縄文の土偶と競べたら、画格が低い。文章も若い頃書いた物がおもしろい。

 中川一政のすごさは成長してゆくところである。絵が年々良くなってゆくところである。人間はやればできると言うことを証明している。人間がやるべき事が何なのかを示している。人間は好きなことをやり尽くすためにあるということが分かる。

 文章に於いても、絵に於いても生涯を通して成長をした人間である事が、よく分かる。絵に於いて人間の精神の崇高な世界を表現している。東洋の絵画の素晴らしいところである。中川一政の絵は日本の絵画だとは思うが、中国画の影響が強い。

 金冬心の書や石濤の絵画から学んだという。学んだのはその東洋の精神世界なのだと思う。絵画に精神を込める方法を学んだのだと思う。画面の空間をどうすれば崇高な物に出来るのかを追求したのではないだろうか。その根底にあるのが、見るという行為である。

 みえなければ描けないとしている。山がどういうものであるかが見えなければ、山を描くことは出来ない。山を見ると言うことは山の表層を見ると言うことではない。山を見てご神体にした東洋の見方である。山を信仰の対象にするような見方で山の精神を見る。

 そこまで見えなければ描けないというのが、中川一政の絵画である。私の書いているレベルは、そうして石濤や中川一政が描くことで見せてくれた世界を、真似て描いている段階である。これでは絵にならないのは仕方がない。えは自分の眼で、山が見えなければ描けない。

 つたないものであるとしても、先ずは自分の目で見ると言うことがどういうことであるのかを、自覚しなければならない。中川一政の書いた物にはそういうことが繰返し書かれている。大いに励まされる。これからである。これからの努力が重要なのだ。改めてそう思う。
 

 
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしの水彩画の描き方

2023-05-09 04:45:33 | 水彩画


 30年水彩画を描いてきた。その前の30年は油彩画だった。もう油彩画は描かないだろう。水彩画が興味深く、最高の絵画素材だと考えている。油彩をやめて水彩画に取り掛かり、自分の絵を描くことに近づくことができた。水彩画は表現の奥行きが深く、水墨画と油彩画の両者を含みこむ表現といえる。色の深さや多様さは別格だと感じている。

 水彩画をおもしろく続けている。絵は描きたいときにだけ描いてきたのだが、73歳まで途切れることなく描いてきた。今では絵なくしては生きたことにならないくらいな気持ちだ。水彩画はそれほど面白いし、奥深い。また、生きることの不安が描くことで軽減されていると言うことでもある。

 描きたくなくなればそのときに止めれば良いと思っていた。一度油絵を止めた頃半年ほど絵を描かないことがあった。東日本大震災のあとも半年ほど描けなかった。この絵を描けなかった時間は、一番つらかった期間である。絵を描くということで救われているようだ。逃避と言うつもりはないのだが、そ言う意味もあるのかも知れない。

 たぶん、小学生の頃から絵は描き続けている。絵を描くのが好きだったからと言うより、絵を描くことで支えられているような何かがあった。立派に生きたいと考えたのだ。絵を描くということが好きなことの中では一番立派に見えた。これなら自分にも長くやれると思えたのだ。

 それは今も変わらない。生きる先の不安を絵を描くことで埋めてきたような気がする。絵を描いていると、いくらか生きている気がする。絵を描くと両輪で、もう一つの道として自給農業を続けてきた。食べるものを自分で作るということが、何より重要だと思うからだ。

 しかし、自給農業の生産物は食べて終わる。絵は描くということで終わってはいるのだが、描かれた絵は残っている。その描かれた絵に、自分の生きたことの本当と噓が表れている。確かに生きたのかの証拠のようなものが残っている。

 70歳になって日々の一枚を始めたのも、死を意識してやり尽くさなければと言う、追い詰められた気持ちなのだろう。絵を何十年も生ききる目標として全力で描いてきて、これでいいとは到底言えない状況である。あまりに情けない。70歳から再出発のつもりで、まずそれまでにこびりついているものを取り除くことにした。

 まず、真似で作り上げている部分をどう取り払うかである。自分の絵の中である、自分でない、借りてきたものをどのように取り払うかである。まだ、まだ、それもでき切らない。自分が見て、認識して、理解しているということに、どこまで食い下がることができるか。ここが実に難し

 生きることを確認するために、描き続けてきたと言って良い。絵は限りなく興味深いし、ついつい描きたくなると言う感じできた。絵はだんだんには良くなってきたつもりでいるし、死ぬまですこしづつでも良くなるつもりだ。それは自分の見ている世界に絵が少しづつ近づいているという感じがするからだ。

 それはあくまで自分自身の問題としてである。私絵画を他人の作り出したものと比較したところで仕方がないことだ。一年前の絵と今日描いた絵がどう違うのか。世間的な絵としてみれば、どちらもどうしようもないものかも知れないのだが、自分にとってどちらが見えている世界に近いのかである。

 誰の坐禅の方が立派だなどと考えてみても無意味であるのと、絵の場合も同じことである。私の生きることの中で、絵を描くと言うことが、「私絵画」になったのだ。座禅をすることは自分が深く生きるための修業であり、座禅は座禅を行う行為自体が目的である。

 私絵画は私の造語である。意味が分かりにくいかもしれないが、絵が個人的なものになり、描く行為に絵画する意味は移ったということをだ。座禅が個人的なものであるのと同じ意味である。もっと深く生きるために絵画することが必要なのだ。

 長らく絵を描いた結果。出来上がった絵画の社会的な意味がないということに気づいた。絵は装飾程度しか、役に立たない詰まり藝術ではなくなっているということに驚いた。それでも自分が生きるためには絵を描くということは不可欠だった。社会性がないのに、なぜ絵を描くのかの自問の中で、私絵画を見つけた。

 絵を描くという行為自体に、自分が生きているという、唯一の実感があったのだ。繰返し考えて至った考えが、絵そのものよりも、描くという行為自体に意味が移ったと認識した。何か考えて絵を描くわけではない。脳ではなく目の反応で絵は描いている。

 見るという行為を、そのままに画面に作り出す世界で表そうとしている。見るということを突き詰めてみたいということになる。絵を描いているとある時見ている世界が立ち現れる感じがすることがある。なぜかはわからないが、見ている世界なのだが、認識できなかった世界が、画面に立ち上がってくる。

 禅を体得した坊さんに意味があるかどうかは分からないが、普通に暮らす事の充実と言うことなのだと思う。立派な僧侶であれば普通に暮らしながら、まわりの人を救済して行けるのではないだろうか。一休宗純禅師が周りにいた人を幸せにし、その人生を深くした。

 私の絵がそういう役割を持てるかは分からないし、今のところそこまでのものではないことはよく理解している。いつかそこまで進みたいという気持ちは、絵を始めた頃から変わらない。絵が役に立つというのではなく、絵があることで、気持ちよく暮らせることはあるかもしれない。

 そんな絵が目標であるが、まだまだ遠い。私自身がそんな立派な人間ではないからである。絵が自分になり、その絵が人を安堵させることができるとすれば、私がそういう人間でなければならないはずだ。俗物である私には到底生きている間にそこまではいけないだろう。

 しかし、あきらめないでやってみたいと思っている。日々の一枚である。あきらめなければ、わずかづつでも近づくことはできる。絵がよいのは、昨日の絵と今日の絵を比べることができるところだ。わずかでも近づけばいつの日にか、目標に達する可能性がないわけではない。

 大工さんをしていて、立派な大工さんになるということもある。自分の禅を成し遂げ、大工さんになった禅僧もいる。どちらが偉いというようなことではないだろうが、禅僧は何も役には立たないと言うことを修行の道にすると言うことがすごい。

 絵を描くことで自分に至る事が絵を描くと言うことの方角だろう。絵が役立たないとしてもそれは仕方がない。残念なことではあるが、今のところそこまでのものでしかないと言うことは、良く理解している。だから次の一枚である。次の一枚がそういう物になるかも知れない。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第160 水彩画 日曜展示

2023-05-07 04:14:02 | 水彩画
第160 水彩画 日曜展示






213「のぼたん農園」中判全紙
2023.5







214「石垣の海」
15号 2023.5






215「妙高山」12号
2023.5





216「下田港」8号
2023.5





217「篠窪」6号
2023.5







218「岬」
10号2023.5





219「平戸の教会」サムホール
2023.5





220「海辺の木」12号
2023.5


 石垣に戻り1週間、のぼたん農園で順調に絵を描くことが出来た。「うるわし展」で確認できたこともあった。絵が進んでいなければ困るのだが、ともかく日々の一枚である。

 北陸の色彩と石垣の色彩はちがう。のぼたん農園であちこちの絵を描いている。こういうことはどういうことなのかとは思う。思い出しながら描いているのだが、色彩や絵はのぼたん農園のものになる。

 平戸の小さな教会は時々思いだして描く。小高い山の上の開けた空間にあった。日本の島にある教会が、その場になじんだたたずまいだったのが忘れられない。今その場に行って描けば又違うものなのだろうが、記憶の中の教会がおもしろくて描いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山市水彩人展終わる。

2023-05-01 04:13:19 | 水彩画


 白山市「うるわし」で行われた水彩人展が昨日で終わった。無事終了できてよかった。今回20号以下2点の絵を41名全員から、宅配便で送ってもらって、それを展示して、送り返すという方法だった。この方法であれば、意外に簡単にどこでも水彩人展が開けるということが分かった。

 必ず、ヤマトの運輸の宅配便に統一する。送れる限度サイズが、額にもよるのだが、おおよそ20号あるいは中盤全紙が2枚ということになる。3枚の人もいたから、額によっては可能ということになる。石垣島から金沢のかゆう堂に送って、6200円だったかと思う。搬入送料は往復で12000円くらいになる。2000円くらいの人もいた。

 各自には運送料の負担はあるが、立派な会場で絵が飾られてみることができるのだから、それほど高い経費ではないだろう。今回はかゆうどうさんにお願いして、受け手になってもらったのだが、今度は例えば、石垣島の市民会館あてに送ってもらうということができるはずだ。

 日時指定で送る。12月12日10時。というような形で、出品者は送る。1週間は、現地の宅配便倉庫で預かってくれるから、12月4日ぐらいに発送すれば、間違いなく時間指定の日にまとめて配送されることになる。水彩人のメンバーが市民会館の入り口で、宅配便が来るのを待っていればいいのだ。

 そして、降ろした作品を市民会館の会場に搬入すればいい。搬入した作品はどうすれば、会場で飾ることができるか。4,5人いれば、展示できるはずである。もし人が足りなければ、だれか画材屋さんを通して、展示の経験のあるアルバイトをお願いすればいいだろう。

 このやり方なら水彩人展の小品展が、全国どこでも可能になる。こうして小品展をやりながら全国を巡るというのも面白い。絵が描けるところなら、風景の講習会も行ったらどうだろうか。水彩画がどういうものか、全国を巡りながら、展示してゆくのも楽しいかもしれない。

 今回の展覧会は、見ていただいた方にとても評判が良かった。残念だったのは来ていただいた方と、もっとゆっくり絵のことなど話したかった。そのために来たのに、案外に話すことができなかった。私の気持ちが、どこか閉じていたのかもしれない。いつも気持ちを開いていなければならない。

 絵の大きさが揃っていて、見やすいということがあったのかと思う。水彩画の魅力がとてもよく表現されていた展覧会ではないかと思う。水彩画という材料が素晴らしいということもあるが、水彩人という仲間の活動が良い方向で行われているということがあると思う。

 水彩人は下手な絵の会だといわれることがあるらしいが、「下手は絵のうち、うまいは絵の外」と熊谷守一氏は描かれている。世間で考えられている水彩画はうまい絵の外の物なのだ。松任にある、中川一政美術館を見ればそのことは良くよくわかる。下手であるが、魂を揺さぶる絵画だ。

 「私絵画」の時代なのだと思う。絵画は社会的な意味を失った。絵画の意味が個人的なものになり、制作をするということに、制作者自身に意味がある。絵画は社会的な意味を失ってきているが、個人の芸術をする思いが反映するものになったのではないか。人間が生きるということを深める方法の絵画するである。

 絵画することが人間の心の中の深いところでのかかわりであることは間違いない。心を探り、人間の生きることの真実なところに至るための方法としての絵画があるはずだと思う。その一つの形が水彩人の活動だと思っている。25周年を迎え、ここから次の時代にむけ、私絵画の意味をみんなで模索するという確認を今回できた。

 水彩人の25年の間によい仲間ができた。絵を語る会も再開したいと思う。自分の絵を自覚するという意味で、重要な活動だと思っている。絵は一人で描けるものではない。自分の絵に至る道は、仲間がいてこそ可能だと思っている。水彩人の仲間を大切にして、行けるところまで行きたいと思う。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中川一政の絵

2023-04-27 06:09:10 | 水彩画


 松任の駅のすぐ隣に、中川一政美術館がある。金沢に来たら必ず寄る。見るたびに、中川一政のすばらしさが増してくる。時代が変わって絵の価値が明確になってきている。絵が中川一政氏その人なのだ。中川一政氏が素晴らしい方だから、絵が素晴らしい。

  その人であるということがどれほどすごいことかと思う。水彩人展を開催している「うるわし」はすぐ隣なので、毎日でも見に行くことができる。毎日見に行き思うことは、中川一政の絵より下手な絵は、水彩人にはない。水彩人の絵は上手ではあるが、絵ではまだない。

 私の絵もまだ絵ではない。絵に届くためにはまだまだ時間がかかりそうだ。絵になるためには、まずは借りてきた、様々学んだものを脱ぎ捨てなければならない。中川一政の絵は自分の目だけで描かれている。他人の見つけた美術を全く材料にしていない。

 自分の見ている世界だけを頼りに、絵を描こうとしている。その結果が90歳を超えてから現れてきている。もし中川一政氏が90歳で死んでいたとすれば、まだ到達していないことになる。90歳以降の絵があるから、90歳まで描いた絵の意味が明確になる。

 90歳以降に描いた絵の世界に至るために、ただ自分の目を信じて描き続けたということになる。あのすさまじい苦闘の絵「箱根駒ケ岳」シリーズはなんと74歳から始まったという。たいていの日本で絵を描いていると称する人は、74歳になると上手に自分の絵の模写を始める。

 画家という名の美術工芸品を作る職人になっている。世間がそうさせるのだろう。だから、大体の場合、50歳を過ぎると絵が衰えてゆく。自分の画風を作るまでがまだましな時代ということになる。中には20代ぐらいで自分を決めて、あとは磨き続ける人さえいる。

 そうした人の絵は生きている間はまだしも、死んでしま絵はたちまち消えてゆく。歴史を超えて残って行くような絵はまずない。人が死んでも絵が永遠に生きてゆく。そういう絵は極めて少ないのだろうが、中川一政氏の絵は確実に輝きを増してきている。

 私の絵を見る目が進んで、中川一政氏の絵を見ることができるようになったということもあるかもしれない。昔から目標で、春陽会に出品したこともあった。そうしたら、その年で私は春陽会をやめるという挨拶があった。そのまま春陽会には出さなかった。

 それでも何度かお話を聞く機会があったことは私の宝である。指針になっている。絵の描き方は学んだわけではないが、絵がどういうものかは学んだと思う。目指している「私絵画」はそこにある。絵を描くということが目的になる。絵が描かれた絵ではないのだ。描くことの意味を問う。

 宮沢賢治の作品を思った。森鴎外は文豪と呼ばれたのだが、今ではまず読まれることはない。宮沢賢治は童話作家ぐらいに呼ばれたのだが、今その本質が輝き始めている。多くの人に読まれ続けている。結局、賢治の生き方が書かれているからだ。

 あと50年たてばそのことはさらに明確になる。あと50年たてば、東山魁夷や平山郁夫の作品は埋もれてゆくだろう。しかし、中川一政の絵はどんどんその意味を増してゆくはずだ。宮 沢賢治が世界で評価されてきたように、中川一政の絵は日本の絵画の代表になっているだろう。

 そこにあるのは中川一政氏の精神の高さである。それは日本の絵画が明治期に、西洋絵画の影響で目覚めて、新しく日本の精神を模索した結果である。禅の精神に基ずく絵画である。中川一政氏の絵はまさに高僧の絵である。絵が人間をそのまま表すところまで行っている。

 絵は比べるものではないから、中川一政の絵と比べるわけではないが、自分の至らなさばかりが目立つ。絵に迷ったら、中川一政美術館に来ることにする。中川一政の絵は私の基準点である。確かな方角を示している。方角に迷ったときに、見れば羅針盤のように方角が確認できる。

 絵の力はそうしたものなのだろう。到底及ばないことだが、いくらかでも学んで恥ずかしくない、絵を描くことにしたい。箱根駒ケ岳の連作が74歳で始めたものだというのだから、よしこれから、「のボタン農園シリーズ」を始めても遅くはない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする