あるきメデス

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所沢・北野天神社へ初もうでウオーキング(埼玉)

2015-01-05 18:33:54 | 所沢だより
 2015年1月5日(月)

 今日は日中の気温は10℃を超え、少し寒さが和らぎました。

 午前中、所沢市内では先日参拝した所沢神明社とともに参拝者の多い北野天神社まで歩
いて行き、何年ぶりかの初もうでをしてきました。

 新年3が日は賑わったのでしょうが、西側の市道から入った境内には、わずかの参拝者
しか見えません。



 北野天神社は、景行天皇の時代、日本武尊が東征の折この地にまつり、古来から武蔵国
の延喜式内社で入間郡5座のひとつに数えられているという、由緒ある神社です。

 その後、長徳元年(995)に菅原道真5世の孫、修成が武蔵守となって武蔵国に下向
(げこう・都から地方へ行くこと)し、この地に京都の北野天神を祭ったので、以後「北
野天神」と称されるようになったとか。


 武家の信仰も厚く、源義家、頼朝、足利尊氏、前田利家などによりしばしば社殿が造営
されたとのこと。

 天正19年(1591)に前田利家が再興の際には、徳川家康から社領8石を拝領して
おり、慶安2年(1649)には50石に加増されたようです。

 拝殿の前には、前田利家が社殿再興の前年の天正18年に献栽したという「大納言梅」
と呼ぶ梅の古木があります。
     
 暖かい年の正月には、チラホラと開花していることもありましたが、寒い今年はまだ固
いつぼみのままです。

 境内には、稲荷神社、小手指神社、八雲神社、石宮神社などがありますが、こちらはそ
れら境内社のひとつ、「はた神様」とも呼ばれる文子天神社です。

 この神社には、養蚕を始め、糸繰り、裁縫、機織りなどすべての日本婦人の美徳を備え
た「多治比文子」という女神が祭られているとのこと。

 その右手には、「諸神宮」と呼ばれる社殿があります。

 この社殿は室町時代の再建で、源頼朝が建久6年(1195)9月に、延喜式内総社
(3132座)を勧請(かんじょう)したので「諸神宮」と呼び、将軍家光からの諸神宮
領の寄進状が残っているようです。

 こちらは「宗良親王遺跡」碑。碑文は判読できませんが、正平7年(1352)の近く
の小手指原(こてさしがはら)合戦のときの、宗良親王の御在陣跡だったことが記されて
いるよう。
        

 その横には、この地出身でオペラ歌手や喜劇俳優などの名脇役として活躍した、左卜全
(ひだりぼくぜん)の言葉を記した碑が立っていました。
        
 
    
 碑文には、「常道の芸では先がしれてる されば 道遠き苦難のみちを求めん」と記さ
れているようです。

 ちなみに左卜全は、明治27年(1894)生まれ、女流歌人の三ヶ島葭子(みかじま
よしこ)は異母姉。卜全は昭和46年(1971)に東京で没しています。

 拝殿前の広場の南側には、日本武尊が東征の折にお手植えしたという「尊桜(みことざ
くら)」の4度目のひこばえという桜が、いまは枯れ枝を見せています。


 その傍らにあるのは力石。

 徳川時代末期から明治初期まで江戸を中心とする関東各地では、力を試したり記念に奉
納された力石が多いようです。

 そうした史跡などを見ながら境内を一巡して、南側の参道から神社を後にしました。
     

 この後、南側の丘陵を東西に並び立つ椿峰団地の稜線近くを貫く、椿峰緑道を東に抜け
て、自宅に向かいました。 今日の市内ウオーキングは約8㎞でした。




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