あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・西田税 (四) あを雲の涯

2021年04月23日 15時50分18秒 | 昭和維新に殉じた人達

(昭和十一年)十月二十二日、
死刑の求刑に対して北は、こう述べている。
「 裁判長閣下、青年将校等既に刑を受けて居ります事故、
私が三年、五年と今の苦痛を味う事は出来ません。
総てを運命と感じております。
私と西田に対しては情状酌量せられまして、
何卒求刑の儘たる死刑を判決せられん事を御願ひ申上げます 」
西田も同じように
「 二度と私は現世に生れ苦痛をいたしたくはありません。
狭い刑務所であります故、
七月十二日に十五名の青年将校及び民間同志が叛乱逆徒の汚名を着た儘、
君が代を唱へ聖寿万歳を連呼しつつ他界した事は、
私の片身を取られたと同様でありました」
と 陳述している。
死を覚悟している北や西田のことだ、もっと痛烈な皮肉や批判の言をはなったことだろうが、
これは 公式な記録だから記録として残していないと思われる。
「 あるいはこの日であったかも知れないが、
私の記憶では翌くる年の十二年七月の中旬ではなかったかと思う。
北、西田の最後の陳述を傍聴した。
その情景は今でも忘れられない 」 と、川辺はこう語った。
その日、北、西田の最後の陳述があるというので、川辺も第五法廷に入って傍聴した。
はじめに起った 北一輝は、国家改造方案は不逞思想ではない。
やがていつかは日本が行きづまった時、私の所説が必要になってくるだろう。
私の改造論を実現しようとして、青年将校たちが蹶起したとは思わないが、
彼らはもう既に処刑されている。
私も彼らに殉じて喜んで死刑になる気持ちでいる、
と淡々とした語り口で述べたのち、 最後にこう言った。
「 私はこれで喜んで極楽へ行けます。 お先に行って、皆様のおいでを待っております 」
と、笑みを含んだ顔で、深々と頭を下げた。
川辺は思わず涙ぐんだ。
こう淡々として死が迎えられるものだろうか、
話に聞く高僧の心境というのはこういう境地をさすのか、 と 心から感動した。
とたん、判士の一人が
「 馬鹿奴、貴様のような奴が極楽へ行けるか。貴様は地獄だ 」
と、憎々しげに吐き捨てるように言った。
「 心性高潔な被告と、品性下劣な裁判官とを象徴する言葉で、
巧妙なコントラストを見る思いであった 」
と、 続いて西田が起ち、北と同じような所懐を述べたのち
「 昔から七生報国という言葉がありますが、
私はこのように乱れた世の中に、二度と生れ変りたくはありません 」
と、結んだ。
退廷する時、西田は川辺の顔をみて、微笑んだ。
「 おお、川辺か、よく来てくれた 」 と、声をかけてきた。
川辺は笑って答えようとしたが胸が迫って声が出ない。
黙って深く頭を下げたが、涙がホロリとこぼれた。
これが西田を見た最後であった。
しかし、川辺は西田のさっきの言葉が気になった。
「 せめて勇ましく七生報国、 七度生れて国に報いんと言ってくれるかと思ったが、
案に相違した西田の言葉は、なんとしても不満だ。 その夜、師の御坊の所へ聞きに行った 」
と、いう。
川辺は陸士に在学中、父親に死に別れ、
自身も死生の間をさまようような大病を病んで死生の問題を深く考えるようになった。
西田たちが国家改造論議に熱をあげているのを尻目に、 川辺は宗教書や哲学書を枕読していた。
しかし、どうしても疑問が解けない。
大正十三年砲工学校に派遣されていた時、 顕本法華宗の大僧正 本多日生の講演を聞いた。
その話のなかに
「 人格実在論、霊魂不滅論の哲学的論証は、法華経以外では解決することはできぬ 」
と いう言葉があった。
これだと直感して、宿所の目黒の常楽寺を訪ねて、教えを乞うた。
本多日生は
「 今の君は 言ってみれば小学生程度だ。 小学生は算術は解けても 微積分はわかるまい。
微積分が理解できるまで修業することだ 」
と 言って、良い師僧を紹介してくれた。
妙満寺派の綜合宗㈻林の学頭、本村日法という権大僧正であった。
その頃、早稲田の正法寺に座っていた。
川辺は週に三回 ここに通い、本村日法の教えを受けることになった。
川辺の言う師の御坊とは、この人であった。
日法は川辺の不満らしい口吻を、静かに抑えて
「 いやいや、そうではない、
恐らくこんな言葉を吐ける人は万人に一人といないであろう。
死生を達観した達人、高僧の心境である 」
と、教えてくれた。
「 あの頃、西田も私も今流で言えば三十五か六、血気盛んな壮年だ。
こんな若い年で、こうした心境に到達した西田という奴は大した奴だ。
と 今さらのように感服したことを覚えている 」 と、川辺は語っている。
・・・
西田税 「 このように乱れた世の中に、二度と生れ変わりたくない 」 

 
西田税 


西田は逮捕されてから、銃殺されるまで約一年半、
陸軍衛戍刑務所に収容されていたが、その間、多くの詠草を残している。
  秋深きかの山かげにきのこなど  尋ねし頃のなつかしきかな
  母思ひはらから思ひ妹思へば  秋の夕べに風なきわたる
これは死刑を求刑された十月二十二日の日付がある。
越えて十一月十九日の手記には俳句や和歌を書きつけている。
  むさし野に雁ないてゆくねざめかな
  愚かなるわれ故辛き起伏の  妹を思へばいとしかりけり  
悲しみの使徒の如くに老いのこる  母は悲しもひたにおろがむ これも同じ頃の歌であろう、
母を思い、妻を思う切々たる真情を吐露している。
  故郷の母は如何にと恋ひわぶる  ひとやの窓に秋の風吹く
  蹌踉そうろうと別れてゆける妻添ひの  母の面影忘れえぬかも
  秋風や幸うすきわが妹子が  よれる窓辺の思はゆるかも
  妻子らをなげきの淵に沈めても  行くべき道と思はざりしを
この年の十二月四日、監房訪問の際、所長手渡すと付記された紙片に、
次の三首の和歌が書きつけてある。
  たはやめのいもが世わたる船路には  うきなみ風のたたずあれかし
  ふる里の加茂の川べのかはやなぎ  まさをに萌えむあさげこひしも
  神風の伊勢の大宮に朝な朝な  ぬかづけるとふ母をおろがむ
西田は能書家として知られている。
  世を慨き人を愁ふる二十年  いま落魄の窓の秋風
     天心猛生
西田は遺墨の署名は たいてい 「 天心 」 と 号しているが、
まれに 「 西伯処士 」 とも署名している。
郷里の南東部に広がる平野と、そこに悠大な裾野を広げて聳そびえる山陰一の鐘状火山、
大山 (一七一三メートル ) が指呼のうちにのぞまれる。
その地域一帯が西伯郡である。
朝夕大山をのぞんで育った西田は、懐旧の情を托してこの名を号としたものであろう。

翌十二年八月十日、
東京の弟正尚から、 いよいよ近い内に判決が下るという知らせで、博は内密に上京した。
六十八だというのに、事件以来めっきり衰えのめだってきた母に、
兄の死刑の判決が近いことを知らせるに忍びなかった。
しかし、気配でそれを悟った つね は、 店の仕事を嫁の愛にまかせて
十五日の汽車に乗り、
十六日には陸軍衛戍刑務所の面会所に現われて、みんなを驚かせた。
税は急に衰えのめだった母に気をつかい、
「 お母さん、泣けるだけ泣いて下さい。 汽車の別れでさえつらいものですのに、
いよいよ お母さんとは幽明境を異にするわけです。どうか泣けるだけ泣いて下さい 」
と 言って自分の袂からハンカチをとり出して、母の手に渡した。
しかし、つね は 泣かなかった。
昔の武士の母のように端然として、
言葉少なに返事しながら、眸ひとみは食い入るようにわが子の顔をみつめていた。
「 十五日から十八日まで、母を先頭に初子、姉弟 それに同志の人々は、 毎日 面会に通いました。
しかし、すでに生きながら、涅槃の境に這入っていた弟から、
かえって面会にきた私たちが慰められ、激励されて泣くことが多かったのです 」
「 十八日面会に行ったら、兄はきれいな頭を剃っていた。
それを見た瞬間、死刑は明朝だと知った。
スーと頭から血がひくように感じた。 涙がとめどなく出て止まらない。
兄が慰めるように 『 正尚、こんな句はどうだ。夏草や四十年の夢の跡 』 と言った。
『 兄さん、それは 』 と、言ったまま絶句した。
芭蕉の焼き直しですよとは言えなかった。
泣いている弟をいたわる死んで行く兄の最後のユーモアだったとは、ずっと後に気がついた 」
と、これは末弟正尚の追想である。
また 家にいる博には、米子弁まるだしで、
「 昔から七生報国と いうけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。 彼らを救いたかったからだ 」
と 言って、金網越しに暖かい自分の手を一人一人に握らせ、握りかえしていた。

・・・
西田税 「 家族との今生の別れに 」 


西田税の歌である
青雲の涯にいったのかどうかはわからない
ただ
「 天皇陛下万歳 」
の 叫びを私の心に刻みつけて
再び会うことも 話し合うこともできない、
それだけに どこか遥かな遠い涯にいったことだけは事実である
・・末松太平


昭和十一年七月十二日、
青年将校たち十五名が
天皇陛下万歳を叫び、
「 みんな撃たれたらすぐ陛下の前に集まろう 」
と 元気よく話しながら、無残に銃殺された日、
少し離れてはいても、
そのかすかな声やざわめきは西田の監房にも響いてきたのであろう。
彼はやるせない思いをこの歌に托した。
終日 法華経を誦していたといわれる。
・・・
あを雲の涯 (二十一) 西田税  


八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、
みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、
秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。

・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、 死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。
ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、
折角気を付けて御自愛を祈ります。皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。
・・・
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税


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