あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・竹嶌繼夫中尉

2021年03月18日 09時02分20秒 | 昭和維新に殉じた人達

今まで公判廷で申上げたことは一点の偽もありませんが、
これが最後と思いますから、他の者に及ばぬかも知れませんが、
考えて居ることを述べます。
私どもの蹶起により上京し事実においては種々な謀議をやっていますが、
豊橋の最古参として仮令たとえ自分の與あずからぬ計画があっても責任を負う考えであります。
絶対に民主革命を企図したものではありません。
自分の心が大御心たりとの不逞の根性はありません。
ただ 斯くすることが大御心に副い奉る所以なるべしと考えたのみであります。
勝手に判断して大御心を僭上したのでは絶対ありません。
大臣告示、戒厳司令官の隷下に編入せられたことは、大光明に照らされたような気がいたしました。
故にその後の行動は軍隊としての行動であります。
頑張って一定地域を占拠したものではありません。
告示は戒厳司令部が説得要領としてた強弁せられますが、 われわれは神聖なる告示と考えました。
また 二十九日まで総ての者が説得したように強弁せられますが、
激励ばかりを皆の人から受けたのであります。
兵力使用の点については、豊橋において 皆 必死に議論いたしました。
これが統帥権干犯なることは明かでありますが、
統帥権の根源を犯されていては、統帥権全部が駄目になるが故に
末を紊みだして根源を擁護せんとしたのであります。
ちょうど毒蛇に噛まれ手首を切断し 命を助ける同筆法であります。
もちろんそのことに対しての責任は充分に負います。
残虐な殺害方法だとのお叱りを受けましたが、
残虐をなすつもりでやったものではなく、
若い者が一途に悪を誅するための天誅の迸ほとばしりに出たことで、
一概に残虐と片づけるのは酷なことと存じます。
本年 命を終るに際し、
事志と違い 逆賊となり、
修養の足らぬ心を 深く 陛下にお詫び申上げる次第であります。
・・・最期の陳述 ・ 竹嶌継夫 


竹嶌繼夫
私は満洲にあった第二師団に属し奉天に駐屯していたが、当時聯隊旗手でした。
満洲事変の勃発した九月十八日夜から十九日にかけては
軍旗を奉じて奉天城の攻略に参加しました。
そこではいくたの戦友の血が流されました。
私は戦友たちの尊い犠牲を無駄にしてはならぬと思いました。
その後聯隊本部にあって各種の情報を見る機会を与えられましたが、
政府の内外にわたる事変態度から眼は国内に向けられ
心はその政治のあり方に疑問を生むに至りました。
いわば戦争状態と国内政治体制との矛盾を発見したとが、
私が国家革新へと志向した動機となりました・・獄中で

彼はその初陣において血をもって自覚したものが、国内政治への開眼であり、
また それから維新運動に挺身するに至ったというのである。
彼は昭和八年一月満洲より帰還後は、聯隊の先輩植田、松平等と 皇道維新塾をつくり、
地方青年の育成に力を用いたが、間もなく豊橋に転じてからは、
同じ区隊長として對馬勝雄と机をならぺるに及んで、愈々国家革新の熱をあげていた。
実母が東京淀橋区上落合に居住していたので、
しばしば休暇あるいは衛戍線外外出の許可を得て上京し、
その機会に村中、磯部、渋川などの錚々たる闘士に接し 維新発動を待機していた。
豊橋における西園寺襲撃を中止し對馬と共に上京、二十六日午前二時頃 歩一に入ったが、
爾来、陸相官邸、首相官邸、農相官邸、幸楽、山王ホテルなどに居り、
反乱首脳部と行動を共にしていたが、部隊の指揮に任じたことはなかった。
「 豊橋方面の関係については、自分が先任者として指導したものであるから、
自分に全責任を負わしめられたい 」
と、その意見を述べていた。


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