麥屋清濟
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その頃私は三カ月の教育を修了して陸軍歩兵学校から帰隊した。
その時の聯隊長は井出宣時大佐で、帰隊直後本部の貴賓室で令旨の伝達が行なわれた。
これが所謂 「 粛軍の令書 」 で 陸軍騒擾危機を目前にして全軍を対象として下達されたものである。
当時 歩一、歩三には革新思想を抱く青年将校が多数あって、
青年将校運動の中心的存在として益々激化する事態にあった。
そこで 井出聯隊長は令旨の伝達があった数日後 (八月か九月頃と記憶) ひそかに私を呼び、
聯隊内の青年将校運動をスパイせよとの密令を下達した。
聯隊長としてはこのことについて大変心配されていてスパイの適任者を私に求めたのである。
私は受諾したものの同志を裏切ることはできないので、一度も報告したことはなかった。
そのうち第一師団の渡満が内定すると井出大佐は参謀本部軍事課長に栄転され、
後任にはハルピン特務機関長の渋谷三郎大佐が赴任してきた。
十二月二日付である。
渋谷聯隊長も、恐らく情報を把んでいるので青年将校運動には着任早々から頭を痛めていたことと思う。
当時青年将校の秘密会合は聯隊近くの竜土軒というフランス風の小料理屋が使用され、
私も二回ほど出席したが、昭和十一年に入ると謀議はいよいよ核心に入り白熱化した。
中でも蹶起にあたり問題となったのが下士官兵を参加させるか否かの重大事項で、
一部には将校だけで決行すべきだと主張する者もあったが
結論では兵を同行することに意見が一致した。
この理由は要するに---
大御心を実現するには軍隊をもって実施するのが当然である。
政道を正し、天皇道にするためには下士官兵をもあわせて一丸とならなければならない。
それ故 私兵化と見られようが天皇のために行動するのであるから
統帥権の干犯にはならない
---と するもので、この統一見解によって下士官兵の出動がきまったのである。
なお蹶起はあくまで君側の奸を除き昭和維新を断行するのが目的であって、
あとは天皇の命をまつという、かつての他国に発生したクーデターとは全く異質の蹶起である
ことを関係将校は皆承知していた。
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かくして 二月二十六日未明蹶起し、
第一中隊は第二中隊の参加兵を併せ指揮し、
午前五時 斉藤内府邸を襲撃した。
この時の私の任務は 最初誘導将校で、
現地到着後は突撃隊指揮官になる予定であった。
しかし赤坂附近にきた時、急に任務が変更された。
それは警官の姿が漸次目立ちはじめたので邸宅周辺の警戒配備、
殊に赤坂見附方向警視庁新撰組の出動に対応するMG二コ分隊の配置という 重要任務が生じたからで、
これを配備した後、突入することになったのである。
そこで早速状況判断の上MG陣地を決定し配備をすませた後
私邸に行き、邸外に待機中の一コ分隊を指揮して邸内に進入した。
屋内に入り奥深くまで進み階上にあがろうとした途端、 階上からけたたましいLGの音が響いてきた。
同時に婦人の声と共に悲痛なうめき声が聞こえた。
やがて階下に降りてきた坂井中尉は 「 状況終わりッ!」 と 叫び
重ねて 「 中隊は赤坂離宮北十字路に集結せよ 」 と 命令した。
全員が正門前に整列すると 坂井中尉は拳銃と共に鮮血滴る右手を薄闇の天高く掲げ
「 奸賊齋藤実を只今打ち取った。 昭和維新は日の出に輝く、日本国万歳!」
と 大音声を放った。
兵もこれに呼応し 万歳 を叫ぶ。
それからすぐ赤坂見附を目標に行進に移った。
私は先頭に立っていたが、この時全員はなお戦闘体制のままであった。
途中、市川野重隊の田中中尉指揮する軍用トラックに会い、
ここで中隊の編成替を行い、
高橋少尉、安田少尉 ( 砲工学校) が 約一コ小隊を指揮してトラックに分乗、
荻窪の渡辺教育総監の襲撃に向った。
あたりがようやく薄あかりになったので 私の方は急いで赤坂見附の交叉点に行く。
到着と同時に 見附台上に歩哨線を張り、 警備と交通遮断の任務についた。
この時、磯部、村中の両名から
「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」
という 強硬な指示を受けた。
以後 警備中私の所に見えた主なる人物は次のとうりである。
1 赤坂憲兵分隊長--同行した花田運転士(憲兵上等兵)
はその後熊谷憲兵分隊長となった人である。
2 山崎大尉--後にアッツ島で玉砕した人だが、
彼は指揮刀をさげ単身で私の所にきて
物凄い見幕で食ってかかり、そのまま歩哨線を突破していった。
3 石原大佐--チエックリストにある人物である。
彼は悠々と胸を張り歩哨線を突破しようとした。
この時新品少尉云々といったが 後の言葉は覚えていない。
只、維新をやるから通せといった事だけが印象深く頭に残っている。
そこで私は
「大佐殿、ここを通らないで軍人会館に行って下さい、 大佐殿のために御願いします。
ここを通れば射殺せねばなりません。
しかし小官にはどうしても射殺できぬ苦しみがあります。どうぞお察しください 」
と いうと 大佐は止むを得ん と いって私の歩哨線を避けて行かれた。 石原莞爾大佐
陸軍大臣告示
午後三時三十分、待望していた陸軍大臣告示がでた。
我々の蹶起の趣旨が天聴に達したことは、この行動が正しいものと御認め下されたものと
部隊将兵は感涙にむせびながら喜びあった。
この告示はひとり我々ばかりではなく、全陸軍にも伝達され、
陸軍省では早くも維新大詔の起草に着手し、
全国の大多数の将校は昭和維新の実現を期待する態度へと傾きかけた程であった。
我がこと成れり、
これで日本は再び安定した社会秩序が確立されるであろう。
今更に昭和維新断行の偉大さを反芻はんすうせずにはいられなかった。
こうして蹶起部隊は二十七日以後戒厳令施行に伴い、戒厳司令部命令をもって
歩兵第一聯隊小藤大佐の隷下にはいり、麹町附近の警備にあたるべしとの命令に従い
行動することになった。
この間 事件発生と時を同じくして、
村中大尉、磯部主計大尉、歩兵第一旅団香田大尉は
時の陸軍大臣川島大将を陸相官邸に詰問し 昭和維新断行を告げ、
速やかに宮中参内して事態の収拾に全力を尽すよう要請した。
その具体的かつ早急実施の昭和維新要項は次のとおりである。
真の大御心による国家の建設
a 軍制大権、政治大権、経済大権の即時奉還。
b 財閥の解体---これがため資産百万円以上の財産を凍結し生活におののく国民を救済する。
c 軍需産業、独占企業の国家管理。
d 皇族一親等以外の臣籍降下。
e 華族制度の改廃、功績に応じ一代制とする。
f 寺内、林、小磯各大将及び片倉少佐の即時罷免。
だが 我々の要旨とは裏腹に事態は漸次逆方向に推移し、
二十八日になると午前八時に奉勅命令が出された。
この内容は蹶起部隊の原隊復帰を命じたものであったが、
どういうわけか我々には伝達されなかった。
この辺の事情は謎となっているので私にもよく解らないが、途中で握り潰されたものと思われる。
その理由を述べれば、部内の一部に反対者がいたからで、
それは当時第一師団長の堀丈夫中将が部下歩一、歩三の将兵を見殺しにできず、
そのため部下と運命を共にするとの考えに移行したためとみられる。
そこで第一師団は先ず 全力をあげて近衛師団を攻撃する構想をたて、
これを巡って二十八日から二十九日朝まで、
鎮圧軍内部は混乱と錯綜が渦を巻き想像を絶するものがあったという。
この事は 当時我が方に情報として入手もしていたし、後の公判にも出てきたので確かな事実だ。
また 陸軍大臣告示を出しておきながら二日後には反乱軍ときめつけては
蹶起部隊を激昂させ事態収拾はかえって困難になる。
それを承知で伝達する使者など、引受け手がいないというのが筋のようであった。
だから我々には正式な命令など最後まで接することはなかったのである。
それよりも陸軍上層部の考えは、事態がこのようになっては
最早や蹶起部隊全将校に自決してもらう以外になく、
それが国民に対して軍の威信を保持する最良の方法だと割切っていたようだ。
・
午後になると益々周囲が物々しくなり、各地から上京してきた部隊が我々を包囲し
今にも攻撃してくる気配を示してきた。
今や我々は完全に色分けされ、彼等は鎮圧軍、当方は反乱軍と化したのである。
奉勅命令を知らぬ我が方は相手があまりの高圧的な態度に出てきたため怒りがこみあげ、
やるならやってみろと全員戦死を覚悟で陣地についた。
緊張した一夜を明かし二十九日朝を迎えると、各所からスピーカーが鳴り出し
上空からは飛行機が盛んにビラを撒布した。
最早や 抵抗の余地はなくなった。
順逆の理は度外視され、奉勅命令に従う他に道はない。
これに反抗すれば逆賊になるだけだ。
もう何もかも終りである。
昭和維新がガタガタと崩れてゆく。
私の警備地区たる三宅坂一帯、陸相官邸を中心に布陣した蹶起部隊の最後の秋はきた。
この場に臨み宮城を背にした陣形の中で我々三人の将校は、
各要所の歩哨線で君ケ代のラッパ吹奏し宮城に向って最後の捧げ銃を行った。
こみあげる涙は止めどなくこぼれた。
嗚呼、非理法権・・・・。
午前八時、
今まで人の往来が頻繁だった三宅通り、赤坂見附一帯は、人っ子一人の姿もなく、
昼間だというのに静寂が漂い無気味な気配に覆われた。
道路に面したドイツ大使館のラジオだけが鳴響き、
鎮圧軍の攻撃体制が着々と完了してゆくのがキャッチできた。
彼等は徐々に前進してきた。
しかし皇軍相撃がどうしてできよう。
もしどちらかが発砲したらどうなるか、それこそ生地獄の修羅場が現出するであろう。
しかし天は銃声を取りあげた。
一発の銃火もなく 敵も味方も皆熱い涙に濡れていた。
・
九時頃 遂に断がくだり、
第一、第二中隊の下士官兵を帰隊させ、我々坂井、高橋、麦屋の三将校は
元 歩兵第三聯隊長山下奉文少将に抱かれるようにして陸相官邸に連行された。
当時陸軍はここで我々を自決させる計画であった。
そのため参謀本譜の附近には我々の屍を収める棺桶が用意してあるのが望見された。
我々もまた遺書をしたため潔く自決する覚悟をかためていたことはいうまでもない。
もう逃げもかくれもしない、従容として死につくつもりであったが、
あまりにも急ぎ立てるので遂に怒りがこみ上げてきた。
この時ここに閉じ込められた将校は十四、五名で皆自決するつもりでいたが誰というとなく
死ぬのはあと廻しにしようと決心をひるがえした。
( 軍は我々の意向を抹殺してこの事件を闇に葬るつもりである。
ここで死んでは犬死になる。そして反乱軍の汚名を甘受したことになる )
そこで多分栗原中尉だと思うが 「 勅使の誤差遣を仰いで然る後自決しよう 」 という意見が出され
全員これを了承した。
早速居合わせた高官連中に依頼し宮中に侍従武官を通して取次いでもらった。
数刻後 我々のもとへ返信が伝えられたが 期待すべきものではなく、
« 勅使などもっての外だ、死ぬなら勝手に死ね »
という 冷水の如き言葉であった。
ここで我々の決心もはっきり決まり 自決を中止した。
隣室では何やら激論が交わされているらしく、大声が漏れてきた。
夕刻五時頃 岡村大佐が顔を出し一人一人の心境を訊問した。
最初は林少尉だったが 「 大御心のまま 」 と 答え 以下同様の答を返した。
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この日 自決したのは野中大尉 唯一名であった。
残る我々は以後 軍法会議において堂々と所信を述べ
現状の腐敗堕落と昭和維新断行への憂国の情を天下に知らしめるため刑務所に入った。
収容されたのは代々木陸軍衛戍刑務所の独房で、
私の入った房はかつて幕末の志士橋本佐内が幽閉されていた部屋であった。
ここで私は口頭命令に接し二月二十七日付で免官になった。
その頃実家には憲兵が行き、位階に関する発令書等を全部引上げていったそうである。
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裁判は三月五日から七月五日までの間、数回出廷して行われたが、
この裁判は弁護なしの一審制で控訴を認めず、非公開、傍聴人なし
という 東京衛戍特設陸軍軍法会議というものであった。
やがて六月四日 求刑がいい渡された。
勿論死刑である。
今までの裁判過程では当然予想された結果だ。
国家がどうなろうと、
それを憂いて蹶起した精神が正しかろうと、
そんなことは裁判には関係はなかったのである。
要は統帥権を干犯し 国軍を私兵化して人を殺害したことに焦点が置かれていたのだった。
しかも
天皇までが 激怒され 即時鎮圧を下令されたとか、
あまりのことに二の句も出ない有様だ。
だから法廷において 村中、磯部の両名は激しい口調で憂国の赤誠心をブチまけ、
国政の腐敗をなじり、軍閥によって陸軍は崩壊すること、
更に偏見とも思われる大御心を叱責したのである。
また 安田少尉は刑死寸前、大音声を張上げ
「 国民よ、軍部を信頼するなかれ 」
と 叫んだそうである。
これには深い意義がある。
軍部とはこの場合 上層部を指しているが、
本人をして ここまで云わしめたのは並大抵の憤激ではなかったものと推察できる。
事件の結果は真にうたた慟哭どうこくの一語に尽きた。
七月五日 判決がおりた。
私は無期禁錮刑に決まった。
私は意外な気持ちで判決を聞いていたが、この時死刑をいい渡されたのは現役将校十三名、
地方人四名 計十七名でその次に私がランクされていた。
死刑の執行は一週間後の七月十二日 朝七時から三回に分けて行われた。
刑場は所内の西北の隅に特設され、銃殺による処刑方式であった。
その朝 点呼が終り、しばらくすると彼等は五人ずつ一列になり、
先任者が号令をかけ 歩調をとりながら刑場に向っていった。
行進に移ると 誰の口からともなく 「 昭和維新の歌 」 が はじめられた。
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
歌声は悲壮感がこもり 私の胸にも突きささる思いであった。
死んで行く彼等の心境は真に歌詩そのものである。
私はだんだんちいさくなってゆく歌声を追いながら ひたすら彼等の冥福を祈り続けた。
こうして三つの組が一時間の間に私の目の前を通過していったが、
それっきり戻ってはこなかった。
( リンク→天皇陛下万歳 )
二・二六事件と郷土兵 ( 昭和56年・・1981年 )
歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉 「挫折した昭和維新の回想」 から