あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・中島莞爾少尉

2021年03月09日 06時03分03秒 | 昭和維新に殉じた人達


中島莞爾 

昭和九年十月末日、

久留米の工兵第十八大隊より當地の津田沼鐡道第二聯隊に轉任、
當時より常々、陛下のお側の奸臣共を討たねばならんと考へて居りし事に附、氣分が新になつて來ました。
計畫と云ふものは、具體的には全くなかつたのであります。
殊に砲工學校に來ては兵は居らず、部隊外にあつたから全くなかつたと云っても差支へないのです。
栗原中尉 ( 歩一 )、村中、磯部等とは同郷關係とか學校關係とかにより比較的密接に交際して居りました。
安田少尉とは士官學校同期であり、同志であると云ふことは任官して文通して初めて判ったのであります。
士官候補生時代には、種々の考へを持ったものもあつた様です。
但し別々にして、
少なくとも私は一人で考へてをつたので他人迄言ふ程はつきりしませんでした。
安田とは、信念に於ては少なくとも無二の同期生位に考へて居りました。
村中氏とは、豫科の時は他の區隊長であつたから、種々の動作を見聞し立派な人だと考へました。
即ち武人的の人と考へましたが、その後次第に親しくなつて來て、
私と同じ信念を持つて居る人であるとし、先輩として敬して居りました。
栗原中尉とは同郷であり、戰車隊附であり、市川で家を持って居った關係上家にも出入し、
又その以前より栗原氏の事を種々聽いて居り、津田沼に來ても話合って同じ信念を持つて居る人であると言ふ事が判りました。
磯部氏と村中氏とは同じ程度知っております。
之れは十一月二十日事件前後、
村中氏の家にて會つて同じ信念を持つて居るものと考へました。
他には同志であめと云って特に交際したものはありません。
又、求めて實行の實を揚る爲に同志を求むる必要もなく、
必然的に此信念を持つて行けば 同志と期せずして一致すると云ふ時に達し、
何時かは實行の實を擧げらるるものだと考へて居りました。




二十五日
昼迄、學校に居って・・・兄を送って歸りましたら村中氏が留守宅に來て居りました。

安田も亦學校歸りに寄ることを約束して居ったので來て居りました。
此処で初めて今夜決行することを知りました。
時は午后四時三十分ころであります。
その時に私は 高橋大蔵大臣の私邸に行くと云ふことと、
取敢へず歩一栗原中尉の許に行くこと、
さすれば近歩三の中橋中尉も來るから判ること、
の三点丈聽いて居ったので、 夕食後午后七時頃、円タクで歩一の栗原中尉の許に行きました。
( 午后八時二十五分位前 ) 其処は歩一の機關銃隊事務室で中橋中尉を待つて居りました。
私は中橋中尉と行動を共にすることになって居るので、
中橋中尉が兵を持つて居るから 兵の配備等一切の具體的方法の計畫は中橋中尉に委せたので、
從って私は何も栗原中尉と相談する必要もなく、午後十一時頃迄中橋中尉を待つて居りました。
此処で中橋中尉は彈薬を六百發位受領しました。
それは誰から受領したかは判りませぬ。
拳銃は歩一に於て二六式一挺と彈薬五十發を渡されたが、
之は机の上に置いて誰が準備したか判らぬが多分栗原中尉と思ひます。
それから四人して近歩三の七中隊中橋中尉の中隊將校室に行き、
更に具體的の事に附 ( 高橋私邸の ) 約一時間話し合って
眠いので寝台上に横たはり 二時間足らず眠りました。

二十六日
午前四時一寸前に眼を醒し、四時三十分頃兵は整列しました。

中橋中尉は中隊長代理であるから自分の中隊を集めたのであります。
此時兵は非常呼集にて集合したのであります。
集合後、明治神宮参詣の爲と營門にて衛兵指令に中橋中尉が云ひました。
營門出發後、途中高橋邸との中間位にて ( 何發か不明 ) 實包を渡しまして行軍し 邸迄行きました。
此時初めて高橋蔵相をやつつけると云ふ事を兵一般に達しましたが、
下士官兵は沈着して一向に驚いた様ではありませんでした。
それで私は、 どの程度迄下士官兵に私達の信念が徹底されてあるかと内心心配して居りましたが、
此状態を見て安心しました。
即ち、私達の信念が中橋中尉により行届いて居ることを知ったからであります。
蔵相私邸に行き、私の分担である梯子をかけ、之を越して先づ巡査を説得せしめ、
玄關にて執事の如きものに案内させてグルグルと引廻して居りましたが、
やつと蔵相も居る処が判って、
中橋中尉は 「 國賊 」 と 叫びて拳銃を射ち、
私は軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました。
蔵相は一言 言うなりたる如くして別に言葉なく倒れました。
その他何等抵抗なく實行を終り、兵を纏めてその内約六十名を引率して首相官邸に行きました。
その時は午前五時二十分位と思ひます。
・・・挿入・・・
「 午前五時十分頃、細田警手は靑山東御殿通用門に勤務中、
 高橋蔵相私邸東脇道路より、將校一名・下士官二名が現れ、將校が同立番所に來て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』 と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同將校は引き返し、道路脇で手招きして着劍武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に竝べ、道路を遮斷し、經機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十數名が瞬間にして邸内に突入した 」 ・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聽こえ、銃聲が七、八發したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ經機を目立たせた意圖は明白である。
異變の出來を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる爲に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。實際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に經傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。
午前五時十分頃大蔵大臣を斃して門前に集合、
爾後突入部隊は中島少尉指揮し首相官邸に向ひ前進す。

・・・・・・
首相官邸には徒歩にて行き、五時四十分頃に着いたと思ひます。

その目的を達したらば首相官邸に集まることは中橋中尉から聽いて居りました。
中橋中尉は多分御守衛に行かれたものと思ひますが、その轉ははつきりは判りません。
首相官邸到着後は、此兵は部下でありませんから曹長をして待機の姿勢にあらしめ、
自分は單獨になり、
爾後、陸相、鐡相官邸等を往復して
兵の監督、庶務業務、傳令、 應對等に任じて十八日に至りました。

二十九日には
朝 「 ラジオ 」 を聽き、奉勅命令的のものが降ったと云ふ様な感がしましたが、
それは正式には私達には奉逹されなかつたので如何にす可きやを種々考へて、
未だ私達の使命は達せられないので、
飽迄之を達する迄生命の限り御奉公す可きであると考へ、自殺等の事はしませんでした。
又、私は部下を持ちませんが、 部下を持つて居る者は相當考へさせられて居った様であります。
私としては 今度の純眞に働いて呉れた者が叛亂の汚名を兵にきせるのは實に憤慨に堪へません。
且つ痛嘆に考へましたのは、賊軍の汚名を着せるのは可愛相と思ひ、兵を返した方がよいと思ひました。
實に下士官以下は、
私の信念を克ん考へて充分に働いて呉れるのは有難き強き日本軍人と考へられて涙に咽びましたが、
之等忠良なる人間に賊軍の汚名を着せるのが 氣の毒に堪へませんでした。
而して、未だ生きて居って御奉公せねばならんと考へて居るので、
今日に至って居るのであります。

・・・中島莞爾少尉の四日間 

私どもの蹶起趣意は國體の眞姿顯現に盡き、
北、西田に利用されて民主革命を企てたのではありません。
現在の國法には背いたかも知れませぬが、
建國三千年來の國體に背いたものではありません。
不義を知って打たざるは不忠なりと信じて奸臣を斬ったのであります。


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