あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

「続カタツムリ歩行」で東川口駅周辺を歩く(埼玉)

2015-05-18 11:55:46 | カタツムリ歩行
 2015年5月17日(日)

 好天となった今日は、「続カタツムリ歩行」の第24回例会に参加しました。集合地は
JR武蔵野線の東川口駅、10時5分にスタートしました。


 ゴールとは反対の南側に回り、戸塚一丁目の東側台地下の遊歩道に入ります。


 遊歩道にあったアジサイは、もう間もなく咲き出しそう。


     台地上に上がって住宅地を進むと、民家の庭先にシャクナゲが。
    

 その先にあったりっぱな本堂の西光院に入り、参拝しました。

 西光院は、天正元年(1573)に当地に来た叡雅上人により庵としたのが始まりで、
その後、文禄2年(1593)に再び上人が来た際に青竜山西光院伝福寺と号したよう。

 寛永年間(1624~44)には薬師堂や表門、客殿などが造立されて再興がなり、
以後興隆を極めたようです。

 境内には、幾つもの石像が祭られています。こちらは閻魔様のようです。
    

 広い庭は植栽が多くよく手入れされていて、その間のあちこちに石像が配置されていま
した。


 これは一葉観音で、由来は「昔中国で修行を終えた僧が帰国の途上暴風雨にあい、一心
に観音様を念じたところ、ハス葉に乗った観音菩薩が現れ、たちまち風波は治まった。
    
 順風満帆な旅を約束し、交通安全、さらに水難から守って下さる観音さまとして深く信
仰されています」とのこと。

 南東の隅の道路際には、川口七福神の弁財天堂が祭られています。


 南側の道路を横断して、戸塚三丁目の消防署の南側にある七郷(ななさと)神社へ。

 西光院は七郷神社の別当寺のようで、寛永年間の西光院再興に際しては、当社の整備も
進められたものと考えられているようです。

 拝殿内では、生まれて間もない赤ちゃんの大成を祈願した初参りの家族が…。

 境内に標高15.4mの三角点マークがあるので探しましたが、見つかりません。


 北側の車道に戻って西進します。川口市は植木の町として知られていますが、この通り
にも住宅地の中の樹木畑が目に付きました。


 東川口駅前から南に延びている広い市道を横断して、戸塚四丁目の道路際にある本行寺
に行きましたが、東側西側ともに門が閉ざされていて入れません。


 東川口駅に向かう幅広い市道は、車道の中央部と両側の歩道に街路樹があり、歩道には
短い間隔で鉢植えもあり、緑と花が多くて歩道も自転車レーンも広く、歩行者も安心して
歩けます。
    

 スタートした東川口駅に戻って北に抜けて、東川口一丁目の諏訪神社へ。

 旧戸塚村一本木組の鎮守で、日光御成(おなり)街道に面していることから、安永5年
(1776)の10代将軍徳川家治(いえはる)と、天保14年(1843)の12代徳
川家慶(いえよし)の日光社参の際には、将軍の小休所になったようです。 

 ここも標高19mの三角点があるはずですが、七郷陣神社と同様、分かりませんでした。

 県道105号を横断して西進すると、住宅が少なくなる辺りから北側にかけて、新しい
道路工事が何か所かで進行中でした。

 その一角、畑の隅に咲く白い花。


    

 畑だったのか、空き地にポツンと立つお地蔵さんと青面金剛の石像。江戸時代の造立の
よう。
    

 周辺にも、まだ若木のツツジ畑が何枚が見られました。


 東北自動車道近くまで進みましたが、春日神社は改築中だったので、その横から工事中
の広い道路を北進して、大門小の横を通過します。校庭では野球の練習中。

 道路際の金網のすき間から撮ったら、その向こうのバックネットにピントが…。    

 国道463号に出て、工場の長い建物の横の長い参道を進み、12時02分にゴールの
大門(だいもん)神社着きました。

 大門神社は、大門町の鎮守として祭られた神社で、かつては十二社権現社と呼び、明治
40年(1907)に地内の8社と近隣の村社を合祀して大門神社になったとか。

 ちなみに当地大門は、日光御成街道の江戸日本橋から4番目の宿場町で、中世から鎌倉
街道中道(なかつみち)の道筋として発展し、毎月8の日には市が立ったようです。

    
    拝殿の背後、本殿の周辺には極彩色の木彫が施されていました。
        

 境内は、クスノキやケヤキのうっそうとした木々に囲まれ、今日の暑さを忘れさせてく
れます。


 境内にある愛宕神社は、元禄年中(1688~1704)の創立で、当時大門宿に大火
ががあり、里人が計って火防の神である愛宕神社を勧請したと伝えられているようです。


 食事を終えて拝殿前で記念撮影とミーティングをして、12時40分過ぎに散会となり
ました。

(天気 晴、距離 4.6㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地、川口市、さいたま
 市緑区、歩数 9,300)


 散会後私は、東北自動車道の西側にある遠沼(とおしょう)神社と興照寺を回ってから、
東川口駅に戻ることにしました。

 国道463号を少しだけ西進して、大門郵便局の近くから住宅地を南西に入り、東北自
動車道の浦和IC付近から東北道に平行する国道122号の歩道を南下します。

 南北に走る送電線の下付近で東北道の下を西に抜けて、区画整理された差間(さしま)
一丁目の住宅地に入り、小さい流れを越えて差間中央公園の横を通過します。


 差間二丁目に回り、見沼代用水東縁(みぬまだいようすいひがしべり)に近い遠沼神社
に入りました。


 遠沼神社の創立時期は不詳のようですが、鎌倉時代末期から江戸時代の初期のころと思
われるとか。 もとは、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭った浅間神社でしたが、
明治40年(1907)に、差間村の稲荷社、菅原社、間宮村の大白天社、氷川社など7
社を合社して、社名を東沼神社と改称したようです。

 境内には、七五三詣での絵馬と入試合格祈願の絵馬との2つの絵馬が、別々の絵馬板に
掲げられていました。
    

 境内南西側には、悠仁親王殿下のお誕生を記念して4年前の平成23年7月に復元した
という富士山がありました。

 いつ頃造営されたのか分かりませんが、天保11年(1840)の絵馬には描かれてい
たとか。風雨で崩れてしまっていたのを、本ものの富士山の500分の1に復元したよう
で、標高8m、すそ野は30mの富士山です。

 登山口には、「参拝(賽銭を入れ二拝二泊手一拝)しない人、中学生以下の子供(親が
いても)登れません、犬もだめ罪が当たる」の立て札がありますが、私は参拝済みだった
ので登頂しました。

 山頂から見下ろした境内の眺め。


 すぐ東南には、先ほどのミーティングでIさんが紹介してくれた「鯖大師」の興照寺が
あるので回ってみました。


 境内は思ったほど広くはなく、鯖大師は本堂の手前左手道路際の、岩積みの上に祭られ
ていました。


         弘法大師が鯖を下げたお姿です。
        

 ちなみに、鯖大師は四国八十八ヶ所霊場の第4番札所にあり、その縁起は以下のような
ことです。 興照寺の鯖大師も、これにちなんだもののようですが、どのような縁でここ
に祭ったのかは分かりません。

 『今から1200ほど昔のこと、お大師様(弘法大師)がお四国をお開きに巡られた折、
ある朝通りかかった馬子に積荷の塩鯖を請われましたが、口汚くののしられ断られました。
馬子が馬引坂まできた時、馬が急に苦しみみだし、先程の坊様がお大師様と気付いた馬子
は鯖を持っておわぴし、馬の病気をなおしてくれるよう頼みました。

 お大師様がお加持水を与えると馬はたちまち元気になり、お大師様は八坂八浜の法生島
で塩鯖をお加持すると生きかえって泳いでいきました。そこで仏の心を起した馬子はこの
地に庵をたて、古今来世まで人々の救いの霊場と致して、鯖を3年間絶ってご祈念すると
願い事がかない、病気がなおり、幸福になれると、いつしか人々に「鯖大師」と呼ばれて
いるのです。』

 こちらが、徳島県海陽町にある四国八十八ヶ所霊場別格4番札所の鯖大師本坊です。


 興照寺を出て東へ、JR武蔵野線の北側を平行する車道を進み、東北自動車道の下を抜
けて、東川口駅には14時25分に戻りました。

 (総行程 9㎞、歩数 18,000)





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