あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

獄中からの通信 (4) 森傳宛 「 大岸大尉を眞崎將軍の顧問にすること」

2017年05月19日 14時43分52秒 | 磯部淺一 ・ 獄中からの通信


磯部浅一

一、湯浅を失脚させるには左の方法も一案ならん。
去る三月一日宮内大臣(湯浅)の名に依って
同志将校二十数名が
大命に抗したるものとして 免官になりました。
所が同志将校は決して大命にこうしてはおりません。
この事は予審及公判に於て段々と明かになつたのです。
即ち最初の公訴事実には宮内省発表と同様に大命に抗したる国賊反徒としてあつたのですが、
公判廷に於て同志の猛烈なる反バクにより
大命に抗したるものに非ざることが明かになりましたので、
判決主文に於ては大命に抗したりと云ふ文句は敢然に取り除かれたのです。
そもそも大命に抗したり云ふのは何を以て然り云ふかと申せば、
所謂  奉勅命令をきかなかつたから大命に抗したと彼等は云ふのです。
所が吾々は決して奉勅命令に反抗した者ではありません。
命令に反抗すると云ふことは、
反抗する以前に於て命令が完全に下達されておらねばならぬわけであります。
然るに所謂奉勅命令は二月二十九日に至る迄とうとう下達されませんでした
下達されない奉勅命令に反抗すると云ふ筈はないのです。
奉勅命令が下達されなかつた事は
何人が何と云ひのがれをしても動かすべからざる
厳然としたる事実です。
吾々は断じて奉勅命令に抗してはおりません。
然るに、此の青年将校を大命に抗したりとして免官し天下に公表したのです。
上陛下をあざむき奉りたるつみは許しがたきものと云はねばなりません。
此の責は当然に当時に大臣たる湯浅及軍部幕僚が負はねばならぬ筈です。
川島は責をとつて引きましたが、湯浅は平然として今尚ほ陛下をあざむきつゞけておるのです。
速かに天下の正論に問うふて彼を一日も早く引きたほしてしまはねば国家の大患となります。
湯浅をたほすことが出来れば鈴木貫太郎は自然に、当然に、たほれませう。
陛下の側近に侍る臣は、天下の師表国家の柱石的人材でなくてはならぬ筈ですのに
国民から斬撃された不具者が何時迄もぼやぼやとしていることは
事態の悪化するばかりでなく天皇の神聖をけがしますから、鈴貫も湯浅同様早く始末せねばなりません。
鈴貫、湯浅がたほれゝば、牧、西等所謂不臣なる重臣は大体に於てたほれます。
重臣、元老を処置することなく、いくら政変をくりかえしてみても駄目です。絶対にだめです。
ですから維新を希ふものは先ず重臣、元老を第一に処置せねばならぬのです。
重臣中の扇の要を処置すべきです。
要は湯浅です。 かなめを一本ぬき取ると扇がバラバラになります。
恐らく寺内も、児玉も、木戸幸一もその他の寄生虫がバタバタと参ることになるのではないでせうか。
要するに、湯浅を倒す為めには奉勅命令の一件を以て天下に正論を起すこと、
之と同時に陸軍部内の空気を反重臣的に起してゆくこと、
且、正義派諸氏の鉄石の如き結束とすることは勿論です。
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 湯浅倉平     三月一日報道
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二、統制派幕僚を倒すことは、なかなかむづかしいと思ひます。
が、これには手段があります。
眞崎将軍によくよく御相談下さい。
小生の意見を申しますと、表面は或る程度手を握らねばならぬと思ひます。
今は腹が立つけれども、腹の虫をグツトおさえて表に出さぬことです。
彼等の戦鋒を味方に向けさしては不利です。
重臣に向けさせることです。
広田内閣に向けさせることです。
維新派は統制派、或はその他アラユル力を利用して先づ重臣を処置することです。
統制派なんて云ふ奴はその存在はサク雑模楜(糊)していて、わからぬ情態になつているかと思ひます。
敵の見えない霧の中で大砲射つても駄目です。
霧の深い時にしておかねばならぬことは味方の態勢をとゝのへることです。
味方の大勢をとゝのへるとは予備の中将や大将やその他下らぬ政治家や浪人等をよせあつめることではないのですよ。
よく考へて下さい。
激戦に堪える勇将、勇士を呼びあつめて準備をすることです。
今の世に激戦に堪へ、戦勝を獲得し得るものは政治家でも大将でも陸軍大臣でもありません。
青年将校です。
今度コソイヨイヨ青年将校をシツカリと信頼して下さい。
従来荒木も眞崎もその他すべての連中が青年将校をないがしろにしたり、
敬遠したりしていたので、どうも シツクリ としませんでした。
その為めに吾々は失敗したのです。
老人連中が腰ヌケだから、多くの同志をムザムザ死刑にしてしまつたのです。
クドクド敷くなりますから結論を申します。
イ、大岸大尉を自(辞)職させて至急に眞崎将軍の顧問にすること
ロ、全国に散在する青年将校及五・一五関係の士官候補生等と密接なる連絡を保つこと、
ハ、橋本欣五郎大佐その他との密接なる連繋を策すること、
二、神戸海員組合の松田氏より労動(働)組合方面の意見等は充分に聴取すること
     (眞崎将軍直接にスルコト)
右の外幾多の手段により維新軍の結束をかため、大きく全国的に動く準備をしつゝ、
重臣と統制派とを圧迫して進むことが必要と思ひます。
眞崎閣下、青年将校を全部的に信頼し、誰にエンリョ 気兼もせず堂々とヤラナイと又失敗しますよ。
天下何者も青年将校の信念と実力と思想と行動に敵するものはありません。

友軍の大勢が整ふたならば戦斗(闘)開始です。
イ、青年将校蹶起の主旨は大権干犯の国賊を討ち、国体の真姿顕現をせんとしたものなり
 との
明らかなる旗幟を立てヽ重臣元老を攻撃すること
ロ、大臣告示戒厳命令 をたてにとつて青年将校の部隊は反乱軍にあらずと云ふことを主張し、
 反乱軍として裁判をしたる統制派を根底より覆すこと、
大臣告示は陸軍省の奴等の合議によつて説得案と云ふことになつています。
又 戒厳命令は青年将校の行動を認めたるものに非ずして謀略命令だと云ふことになつています。
然し 告示は断じて説得案ではありません。
今後 寺内等を引きたほす為には真崎さんが
大臣告示は説得案に非ずして青年将校の行動を
認めたるものなり、
と云ふことゝ、
戒厳命令は青年将校の行動をみとめたるものであつて
決して謀略命令ではない
と 云ふ二ツの事をアク迄主張したらいゝのです。
寺内等の一味は必ずたほれます。
この二つの事を主張する為には眞崎、川島、山下、香椎の一致結束を要します。
も少し突込んで申上げますと、
次の様なことが告示 及 戒厳命令の真相です。
大臣告示が二月廿六日宮中に於て起案された時は青年将校の行動を認めたのです。
これは何と云ひのがれをしても駄目です。
公判に於て明かになつていますから、先頭第一番に軍の長老が認めたのです、
香椎さんがよろこんで司令部に電ワをかけたのです
( この辺のイキサツは真崎さんがよく知っているのでせう )
後に如何に訂正され様とも、
先頭第一に軍の長老が青年将校の行動を叱らなかった
のみならず
認めたと云ふ事実は厳として動かすことが出来ません。
認めたからこそアンナ大臣告示を堂々と発表したのです。
若し今日彼等が云ふ如く
吾々が二月廿六日に於て国賊反徒なることが
それ程明かであるならば、
大臣告示を出す所ではなく、直ちに討伐の詔勅を載(戴)く可きです。
然るに、アンナいゝ文句の大臣告示を出すと云ふことは、
その事それ自身が青年将校の行動を
認めた事なのです。
したがつて、大臣告示は断じて説得案にあらず。
試みにアの告示の文面を検討してみて下さい。
説得案にあらずして青年将校を認めた事が明々白々になりますから。
たしかに二月二十六日当時は軍部は青年将校の行動を認めたのです。
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大臣告示               陸軍大臣より                  軍隊に関する告示                奉勅命令
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ところが参謀本部系の幕僚が策動して
 奉勅命令 と云ふ重大なる命令をいたゞいて
青年将校をオドシにかゝつたのです。
然るに、青年将校の方では
維新に進入する曙光の見える迄は断じて引かぬと頑張ったので、
幕僚はアワテ出したのです。
その結果遮二無二青年将校を撤去させようとしました。
ソシテアワテタ為めに 奉勅命令が完全に下達されたか否かもしらべずに、
下達されたものとして
大命に抗したりとの発表をしたのです。
サア大変な事が起ツタ。
二十六、七日に於ては
大臣告示でも青年将校の行動を認め、
又、行動を認めた上で奉勅命令を
下して
吾々の同志部隊に警備を命じているのに、

三月一日には大命に抗したと云ふ発表をした。
軍は完全に窮地に立つたのです。
即ち大命に抗したる程の者に 大体 戒厳命令を下したと云ふことは軍全部の責任になるわけです。
大臣告示は行動を認めたるものと云へば、
軍そのものが ( 軍首脳部 ) が
青年将校と一諸(緒)に
国賊にならねばならぬ羽目になつたのです。
コレハ大変だと思って、
至急に大臣告示は説得案なり、戒厳命令は謀略命令なりと云って、
逃げをはり出したのです。
( いゝですか。 わかりますか。 面白いところです。
 大将とか中将とか軍中央部とか云ふ連中はは腰抜けですよ。
逃げをはらなかつたならば、而して青年将校をアク迄支持したならば、
次の時代の花型役者
たり英雄たり得たのですが、一人もそんな腹のシツカリしたのが居ませんでした。
逃げをはるものですから、磯部菱海など云ふ浪人から告発されたりするわけです。呵々 )。

話は本すぢにもどつて、
寺内等をたほすには、
先づ第一に大命に抗しと云ふ宮内省発表の不当を迫り、重臣をたほす。
而して 青年将校は大命に抗したるものに非ずと云ふことを明かにすると、
あとはカンタン至極です。
青年将校は国賊に非ずと云ふことになります。
然らば青年将校は反乱罪なりやと云ふ次の問題が起ります。
これは又かんたんにかたづきます。
青年将校は反乱にアラズ、
何となれば反乱軍に大臣がアノ如き立派なる告示を出すハズナシ、
アの大臣告示は青年将校の行動を認めたものだ(と)主張すればいゝのです。
更に、青年将校は反乱にアラズと断呼(乎)として続けるのです。
何となれば
天皇宣告の戒厳軍隊の中に編入されたことは
反乱に非らざる理由の最大なるものです。
尚、戒厳軍隊になつた青年将校は戒厳の警備命令を受けて警備をしているのです。
反軍に警備を命ずると云ふことは日本に於てアるべからざることです。
警備をめいじたと云ふこしは、反乱軍にアラズと云ふことです。
此くの如く青年将校は明かに反乱罪ではありません。
然るにですよ、
寺内等南等重臣等は一連の結束をして同志を反乱罪として死刑にしたのです。
ですから、
告示と戒厳命令の正当と正義をあく迄も主張すれば、青年将校は正しい、
青年将校は反乱に非ず、
死刑にスルトハ何事だ、
一体誰が死刑にしたのだ、
死刑に下のは寺内、南、片倉等だと云ふことになつて、
統制派はたほれます。
私は個人の生死を云云しません。
然し 私の正義、同志の正義をとほす為には、
死の易きよりも生の苦痛の中に生きてたゝかひます。
私は今はむしろ死の方が楽です。
然し正義の為めに生の苦痛をしのんでゆきたいのです。
正義の為めに生きたいのです。
正義を守らんが為めに死にたくないのです。
私と村中が死刑から救はれると云ふことは、単に二人の問題ではありません。
維新派の正義が重臣等の不義に勝つことになるのです。
ですから、私はキタンなく申しますと、
天下の人ことごとくが村中、磯部、
否 十八の勇士、
否 全維新青年将校のシヤク放運動の火の手をあげていたゞきたいのです。
重ねて申します。
私の自身の生死の問題ではありません。
私の死刑問題を中心として非維新派とたゝかつて、彼等をたほして下さいと云ふのです。
全日本の愛国者にたのむのです。
私の生死を云ふのではありません。
以上のことは参考として申上げるのですが、
青年将校 及 青年愛国者が日本の死活問題を
握っているのです。
いはんや 老将軍、幕僚、軍部、政府、政治家、重臣等々の死活のいぎは
青年が握っていることは申す迄もありません。
青年を知らぬ奴はほろび、ほろぼされ、斬られ、射たれるのです。
よくよくこの道理を御考への上、
眞崎さん 末次さんとか山本英輔さんとかに
青年をほんとうに
大事にしてシツカリと手を握る様に申して下さい。
荒木も眞崎も某も某も、今度こそシツカリしないと、
この次には必ず青年将校に殺される
様なはめになりますよ。
クドクドと理クツを云はないで青年将校を大事にしないと、必ずヤラレマスよ。
㊀  大岸大尉を至急上京せしめて真崎の顧問にしなさい。
 絶対に必要です。
これをやらないと何が起るかわかりませんよ。
私の云ふことはウソではない。
オドカシでもないのです。
㊁  満井中佐、菅波、大蔵、小川、佐々木、末松等十数名が起訴されているのですが、
 これをシツコウユウヨにする様にして、一日も早く出所させて東京に置くこと。
㊂  山口大尉等 無期の連中を維新大詔渙発大赦により出所させること。
㊃  陛下に直通することが第一番です。
 宮様に直通することが第二番です。
この二要件をしないで倒閣をいくらしても眞崎内閣は出来ませんよ。
㊄  若し内閣がたほれて軍内閣でも出来たら、
 軍部幕僚にクーデーターをやらせて、大詔渙発
をやることも一法と思ひます。
日本の一切の所謂忠臣どもに、
命がけでやらねば汝等の命がこの次にあぶないぞと云ふて下さい


ノートに鉛筆書
森伝宛か


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