あるきメデス

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カタツムリ歩行同窓会で新鎌ヶ谷駅周辺を歩く(千葉)

2018-11-28 17:45:35 | カタツムリ歩行
 2018年11月18日(日)

 昨年末で終了した「カタツムリ歩行」の第3回同窓会に参加した。集合は東武アーバン
パークラインの新鎌ケ谷駅。北総鉄道と新京成電鉄の新鎌ケ谷駅とも立体交差している。

 今回担当のIさんから地図をもらい、9時52分に駅を出た。


 東口をすぐ、道路上に「東経140度線」と記された線があり、そばに円形の説明パネ
ルもある。
     


 それによれば、東経140度線は鎌ケ谷市の真ん中を走り、国内では宇都宮、会津若松、
八郎潟など、北はロシア、南はミクロネシアやパラオ、インドネシア、オーストラリアを
通っているという。

    
  
 すぐ先の通りを南へ、高架化工事中の北総鉄道と新京成電鉄の下を南に抜け、次の交差
点を左折して鎌ケ谷市役所の北側を東進する。



 国道464号と右カーブしてきた新京成線を再度横断して、中央一丁目から二丁目へと
住宅街を進む。あちこちの民家でミカンが色づいている。



 南初富一丁目でコミュニティバスの走る通りに入ると、ナシ畑が現れた。葉は残るが実
はすでに無い。ナシ畑の片隅にもミカンが何本か実をつけていた。



 東初富一丁目からは、畑の向こうに平地林が望まれる。バス通りの標識に従い細道を南
に入り、珍しい名の鴻徳(こうとく)神社へ。



 昭和57(1982)年10月に鎮座した新しい神社で、鎮守の森は無く明るい境内。
祭神は食物の神、御饌津大神(みけつおおかみ)を祭るとか。社殿横に独特の形の絵馬が
たくさん奉納されていた。


 社務所では書道教室や学習教室を併設していて、近在の方々の教育にも貢献しているよ
うだ。

 その先、瓢箪(ひょうたん)集落でバス道路を離れて南東に進み、広い車道に突き当た
って北東へ、近くにあるはずの神社を探すが見当たらない。


 道路の東側は、4面の野球グランドがある白井市の「冨士南園広場」で、各グランドで
少年野球チームが練習をしていた。


 グランド北端近くの交差点を左折してバス通りに戻り、少し先で北西に延びる旧道へ。
ナシ畑の間を進んで右左折をくり返し、「里山友の会」が管理する竹林沿いを進む。


 広い通りに出ると、西側に「福太郎アリーナ」と呼ぶ鎌ケ谷市立体育館が望まれる。


 北進して、東西に走る国道464号の東行、西行斜線が分離し、その間を走る北総鉄道
がトンネルになるところを横断する。


 さらに進んで落山集落にある八幡神社の森に入る。由緒などは記されてないが、境内南
側にたくさんの青面金剛と庚申塔、そして少しの二十三夜塔が並んでいる。

 その中の年号を見ると、文化14(1817)年、宝暦8(1758)年、享保11
(1726)年などが確認できた。


 右手の小さいほこらには、「女人講中」と刻まれ子供を抱いた石像が祭られていた。

 境内を西に出ると、南北に滑走路の走る「海上自衛隊下総航空基地」の東側で、基地は
ぐるりと厳重な金網で囲まれていた。
     


 基地を眺めながら基地沿いを南から西へと回り、滑走路などを遠望する。


 基地の南西端で折り返して南へ、国道464号の2本の車道を、信号が無いが車の途切
れを待って横断し、ゴールの市制記念公園へ北口から入る。


 野球場の西側を回り、先着の皆さんの待つベンチ付近に12時3分に着いた。晴天の昨
日は暖かだったが、今日は雲が多くて木陰の多いベンチ周辺はうす寒い。


 公園の西側は低地になっていて、大雨の時の調整池のよう。現在はアシが生い茂り水面
は見えない。間もなくほかの皆さんも相次いで到着した。


 昼食を終えた頃、野球場では「鎌ヶ谷警察署長杯少年野球大会」の開会式の行進が始ま
った。


 私たちも記念撮影とミーティングをして、13時20分頃散会した。

 

 帰路は、午前中回れなかった北西側を巡ってみることにした。市制記念公園の北口を出
て、2本の国道464号の北に広がる粟野(あわの)地区公園(粟野の森)の西端近くの
林間を北に向かう。
    

 この公園は、粟野地区の人たちが営々と守り続けてきた鎌ケ谷市内に残る最大の森のよ
うで、樹林地は約5.1㏊、途中に約500mの観察路もある。
     

         
 北西端まで進んで車道に出た。粟野集落を南西に少し、北西への細道を入ると林の中に
「三十番神」と呼ぶ小さなほこらが祭られていた。
     
 そばにケヤキの大木が3本あり、周辺は竹の侵食が進んできている。

 県道8号に出て南進し、次の粟野十字路交差点を右折して南西へ。この周辺にはナシ畑
が多く、沿道の民家ではナシの直売もしており、「梨御殿」ともいえるような立派な民家
が並んでいる。




     
 東武アーバンパークラインの踏切を越えたすぐ先に、八坂神社がある。



 境内はケヤキの高木などが鎮守の森をつくり、その下にたくさんの庚申塔が並んでいた。

 ここ粟野は民俗的行事が多く残っていて地域の結びつきが強く、その中でも庚申講は江
戸時代から継承されているとのこと。

 その庚申講により、江戸前期の元禄12(1699)年から340年間も途切れること
無く庚申塔が建てられ、特に文化12(1815)年から現在までは、5年おきに1基と
いう規則性を守って建てられているという。

     
 道路を隔てた北側の民家には、たくさんの柿が実る。すぐ先の畑からは、新鎌ヶ谷駅周
辺の中層マンションなどが望まれる。



 つぎのY字路を右へ、ススキ咲く小さい流れの先に豊作稲荷神社があった。

 明治2(1869)年、明治新政府が幕府の馬の牧場だった広大な下総牧(しもうさま
き)を廃止し、江戸の職を失った人々救済対策として開墾事業を実施したが、この開墾を
政府と共に担った豪商、湯浅七左衛門が、開墾地初富の農作物の豊作を祈り、京都の伏見
稲荷を勧請して明治6年に建立したのだという。


 少し戻り、ナシ御殿やナシ畑の多い初富(はつとみ)集落を南西へ。柿実る民家やキク
の咲き競う畑もある。






 早くもクリスマスの飾り付けをした初与園というナシ直売所の角を曲がり、北初富駅方
向に向かう。


 北初富近くまで進んで光円寺へ。本堂は大きく、右手前には小さいが精巧な五重塔があ
る。


     

         
 境内の植栽はよく手入れされ、純白のサザンカが咲く。
    

 左手には「土地記念講碑」が立っていた。

 明治政府の殖産事業の一環である初富開墾は、入植者のほとんどが農業未経験者だった
のと、耕地が火山灰地なので非常に困難なものだったよう。

 その開拓者の子孫が祖先の生活を忘れないようにと、大正から昭和にかけて記念講を結
成し、芋がゆをすすって祖先をしのび、共に励まし合い、豊かな農地への発展を成し遂げ、
開墾50年を記念して大正7(1918)年に建立したという。


 高架化工事中の新京成線の新初富駅に15時11分に着き、3分後の上り電車で松戸駅
に向かう。

(天気 晴一時曇、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 白井、松戸、歩行地 鎌ケ谷市、
 白井市(少し)、歩数 20,400)  





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