あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

戰雲を麾く 6 「 是れこそげに天下第一の書なり 」

2017年03月21日 20時50分37秒 | 西田税 ・ 戰雲を麾く


四月に入るや、

余が病は已に危機を脱して 日に日に快方に向つて歩んで居た。
宮本が或日、満川氏と会見の一事を語つて猶存社を話した。
そは宮本 福永 平野 の三人が満川氏に招かれて、
一切の猶存社の内容と經歴てを示され、赤心を吐露せられしことであつた。
そして彼は猶存社に北氏と會見せしことを併せ語り
「 眞に恃たのむべきは猶存社でなからうか 」
と 告げ、
満川氏より借りたる北氏著 「 支那革命外史 」 一巻を置いて歸つた。
  満川亀太郎
猶存社---余は時宛かも病床のつれづれに他の患者から借りし
月後れの雑誌 「 寸鐵 」 紙上に 「 猶存社の解剖 」 なる
望月茂氏の筆になれるものを讀み、概要を知つて居た。
そして、そが鹿子木氏 満川氏 等の本塁なることに深甚の望みを寄せて居た。
曾つて川島浪速氏から寄贈されし 「 告日本國 」 の譯者にして
日印協會脱退の悲壯なる宣言の筆者なる大川周明氏の名も見た。
北一輝氏の名は、これを聞くこと始めであつたが、單なる數頁の文章中に閃めく或ものを見た。
人知れず思ひを寄せて居た同社のことを、然もそれとの交渉を宮本に聞いたとき、
余は 「 何たる奇遇ぞ 」 と 思つた。
其日、余は宮本に告ぐるに此事を以てし、然して是く言つた。
---「 余不幸にして病床に在り。君等労を厭えんふ所なくんば、願ふ。」
かくして其日は別れた。
余は直ちに病床に筆を把つて満川氏に宛て一書を認め、
先日寄せられし見舞狀の礼と併びに宮本より委細承りしことを告げ、
宣敷依頼する旨を附加して郵送した。
爾來一週目、余は魅入らるる如く北氏の書を讀んだ。
眼界が殊に明るくなる如く覚えた。
然して是れこそげに天下第一の書なりと思つた。

四月海を二十三日の早朝、余は自宅療養のために事故退院を許されて、
六旬着馴れし白の病衣を脱ぎ捨てた。
然も贏やせる弱の肉體はフラフラして止まなかつた。
一旦、學校に歸つた。
何時の間にか市ヶ谷臺上には春が訪れて居て、然も校庭の桜など已に大分散つて居る。
自然の大化誤またず、春は大荒に帰り來て、見渡す廣き一望の・・・・
晩翠ばんすいの一句を思ひ浮べゝも、
吾れ一人臝軀らたいを擁して六百の友に対する吾姿を
自分ながら痛ましき思ひならでは見られなかつた。
帰省の準備を整へた後、
余は宮本 片山 二君と共に四谷見附から省線電車の人となつた。

春 正に盛りの四月末、うき世に暫く遠ざかつて居た余には殊更に眼まぐるしい。
猶存社に北氏と会見した。
「 支那革命外史 」 一巻の寄贈をうけ、三時間あまり懇談の後ち、辭去した 。
其後、病軀を擁して都を西に去った。
げにや、痛ましい哉。
戰の都に病を獲て、その都を後に静養の旅に出でざるを得ざるとは、
戰ひを生命とする斯身に於て、殊更に哀しきことではないか。
げに、「 戰ひの巷へ 」 と 一呼して故山を出でしその昔、かかるべしとは誰が豫想したる。
函嶺陰雲に塞されて車中の感慨一入に深きものあつた。
頼三樹ならずとも、今日歸途春雨冷、
檻車揺夢度函関とは病の檻おりに苦吟せる余が寂しき思ひであつた。
唯々來るべき馬を中原に再び進むる日を憧憬と決意とに見つめて、
わずかに吾れと吾心を慰撫した。

故山に静養中と雖も、余が心は安閑として寸時も休む暇なかつた。
「 純正日本の建設 」 なる一篇を故郷の新聞紙上に公けにせしも此間のことであつた。
然して卒業期愈々切迫せるに余が心願たる淳宮殿下接近の大業が未だ残されし儘だつたことは、
特に余が焦慮する所なりしを以て、余が思ひ寸刻と雖も此処を去らなかつた。
六月二十五日は殿下御成年式の当日なりしが故に、余は其日に決行の決意を抱いた。
福永 平野 宮本の諸友からも其が適好を答えて來た。
そして細部のこと殊に文章に関しては宜敷く頼むと告げて來た。
余は直ちに潔身筆をとつた。
殿下に秘呈すべき書の起草に從つたのである。
そして、秘呈すべき諸書を満川氏に、選択収集の上 宮本に預託せらるるやうに書き送つた。
静養中、病院で相識つた一期下の鹿毛貢君から一個の小包が到着した。
そは同君の叔父にあたる彼の有名なる國士的人格故武田範之翁の遺稿数篇であつた。
余はそれによりて、朝鮮事情 特に合併前後の内容を詳かにするを得た。
翁は日韓合併の裏面の大功臣である。
又 福永から新たに佛領印度支那の獨立党首領の遺孤陳文安君を識り得たことを報じて來た。
そは彼が同區隊の赤松一良氏の紹介によるものであつた。
上京面接の日を、余は愈々期待の思ひに充ちた。

明治三十九年に
北氏が二十三歳の青年を以て筆を執つた名著 「 國體論及純正社會主義 」
なる一千頁の大冊が發行禁止となりし後
わずかに一部同氏の秘蔵せる所なるを知った余は、
借読を乞ふたが、
満川氏より
「 郵送危険の故に上京の日に譲られたし 」
と 告げ來りしを以て斷念した。

六月十八日、
卒業試験に形式の名を列するの必要に迫られた余は、
満腹の希望を秘呈の一書と併せ抱いて、東上の旅に上つた。
病後蠃軀未だ恢復せざるも意気衝天の勢ある。
接近の一事固より決死的大業でないか、病弱何ぞ憂ふるに足らんやだ。
然して翌十九日の朝ま、
余は復た戰塵の都の人となつて居た。
二重橋畔に はつ夏の気濃かなるものがある。
卒業試験は七月一日から十日間の予定であり、余は半歳病臥びょうがの故を以て
其後引続き四日間の補欠試験に出席せねばならなかつた。
固より殆ど欠課のために盲目に近かりしことは論なかつたが、
教官の厚意と余が平素の成績とは白紙のままに答案を呈出して不可なかつたのである。
さり乍ら同志の軈やがて全國に分散して再び一堂に會し得ぬ別れの日近きが故に、
他の友も悉く志願のために奔走した。
この十日間---余が上京より卒業試験開始の日まで---
同志は狂せんばかりに戰ひを續けたのである。

北氏の日本改造法案大綱の原稿を秘かに校内に持ち込んで福永は筆冩した。
印刷配布するのだといふので宮本と片山とは、
あの暑い夏の午後神田から謄冩版を買求めて汗ダクの爲體で担ぎ歸つた。
そして一同交代で鐵筆とルーラーとを動かした。
猶存社が具体體案として有する此の改造法案こそ
吾等一同が魂の戰ひに立つべき最後の日の武器なりと信じて居るのだ。
げにそは大川氏の言ふ如く、
日本が有する唯一なる日本精神の體現であり、
唯一の改造思想であり、
然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ。
今日幾多の削除を含みつゝ、世に公にされて居るのが、げに此書である。

猶存社に宛てて郵送した朝日平吾氏の遺言状と斬奸状。
それも北氏から借りて來て、ルーラーを動かした。

思ひ焦れし其日は遂に來た。
六月二十五日の天は明けた。
嗚呼 何たる天の戯れぞ。
宮は前夜遅く御帰殿あらせられ、宮中に御成年式をあげられし後、
明日午後にあらずば御歸校遊ばされずと知つて、
余等今更の如く雲上九重の奥のこと想像以上なることを悟つた。
再び協議した。
淳宮改めて秩父官と稱し給ふ。
尊皇の至心 殊に厚き福永は、故事に因める勇壯なるこの尊號を感泣して讃へた。
二十六日の夜は學校に於ける奉祝宴が催され、宮は吾中隊の食堂に臺臨ましました。
余は空前にして絶後なるべき杯を賜はり
「 君、酒はいけるだらう、併し病後だからよく氣をつけ給へ 」
との、いみじくも有難き御言葉を賜はつて、
平素他所ながら世間話によりて
志の一端を進言しつゝ常にかしこき御言葉を拝して居た光榮にまして、
感涙の頬を下るを禁じ得なかつた。
げに、込入れることを一度だも未だ曾て申上げしことなかりし余に、
殊に病気後の御言葉は何時も御懇篤なるものあつたが・・・・。
其夜、宴酣えんたけなはに漸く亂調崩すや、
一部奸佞の徒は
平素より御學友の義名を振りかざして言動誠に顰蹙ひんしゅくに堪えへぬものありしが
果然宮を擁して放歌亂舞の痴態を演出するに至つた。
御附武官も中隊幹部も何時か姿を隠して居た。
此の醜態を目撃するや、余は堪へ得ずして立つた。
涙は流れてやまぬ。
宮本 急に來て 余を伴ひ、食堂の一隅に導いた。
日頃心を余等に寄する數名の硬骨漢忽ち集まつた。
余 慨然として紛糾した。
「 奸佞 斬らざるべからず。
今夕此狂態は何の様ぞ。
年少の彼等単なる此宴席に於てすら是くの如し。
宮中の弊 察するに余りある。
諸友、此儘にして日本遠からず 「 ロマノフ 」 の跡を追はむ。」
狂態尚連りに続く。
宮本のもてる杯が千々にとんだ。
余は此時 小河原清康君と初めて語り、併して識つた。
---焦心の中に時はたゆみなく逝く。

卒業試験終了し、補欠試験亦終りを告げ、余始めて閑を得た。
然も帝都を去るの日は二週の後に迫つて居る。
眞夏の炎暑と戦いつゝ、余は暇ある毎に北氏を訪ひ 満川氏と語り、
ボース氏を尋ね、大道社に異國の友と語つた。
「 國體論及純正社會主義 」 の大冊も讀破した。
そして心魂にやきつけらるゝ思想の熱炎を浴びた。
此書正しく、曾つて板垣伯 福田徳三氏等が世界に示し得べき
日本唯一の書と嘆じたること誤りなしと思つた。
宮本が 「 これも謄冩しやうか 」 と言へるとき、苦笑したことがある。

ボース氏邸に於て余は同じく氏を訪ひし 宮川一貫氏を識つた。
一日、余は福永 平野と共に安南の志士陳君を江戸川橋の近くに訪うた。
君は父君獨立革命の首魁として刑死に遭ひし以後、
伯原文太郎氏に救はれて七歳の時渡來し、
その庇護の下に昨年早大法科を終へし二十六歳の偉丈夫であつた。
座に、亡き父君の股肱と頼まれし五十に近き丈夫児が連つて居た。
二人は交々安南に於ける佛國の到らざるなき苛酷の壓政を訴へ、
鉄鎖に繋がるる同志の悲惨なる奴隷狀態を泣いた。
そして革命運動常に失敗し終ることを嘆いた。
余等亦泣いた。
そして運動の方法を質した後、余は言うた。
「 貴國人の運動が常に失敗するは、
交通不便なる山地に立籠る匪賊的行動なるが故であると思はるる。
革命とは組織の變更である。
故に其運動たるや
多く首都に於て一擧に政治的首脳部の顚覆---組織の變更を原則とす。
然るに最初より全然邊境山地に拠らば貴國の現狀の如く、
吾れに兵器なくして敵に最新式の武器あり、巨砲一發殆ど潰滅かいめつに歸せん。
革命戰は固より精神的のもの、
武器を把るとき、
そは必然暗殺を以て終始するのみ。
首都に於て一擧政府の大官を仆し、
權力發動の官所を奪ひ
交通機關を占領するが如きことを、
成功至心の要訣とすべし云々 」
其夕べ、江戸川に沿ふ一支那料亭の階上に晩餐を共にし、
再び相逢ふべからざるかの薄縁を惜んで、固く固く手を握り合うた。

其後陳君は、余等都を去ると軈やがて後を追うて西し、海を越えて漢口に行いた。
十月、安南に革命起ると新紙に知り得たが、詳細は知る由なく、
余は直ちに北韓に筆をとつて、漢口に郵送した。
十二年正月、年賀と改名とを通知に接したが、其後杳ようとして消息ない。
陳君と訣るゝ時、彼は秘密出版の 「 越南義烈史 」 を數部寄贈して
「 どうぞ、日本の人々に同胞の苦痛を伝えて下さい 」
と 言うた。
余は同人に頒わかち、一部を満川氏にも贈り、更に一部は秩父宮へも秘献した。
観じ来る---げに革命志士は涙の結晶である。
然もそは他人事ならぬ日が來ぬであらうか。
七月二十一日より二十七日まで。
此間に余等は遂に決死の大業を完成した。
然して、二十八日、
余は病後未だ恢復せざる身體なりしを以て摂政宮臺臨の卒業式にも列し得ず、
わずかに三百五十名中五十位の劣惡なる成績を残して五年住みなれし市ヶ谷臺を下つた。
現實に獲たるものは病軀のみであつた。
然も決して劣ることなき者等に抜んでられし成績を見つめては、
冷たき涙のみ流れた

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