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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

品川駅東口、芝浦中央公園から高輪ゲートウェイ駅へ(東京)

2021-04-17 12:57:27 | 江戸・東京を歩く
 2021年4月15日(木)

 新型コロナウィルスの感染拡大が再び顕著になり、東京23区内には3日前の12日か
ら「まん延防止等重点措置」が適用されたが、近くに職場があった頃から通院している、
JR品川駅東口の歯科医院から定期検診の連絡が来たので出かけた。

 都内に出かけるのは、同じ医院へ治療に行った昨年12月8日(火)以来の4か月ぶり。
鉄道を利用するのも1月19日(火)に市内の2駅だけの乗車以来なので、約2か月近い
間隔があった。

 12時30分頃に治療は終わった。コロナが怖いので直帰するつもりだったが、好天で
新緑が気持ち良いので、近くの芝浦中央公園の新緑や花を眺め、隣の品川ゲートウェイ駅
まで回ってみることにした。

 品川駅東口に近い街路樹の新緑やハナミズキの花。




    





 街路樹と近くの高層ビルとの対比も面白い。


 近くのT字路を、ダックスフント犬より胴長の感じの乗用車が2台通過した。



 車に疎い私は、こんなに胴長の乗用車を見たのは初めて。

 品川駅東口の北東側にある、品川シーズンテラスと呼ぶところにあるタワービルに入り、
2階までエスカレーターで上がって北側に抜ける。 


 北側一帯は、都の水再生センター(下水処理場)の上に設けられた港区立芝浦中央公園
の広い空間になっていて、新緑やツツジ、ハナミズキなどが多い。








 周辺のビル群




 園路のツツジなど見ながら北に向かう。






 中ほどの大きなハナミズキは花いっぱい。






 芝生や樹木の新緑も気持ち良い。




      
     
      振り返り見るタワービル↑とアネックスビル↓
          

 生け垣になっている木の、細い小さな花


    

 タワービルを背にした柳の新緑



 東側は広い芝生地や植え込みにになっていて、その一角に噴水があった。




 広場から望む北側のビル群



 公園の中ほどには、湿性花園と呼ぶ池がある。


 近くに咲くシランの群れ


 その先にはフジも咲き出していた。


 右折して東に向かう園路からの品川駅東口方面のビル群


 その園路沿いにはバラ園があるが、まだ咲く花はわずか。




 左折して再び北への園路、右手にも広い芝生広場が。


 その先で芝浦中央公園は終わり、少し下ってJR東海の新幹線車両基地からの引込線の
高架下に向かう。


 高架橋の手前で左折して西へ、JR高輪ゲートウェイ駅と田町駅間の広い線路敷の下を
抜ける歩道に向かう。


 高輪橋架道橋と呼ぶ歩道の東側入口。


 品川に職場があった頃は、ここをくぐって三田にある別の職場へよく出かけた。当時は
自動車も通行できたので、細い歩行帯を車に注意しながら通ったが、現在は歩行者道にな
っている。

 西端近くは一部、上部が取り払われていた。


 西側に抜けて第1京浜国道方面に上がる。


 国道15号線・第1京浜国道沿いには江戸城の高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)
があり、国史跡となっている。


 高輪大木戸後は、江戸中期の宝永7(1710)年に芝口門にたてられたのが起源で、
享保9(1724)年に現在地に移されたとか。

 江戸の南の入口として道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉
めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていたという。

 京上り(きょうのぼり)、東下り(あずまくだり)、伊勢参りの旅人の送迎もここで行
われ、付近には茶屋などもあり、品川宿に至る海岸の景色も良く、月見の名所でもあった
ようだ。

 当時のままの石垣





 第1京浜国道↑は、南側の品川駅方向に向かって工事中。すぐ先の泉岳寺交差点を左折
した辺りから望むJR高輪ゲートウェイ駅↓(塀とビルの間の横長の建造物)など。


 この辺りから南東側一帯の広いエリアはJR東日本の車両基地跡で、現在「品川開発プ
ロジェクト」と呼ぶ大規模な再開発工事中。

 港区三田3丁目、芝浦4丁目、港南2丁目、高輪2丁目にかけての一帯を4つの街区に
分けて工事中で、総面積は71,900㎡余りになるようで、令和7年7月31日完了予定
にて工事が進められている。 

 東南側、JR品川駅周辺のビル群


 駅近くの交差点付近からの高輪ゲートウェイ駅



 駅のそばから道路をまたぐ跨道橋に上がると、正面が駅改札口になる。


 その跨道橋の北西側から、大規模な再開発中の品川プロジェクト4街区辺りが望まれる。


 この再開発地では日本初の鉄道が新橋~横浜間で1872年に開通した際、海上に線路
を敷くために造られた「高輪築堤」の遺構が発掘され、その一部が4月10日に公開され
たことをテレビや11日(日)の新聞報道で知ったばかり。

 今日ここに来たのは、その遺構が見えるのではないかと思ったから・・

 肉眼では分かりにくいが、ズームアップしてみると遺構の一部と思われる石垣らしいの
が見えた。

 日本の鉄道創成時の貴重な遺構なので、できるだけ長いエリアを保存して公開して欲し
いものだ。

 2階正面の駅構内に入り、窓越しに望む北東側、田町方面。


 正面、東側の展望


 東南側、品川方面


 13時50分頃、JR京浜東北線で東京駅方面に向かう。
  
 



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新橋から銀座を縦断して東京駅まで歩く

2020-11-29 22:19:26 | 江戸・東京を歩く
 2020年11月24日(火)

 今年最後の3連休明けの今日は寒々した曇天ながら、長年通院している東京の南のター
ミナル、品川駅東口近くにある歯科医院に予約してあったので治療に出かけた。

 正午前に治療は終わってJR山手線内回りで帰路につき、4つめの新橋駅で下車した。


 北改札を出て東へ、国道15号線・第1京浜を横断して復元された旧新橋停車場の建物
前へ。

 入館しようと思ったが、今日は休館日だった。


 そばの空き地のモミジが色づいていた。




      
 その先に隣接するパナソニック東京汐留ビルに入り4階に上がり、今日観覧する予定で
来た『分離派建築会100年展』会場に入る(一般 800円、65歳以上 700円→
前々回紹介のはけの森美術館で入手の割引券でさらに100円割引)。
            

 会場は撮影禁止だったので、もらったパンフレットに記載されていた7つのセクション
に分かれた展示の、各セクションの内容について紹介する。








     



     

 観覧を終え、ミュージアムショップで1枚の写真絵はがきを購入した。

 実は、この建物内に半世紀以上も前の私の2番目の職場があった。そして1964年の
東京オリンピックの際、市川崑監督による記録映画の冒頭にこの建物が大きな鉄球により
壊されるシーンが登場しているが、もうご存じの方は少ないだろう。

 この展覧会を見に行きたいと思ったきっかけは、新聞広告でこの写真を見たから。

 観覧を終えて13時過ぎにパナソニックビルを出て、ビルの周囲を一周する。その一角
の植え込みにツワブキが咲いていた。



 南西側の汐留シティセンタービルにレストラン街があると分かり、入ってB1階の喜多
方坂内ラーメン店でワンタン麺を注文した。
    
 私はワンタン麺が好きなのだが、最近は中華系の店でもメニューに無い店が多いように
思われ、久しぶりに味わった。

 相変わらず薄寒くてわずかな雨も感じられるが、たいしたことは無さそうなので、この
あとは久しぶりに銀座通りを南から北へと縦断して東京駅八重洲口に向かうことにする。

 新橋駅方向に戻り、第1京浜・中央通りを北に向かう。


 東京高速道路の高架下を抜ければ銀座8丁目になる。



 高架橋の下に「鎮座柳の碑」と新橋親柱があった。
     

 ここはかつて新橋が架かっていたところ。高速道路は川の上に架けられた。
            
 


      8丁目の中ほどに、こんなものが。 
     

 次の交差点で銀座7丁目へ。


      今日の日付から曜日、時刻や秒まで分かる塔。
     



 Diorのビルにあるのはクリスマスの飾り付けだろうか・ 


 この先は銀座6丁目


     

 GINZA SIXの入口に飾られていたもの


 銀座5丁目に入る。


 湯沢屋のショウウィンドウにもクリスマスの飾りらしいものが。


 いよいよ銀座4丁目交差点へ。4丁目といえば和光のビル。


      東に相対する三越銀座店。
     

 三越入口のライオンは、新型コロナウィルス感染防止のマスクを。

 このマスクが外せるようになるのはいつのことだろうか・・

 入口から中をのぞいてみると



 
 この表示はどうやら偶数丁目にあり、反対側の歩道には奇数丁目にあるかもしれない。
     

 銀座3丁目に入る。


 交差点の西北側、アップルの入るビル


      「日本の道100選」に選定の標石。
     

 3丁目のDiorの入るビルにもこんな装飾が。


 銀座2丁目まで来た。


 事務用品の専門店、itoya(伊東屋)に入り目的の品を探したが、小物なので置いてなか
った。
     

 近くの郵便ポストは、銀座通りの色彩を配慮したのか赤くない。
          

 銀座通りの北端、銀座1丁目に入る。


      あるビルの入口
     

           その横の通りには、銀座の柳が残っていた。
          

 銀座1丁目の北端は京橋である。


      ユニークな京橋交番の建物 
     

 東京高速道路の高架橋下にも、新橋と同様に京橋の親柱などが残っている。
     

    



      高架橋の北東側には警察博物館があり、その前にも京橋の親柱が。
     

 警察博物館は休館日だった。


 高架橋の北西側、東京スクエアガーデンビルにはアウトドア用品メーカーのモンベルが
入っていて、そのエリアは緑化されている。


 モンベルの前のサクラ


 ここにもツワブキが咲いていた。


 京橋交差点から望む北側の通り。


      交差点を左折して東京スクエアガーデンのビル前を西へ。
     

 少し先に、この地に千葉定吉道場があったことを記したパネルが。  


 鍛冶橋交差点へ。東海道新幹線などの高架橋の向こうは東京国際フォーラムの建物。


      鍛冶橋交差点の北西側の高層ビル
     

        八重洲ブックセンターに入り買いたいものを探したが、見つからなかった。
          

 東京駅八重洲南口の東側、再開発で建設中の高層ビル。まだ上に延びるかもしれない。
          

 15時ちょうどに東京駅八重洲南口改札を入り、JR山手線の内回り電車で池袋方面に
向かう。





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府中の「名木といききの道」を歩く(東京・府中市)

2020-11-08 22:38:15 | 江戸・東京を歩く
 11月第1週は出かけた日が多かったため遅くなりましたが、月初のウオーキングレポ
ートです。

========================================

 2020年11月1日(日)

 きょう11月1日から3日(祝・火)までの3日間は、埼玉県東松山市を中心に開催さ
れる国内最大のウオーキングイベント「第43回日本スリーデーマーチ」の予定だった。

 だが、新型コロナウィルスの感染拡大防止の観点から開催中止となり、その代わりの特
別企画として「どこでもウオーキング」が実施されることになった。参加申し込みした人
にはオリジナルバッジが進呈され、参加者はそれをつけて自分で決めたコースを自由に歩
くというスタイルである。

 そこで私も申し込み、実行委員会から送られてきたバッジをつけて、府中市内に設定さ
れていた「名木といききの道」というコースをもとにして歩くことにした。


 JR武蔵野線の起点・府中本町駅に9時37分に着き、9時45分にスタートする。


 北口には、3日前に歩いた西武拝島線東大和市駅前同様の丸い郵便ポストが立っていた。
     

 少し北へ、都道17号の駅入口交差点を渡り東側の大國魂(おおくにたま)神社に入る。


 景行天皇41(111)年、武蔵国の護り神として大國魂の大神を祭ったのが始まりと
される古社。平安時代には武蔵国総社となり、さらに6社を合祀(ごうし)して総社六所
宮と称され、5月5日の「くらやみまつり」の神輿(みこし)巡行には日本一の大太鼓が
登場することで知られている。

     
 りっぱな手水場の横から延びる北側の参道にはたくさんのちょうちんが目につき、両側
のケヤキなどは紅葉が始まっていた。
     


 反対側、大きな熊手の奉納された山門を入り、北向きの拝殿に参拝する。



 山門の手前西側では菊花展の用意が進み、境内には早めの七五三参りの家族も多い。
     

      山門際の大イチョウも色づき始めていた。
     

 山門を出て東へ、神社の塀沿いに南下して地獄坂の階段を下り、墓地の横から妙光院の
本堂前に回り参拝する。


 本堂手前右手には、「府中の名木百選」に選定されているイチョウが立っていた。樹高
は25m、幹周は3.9mという。
     


 朱塗りの仁王門を出てふり返ると、墓地の向こうに東京競馬場のスタンドが望まれる。



 西側の都道17号から桜並木の参道を入り、南側に並ぶ安養寺へ。



 突き当たりのお堂は多摩川三十三所第5番霊場の観音堂で、本堂正面には大師講講中が
奉納したご詠歌の掲額があった。


 本堂のそばには、樹高18m、幹周2.9mで「府中の名木百選」のモミノキが立つ。
     

 境内南側から東に回り、東京競馬場沿の西側から東へ。周辺に警官がたくさん配置され
ていた。今日は競馬開催日かなと思いながら進んだが、帰宅後、午後の天皇賞レースでア
ーモンドアイが芝GI新記録の8勝を飾ったと知る。

     
 競馬場の北西側台地に向かって天神坂を少し上がり、中腹に鎮座する日吉神社に入る。
境内はケヤキやイチョウの高木など豊富な樹林に覆われていた。
          

 大国魂神社を出たところから延びてきた通りを東に少しで、西向きの本堂の普門寺へ。


 多摩新四国第22番霊場のようで、目の病に御利益があるのか「め」の字の絵馬がたく
さん奉納されている。
    

 山門のない開放的な境内の中心部に、豊富な枝張りを見せる大イチョウがある。府中市
の保存樹木に指定されてもよさそうな高木だが、そのパネルは無い。
     


 すぐ先で、京王競馬場線の府中競馬正門駅前を過ぎる。駅前を真っ直ぐに進めば東京競
馬場である。


    駅前には、逆光に輝く「黄金の馬(アハルテケ)」が設置されていた。
     
 アハルテケはトルクメニスタン原産の馬の品種で、同国の国章にもあしらわれていると
か。スピードと長距離の持久力で知られる「黄金の馬」は過酷な気候に適応し、現存する
最古の馬種のひとつと考えられている(ウィキペディア)という。


 さらに東に少し、樹林に囲まれて一角に国府八幡宮の予想より小さめの社殿が西向きに
祭られていた。
     
 第45代聖武天皇の御代(724~749)、各国に一国一社の八幡として創立された
社のひとつで、武蔵国国府の守護神として建立されたという古社のよう。、

八幡町地域公園の西側に接していて、公園を含めてケヤキやサクラなどの豊富な樹林に覆
われている。
     

 公園の東南側で右折して、南に下る鳩林坂(きゅうりんざか)へ。その下り際右手(西
側)にかやぶき屋根の門があり、門前に鳩林荘と記されていた。


 すぐ先左手には府中の名木百選「鳩林坂のヤマザクラ」があるが、前後の木々で全体は
確認できない。樹高8.5m、幹周2.5mと説明パネルに記されているが、樹高はもっ
とありそう。
     

 坂を下り競馬場通りに出て、東京競馬場の東門前を通過して東へ向かう。清水が丘2丁
目の住宅地を進んだがその中にあるはずの滝神社は見つからない。清水が丘2丁目交差点
に出て北に延びる新小金井街道の清水トンネル際を上がり、府中崖線(がいせん)上を東
に延びる樹林に覆われた細道へ。
     
 崖線上の道は、武蔵国の国府から東海道の大井の駅と甲斐国の国府へ通じていた古街道
で、行ったり来たりするという意味で「いききの道」と呼ばれ、「府中30景」のひとつ
になっているという。

 北側に見えた広い墓地の横を入る。墓地に石造りの塔があり、「奉仰東郷元帥神霊照覧」
と刻まれているが、中央部の太い文字はなぜか塗りつぶされていた。
     


 その東側が東郷寺(とうごうじ)本堂のようだが説明パネルなどはなく、東側に大きな
山門がポツンと立っていた。


 帰宅後調べたら、日露戦争の連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥の別荘跡に立てられた
日蓮宗の寺院という。

 大きな山門は昭和15(1940)年の建立とか。設計者は著名な建築家で建築史家の
伊東忠太によるもので、東京都選定歴史的建造物のようだ。

     
 山門を下った東側に、府中市名木百選のシダレザクラ↑ほか3本のシダレザクラがある。
日蓮宗総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)から苗を移植したようで、花どきには
みごとな花が見られそう。


 山門の北側を見上げると、こんもりした広葉樹とケヤキらしい高木も望まれた。


 少し南西に進んで久遠寺交差点でV字状に折り返す。再び府中崖線上の「いききの道」
に戻って東進し、西武多摩川線の踏切を越える。踏切際には「まむし坂」のパネルがある。



 近くの路傍に、たくさん実をつけたピラカンサが目につく。その先にはバショウかと思
われる木に花が咲き、たわわにミカンが実る。
     



 さらに白糸台4丁目の住宅地を進んで本願寺の前に出た。門前に府中の名木百選に選定
されている「本願寺のケヤキ」(左)と「本願寺のサイカチ」(右)とが近接して立って
いた。
     
 ケヤキは樹高22m、幹周3.8m、サイカチは樹高12.5m、幹周2.3mと記さ
れているが、2本が近接しているので枝張りがきゅうくつそう。

 本願寺は浄土宗の寺で、起源は源頼朝が奥州征伐の折、かの地から藤原秀衡の守本尊と
伝えられる薬師如来を祭ったことに始まるとか。その後、永正13(1516)年に総州
の人、大久保彦四郎が兵火で焼けたお堂を再建して中興開山したという。

 現在地に移転したのは天正2(1574)年で、3代将軍家光のときに徳川家から朱印
状11石が下附され、あわせて葵紋の使用が許可されたようだ。

 山門を入ると、正面にコンクリート造り2階建てのりっぱな本堂が目に入る。

     
 本堂の手前左手には、のぼりの並ぶ薬師堂があり、その前には府中の名木百選「本願寺
のサルスベリ」が色づき始めた葉を見せていた。


    
     境内にはハギが咲き、紅葉を始めた木も見られる。


     
 本願寺の東側には車返八幡神社があり、境内には府中の名木百選「車返八幡神社のスダ
ジイ」が立っているが、近年枝葉がかなり切り払われたようで枝振りが少しさみしい。
     
 選定時の1988年の樹高は18m、幹周2.5mと記されていた。

 本殿の左手背後にはスダジイよりかなり樹高に秀でたケヤキが立っていて、こちらの方
が見栄えがする。
     

     
 さらに東へ、道路際の斜面に色づき始めたフウがあり、その先の民家には小鳥の巣のあ
る柿が色づいていた。
          

 府中崖線白糸台緑地の説明パネルの近くに「はけた坂」のパネルがあり、その中に「い
ききの道」のことも記されていた。

     
 北へ延びる通を少しで、住宅地の中にわずかな森の残る諏訪神社に入る。境内北側に拝
殿殿が祭られ、道路際には府中の名木百選の「諏訪神社のシラカシ」が立っていた。樹高
は18m、幹周2.6mという。
     

 境内にはほかに、府中市保存樹木のムクノキやシラカシもあった。

 ここでコース上の予定の名木は巡り終え、ゴールは京王線飛田給(とびたきゅう)駅に
なっているが、わが家への帰路の利便さを考えて北に向かうことにする。


 神社のすぐ先で京王線の踏切を渡り、白糸台6丁目の住宅地を抜けて国道20号線・甲
州街道に出た。

     
 戻るように西進して白糸台通りの北端から延びる通りを北へ、朝日町1丁目から2丁目
へと住宅市を進み、西武多摩川線の多磨駅に14時44分に着いた。


 上り電車で武蔵境駅に行き、JR中央線下り電車にて国分寺駅経由の帰路に着いた。

(天気 晴後曇 距離 9㎞、地図 「府中市ウオーキング・マップ」(1/1万)、
 歩行地 府中市、歩数 19,600)


 なお、「どこでもウオーキング」は、3日間で海外からの参加者157人を含めて
9,258人が参加したとのこと。

 実行委員会のサイトの写真集には、参加者が撮影した東京下町の写真や、オランダの風
車前とかロシアのウラジオストク、オーストラリアなど世界中の好きな場所を楽しんだ姿
が見られたという。



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玉川上水と野火止用水沿いを中心に歩く(東京・小平市)

2020-10-31 18:55:10 | 江戸・東京を歩く
 2020年10月29日(木)

 さわやかな快晴になったので、8月28日(金)以来約2か月ぶりに電車に乗り、市外
へのウオーキングに出かけた。

 市外といってもわが家からは都県境を越えてわずか、電車もひと駅ずつ3回乗り換えて
4駅目の西武拝島線東大和市(ひがしやまとし)駅に9時39分に下車した。


 駅の南側に出ると丸い郵便ポストがある。駅名は東大和市だが東大和市は線路の北側の
みで、南側一帯は小平市である。小平市内には丸形のポストが37あって都内では1位と
か。ちなみに23区内にはたったの5つだけという。
     
 
 ポストの前から電車に平行して南西へと緑陰の続く野火止(のびどめ)用水上散策路を
進む。下を野火止用水が流れているのだが、暗渠(あんきょ)になっているのでその様子
は分からない。
     

 散策路が右カーブすると、線路の北側に西武拝島線玉川上水車両基地の車両が見える。


 散策路にはカシの実だろうか、どんぐりがいっぱい落ちていた。



 野火止用水が玉川上水に合した都水道局の小平監視所の施設の横を進み、まもなく隣の
玉川上水駅前へ。



 南に延びる多摩都市モノレールの高架の手前から折り返し、玉川用水右岸沿いの遊歩道
に回る。

     
 都水道局小平監視所の先で玉川上水が斜面から流れ出るところに下ると、清流復活の碑
がある。この場所は、小平市内で玉川上水の水辺に下りられる唯一の場所だという。




     
 さらに右岸の遊歩道を下流に向かう。南側の新興住宅地の間に畑が何か所か残っていた。




 
 次の橋、西中島橋で玉川上水の流れを見下ろし、左岸に渡って少し戻ると「こもれびの
足湯」があるが、木曜の今日は定休日だった。
     


 こもれびの足湯

     
 西中島橋から、右岸より幅広い左岸の遊歩道を少しで、小平市内の玉川上水の分水のひ
とつ、新堀(しんぼり)用水が流れ出す胎内掘(たいないほり・ほっこぬき)と呼ばれる
ところの、昨年復元された抗口(分水口)があった。
     

 新堀用水は、この先しばらくは玉川上水左岸に沿って小さい流れが続いている。
         

 近くには「国指定史跡 玉川上水」の説明パネルがあり、「玉川上水は羽村取水口から
四谷大木戸までの43㎞にわたる水路で、承応3(1654)年仁完成し、多摩川の水が
江戸市中の広い範囲に供給されて江戸が大きく発展したこと。

  その後、明治31(1898)年に完成した淀橋浄水場への水路として昭和40
(1965)年に廃止されるまで利用されていた」ことなどが記されていた。

 間もなく、東大和市駅横から南下してきた道路が交差する都道の小川橋へ。橋の北西側
に石橋供養塔が立っているが、そばに金網があって正面からは撮れず、右側のみを撮る。
     


 小川橋を渡って右岸に回り、再び右岸沿いの遊歩道を進む。南側は住宅地の横を進んで
広葉樹林に囲まれた上水新町地域センターでトイレを借りる。樹林内にリンドウのような
花が何株か咲いていた。
         


 その先にも保存樹林になっているエリアがある。



     近くのくぬぎ橋を渡って流れを見下ろす。
    


 再度左岸の遊歩道に回るとすぐに百石橋(ひゃっこくばし)。橋を渡ってさらに左岸遊
歩道を少しで「きつねっぱら公園」と呼ぶ小公園があった。
     

 隣接する大けやき通公園も小さな緑地。ここで玉川上水と分かれ、丸木造りのトイレの
横から北に延びる大けやき通に入る。
         

 通の東側は武蔵野美術大の敷地、その一隅の学生寮らしい建物の裏手に柿がたくん実を
つけていた。


 畑の中を平行する2本の通を過ぎて青梅街道が近づいたところに、「竹内家のケヤキ」
と呼ぶ大ケヤキが立っていた。
      
 小平を代表する樹木であり、竹内家がここに移り住んだ寛文年間(1661~73)に
台風に備えて植えた樹木の中の1本とのこと。樹齢300年以上、高さ35m、目通り周
囲6.5m、枝張り面積400㎡あり、市内最大の巨木だという。
     

 すぐ北側で小川橋からの通と青梅街道街道とが合する小平上宿交差点に出た。青梅街道
を東に少しで小川寺(しょうせんじ)前へ。

 小川寺は、明暦2(1656)年に小川九郎兵衛(おがわくろべえ)が小川村の開発を
始めたとき、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺住職の雪山碩林大禅師(せつざんせきりんだいぜ
んじ)を勧請(かんじょう)して開山して建立した臨済宗円覚寺派の寺院という。

 青梅街道に面して北向のりっぱな仁王門があり、さらに中門をくぐると右手に本堂が東
向きに建っている。




 広い境内にはりっぱな植栽がよく整えられ、多くの石像や庭石などが配されている。
     


 本堂に参拝後、左手の門を入って本堂背後に回ると、さらに良く整えられた庭園が広が
り、モミジやススキ、多くの庭石や灯ろう、石像などがある。






 それらの間を一巡する遊歩道が巡らされ、玉川上水の分流らしい流れもある。
     


 境内東南側には、その流れを生かした趣ある池も設けられ、そばのジュウガツザクラが
咲き出していた。


 池の前から南側に出ると広大の墓地になっていて、手前南西側に小川村の開拓と馬継場
(うまつぎば)基礎を確立したという小川九郎兵衛墓がある。
     


 中門の東側にある鐘楼も確認して小川寺を後にした。


 そばの手押し信号で青梅街道の北側に回り、すぐ西側のうっそうとした鎮守の森に祭ら
れた小平神明宮に入る。
     
 小川神明宮は、明暦2(1656)年、「逃げ水の里」といわれた不住の地に、開発の
ため移住した人々の守護神として阿豆佐味天神社(西多摩郡瑞穂町)の別宮から選祀し鎮
座されたとか。
     
 鳥居を入ると、100m余りの長い参道は武蔵野特有のケヤキ、エノキ、ムクなどの広
葉樹におおわれ、何本かのケヤキが市の保存樹木に指定されていた。


 正面の本堂に参拝してから境内を一巡する。右手には八幡神社、八雲神社、春日神社を
祀る東殿があり、他に幾つもの建物がある。

     
 拝殿の西側には小平市保存樹木の大イチョウがまだ緑いっぱいの葉を広げ、その下に神
米として奉納されたらしいワラがはさ木に干されていた。

     
 参道の途中には、水の恵みに感謝する「御井神 水波能売神」の額のかかる小さい祠が
祀られ、傍らから地下125mの水脈からくみあげた清水が流れ出ていた。
         

 境内の東側、園児の歓声の絶えない小平神明幼稚園を見ながらが参道を鳥居際まで戻る
と、りっぱな小川村開拓碑が立っているが碑文は判読しがたい。
     

 鳥居際には日露戦役の戦歿者慰霊顕彰と従軍者顕彰という戦捷記念碑があり、碑文は乃
木希典大将と思われる希典書と刻まれている。
      

 青梅街道を小平上宿交差点まで戻り、さらに西進して小平消防署出張所交差点を右折し
て大ケヤキの横から北に延びてきたけやき通りに入る。西武新宿線の踏切を越えて栄町の
北側で野火止用水の橋際へ。

     
 橋の北東側には用水工夫像(ようすいこうふぞう)があり、通りの西側から流れを見下
ろし野火止用水左岸の遊歩道に入る。
     

 こちらも玉川上水の遊歩道同様、落葉広葉樹林下に歩きやすい土道になっている。
     

     
 少し先で流れは左折して南西へと向きを変えて暗きょとなり、暗きょの上を人工のせせ
らぎが設けられ、その一部にホタルを飼育するエリアもあった。
     

 500m余りで西武新宿線の高架下をくぐって青梅橋際へ。青梅橋は野火止用水を青梅
街道が横断するために架けられたもので、昭和38(1963)年に暗渠になったという。

 スタートしてゴールの東大和市駅はすぐ先、当時の駅名は青梅橋駅だった。13時39
分に着いた。


 駅の北側、青梅街道沿いの食堂で昼食をして、14時10分発上り電車に乗る。

(天気 快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 小平市(大半が立川
市と東大和市との市境)、歩数 16,100)




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残暑の中、石神井公園周辺をめぐる(東京・練馬)②

2020-08-31 18:42:50 | 江戸・東京を歩く
 2020年8月28日(金)〈続き〉

 三宝寺を出て、古くからの住宅地を西進して氷川神社に行く。応永年間(1394~
1428)に豊島氏が武蔵一の宮の分霊を祭って石神井城内に創建したといわれているよ
う。

 文明9(1477)年の石神井城落城後は、石神井郷の総鎮守として近郷5か村の人々
から崇敬されたとか。ここでも新型コロナウィルスに感染しないよう、さらに早期の終息
を祈り祈願した


 拝殿前には新嘗祭(にいなめさい)に奉納するための神饌田があり、間もなく出穂しそ
うに育っていた。



 境内には完成して間もないと思われる新しい儀式殿や、古くからの神楽殿もある。


 神社前を東に少し、三宝寺の背後からうっそうとした林間を北に入ると、フェンスで囲
まれた一角がある。東京都史跡「石神井城址」の中でも特に土塁や空堀などの文化財の保
存状態のよいところなので、保護しているようだ。

 このあたりは石神井城の中心内郭跡のよう。石神井城は平安末期から室町中期まで、現
在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などや周辺まで勢
力を持っていた豊島氏の居城の一つで、築城は鎌倉後期と考えられ、文明9(1477)
年に太田道灌に攻められ落城し、廃城になったという。


 フェンス沿いに北に下り三宝寺池の東南岸に出た。斜面下には「石神井城址」碑や「石
神井城跡」の説明パネルなどがある。



 池の東側にあるうっそうとした中の島などを見ながら南岸の遊歩道を西進する。
     

 中の島を中心とする三宝寺池の植物群落群は、「三宝寺池沼沢(しょうたく)植物群落」
として国の天然記念物に指定されている。
     


 三宝寺池にもカモがあちこちに見られ、中の島際に繁茂するコウホネが少しだけ咲き残
っていた。







 南岸の中央部近くには小さな社殿の水神社が祭られていた。その先の倒木にはアオサギ
がじっと立ち止まり動かずにいる。


     


 南西端近くで池に突き出した一角には朱塗りの社殿の厳島神社と浮見堂がある。


 厳島神社の前に幹を傾けて立つアカマツは、大正9年9月26日に行啓された大正天皇
のお手植えのよう。


 そばにある三宝寺池の説明パネル。この辺りからの豊富な樹木に囲まれた池の眺めは、
東京二十三区内とは思えぬ景観である。





 池の南西端からさらに北へ伸びる周遊路を、厳島神社や浮見堂などを眺めながらを進む。

 
 三宝寺池の西北端でもう一度池をふり返り周遊路を離れた。北斜面を上がり、区立「石
神井松の風文化火公園」に南端の門から入った。

 ここは、かつて日本銀行の運動場だったところ。2008年に練馬区で購入して2014
年4月に区立公園として開園したもの。園内には天然芝の多目的広場や、花と木立の広場、
松林の広場、テニスコート場、ふるさと文化館分室もある管理棟などがある。


 南側の花と木立の広場近くの一角は、気象庁のアメダス練馬観測所。都内には8か所の
観測所があるが、ここ練馬の観測地はそれらの中でも高温を観測することで知られている。
     
 12時40分頃撮ったのだが、帰宅後調べたら12時に32.8℃、13時に33.2
℃を記録していたので、33℃前後の残暑の中を通過したことになる。


 このあと管理棟内にある石神井公園ふるさと文化館分室に入り、近くに住んでいた作家
の檀一雄や五味康祐など、練馬区ゆかりの文化人の紹介パネルや作品、年表、写真などを
観覧した(撮影禁止)。


     
 公園の北側に回り松林の広場とテニスコート場の間を進み、都道8号・富士街道に面し
た正門から松の風文化公園を後にした。


 石神井郵便局の西側の通りを北北西へ、石神井台3丁目から東大泉5丁目へと住宅地を
抜ける。
     

 13時28分に隣の大泉学園駅前に着いた。駅前で昼食を済ませ、13時58分発所沢
行き下り電車に乗る。


 (天気 晴、距離 5.5㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、歩行地 練馬区、歩数
 12,500)



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残暑の中、石神井公園周辺をめぐる(東京・練馬)①

2020-08-30 17:57:02 | 江戸・東京を歩く
 2020年8月28日(金)

 今日は、西武池袋線と新宿線の練馬区内の5駅限定で発売された「記念乗車券 あり
がとう!としまえん」を購入のため、池袋線の石神井(しゃくじい)公園駅に行く。

 9時半を過ぎたので売り切れを心配したがまだ残っていたので購入し、久しぶりに都内
に来たのだがら、何度も訪れてはいるが都立石神井公園周辺を回ることにして、9時47
分に南口をスタートした。


 駅の東側から南へ、拡幅して広くなった道路を緩やかに下り稲荷神社に入る。



 コンクリート造りの拝殿の前に、「ねりまの名木」に指定されたシラカシが立っている。
シラカシとしては区内でも最大級の大きさのようで、樹高18m、幹回り3.8mという。
     

 神社前のY字路を南西に少しで都立石神井公園の東端へ。


 西へ向かって細長い石神井池(ボート池)が伸びているが東岸はカヤなどが視界を遮り、
その一角にパンパスグラス(シロガネヨシ)やフヨウが咲いていた。
     



 南岸を少しで、カヤなどの向こうにボート乗り場にスワンボートなどが望まれる。


 南岸沿いの北向き斜面には伸び伸びと枝を伸ばした樹林が続いている。



 池を眺めながら西へと南岸縁の遊歩道進む。






 ラクウショウとメタセコイアの立ち並ぶ辺りを過ぎると、池の中ほどに中の島がある。

 島に入るには二つの橋があるが、この橋は石神井支所近くに私の最初の職場があった
1950年代前半から変わらぬ姿を見せている。


 中の島の南側には野外ステージがあり、昨夜のNHKBS「ぶらり日本鉄道旅」の西武
池袋線沿線を紹介する旅の最後近くに登場していた。下の写真は8月29日(土)朝の再
放送から。



 池にはあちこちでカモが泳ぎ、西端近くまで進むとコンクリート製の彫刻が立っている。
     

 この辺りで池を離れて南側斜面上に見えた稲荷諏訪合神社に向かって上がり、新型コロ
ナウイルスに感染しないよう、さらに早期の終息を祈願する。



 そばの練馬区立「石神井公園ふるさと文化館」も何度か訪れているが入館し、2階の常
設展示室と区民の作品展示コーナーなどを一巡して観覧した(企画展示以外は入館無料)。



 30分ほど観覧して東側入口から出た。

 東側には区立「池淵(いけぶち)史跡公園」がある。公園は、練馬区登録史跡「池淵遺
跡」を埋め戻して保存整備したもの。遺跡では旧石器時代の石器ブロックや、縄文・弥生
時代の竪穴住居跡↓、中世の溝の跡などが発見されたという。



 公園内で目につくのが練馬区指定文化財の「旧内田家住宅」で、中村3丁目にあったか
やぶき住宅が遺跡復元されていて、住宅に入って内部も観覧できる。


     
 園路沿いには、区内の各所にあった庚申塔や馬頭観音など江戸時代の石造物が何基か配
置されていた。
     

 史跡公園を一巡後、ふるさと文化館内を抜けて西側の都道444号線側に出る。文化館
の建物の西北側にあった彫刻。
     

 都道を横断して古い民家の間などを回り、西南側にある道場寺(どうじょうじ)へ。以
前は開いていたた山門は、新型コロナウイルスの影響か閉じていたので右手から入る。


 道場寺は、文中元(1372)年に石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が
建立したもので、輝時は自分の土地を寺に寄付して豊島氏の菩提寺としたと伝えられてい
るよう。武蔵野三十三観音霊場の第2番霊場である。


 山門の左手に立つ三重塔内には、人間国宝の香取正彦作の金剛薬師如来が置かれ、台座
にはスリランカから拝受した仏舎利が納められているという。
     

 境内にはモミジやアカマツなどが多く、豊富な緑陰が暑い日差しを遮ってくれている。


 門前の通りは交通量が多いが、歩道は南側の石神井小側のみ。車に注意しながら西に少
し進むと武蔵野三十三観音霊場第3番霊場の三宝寺(さんぽうじ)である。


 三宝寺は、応永元(1394)年に創建され、石神井城主豊島氏からの帰依(きえ)を
受けていたとか。豊島氏滅亡後は徳川家康などの保護を受けて発展したという。


 どっしりした山門は御成門で、寛永2(1625)年と正保元(1644)年に徳川家
光が狩猟の際に当山が休憩所となったことから、この山門を御成門と称するようになった
とか。

 現在の御成門は文政10(1827)年の完成、2度の火災にも難を逃れ当山第1の古
建築であるとともに、当地方でまれに見る優れた山門として練馬区登録有形文化財になっ
ている。


 山門を入り左手のお堂は大黒堂と千体地蔵堂。上階の大黒堂は何度か見ていたが、左手
階段を下った下に千体地蔵堂があるのは知らなかった。


 パネルを見て初めて知り、千体地蔵堂に入る。堂内左手中央に比較的新しい地蔵尊が祭
られ、背後には極彩色の極楽図と地獄図らしいのが描かれている。


      小さな千体地蔵尊はその両側に祭られていた。
     

 大黒堂前には「ねりまの名木」に選定された樹高17m、幹回り2.5mのアカマツと、
樹高10m、幹回り1.5mのサルスベリが立っている。

     
正面の本堂に参拝後、左手階段を上がって多宝塔にも参拝する。階段のそばには、天明
元(1781)年造立という高い台座の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が目につく。
         


 階段下から多宝塔周辺に点在する「四国八十八か所お砂踏霊場」の間を進み、本堂の左
手背後に回ると弘法大師を祭る大師堂がある。



 御成門に近い鐘楼堂のそばには、フヨウやアジサイ、ハナトラノオなどが咲いていた。





 境内東南側にある長屋門は、もとは勝海舟邸の屋敷門だったようで、新しい「海舟書屋」
の掲額があった。 


                                     (続く)




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有楽町駅から京橋を経て東京駅八重洲口へ(東京)

2020-07-03 20:51:20 | 江戸・東京を歩く
 2020年7月2日(木)

 8日前の6月24日(水)に続き、今日も午前中に東京・品川駅東口の歯科医院へ定期
検診に出かけ、歯石除去や研磨処置などをしてもらいました。

 検診のお知らせは3月上旬に届いていたのだが、新型コロナウィルスの感染拡大中でし
ばらく行くのをためらい、そろそろと思ったら治療を要する歯が見つかり先週はその治療
に出かけ、ようやく今日定期検診を受けることが出来たという次第。

 正午頃に治療を終えて品川駅からJR山手線で有楽町駅まで行き、東口から東京駅八重
洲口方面に向かいます。

 東口にある交通会館の東北側にあった植え込みに、アジサイのような花がいっぱい。


    

 銀座通りに出て、銀在一丁目交差点から二丁目方面の様子。


 これから向かう京橋方向は。


      上を首都高が走る京橋交番際に立つ古い京橋の親柱(おやばしら)。
     
 京橋は、慶長8(1603)年の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられた
と伝えられる歴史ある橋とのこと。

 昭和38年(1963)~40(1965)年にかけての京橋川の埋め立て工事に伴い
撤去されたのだが、この石像の親柱はその名残を留めるものとして残されたもので、明治
8(1875)年に石造アーチ橋に架け替えられたときのもののよう。
     

 通りの反対側、警察博物館側の高速道路下に残されているのは、石及びコンクリート造
りの親柱で、大正11(1922)年の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた
時のものとか。
     

 この二つの親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることが出来る貴重な建造物として、
中央区民文化財に登録されているようです。

 もと京橋が架かっていた首都高下を抜けた北西側にある、東京スクエアガーデンと呼ぶ
高層ビルには、3階から5階までの張り出し部分にたくさんの樹木など植え込みが。


     

 そのビルの交差点側1・2階には、登山用品などアウトドア総合メーカー・モンベルの
東京京橋店があり、その1階に入りました。


 目的は、最近の新聞記事で目についた軽くて頑丈な折りたたみ傘を購入すること。すぐ
に見つかり、自分のと連れ合い用に2本買い求めました(下の写真は帰宅後撮影)。
    

 店を出て、京橋交差点際からふり返るビルの下層。



 
 交差点近くのこのビル敷地には、アジサイの大きな株が数本、花を競っていました。








 ビル沿いに左折して鍛冶橋通りを進むと、正面入口近くにメダリオン(楕円形の装飾物)
と呼ぶ変わったものが。

 いつもは通りの向こう側から気になりながら眺めていたので何か分からなかったのです
が、傍らに裏面に説明があることが記されていたので回ってみました。

 裏面には、この周辺の古い写真や広重の絵などが焼き付けられていたので、それらを撮
りました。



 復興とは、大正12(1923)年の関東大震災からの復興のよう。



 最後は、この場所に以前立っていた片倉館の写真。右の写真上部にあるのが前面のメダ
リオン。


 この地には片倉製糸紡績株式会社(現片倉工業(株))の本社ビル「片倉館」が大正11
年(1922)年に1期工事が完成し、その後増築も行われて平成22(2010)年ま
で使用されたとのこと。

 表面のメダリオンは、「片倉館の正面玄関付近に用いられていた実物を取り外し、地域
の歴史を語る資料として保存した」ことなどが記されていました。

     

 その横が東京スクエアガーデンの表玄関。


 次の交差点で反対側に渡って、ふり返り見る東京スクエアガーデンビル。モンベルのほ
か、ブリジストン本社もあるようです。
     

 その先の鍛冶橋交差点からは、JR東海道新幹線などの高架の向こうに東京国際フォー
ラムが望まれます。


 その左手には、JR有楽町駅東口の東京交通会館(真ん中)などが。
     

 鍛冶橋交差点の北西側、JR線路との間にあるパシフィックセンチュリープレイスと呼
ばれる31階建てビルの南側敷地一帯は豊富な緑地になっています。  
     




 その横から東京駅八重洲口一帯にある広い地下街に下りて、時々利用している「おらが
蕎麦」店に入り、旨辛(うまから)牛肉そばを注文して昼食としました。
          

    

 13時49分頃、JR東京駅4番線から山手線内回り電車で池袋方面に向かいました。


 きのうの東京都の新型コロナウィルス感染者は67人と発表されていたので、都内に出
かけでも大丈夫だろうかと気になりながら行ったのですが、帰宅して今日はさらに40人
も多い107人の感染者とのこと。この後しばらくは、よほどの用事が無ければ都内に行
くのは遠慮したいと思います。




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芝浦中央公園から高輪ゲートウェイ駅へ(東京・港区)

2020-06-25 21:37:40 | 江戸・東京を歩く
 2020年6月24日(水)

 今日は3月17日(水)以来、実に99日ぶりに東京都内に出かけました。

 いや、東京都内はおろか市外に出かけたのもこの日以来で、3か月以上も電車など交通
機関を全く利用しなかったのは、私がまだ埼玉県中部の寒村に住んでいた1952年1月
か2月以来実に68年ぶりのこと。新型コロナウィルスがいかに大きな影響を与えている
かが分かります。

 新型コロナウィルスの感染拡大防止で都県を越えた移動の自粛が続いていたのが、先週
の19日に解除されたので、20年以上前から通っている品川駅東口の歯科医院に治療に
行くのが目的です。当時の職場が近くにあり、それ以来お世話になっているのです。

 正午前に治療を終え、久しぶりに北側の公園を抜けて3月に開通した新しい駅、高輪ゲ
ートウェイ駅に向かうことにしました。


 JR品川駅東口近くまで戻り、そばのNTT東日本のビル横を北に向かいます。通りの
街路樹はこのような白い細かな花の木が並んでいます。



 通りを突き当たりまで進み、品川シーズンテラスと呼ぶ2つのビルの間を北に抜けます。


      線路側の西側に立つ変わったビルはアネックスと呼ぶ建物。
     

 正面のタワーと呼ぶ高層ビルルの背後に出ると、イベント広場と呼ぶ緑地が。

 この広場の下は芝浦水再生センターで、1931(昭和6)年から稼働している下水道
施設のよう。


 都心に残る貴重な空間となった水再生センターの上部を活用するため、日本で初めて下
水道施設と上部のオフィスビル品川シーズンテラス・広場を一体的に整備したようです。

 イベント広場の北西側一角にある湿性花園周辺から。


 西側に立つビル・アネックスの北側には、イベント広場に平行して港区立芝浦中央公園
があり、その間にシーズンプロムナードと呼ぶ遊歩道が北に延びています。


 そのシーズンプロムナード沿いには、アガパンサスが咲き出していました。


    

 芝浦中央公園に回り、南側から北へと進みます。





 園路沿いにはアジサイやアベリアなどが咲いていました。


 北西側からのタワー方面の眺め。


     周辺のヒマワリも咲き出しました。
    

 芝浦中央公園が東に折れる辺りからの北西側の眺め。


      ふり返るタワー側。
     

 右折して東に向かいました。管理事務所前に咲くヒャクニチソウ。


 その先にはバラ園があり、まだかなりのバラが咲き残っています。




    










 少し先で遊歩道は左折して北に向かいます。その東側には子供用遊具やベンチなども。


 芝浦中央公園の北端ゲートからの田町方面のビル群。


 公園を出たゲートの両側には、水再生センターの施設群が並んでいます。




 ゲートの向こうに横切る高架は、JR東海の東海道新幹線用車両基地に延びる線路。


 その下は運河になっていて、その橋を渡って西側の線路際に向かいます。
     

 線路際から、東海道新幹線や上野東京ライン、山手線、京浜東北線などたくさんの線路
の下を西に抜けるおよそ300mを越える長い地下道があります。その東側入口。


 20年以上前、私が品川の職場から田町近くの得意先に行くときによく通過した地下道
で、当時は自動車も通過できて歩道はわずかでしたが、現在は周辺の再開発中で、その工
事の一環で自動車は通行できず、歩行者も片側のみの通行になっていました。

 天井高がおよそ170㎝前後なので、160㎝台前半の私は立ったままで通過できます
が、背の高い人は頭か腰を曲げないと通過できません。

 西側出口が見えてきました。


 こちら側には『東海道線(22)高輪ガード』の表示がありました。


 少しカーブしながら上がり、国道15号・第1京浜に出た右手は国史跡の高輪大木戸跡
(たかなわおおきどあと)が残されています。
     
 江戸中期の宝永7(1710)年に芝口門に建てられたのが起源で、享保9(1724)
年に現在地に移されたよう。
     
 江戸の南の入口として、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は
閉めて通行止めにして治安維持と交通規制の機能を持っていたとか。

 東京に残された数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要なもののよう
です。

 第1京浜を南へ、品川方面に向かいます。


 次の交差点を右折した西側突き当たりは泉岳寺です。


 反対の東に折れて、再開発工事中の一角を線路際まです進むと、すぐ南側が3月14日
(土)に開通した山手線と京浜東北線の新駅・高輪ゲートウェイ駅です。




 駅入り口へはエスカレーターか階段で上がります。
     





 正面の改札口

 
 山手線の1・2番ホーム北端から田町駅方向。


     


 1番線から東京・池袋方面に向かいました。  
 




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多摩湖南岸に広がる狭山丘陵を歩く(東京・東大和)

2020-03-19 16:54:32 | 江戸・東京を歩く
 2020年3月17日(火)

 相変わらず毎日のニュースの中心は新型コロナウィルスで、外出もままならぬ日が続く。
今日は2週間ぶりに市外へ、少しだけ電車に乗ってのウオーキングに出かけることにした。

 市外と行っても、わが所沢市からは、都県境の狭山丘陵を超えた南側、2月24日(月)
に歩いた東村山市の西側になる。

 西所沢駅から西武狭山線、西武山口線、西武多摩湖線と乗り継いで5駅、駅間距離では
8.1㎞の武蔵大和(むさしやまと)駅に10時07分に下りた。


 3分後に出発して駅下のコンビニで弁当を求め、都道123号・東村山東大和線を西へ。
線路敷きの築堤斜面にナノハナとショカッサイが花開く。


 都立狭山公園の南端で多摩湖自転車歩行者道を横切り、前川を渡る。左岸上流の民家に
色濃い桜が咲いていた。


 貯水池入口交差点際に、狭山三十三観音霊場15番札所の清水観音堂があるが、柵があ
り入れない。

 狭山観音霊場は狭山丘陵付近に点在し、一説には天明8(1788)年に創設されたと
いわれているようだ。


 近くに、昭和時代から続いているかと思われる小さなたばこ屋さんが残っていた。その
先には、ユニークな建物の豆腐店がある。


 狭山三丁目交差点で都道に分かれ、住宅地を西北に進む。民家の庭先にスイセンがきれ
いな彩り。


 間もなく、真言宗智山派、圓乗院のどっしりした山門前に着いた。

 圓乗院の創建当時の古記録は焼失しているようだが、歴代塔には、賢誉法印(平治元
(1159)年没)を始祖とする記録があるとか。鐘楼門は寛延2(1749)年の造立
という。

 鐘楼門を入ると、花に飾られた可愛らしいお地蔵さんが数体迎えてくれた。
         

 境内はよく手入れされた植栽に囲まれ、さらに階段を上がった正面にコンクリート造り
の本堂が構え立つ。


 境内斜面には、お釈迦様↓、仏足石、聖観音像など.何れもきれいな花で飾られていた。
     

 本堂左手前には平安時代に真言宗を再興した興教大師像が、さらに左手斜面には、たく
さんのお地蔵さんが並んでいる。


    
 その横のソメイヨシノが咲き出した木の下を進み、西北に延びる豊富な雑木林の続く都
立東大和公園に入る。
     
 東大和公園は、宅地開発から守ろうとした地元住民による自然保護活動により残された
貴重な場所。都立公園では初めての丘陵地公園として、昭和54(1979)年に開園し
たという。
     
 園内は起伏に富み、コナラ、アカマツを主体とする雑木林で覆われ、広さは約20㏊と
のこと。

  いまはまだ枯れ枝だが、間もなく芽吹きが始まりそうな落葉広葉樹林に遊歩道が延び
ている。

 このような狭山丘陵の雑木林では昔から、15~20年に1回のサイクルで伐採し、薪
(まき)などの材料に活用していた。

 その切り株からは新しい目が再生するので森林資源を持続的に利用でき、これを「萌芽
更新(ほうがこうしん)」と呼び、この森でも続けられているよう。入ってすぐ、昭和61
(1986)年度更新の立て札がある。
     

 よく手入れされた林の下には陽が差し込み、可愛らしいウグイスカグラが咲き出した。 



 分岐点を北に進むと、アカマツの多いアカマツ広場である。
     


 分岐点に戻り緩やかに下り、森の遊び場と呼ぶ子供用遊具のある一角が東大和公園の西
端になる。


 公園の案内板近くには、数本のヒュウガミズキやサンシュユが咲いていた。
    

 東大和公園の西側に接して二ッ池公園がある。広さは約3,000㎡で、池は前川の源流
部で、昭和30(1955)年代前半までは周辺にあった「狭山田んぼ」の用水だったと
か。水田がなくなった後、昭和53(1978)年に公園として生まれ変わったという。


 池の東側の広場のクヌギが、たくさんの花を付けていた。



 池の南西側斜面には、アセビが花開く。
    

 湖畔二丁目の住宅地の南側を西進し、陸橋の諏訪山橋下を南に抜ける。奈良橋川を渡っ
て都道5号・青梅街道の奈良橋交差点に出て、住宅地の中を西北に進んで再び奈良橋川を
渡る。


 庭先にびっしりとアセビの咲く民家前を過ぎると、山すそに立つ雲性寺が見えてきた。

 雲性寺は永享11(1439)年に堂宇建立と伝えられ、山門は箱根本陣の一の門とし
て使われていたものをもらい受け、昭和26(1951)年に設置したとか。

 山門下には庚申塔や馬頭観世音塔、板東・秩父・西国百ヵ所巡礼供養塔などが立ち並ぶ。

 馬頭観世音塔は寛政9(1797)年、百ヵ所巡礼供養塔は明和9(1772)年と刻
まれていた。


 本堂の中には、正徳6(1716)年造立で珍しい形の庚申塔が安置されていて、「阿
字庚申」と呼ばれているという。


 本堂の右手、庫裡(くり)前の植え込みにはたくさんのボタンが並び、芽がかなり膨ら
んでいた。
         

 本堂の左手に狭山三十三観音霊場18番札所の観音堂があり、、本尊は十一面観世音菩
薩のよう。

観音堂は、昭和26(1951)年に所沢市山口の仏像院から譲り受けて改修したという。

 観音堂前から西側の通りに出た。火の見やぐらの立つ三差路から、すぐ先の三差路を北
に進んで東大和市立郷土博物館前へ。

 だが、博物館は新型コロナウィルスの感染拡大防止で、ほかの多くの施設と同様に休館
していた。

 館の敷地南東道路際に、「いのしし」という野外彫刻の展示がある。
     
 狭山丘陵では昔、イノシシに多くの作物が荒らされていて、江戸時代には大がかりなし
し退治も行われていたようで、それらのことを伝える「東大和のよもやまばなし」から、
イノシシをイメージする作品として平成6(1994)年に制作したという。

 東側の道路を北へ、博物館の背後から階段を上がり、北側に祭られた八幡神社に向かう。

 神社の手前の大和八幡幼稚園では、幼児の元気な声が響く。その横を進んだ突き当たり
の森が八幡神社である。


 八幡神社の創立年代は不詳のようだが、太古より鎮守と公称し、天正3(1575)年
に再興と記されているよう。

 境内は杉などの豊富な樹林に囲まれていて、典型的な鎮守の森の雰囲気を残している。

 拝殿の右手にある小屋に、神社入口の階段横にあったという樹齢約270年と推定され
る杉の大木の根が保存されていた。


 近くの杉木立の中に、市史跡「八幡谷戸遺跡」の説明板があり、昭和53(1978)
年の調査で、縄文時代中期の土器や石器、竪穴式住居跡が良好に保存されていることが分
かったと記されていた。
     


 参道を南に戻り、そばの林に入ると、目の前が開けて展望台があった。郷土博物館の屋
上で、ロープが張ってあったが入り、南面から西側にかけての展望を一望した。


 その辺りから西に広がる森林一帯は市立狭山緑地で、ボランティアによる管理が行われ、
ヤマユリやリンドウなども咲くという。

 市立狭山緑地は、土地所有者から土地を借用する方式で開園し、少しずつ公有地化する
よう事業を進めているようだ。

 緑地内には、狭山丘陵の自然を生かした木道や園路が約1,500mにわたり整備され、
散策できるようになっている。
     
 その遊歩道を西に向かう。案内図が何か所かあり、分岐点には道標も立ち、現在地がど
こか確認できる。ベンチなどの置かれた広場も幾つかあった。


          

 少し進んで緩やかな階段を上がると、上部はよく手入れされたモウソウ竹の竹林。
     


 その先は休憩広場で、南西側に熊野神社への道標があったので少し南側に下って神社に
行く。

 熊野神社の創建時期は不明のようだが、古文書によれば16世紀~17世紀には、この
地に社殿があったと記されているとか。


 境内には力比べに使われた3つの力石があり、重さは75㎏、96㎏、121㎏だとい
う。


 高台なので、木立の少ない一角からは南西側の展望が得られる。


 休憩広場に戻り、木道の道を西北へと下る。下りきったところにも休憩広場があった。


 再び木道の上り道となり、登りきったところは「アカマツ広場」となっていたが、周囲
にアカマツは見られない。

     
 さらに南南西へと木道を下って上がり、道標に従い厳島神社に行くと、社殿は杉木立の
下にひっそりと建っていた。
     

 北側の広葉樹林の中には、芽吹きが始まった木も見られる。
 


 遊歩道の西南端には西口展望広場があり、南西から西方に大山(おおやま)から丹沢山
塊、そして奥多摩へとやや霞む山並みが望まれた。



 北に少しの西口広場で遊歩道は終わり、多摩湖南面を東西に走る多摩湖自転車歩行者道
に入る。



 車道の上をまたぐ豊島橋を進み、その先の休憩舎に13時11分に着き、昼食とする。


 そばのモミジも芽吹きが見られた。
 

 北側の三差路で多摩湖自転車歩行者道に分かれた。多摩湖の2つの貯水池の間を走る車
道を下り、上の貯水池の堰堤(えんてい)際に新しく設けられた自転車と歩行者専用道へ。

 東側には下の貯水池の湖面や、西武遊園地の大観覧車など↑が望まれる。


 上の貯水池の取水塔が間近に望まれ、湖面西方には奥多摩の山並みが見える。


 東北側には埼玉西武ライオンズの本拠地、メットライフドームの上部が。


 堰堤の北端まで進む。湖の北側を走る車道との交差点際に、東京市水道の恩人という中
島鋭治先生を称えた昭和11(1936)年建立の大きな石碑が立っていた。
     


 すぐ北、鹿島台交差点際の歩道には、紅白の桃が咲き出していた。
         

 道路の北側斜面に、崩れかけたかやぶき屋根の長屋門が見える。何度か見ているが立ち
寄ったことが無いので回ってみた。

 「慶性門」の掲額があり、かつて多摩湖上貯水池の西部にあった慶性院の山門という。

 寺院の門としては珍しい長屋門で、村山貯水池(多摩湖)の建設に伴い大正11(1922)
年に寺は現在地の芋窪に移転したが、山門はそのまま取り残され、昭和29(1954)
年にここに移転したよう。

 そのときの調査で、ケヤキの大柱らの墨書により、文久元(1861)年の建立と分か
ったとか。

 平成3(1991)年には東大和市が修復を行ったというが、以来すでに30年近く経
過しており、かやぶき屋根が崩れかけているのもうなづける。

 鹿島台交差点から北に向かって下り、埼玉西武ライオンズの第2球場や新しい建物の横
を進む。


 西側には、山口千手観音の山門や三重塔などが望まれたが、今日は立ち寄るのを省く。


 メットライフドームが間近の、西武狭山線と山口線の西武球場前駅に14時05分に着
いた。


(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 所沢、歩行地 東京・東大和市、埼玉・
 所沢市、歩数 14,100)




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府中市の「古戦場と学びの道」を歩く(東京・府中)(後半)

2020-03-06 16:27:40 | 江戸・東京を歩く
 2020年3月3日(火) (続き) 

 郷土の森公園での食事を終えて13時ちょうどに出発する。


 北西側の新田川緑道に入るところに、「アド街ック天国」で紹介された和菓子の青木屋
の、郷土の森工場売店があったので立ち寄る。

 ほかの店と同じ商品のほか、製造工程で出てしまった2等品を求めやすい価格で直売し
ているという。ミニバームショコラというアウトレット商品らしいものをひとつ購入した。

 売店の背後には、ここが菓子の工場とは思えぬ大規模な工場の建物が見えた。


 新田川緑道をサントリー武蔵野ビール工場のそばまで進んで西南西方向へと回り込む。



 南北に延びる下河原緑道のそばまで進み、芝間通りに入って北北東に向かい、サントリ
ー武蔵野工場の西門前を過ぎる。




 中央自動車道下を北に抜けると、すぐ先が都指定史跡の「三千人塚」。
     
 道路際に「府中の名木百選」の「三千人塚のエノキ」があり、ちょうど剪定(せんてい)
作業中だった。
     

 三千人塚は、江戸時代の地誌「武蔵名勝図絵」などにも紹介された由緒ある塚のよう。

 平成17(2005)年の調査で、元弘3年の分倍河原の合戦で亡くなった3千人の戦
死者を埋葬したという伝承とは関係なく、江戸時代に造られたものと分かったという。

          
 「府中の名木百選」のエノキは、樹高13.5m、幹囲2.5mあり、今は枯れ枝だが
枝を大きく伸ばして立っていた。

     
 市立南保育所前交差点を右折して東への遊歩道へ。ケヤキの古木が続き、中ほどに幼児
の「電車ごっこ」像があり、この道は軌道敷の跡地と記されている。
            
 もと国鉄東京競馬場線の廃線跡で、中央線の国分寺駅から東京競馬場前駅までの旅客線
があったが、武蔵野線の開業に伴い昭和48(1973)年3月末で廃止されたらしい。


 右手には矢崎町防災公園がある。一見普通の公園のようだが、園内には手押しポンプの
防災井戸、普段はベンチになっているかまどベンチ・スツール、災害用仮設トイレ、耐震
用貯水槽など災害時に役立つ設備が用意されているという。


 設定コースは、北へ進めばすぐ先に見える府中本町駅がゴールだが、まだ13時半過ぎ
なので、もう少し東側も回って府中本町駅に向かうことにした。

 JR南武線の下をくぐって線路の東側へ。駅から東京競馬場への高架橋下を抜けるとす
ぐ、競馬場の北西側に天台宗安養寺があった。

 安養寺は、川越の喜多院と同様に慈覚大師により開山されたとか。永仁4(1296)
年に勅命により再興され、江戸時代には寺領15石の朱印状を拝領し、末寺10数ヵ寺を
擁していたという。

 桜並木の参道を進み山門を入る。突き当たりは観音堂で、背後間近に東京競馬場の観覧
席が望まれる。

 本尊の観音菩薩は浅草寺の分体とか。多摩川三十三所観音霊場第5番札所である。 


     


 正面上部に大正8(1919)年奉納の新宿や浅草の商店や旅館の方々のものと、私が
生まれて間もない頃の大師講講中からの掲額が目に入る。     



 本堂は南向きで、そばに「府中の名木百選」で樹高18m、幹囲2.9mの「安養寺の
モミノキ」が立っていた。
     


 北側に隣接するのが真言宗豊山派の妙光院。小さい山門を入り、朱塗りの仁王門をくぐ
った正面が宝形造(ほうぎょうづくり)の本堂である。



 妙光院は真如法親王が貞観元(859)年に開山し、江戸時代には幕府からは寺領15
石の朱印状を拝領しており、当時は末寺20数ヵ寺を擁したとか。多摩八十八ヶ所観音霊
場第23番札所である。

 本堂の右手前には、やはり「府中の名木百選」に選定された樹高25m、幹囲3.9m
の「妙光院のイチョウ」が立っていた。

     
 本堂左手奥には金比羅堂↑があり、隣接して庫裡らし建物があるが、無人なのか閑散と
している。シダレウメの咲く横から山門を出た。


 北へと緩やかに上がり、西側の鳥居を入って大国魂(おおくにたま)神社へ。


 大国魂神社は、第12代景行天皇41(111)年創立という古社。大化の改新後に武
蔵国司が国内諸社の巡拝等により国内の諸神を祭ったので「武蔵総社」と称したとか。

 鎌倉幕府から江戸幕府に至るまでの代々には幕府の崇敬厚く、江戸時代には社領500
石の朱印状を拝領したという。


 拝殿は北向きで、拝殿右手には東京都酒造組合に加盟する9社の銘酒が奉納されていた。







 仁王門には、新型コロナウィルスの感染症予防の張り紙がある。
     
 仁王門を出ると、樹高20m、幹囲2.6mの「府中市の名木百選」に選定された「大
国魂神社のモミの木」が立っていた。
     

 仁王門の北東側にある鼓楼(ころう)は、嘉永7(1854)年の再建。太鼓で時を知
らせる建物で主として寺院に設けられているが、この鼓楼は当初の原型を保っていて、神
社では数少ない貴重な建物のよう。


     
 西側参道際にある寝殿造りの手水舎には、立派な彫刻が施されていて、ほかではあまり
見られない豪華な造り。


    

 手水舎の横から西に延びる六所口通りを進み、府中本町駅には14時25分にゴールし
た。


 今回のコースは、昨年11月17日(日)のカタツムリ歩行同窓会で訪ねたところもあ
るが、初めての場所もたくさん巡った。


 気づいたことは、府中市内には緑道や遊歩道が多いこと↑、緑道以外の一般道にも歩道
があり、さらに小さい公園でもトイレがあるなど、安心してウオーキングできる環境が整
っていることが感じられた。

 使用したウオーキングマップは、縮尺1万分の1なので2万5千分の1地形図にも表示
されていない細い道なども表示されていて、さらに街道や通り、遊歩道などの名、トイレ
の場所、交差点名など、歩く人のための情報がかなり細かく記されているので、大変使い
やすかった。

 そのマップには、また幾つものコースが紹介されているので、それらも歩いてみたい。

(天気 晴後快晴、距離 9㎞、地図 「府中市 水と緑のネットワーク ウオーキング・
 マップ」、歩行地 府中市、歩数 16,800)




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