あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・満井佐吉中佐

2021年04月04日 15時11分12秒 | 昭和維新に殉じた人達

帝国ホテルの一室では
三島から急遽上京してきた重砲兵聯隊長橋本欣五郎大佐、
戒厳参謀に予定されていた石原莞爾作戦課長、
それに参謀本部部員田中弥大尉、
陸相官邸からかけつけた満井佐吉陸大教官らが集まって 事態収拾について協議していた。
彼らはこの機会に強力内閣を組織して国家革新を断行すべきだ と いうことでは意見が一致していたが、
その強力内閣に誰を首班とするかについては議がわかれたいた。
石原大佐は皇族内閣を主張した。
東久邇宮を推すもので当時の参謀本部幕僚たちの意見を代表するものであった。
満井中佐は蹶起将校の要望する真崎内閣柳川陸相案を強く支持し、
橋本大佐は建川美次中将を推していた。
こうした意見の相違からこの際、
陸軍から首班を求めることをやめて海軍から出してはどうかと 提案したのは満井中佐であった。
「皇族内閣には蹶起将校は断乎反対の態度をもっているし、
建川中将も大権干犯の元兇として彼らはその逮捕を要求しているので、
これらを強行することは事態収拾にはならない。
真崎首班は彼らの熱望するところであるが、
それが参謀本部側で強い難色があるというのであれば、
この際は陸軍部内のイザコザに全く関係のない海軍からこれを求めるより途はない。
山本大将はかつてロンドン条約当時艦隊派の雄として活躍せられ革新思想にも理解があるので、
蹶起将校たちも納得して必ず平穏裏に維新に進むことができよう」
この満井の提案には石原も橋本も賛成した。
そしてこの意見は石原より杉山参謀次長に申達されることになった。
なお、これに関して、
「午前四時三十分
参謀本部の反対激烈にして到底真崎内閣の成立は期待すべからざるも
更に これを徹底的に断念せしむるため山本英輔大将に勧告せられたし
との部内の意見を聴取す」
と 杉山次長は手記しているところから見ると、
石原は部内の意見としてこれを具申したように思われる。
そこで彼らは 山本大将と昵懇だという亀川哲也を呼んで意見を聞くことになった。

亀川は二十五日夜西田税と協議して事態収拾のための上部工作を担当していたが、
この朝未明、彼は真崎邸を訪ねてその奮起を懇請し、
また西園寺工作のため興津におもむく鵜沢博士を品川駅にとらえてその努力を要請し、
また、政友会領袖、久原房之助とも事態収拾について話合っていたが、
一方かねて知遇を得ていた山本海軍大将とも連絡することを忘れていなかった。
彼はこの朝すでに電話をもって山本大将に事件発生を告げて、
海軍として時局収拾に努力されるよう懇願していたし、
また、午後には海軍省に同大将を訪ねて山本内閣説をにおわせていた。
彼にしてみれば山本内閣は真崎内閣に次ぐ第二の腹案だったわけであったのだ。
したがって、この満井の提案した山本内閣案は 満井自身のものでなくて亀川の構想であったのである。
亀川が自動車で帝国ホテルに駈けつけたときは、 ちょうど、石原大佐が出て行くところだった。
二人は入口ですれ違ったが別に挨拶もかわさなかった。
亀川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の将校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が亀川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「この際、山本大将に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大将と親交のあるあなたに意見を伺うと思って来ていただいたのです」
「それはいいでしょう。 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、 いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません」
と 亀川は問題を投げた。
この亀川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして帰隊せしめよう、
と 提案、 一同それがよかろうということになり、 満井は車を陸相官邸にやり村中をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
亀川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「そこで満井と私は村中を別室に呼び、
まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
「部隊を戒厳司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする」
という条件は持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、
そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。
この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
帰りましたら早速引きあげにとりかかりましょう 
ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
こうして彼らはこの協議をおえて帝国ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒厳司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を伝え、
さらに、 「維新内閣の実現が急速に不可能の場合は、
詔書の渙発をお願いして、建国精神の顕現、国民生活の安定、
国防の充実など国家最高のご意思を広く国民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する」
亀川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大将と久原に右の報告をした。
それから真崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大将に会い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝国ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
亀川が、大体承諾したようだと口をにごすと、 西田はすっかり考え込んでしまった。

・・・ 帝国ホテルの会合 


満井佐吉 

( 二十六日 ) 午后一時頃
自發的に情況を見るべく陸相官邸に次官を訪ね様と思って自宅を出ましたが、
警戒嚴重で容易に警戒線内に入ることが出來ないので、
迂廻して海軍省の前より 蹶起部隊の將校に名刺で通過願を出し、許可して貰って、( ・・・鈴木少尉 )
三回に亘り訊問 ( 誰何・・・歩哨線 「 止まれ !」  ) を受け、
陸相官邸に着いたのは午後三時頃でありました。
官邸では古莊次官が居られましたが、
次官より、

「 先刻君に來て貰うと電話したが、今出掛けたとのことであつた 」
と 申して居られ、

それで、 「 自分 (次官) は 靑年將校の言分は聞いたが、君も聞いてやって呉れ 」 とのことで、
次官同席にて、廣間に集って居た  野中、村中、磯部 其他七、八名の將校に面會し、靑年將校の言分を聞きました。
其時、蹶起趣意書 を貰ひ、同紙の裏に 「 午後三時貰ふ 」 と書き、所持して居ります。
其時 靑年將校の言分は、
強力内閣を作り昭和維新に移して貰ひたいこと 及 肅軍に關する希望を述べて居りました。
それで次官が別室に私を呼び、大臣が宮中に參内して居るとのことで、
大臣と次官とが別れて居ては補佐も出來ないと思って、

「 次官閣下も宮中に參内せられては 」 と 申しました処、
次官は山下少將が來る様になつて居るからそれ迄待つとのことでありました。

暫らくして山下少將、鈴木大佐、小藤大佐、馬奈木中佐が來られましたので、
互に事態の重大性に就て會話しましたが、
馬奈木中佐は靑年將校の希望や要求等を聞いて居りました。
古莊次官は間もなく宮中に參内の爲出發し、吾々は留守を命ぜられ、
次で山下少將は鈴木大佐を留守に殘し、參内の爲出發されましたので、
私(満井) と馬奈木中佐も同乗し( たが )、山下少將のみ參内し、
(従って) 馬奈木中佐と同道 憲兵司令部に行き、
馬奈木中佐は当時憲兵司令部内に在りし參謀本部幕僚に 大臣邸に於ける靑年將校の情況を報告し、
私は自動車にて待って居りましたが、容易に來たらざるを以て陸相官邸に引歸しました。
其時は夕刻でありました。

それから官邸に情況の推移を待って居りましたが、
午后九時頃に至り 山下少將が
荒木、林、眞崎、植田、阿部、寺内、各軍事參議官を伴って來られましたので、
私は当時事態の重大性と、公判關係等を通じて軍の實情を速に収拾する爲、
最高の輔弼を適正にして昭和維新に嚮ふ様にすると共に、
蹶起部隊を速に集結せしめる等の処置の必要性を申述べ、
次で 靑年將校が入換って、意見を詳細に渉って申述べて居りました。
(  ・・・リンク → 軍事參議官との會見 )

其後間もなくして、
橋本欣吾郎大佐より電話がありましたので、

官邸の事情を述べ、來邸を勧め、
前述出入の際教つた合言葉 ( 尊王討奸 )、及 三銭切手を手に貼る事を教へましたが、
暫らくして橋本大佐の來邸あり、( ・・・リンク→「 ようし、通ってよし ! 」 )
同大佐からも阿部大将に事態の重大性を説いて居られた様でした。

帝國ホテルに行き、

氏名所属を言って責任を明にして、
電話の借用等に便宜を与へて貰ひ、

先づ石原大佐を呼出し、其時橋本大佐より電話がありましたので、
兩大佐に來て貰ひました。
其理由は事態を惡化せしめざる爲、官邸に於ける蹶起部隊の事情を石原大佐に傳へ、
適切なる処置を爲すのに參考にしたいと思ったからであります。
ホテルは石原、橋本兩大佐及私の三人で會談しましたが、小林長次郎は別の所で休んで居りました。
話の内容は、石原大佐より宮中に於ての話があり、
私に鞏力内閣等につき意見を求められたので、私は一寸意見を述べ、
速に兵を集結せしめ事態惡化を防ぐ要あるを述べ、
宮中の輔弼と、部隊の処置と相應じて善処せらるゝ様に、意見を申しました。
橋本欣五郎大佐からも、右同様な意見がありました。
それは日時を經過せば事件が全國に波及し、事態惡化を虞れられたからであります。
そして石原大佐は戒嚴司令部に歸り、橋本大佐は三島に歸るべく急いで辭去せられました。

更に私は萬一蹶起部隊と兵力の衝突を見、帝都の混亂に陥ることを憂慮して、
龜川哲也にも村中を説得して貰ひたいと思って、同氏の自宅に電話をしホテルに來て貰ひ、
村中を帝國ホテルに呼出し、龜川と二人で村中に對し、
宮中方面の努力は軍中央部の首脳者に任せて、
蹶起部隊は一先づ歩一の兵營にでも集結してはどうかと懇々と説得しましたが、
村中は私共の精神のあることを諒とし、
成るべく趣旨に添ふ如く努力して見るが、

同志は必ずしも其の意見に依って動くかどうかは請負ひ兼ねる旨を申して退去しました。
其時は ( 二十七日 ) 午前三時半頃であつたと思ひます。
( ・・・リンク → 帝國ホテルの會合 )

それから私は、
一人で憲兵司令部に行き石原大佐に面會し、村中を説得し置きたる狀況を傳へ、
今後の善処を希ひ、次官に届けて、私は軍人會館に行きました。
其時は夜が明けて居りましたので、朝食をとり、食堂で馬奈木中佐、菅波中佐其他の人々と 雑談し、
二十七日午前十時半頃自宅に歸りつきました。

帰宅後間もなく憲兵司令部、兵務課より、來て呉れとの電話がありましたので、直に自動車にて憲兵司令部に行きました。
憲兵司令部では山本少尉と會ひましたが、山本少尉より、
「 満井中佐の説得ならば、靑年將校も聞き入れると思ふ 」 との話あり、
憲兵司令官、東京隊長その他の憲兵將校より 山本少尉と私に、
行って靑年將校を説得して貰ひ度いとの依頼あり、下士官二名同乗して、 陸相官邸に行きました。
其時は蹶起部隊は新議事堂の広場及首相官邸の二ケ所に集結して居りましたので、
右二ケ所に行って將校に對し、從順に行動する如く、何れ法に依って處分せらるゝものと 思料するが、
御上に於かせられては御慈悲もあることゝ思ふから、思ひつめた行動を採らない様にと注意を与へ、
憲兵隊長に復命をしました。

二月十八日午前四時、
戒嚴司令部砲兵少佐參謀より電話にて、直に來て呉れとのことでありましたので、
五時前に自動車にて出掛け、 戒厳司令部に行って見ますと、事態が惡化してあることを知りました。
それは
「 昨夜 眞崎、西、阿部の三參議官と蹶起將校との會談 の結果、 
 情況は楽観せられて居るに、本朝の情況は惡化し、蹶起將校の主張は鞏硬で、
位置移動を肯ぜざる態度を示しあるを以て、速急説得して貰ひたい 」
とのことでありましたので、
リンク ↓
・・・軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』
・・・軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』

小藤大佐、松平大尉と共に、午前七時頃陸相官邸に行き、
小藤大佐より、命令受領の爲蹶起將校を集合せしめたるに村中、香田大尉が官邸に來りたるを以て、
種々説得したるも、

彼等は小藤部隊の警備區域たる現位置に暫らく位置せしめ
昭和維新に嚮ふ如く上司に於て処置あらんことを熱望し、容易に動かすべくもあらず。
當時村中は昂奮しあり、
理論にては説得不可能と考へられたるを以て、

大命に背き、大義を過らざる様に注意して、
柴大尉と共に、小藤大佐の命令下達に先立ち、官邸を出て戒嚴司令部に歸り、

戒嚴司令官、陸軍次官、參謀次長、軍事參議官若干名の席上にて
右の旨報告すると共に、次の様な意見を申述べました。
意見は私が二月二十八日、戒嚴司令部に於て、
簡単な原稿を作成して申上げたのであります。
意見
(一)、維新部隊は昭和維新の中核となり、現位置に位置して、昭和御維新の大御心の御渙發を念願しつつあり。
  右部隊將校等は、皇軍相撃つの意思は毛頭なきも、維新の精神仰壓せらるゝ場合は、 死を覺悟しあり、
又、右將校等と下士官兵とは大體に於て同志的關係にあり、 結束堅し。
(二)、全國の諸部隊には未だ勃發せざるも、 各部隊にも同様維新的氣勢あるものと豫想せらる。
(三)、此の部隊を斷乎として撃つ時は、全軍全國的に相當の混亂起らざるやを憂慮す。
(四)、混亂を未發に防ぐ方法としては、
1、全軍速に維新の精神を奉じ、輔弼の大任を盡し、速に維新の大御心の渙發を仰ぐこと。
2、之が爲 速に鞏力内閣を奉請し、維新遂行の方針を決定し、諸政を一新すること。
3、若し内閣奏請擁立急に不可能なるに於ては、軍に於て輔弼し維新を奉行すること。
4、右の場合には、維新に關し左の御方を最高意思を以て御決定の上、
   大御心の渙發を詔勅して仰ぐこと。
「 維新を決行せんとす。
 之が爲、

(1)、建國精神を明徴す。
(2)、國民生活を安定せしむる。
(3)、國防を充実實せしむる。」
5、萬一右不可能の場合は、犠牲者を最小限度に限定する如く戰術的に工夫し、
   維新部隊を処置すること。 但し、此際全軍全國に影響を及ぼさざることに關し、大いに考慮を要す。
之が實行は影響する処大なるべきを以て、特に實行に先立ち、先づ現狀を上奏の上、
御上裁を仰ぐを要するものと認む。

以上の如く意見を開陳し、

戒嚴司令部を出て途中偕行社に立寄り、
滞在中の軍事參議官若干名に面會し、事態の重大なるに鑑み善処を御願ひして、
正午過ぎ自宅に歸りました。

歸宅して、 今回の事に付 熟々事態を考へるに、
或は私の公判に於ける弁護人としての弁論が刺戟を与へたことに關係せるにあらざるや
との責任感より恐懼を感じ、 次の如き進退伺を書き、
( 満井佐吉 『 進退の件御伺 』 )

其の夕刻直に陸大幹事岡部少將宅を訪問、之を提出し、
御許を得て、再び戒嚴司令部に至り

右旨を届出、挨拶をして、
御呼出しは陸軍大學を経て爲されたしと申述べ、夜半歸宅しました。
爾後謹愼して今日に至りました。
・・・満井佐吉中佐の四日間 


この記事についてブログを書く
« 昭和維新・大岸頼好大尉 | トップ | 昭和維新・山口一太郎大尉 »