磯部浅一
第二
一時バット高まった
気分が段々と落ちついて、
東京も各地も同志はジックリと考へる様になった。
特に在京の同志は一様に中佐にすまぬ、
在京靑年將校のいく地のない事が天下の物笑ひの種になるぞ、
猛省一番せねばならぬ秋だとの考へを起した様子がありありと見えた。
栗原中尉の如きは、
氣鋭の靑年將校を集めては絶へず慷慨痛憤していた。
栗原君は 某日余を訪ねて泣いた。
磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、
統制を亂すとか云って、如何にも栗原だけが惡い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の氣分に迄、
進んで呉れないかと云ふ事が殘念です。
栗原があわてるなぞと云って私の陰口を云ふ前に、
なぜ自分の日和見的な卑懦な性根を反省して呉れないのでせうか。
今度、相澤さんの事だって靑年將校がやるべきです。
それに何ですか靑年將校は、
私は今迄他を責めていましたが、もう何も云ひません。
唯、自分がよく考えてやります。
自分の力で必ずやります。
然し、希望して止まぬ事は、
來年吾々が渡満する前迄には在京の同志が、
私と同様に急進的になって呉れたら維新は明日でも、今直ちにでも出來ます。
栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、
私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は劍にかけても許しません。
私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい」 と。
私は栗原から胸中を打ち明けられて
自分でも千年來期する當があったので
僕は僕の天命に向って最善をつくす、
唯誓っておく、磯部は弱い男ですが、
君がやる時には何人が反對しても私だけは君と共にやる。
私は元來松陰の云った所の、
賊を討つのには時機が早いの、晩いのと云ふ事は功利感だ。
惡を斬るのに時機はない、朝でも晩でも何時でもいい。
惡は見つけ次第に討つべきだとの考へが靑年將校の中心の考へでなければいけない。
志士が若い内から老成して政治運動をしてゐるのは見られたものではない。
だから私は今後刺客専門の修養をするつもりだ。
大きな事を云って居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ。
お互いに修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、
君と二人だけでやるつもりで準備しよう、
村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、又むかふの心中もよくきいてみよう
と 語り合ったのである。
實際、栗原の様なヤルヤル専門の同志がもう三、四人いたら出來るがなあ、
暴虎嗎河の勇者がほしい、熟慮退却の人間が多すぎる。
靑年將校は政治家でも愛國團體の公演掛でもない筈だと言ふ考へを起して、
すこぶるあきたらぬ時であったから、
栗原の言をいちいちもっともなことだと考へた。
栗原に云はれる迄もなく、
自分で力を作り
自分一人でやると云ふ準備をせねばならぬ事だけは充分に判ってゐたつもりだが、
相澤中佐の様にえらい事は余にはとても出來なかった。
其れで相澤事件以來は弱い自分の性根に反省を加へ、之を叱咤激励する事につとめた。
特に、ともすれば成功主義即ち打算主義に流れようとする薄弱賤劣な心を打破して、
一徹な正義感によって何事もせねばならぬことを、自己の信仰とせねばならぬと考へて、
一切の打算から離隔する事に努めた。
村中、香田には意中を語った所、
來年三月頃迄には解決せねばならぬと云ひ、
特に香田の如きは七月、
眞崎大將更迭事件の統帥權干犯問題に非常なる憤激をなし、
蹶起する決意で武装を整へて週番に服した事を語って、決意すこぶる堅い事を知った。
相澤事件以來、
警戒嚴重になって相當に活動をジャマされたが、村中と余は同居して東西に奔走した。
十月末になって、
余は思ふ所あって、村中と別居して一戸を構へた。
思ふ所といふのは、いよいよ蹶起の準備にとりかかる事だ。
村中、澁川が、相澤中佐の片影、大眼目等の文章戰事務に熱中してゐるので、
余は武力専門でゆかう、
文書戰など如何にして見た所で、金がいるばかりだと云ふ至極簡短な考へから、
文書戰事務から遠ざかったのだ。
余はどこ迄も實力解決主義で、實力をつくること、
然もその實力は軍隊を中心とした實力でなければいけないと考へたので、
自分一人ででも蹶起し得べく、
田中勝の部隊を中心として實力編成に専念する事にした。
この考えから、
十月末以降は栗原との聯絡と田中、中島部隊及び、河野との聯絡打合せをしばしば實施した。
次頁 第三 「 アア 何か起った方が早いよ 」 に 続く
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