あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戰雲を麾く 3 「 淳宮殿下の御學友に決定せり 」

2017年03月24日 13時55分24秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


広陵雌伏の三年
大正四年九月一日、
余は中学二年の中途にして
廣島陸軍地方幼年學校に轉じた。
 
廣島地方幼年學校   大正7年
そは生れて最初なる他郷遊學であつた。
余が心願は年を逐うて熱烈と深刻とを加へて行つた。
そして行持亦隨つて其の道を歩んだ。
成績は此処に於ても曾つてと異ることはなかつた。
喬木口に風が当る---「 陸軍乃公の専有 」 と自負せる長州出身者は烈しき迫害を加へた。
不法醜怪なる壓迫嘲罵排斥の言動は三年の間絶ゆることはなかつた。
夜など自習の休憩に心身を慰め思索に耽るべく、
或は月明を慕ひ 或は星光を追うて校庭を漫歩するとき、
忽如暗中に躍る鐵拳に頬を打たれ頭をなぐられしことも一再でなかつた。
運動時間に、或は棒倒しに 或は土俵占領に、故らなる暴行を受けしことも屈指に遑いとまない。
殊に居住言動の悉くが皆 余に對する讒そしる罵なりしことは
余をして限りなき憤情と共に憐憫れんびん哀愁を懐かしめた。
大正六年七月似島遊泳演習の一夕、余りの迫害と横暴とに堪へかねて悲憤、
敢然として五十余名の集團に赴かんとして二三の友に抑制せられ、
男泣きに泣いたることの如き終生忘れ得ぬ思ひ出である。
寂しき戰ひであつた。
三年の學を終へ、首席の故を以て皇太子台賜の銀時計を拝受するに決定發表の日
---大正七年七月八日の夕べ、
満々たる野心に孜々しし三年を努めて一空に歸せし長派三四の者等が、
余の面前に集りて憤叫怨嗟の限りなく、遂に或一人が余を罵詈ばりせしとき、
余は不肖實に其人に非ざるを慚愧ざんきすると共に、
功利的頽廢たいはい是の如く
荒涼たる人々の心を悲痛と寂寞せきばくの思ひに悵然たらざるを得なかつた。
さり乍ら、予の在広三年は黙々思索躬行の時であつた。
孤心寂寞の裡に、余は生來の志願に嚮上の道を辿つた。
學校文庫の蔵書は其の殆ど凡てを讀破した。
高等師範の圖書館には日曜毎に通つた。
私書携帯を犯して、書庫より求めし書を常に机に忍ばせて居た。
孤獨---げに痛ましき魂の戰ひが續けられた此の三年の中、
唯々一人の友たりしものは看護長中川春一氏であつた。
入校當時、足患の故に医務室に通つたことが二人相識る動機だつた。
氏は満洲守備當時をよく語つた。
大正五年内蒙の偉雄巴布札布將軍の討袁翻旗の痛烈なる論議より、
二人の交情は愈々深くなつた。
哲學を論じ、政治を論じ、國家を論じ、支那を説き大陸を説いた後、
二人は必ず革命を話題にし改造に言及した。
「 大正の靑年と帝國の前途 」 を余に示したのも氏だつた。
年齢二十の差も二人の交情の前に露と消えた。
さり乍ら官命止むことと得ず、氏は二年執臂との交を捨てて、北満公主領の病院に轉じた。
最後の一年の如何に寂しかりしよ。
卒業當時、北満より祝文を寄せたまゝ氏は消息を絶ってしまつた。
大正七年七月十日、三更の天に銀漢遠く北をさして流るゝいみじき壯美を仰嘆しつゝ、
顧みて三年孤獨生活裡に得たる尊貴なる體驗を懐みながら、
然も三年の行持伝統精神に背からざりしを感天謝地して午前二時四十七分廣島を去った。
首席---台賜、そは固より至極の榮誉である。
全國六校卒業生中最優の成績なりしとも伝へられた光榮は、至心の感喜でもあらう。
さり乍ら、余の心に於てそは何程のこともなかつた。
余は魂の戰ひに於ける苦闘に少くも克服の凱歌をあげ得しことを喜んだ。
現實に醜陋なる人々の心を知り得た。
屈せざりしことを自ら懐かしんだ。
充たし得ぬ心底を凝視し乍ら 又 哀愁に身慄ひして止まなかつた。
そして、五十日の休暇を故山の風光に浸り、双眼の慈愛に浴すべく、
鐡路東したのであつた。
歸省の途、余を襲ひし奇禍は、十二日払暁、
折からの暴風雨に原因せる鐵道線路の崩落---列車顚覆であつた。
三十余輛斜めに覆つた。
乗客大半の死傷に拘らず、余は寸分の受傷もなくして、
傾覆破壊せる列車の窓から飛び下りた。
台賜の包みと一個の信玄袋を提持---半里の鐵路を辿つて次の驛に到り
救援列車に移って故山に歸った。
歸郷の日時を豫報せざる余の習慣に過度の心遣りをする双親は、
此一大凶報に接して処置に苦しみ、
現場に出張して見るを可とせんかなど知人數氏と協議しつゝありし時、余は歸宅した。
台賜の光榮は余何等報ずる所なかりしを以て知る人なしと豫測せしに、
豈計らんや、數日前 吾故郷の新紙は余の冩眞を掲げて告ぐる所あつたといふ。
遭難と光榮とを併せ挨拶せられしとき、余は答ふるに言葉なかつた。
---將來の志願は余自身のみ之れを知る。
余の從來の學績を知る者凡てが余に期待する所は、功利榮達の將來である。
双親亦児に欣喜の情を賜はるにつけて、堪へられぬ心の辛さに獨り飲泣した。
今も尚、天才---立身榮達の世評と期待とは余の故郷に於ける人々の所有である。
嗚呼、何たる寂しさぞ。
唯々余は、兄を失ひて哀愁尚新たなる双親を喜ばしめし一事を、
儚はかなくも孝の一端と自ら心を慰めた。
 東京・陸軍中央幼年学校
在京の友より、
「 君 中央本科に入校の上は第二皇子 淳宮殿下の御學友に決定せり折自重 」
の 報を得て、宿年の希望に一縷いちるの光明を画きつゝ故山の風光に心身を養うた。

しかも、六月下旬より漸次勢をあげた 所謂米騒動は、八月に至つて滔天とうてんの勢を示し、
したがつて社會上下を擧げて非常の險惡を示すに至つた。
余は限りなき感慨と決意とを以て、それを眺めた。
八月二十九日、涼しき朝 風に吹かれて東上の列車に人となつた。
此月、終生初めての終りなる余が戀人より手紙を受取つた。
然し其日初めて、彼女の心に余を十年來慕へる思ありしを知つたのである。
其日までの余は彼女の心も知らず、ひとり戀ふて居たのである。
さり乍ら、其日其戀は喪そうせた。
切なる思ひを告白して、境遇の儘ならぬを訴へ、弱く悲しき心を綴つて居た。
然して余はいよいよ登髙向上の志に専念の鞭をうつて、或る決意を抱いた。
東上の朝、故山の風光を眺めつゝ一種の微笑を禁じ得なかつた。

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