あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・磯部淺一 (五) 獄中日記

2021年04月12日 11時48分36秒 | 昭和維新に殉じた人達

何にヲッー!、
殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、
死ぬることは負ける事だ、成仏することは、譲歩する事だ、
死ぬものか、成仏するものか
惡鬼となって所信を貫徹するのだ、
ラセツとなって敵類賊カイを滅盡するのだ、
余は祈りが日々に激しくなりつつある、
余の祈りは成仏しない祈りだ、
惡鬼になれる様に祈っているのだ、
優秀無敵なる惡鬼になる可く祈ってゐるのだ、
必ず志をつらぬいて見せる、
余の所信は一部も一厘もまげないぞ、
完全に無敵に貫徹するのだ、
妥協も譲歩もしないぞ


磯部浅一 

磯部淺一獄中日記
獄中日記 (一) 八月一日 「 何にヲッー! 殺されてたまるか 、死ぬものか 」
・ 獄中日記 (二) 八月六日 「 天皇陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ 」
・ 獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」
・ 獄中日記 (四) 八月十五日「 俺は一人、惡の神になつて仇を討つのだ 」
・ 獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」
 


余の所信とは
日本改造方案大綱を一点一角も修正する事なく完全に之を実現することだ
方案は絶対の真理だ、
余は何人と雖も之を評し、之を毀却(キキャク)することを許さぬ
方案の心理は大乗仏教に真徹するものにあらざれば信ずる事が出来ぬ
然るに 大乗仏教所か小乗もジュ道も知らず、
神仏の存在さへ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生等が、
わけもわからずに批評せんとし 毀たんするのだ。
余は日蓮にはあらざれども
方案を毀る輩を法謗のオン賊と云ひてハバカラヌ 日本の道は日本改造方案以外にはない、
絶対にない、
日本が若しこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の没落の時だ
明かに云っておく、改造方案以外の道は日本を没落せしむるものだ、
如何となれば
官僚、軍幕僚の改造案は国体を破滅する恐る可き内容をもつてゐるし、
一方高天ヶ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考へている、
共産革命家復古革命かが改造方案以外の道であるからだ
余は多弁を避けて結論だけを云っておく、
日本改造方案は一点一画一角一句 悉く心理だ、
歴史哲学の心理だ、
日本国体の真表現だ、
大乗仏教の政治的展開だ、
余は方案の為めには天子呼び来れども舟より下らずだ。
・・・ 「 何にヲッー! 殺されてたまるか 、死ぬものか 」

天皇陛下
陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、
御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、
今に今に大変な事になりますゾ、

明治陛下も皇大神宮様も何をして居られるのでありますか、
天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか、

日本の神々はどれもこれも皆ねむつておられるのですか、
この日本の大事をよそにしてゐる程のなまけものなら日本の神様ではない、
磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、
そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追ひはらつてしまふのだ、
よくよく菱海の言ふことを胸にきざんでおくがいい、
今にみろ、
今にみろッ

・・・ 「 天皇陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ 」

天皇陛下は十五名の無雙(ムソウ)の忠義者を殺されたのであらふか、
そして陛下の周囲には国民が最もきらってゐる国奸等を近づけて、
彼等の云ひなり放題に御まかせになつてゐるのだらふか、
陛下、
吾々同志程、 国を思ひ 陛下の事をおもふ者は日本国中どこをそがしても決しておりません、
その忠義者をなぜいぢめるのでありますか、 朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、
仮にも十五名の将校を銃殺するのです、
殺すのであります、 陛下の赤子を殺すのでありますぞ、
殺すと云ふことはかんたんな問題ではない筈であります、
陛下の御耳に達しない筈はありません、
御耳に達したならば、 なぜ充分に事情を御究め遊ばしませんので御座いますか、
何と云ふ御失政でありませう
こんなことをたびたびなさりますと、日本国民は、陛下を御うらみ申す様になりますぞ、
菱海はウソやオベンチャラは申しません、
陛下の事、日本の事を思ひつめたあげくに、
以上のことだけは申上げねば臣としての忠道が立ちませんから、
少しもカザらないで陛下に申上げるのであります
陛下
日本は天皇の独裁国であつてはなりません、
重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、
明治以後の日本は、 天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、
もつと ワカリ易く申上げると、
天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、
左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません、
然るに、今の日本は何と云ふざまでありませうか、
天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか、
いやいや、よくよく観察すると、
この特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、
天皇をローマ法王にしておりますぞ、
ロボツトにし奉つて彼等が自恣専断(ジシセンダン)を思ふままに続けておりますぞ
日本国の山々津々の民どもは、
この独裁政治の下にあえいでゐるのでありますぞ
陛下
なぜもつと民を御らんになりませんか、
日本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ
陛下がどうしても菱海の申し条を御ききとどけ下さらねばいたし方御座いません、
菱海は再び、陛下側近の賊を討つまでであります、
今度こそは 宮中にしのび込んででも、 陛下の大御前ででも、 きつと側近の奸を討ちとります
恐らく 陛下は  陛下の御前を血に染める程の事をせねば、御気付き遊ばさぬでありませう、
悲しい事でありますが、陛下の為、 皇祖皇宗の為、 仕方ありません、
菱海は必ずやりますぞ 悪臣どもの上奏した事をそのままうけ入れ遊ばして、
忠義の赤子を銃殺なされました所の 陛下は、不明であられると云ふことはまぬかれません、
此の如き不明を御重ね遊ばすと、神々の御いかりにふれますぞ、
如何に 陛下でも、神の道を御ふみちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります
統帥権を干犯した程の大それた国賊どもを御近づけ遊ばすものでありますから、
二月事件が起こったのでありますぞ、
佐郷屋、相沢が決死挺身して国体を守り、統帥権を守ったのでありますのに、
かんじんかなめの 陛下がよくよくその事情を御きわめ遊ばさないで、
何時迄も国賊の云ひなりなつて御座られますから、
日本がよく治まらないで常にガタガタして、そこここで特権階級をつけねらつてゐるのでありますぞ、
陛下 菱海は死にのぞみ 陛下の御聖明に訴へるのであります、
どうぞ菱海の切ない忠義心を御明察下さります様 伏して祈ります、
獄中不断に思ふ事は、陛下の事で御座ります、
陛下さへシツカリと遊ばせば、日本は大丈夫で御座居ます、
同志を早く御側へ御よび下さい


八月十二日
今日は十五同志の命日
先月十二日は日本歴史の悲劇であつた
同志は起床すると一同君が代を唱へ、
又 例の渋川の読経に和して眼目の祈りを捧げた様子で
余と村とは離れたる監房から、わづかにその声をきくのであつた
朝食を了りてしばらくすると、
萬才萬才の声がしきりに起る、
悲痛なる最後の声だ、 うらみの声だ、
血と共にしぼり出す声だ、
笑ひ声もきこえる、 その声たるや誠にイン惨である、
悪鬼がゲラゲラと笑ふ声にも比較出来ぬ声だ、
澄み切つた非常なる怒りとうらみと憤激とから来る涙のはての笑ひ声だ、
カラカラした、ちつともウルヲイのない澄み切つた笑声だ、
うれしくてたらなぬ時の涙より、もつともつとひどい、形容の出来ぬ悲しみの極みの笑だ
余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと
思ったが、泣ける所か涙一滴出ぬ、
カラカラした気持ちでボヲーとして、何だか気がとほくなつて、
気狂ひの様に意味もなく ゲラゲラと笑ってみたくなつた
御前八時半頃からパンパンパンと急速な銃声をきく、
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた
余りに気が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思ってやつてみたが、
声がうまく出ないのでやめて 部屋をグルグルまわつて何かしらブツブツ云ってみた、
御経をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた
午前中に大体終了した様子だ
午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて来て話しもしないで声を立てて泣いた、
アンマリ軍部のやり方がヒドイと云って泣いた、
皆さんはえらい、たしかに青年将校は日本中のだれよりもえらいと云って泣いた、
必ず世の中がかわります、キット仇は討ちますと云って泣いた、
コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云って泣いた、
中には私の手をにぎつて、
磯部さん、私たちも日本国民です。
貴方達の志を無にはしませんと云って、誓言をする者さへあつた
この状態が単に一時の興奮だとは考へられぬ、
私は国民の声を看守諸君からきいたのだ、
全日本人の被圧迫階級は、コトゴトク吾々の味方だと云ふことを知って、力強い心持になつた、
その夜から二日二夜は死人の様になつてコンコンと眠った、
死刑判決以後一週間、
連日の祈とう と興フンに身心綿の如くにつかれたのだ
二月二十六日以来の永い戦闘が一先づ終ったので、つかれの出るのもむりからぬ事だ
宛も本日---- 弟が面会に来て、寺内が九州の青年にねらはれたとかの事を通じてくれた、
不思議な因縁だ、 たしかに今に何か起ることを予感する、
余は死にたくない、 も一度出てやり直したい、
三宅坂の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる、
死にたくない、 仇がうちたい、 全幕僚を虐殺して復讐したい
・・・「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」

村中、安ド、香田、栗原、田中、等々十五同志は
一人残らず偉大だ、神だ、善人だ、
然し余だけは例外だ、余は悪人だ、
だからどうも物事を善意に正直に解せられぬ、
例の奉勅命令に対しても、余だけは初めからてんで問題にしなかつた、
インチキ奉勅命令なんか誰が服従するかと云ふのが真底の腹だつた、
刑ム所に於ても、どうも刑ム所の規そくなんか少しも守れない、
後で笑われるぞ、刑ム所の規そくを守っておとなしくしよう等、同志に忠告されたが、
どうも同志の忠告がぴんと来ぬ、あとで笑はれるも糞もあるか、
刑ム所キソクを目茶々々にこわせばそれでいいのだ 人は善の神になれ、
俺は一人、悪の神になつて仇をウツのだ
・・・「 俺は一人、惡の神になつて仇を討つのだ 」

天皇陛下
此の惨タンたる国家の現状を御覧下さい、
陛下が、私共の義挙を国賊反徒の業と御考へ遊ばされてゐるらしい
ウワサを刑ム所の中で耳にして、私共は血涙をしぼりました、
真に血涙をしぼつたのです
陛下が私共の挙を御きき遊ばして
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
と 云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして、
私は数日間気が狂ひました
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
とは 将して如何なる御聖旨か俄にわかりかねますが、
何でもウワサによると、
青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると云ふ意味らしい
とのことを ソク聞した時には、
神も仏もないものかと思ひ、
神仏をうらみました だが私も他の同志も、
何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、
泣いて泣き寝入りは致しません、
怒って憤然と立ちます
今の私は 怒髪天をつく の 怒にもえてゐます、
私は今、
陛下を御叱り申上げるところ迄、精神が高まりました、
だから毎日朝から晩迄、 陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あゆまりなされませ

・・・ 「 天皇陛下何と云ふザマです 」 


昭和維新・澁川善助

2021年04月11日 13時56分17秒 | 昭和維新に殉じた人達

この時 紺の背広の澁川が熱狂的に叫んだ
「 幕僚が悪いんです  幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか 野中が帰って来た
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである
「 野中さん、何うです」 誰かが駆け寄った 
それは緊張の一瞬であった
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして呟くように云った
一座は再び怒号の巷と化した
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた
・・・
澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」 


澁川善助

「 本事件ニ參加スルニ至リシ事情竝ニ爾後ノ所感念願 」
( 豫審中の昭和11年4月8日付で提出した手記 )
本事件ノ意義
國ノ亂ルゝヤ匹夫猶責アリ。
況ンヤ至尊ノ股肱トシテ力ヲ國家ノ保護ニ盡シ、我國ノ創生ヲシテ永ク太平ノ福ヲ受ケシメ、
我國ノ威烈ヲシテ大ニ世界ノ光華タラシムベキ重責アル軍人ニ於テヲヤ。
『 朕カ國家ヲ保護シテ上天ノ惠ニ應シ祖宗ノ恩ニ報ヒマイラスル事ヲ得ルモ得サルモ
 汝等軍人カ其職を盡スト盡サ ゝルト由ルソカシ 』
ト深クモ望マセ給フ 大御心ニ副ヒ奉ルベキモノヲ、奸臣下情ヲ上達セシメズ、
赤子萬民永ク特權閥族ノ政治的、經濟的、法制的、權力的桎梏下ニ呻吟スル現實ヲモ、
國威ニ失墜セントシツツアル危機ヲモ、
「 大命ナクバ動カズ 」 ト傍観シテ何ノ忠節ゾヤ。
古來諫爭ヲ求メ給ヒシ御詔勅アリ。
大御心ハ萬世一貫ナリト雖モ、
今日 下赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ、上聞に達セズ、如何トモスベカラズ。

此ノ奸臣閥族ヲ サン除シテ 大御稜威ヲ内外ニ普カラシムル
是レ股肱ノ本分ニアラズシテ何ゾヤ。
實ニ是レ現役軍人ニシテ始メテ可能ナルニ、
今日ノ如キ内外ノ危機ニ臨ミテモ、頭首ノ命令ナクバ動キ得ザル股肱、
危險ニ際シテモ反射運動を營ミ得ず 一々頭脳ノ判斷ヲ仰ガザルベカラザル手脚ハ、
身體ヲ保護スベク健全ナル手脚ニ非ズ。
此ノ故コソ、『 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 』 ト詔イシナレ。
億兆を安撫シテ國威ヲ宣揚セントシ給フハ古今不易ノ 大御心ナリ。
股肱タルモノ、此ノ大御心ヲ奉戴シテ國家ヲ保護スベキ絶對ノ責任アリ。
今ヤ未曾有ノ危局ニ直面シツツ、大御心ハ奸臣閥族ニ蔽ワレテ通達セズ。
意見具申モ中途ニ阻マレテ通ゼズ。
萬策効無ク、唯ダ挺身出撃、万惡ノ根元斬除スルノ一途アルノミ。
須ラク以テ中外ニ 大御心ヲ徹底シ、億兆安堵、國威宣揚ノ道ヲ開カザルベカラズト。
今回ノ事件ハ實ニ斯ノ如クニシテ發起シタルモノナリト信ズ。
叙土世界ノ大勢、國内ノ情勢ヲ明察セラレアレバ、本事件ノ原因動機ハ自ラ明カニシテ、
蹶起趣意書 」 モ亦自ラ理解セラル ゝ所ナルベシ。
吾人ガ本事件ニ參加シタル原因動機モ亦、以上述ベシ所ニ他ナラズ。
臣子ノ道ヲ同ウシ、報國ノ大義相協ヒタル同志ト共ニ、
御維新ノ翼賛ニ微力ヲ致サントシタルモノ ニシテ、
斷ジテ檢察官ノ豫審請求理由ノ如キモノニハ非ザルナリ。

世界ノ大勢ト皇國ノ使命、當面ノ急務
今日人類文明ノ進展ハ、東西兩洋ノ文化ガ融合棄揚セラレテ、
世界的新文明ノ樹立セラルベキ機運ニ際會シ、而シテ之ガ根幹中核ヲ爲スベキ使命ハ嚴トシテ皇國ニ存ス。
即チ遠ク肇國ノ神勅、建國ノ大詔ニ因由アリ、
歴史ノ進展ト伴ニ東洋文化ノ眞髄ヲ培養シ、幕末以來西洋文化ノ精粋ヲ輸入吸収シ、機縁漸ク成熟シ來レルモノ、
今ヤ一切ノ殘滓ヲ淸掃シ、世界的新文明ヲ建立シ、
建國ノ大理想實現ノ一段階ヲ進ムベク、既ニ其序幕ハ、満洲建國、國際聯盟脱退、軍縮條約廢棄等ニ終レリ。
『 世界新文明ノ内容ハ茲ニ細論セズ。
 維新セラレタル皇國ノ法爾自然ノ發展ニヨリ建立セラルベキモノ、
宗教・哲學 ・倫理 ・諸科學ヲ一貫セル指導原理、
政治 ・經濟 ・文敎 ・軍事・外交 ・諸制百般ヲ一貫セル國體原理ヲ基調トスル
齊世度世ノ方策ノ世界的開展ニ随ツテ精華ヲ聞クベシ。』
而モ、列強ハ弱肉強食ノ個人主義、自由主義、資本主義的世界制覇乃至ハ
同ジク利己小我ニ發スル權力主義、獨裁主義、共産主義的世界統一ノ方策ニ基キテ、
日本ノ國是ヲ破砕阻止スベク萬般ノ準備ニ汲々タリ。
皇國ノ當面ノ急務ハ、國内ニ充塞シテ國體ヲ埋没シ、大御心ヲ歪曲シ奉リ、民生ヲ殘賊シ、
以テ皇運ヲ式微セシメツアル旧弊陋廢ヲ一掃シ、
建國ノ大國是、明治維新ノ大精神ヲ奉ジテ上下一心、世界的破邪顯正ノ聖戰ヲ戰イ捷チ、
四海ノ億兆ヲ安撫スベク、有形無形一切ノ態勢ヲ整備スルニアリ。
現代ニ生ヲ享ケタル皇國々民ハ須ラク、茲ニ肅絶莊嚴ナル世界的使命ニ奮起セザルベカラズ。
此ノ使命ニ立チテノミ行動モ生活モ意義アリ。
私慾ヲ放下シテ古今東西ヲ通観セバ自ラ茲ニ覺醒承當スベキナリ。

國内ノ情勢
顧レバ國内ハ欧米輸入文化ノ餘弊―個人主義、自由主義ニ立脚セル制度機構ノ餘弊漸ク累積シ、
此ノ制度機構ヲ渇仰導入シ之ニ依存シテ其權勢ヲ扶植シ來リ、
其地位ヲ維持シツアル階層ハ恰モ横雲ノ如ク、仁慈ノ 大御心ヲ遮リテ下萬民ニ徹底セシメズ、
下赤子ノ實情ヲ 御上ニ通達セシメズシテ、内ハ國民其堵ニ安ンズル能ハズ、
往々不逞ノ徒輩ヲスラ生ジ、外ハ欧米ニ追随シテ屡々國威ヲ失墜セントス。
『 六合ヲ兼ネテ都ヲ開キハ紘ヲ掩イテ宇ト爲サン 』
 ト宣シ給エル建國ノ大詔モ、
『 萬里ノ波濤ヲ拓開シ四海ノ億兆ヲ安撫セン 』
 ト詔イシ維新ノ 御宸翰モ、
『 天下一人其所ヲ得ザルモノアラバ是朕ガ罪ナレバ 』
 ト仰セヒシモ、
『 罪シアラバ、我ヲ咎メヨ 天津神民ハ我身ノ生ミシ子ナレバ 』
 トノ 御製モ、殆ド形容詞視セラレタルカ。
殊ニ軍人ニハ、
『 汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ナリテ力ヲ國家ノ保護ニ盡サバ
 我國ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我國ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌベシ 』
 ト望マセ給ヒシモ、現に我國ノ蒼生ハ窮苦ニ喘ギ、我國ノ威烈ハ亜細亜ノ民ヲスラ怨嗟セシメツ ゝアリ。
是レ軍人亦宇内ノ大勢ニ鑑ミズ時世ノ進運ニ伴ハズ、
政治ノ云爲ニ拘泥シ、世論ノ是非ニ迷惑シ、報國盡忠ノ大義ヲ忽苟ニシアルガ故ニ他ナラズ。
斯ノ如キハ皆是レ畏クモ 至尊ノ御式微ナリ。
蒼生を困窮セシメテ何ゾ宝祚ノ御隆昌アランヤ。
内ニ奉戴ノ至誠ナキ外形ノミノ尊崇ハ斷ジテ忠節ニ非ズ。
君臣父子ノ如キ至情ヲ没却セル尊嚴ハ實ニ是レ非常ノ危險ヲ胚胎セシメ奉ルモノナリ。
政治ノ腐敗、經濟ノ不均衡、文敎ノ弛緩、外交ノ失敗、軍備ノ不整等其事ヨリモ、
斯ノ如キ情態ヲ危機ト覺ラザル、知リテ奮起セザルコソ、更ニ危險ナリ。
現ニ蘇・英・米・支・其他列國ガ、如何カシテ日本ノ方圖ヲ覆滅セント、孜々トシテ準備畫策ニ努メツ ゝアルトキ、
我國ガ現狀ノ趨く儘ニ推移センカ、建國ノ大理想モ國史ノ成跡モ忽チニシテ一空ニ歸シ去ルベシ。
・・・以上、手記から
・・・澁川善助 『 赤子ノ心情ハ奸閥ニ塞ガレテ上聞に達セズ 』

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二十六日午後、
直心道場系の福井幸、加藤春海、佐藤正三、宮本誠三、杉田省吾、山中伊平らは、
西田宅 ( 同人不在 ) に集り、
澁川、杉田らから知り得た東京の情勢を各地に知らせて
与論を喚起し呼応蹶起を訴えるべく、
つぎのような
『 昭和維新第一報 』 を 二十六日一〇時頃 全國の軍人 および 民間同志 約二五〇名に發送した。

昭和維新第一報
二月二十六日早朝四時
維新皇軍東京部隊大擧蹶起し、
皇城を奉じて維新の大義を宣明し、 反維新勢力の元兇、首脳を粉砕討滅せり。
概況左の如し
一、
主力  皇道維新派歩一、歩三の大部隊其他、近歩、豊橋部隊。
二、
配備  皇城を守護し奉り、丸の内各省官衙かんが、大銀行、新聞社等を完全に占據す。
三、
斬奸  西園寺 ( 生死不明 )、牧野、齋藤 ( 實 )、岡田、高橋、後藤、渡部敎育總監、鈴木 ( 貫太郎 )
小栗警視總監、川島 ( 參内の途中行方不明 )。
四、
反應  内閣總辭職、後繼内閣不明、陸軍首脳部混亂、海軍一致維新軍支持、
芝浦に軍艦二艘入港、陸戰隊上陸
五、
對策  維新軍の赤誠を上聞に達し御親裁御嘉納を仰ぐべく工作進展中 ( 好望 )、
國民的意思表示の要あり。
全國同志奮躍興起すべきは唯千載一遇の今にあり。
各位不退轉の決意を以て大義に參ぜよ。 先づ 環境に應じて左の処置を執られたし。
A  各地皇軍の奮起を促進すべし。
B  大擧實力を示威し、地方長官に面接昭和維新に賛せしめ、
    維新内閣出現の國民的翹望ぎょうぼうを上奏傳達せしむ。
C  侍從武官府宛維新内閣出現の國民的翹望を上申すべく電報書信の急霰を注ぐこと。
D  各地に聯絡すべきこと。
E  其他適宜可能なる一切の手段を盡くすこと。
以上
( 續報 )  臨時首相大角大將、其他閣僚は其儘
 維新同志會同人
( 昭和維新 は 第二報・二七日正午、 第二報續報・二七日午後五時、 第三報・二八日午後八時 と 發行された )
・・・澁川善助 ・ 昭和維新情報

これに おうじた動きを示さんとしたのが、
石川県金沢市の天剣塾、静岡県清水市の核心社支局、
富山県の伏木愛国青年同盟、日本農人社、北海道の全日本護国聯盟、 熊本県の大日本護国熊本軍団、などである。
その行動はいずれも 『 昭和維新情報 』、『 蹶起趣意書 』 などの複製頒布が主であった。
ただ、金沢天剣塾の場合は、生駒石川県知事に面接してこれを動かさんとし、
あるいは同地在職の青年将校明石寛二、市川芳男と相謀る所あったことがやや注目される。
この頃の民間右翼側、とくに直心道場系の動きは、
つぎの 『 三角友幾君の手記抜粋 』 に 生き生きと描かれている。
( 三角は直心道場同人であったが、当時 脊髄カリエスを病んで起てなかった )

『 三角友幾君の手記 』
不肖は、奥さんと状勢の有利を喜びつゝ、
遂に ぢっとして居れなくなって、 起き上がって壁を伝ひ、障子にすがり、
階段をはって降りて、 皆んなの集ってゐる食堂に横たはった。
・・・・・・ 警視庁を占拠された警察の連中が、尊皇軍有利の報告を以てご機嫌伺ひに来る。
此の犬奴。
民間の愛国運動者が、どうしたらいいかと相談に来る。
橋本欣五郎大佐の使者として、宇都宮良久氏が、此の際三万円位の金なら都合をつけるから、
全国の愛国団体の統一運動を急速に起し、尊皇軍と合流しようぢやないかと--。
・・・・・・
ラヂオがやっと放送を開始した。
尊皇軍が占領しているのではないのだ。
皆んなの顔がサッと緊張する。
アッ ! 牧野も殺されていない。
西園寺も高橋も後藤も一木も 生きている。
何と言ふことだ。
・・・・・・
澁川さんが来た !
頭は丸坊主にして、
髯はきれいに削り落し、流石に蒼白に緊張して居られる。
皆んなの目と同時に質問が渋川さんに集中する。
「 何故 放送局を占領しなかったんですか 」
「 何故銀行を襲撃しなかったのですか 」
「 上部工作は ? 」 澁川さんの真一文字に結ばれた口は容易に開かない。
やがて徐に、
「大勢は勢を以て之迄押し進められて来たのです。 後はお互同士が如何に善処するかにかかっています 」
皆んな頭を垂れた。
腹がないのだ。
「 扨さて自分はどうする 」
と言ふことになれば決心がつかないのだ
・・・
澁川さんが来た


二月二十八日の早朝、
特高がやって参りました。
「 西田はいるか。家宅捜索する 」
「 ちょっと待って下さい 」
わたくしは泊りこんでいた澁川さんを呼びました。
「 家宅捜索などすると住居不法侵入になるぞ 」
と 澁川さんは特高を追い返し、
首相官邸へ連絡の電話をかけていましたが、埒があかなかったのでしょう。
「 奥さん、警察がこんなことを言ってくるというのはどうも形勢がおかしい。 様子を見てきます」
と 言って三宅坂へ向かいました。
澁川さんは初めて事件の渦中へ去ったのです・・・西田はつ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二十八日午前十時頃
初めて同志が集つて居ると聞きまして、 赤坂見附山王下料理店幸楽に行きました。 
夫迄は今回の事件には直接関係することなく、
外部に居て外の同志の人々に事件の模様を知らして居りましたが、
事件に参加して居る同志の模様が心配でありましたので云ったのであります。
私は幸楽に行きました時には、 同志歩三の安藤大尉、坂井中尉と其部隊が居りました。
同日の午後四時頃
参謀本部を占拠する為に出発する坂井部隊と一緒に参謀本部に行きましたが、
同所の幕僚の方が明渡して呉れませんので、
坂井部隊と共に陸相官邸に行きましたが、時間は判りませんが暗くなつて居りました。
陸相官邸では、参謀本部副官が出て参り、自由に使へと言って呉れましたので、
玄関より這入るとすぐの大広間及小室を使用しました。
夫れから時間も、亦誰が言ふたかも判りませんが、
明朝早くより攻撃されると言って来ましたので、坂井は防禦の準備をしました。
私の考では、多分、 鉄道大臣官邸に居る野中、村中、竹嶌、對馬の方から言って来たものと思ひます。
然し私は攻撃される様な事はないと考へて居ました。
多分、之は今迄の如く嚇しの手だと思って居りましたが、
夜中過ぎ、愈々来ると言ふ事が決まり、
真実らしくなりましたので、部隊は防禦の準備をして居りました。
陸相官邸にある色々の者を持ち出して、防禦の為の布団を出す時、
仕込杖及短刀がありましたので之を無断で使用したことや、
煙草等を私が無断で下士官兵に迄分配したことに就ては陸相に申訳ないと思って居ります。
其夜は官邸で夜を明し、 
二十九日午前八時頃、戦車の音が聞えて来ましたが、
其折ちょうど栗原が来て 此の立派な下士官兵を殺傷せしむるに忍びない。
我々の心を此の忠勇なる下士官兵に受継せたい。
我々はどうなつても、此頼もしい部下だけを無事にある様交渉しやうと云って、
兵隊を殺すことを大分心配して居りました。
程なく歩四九の大隊長及中尉の方が見え、
「 命令は出たが我々はとても射撃は出来ない 」 と 言ひました。
坂井中尉はそこで、
「 我々の方は何等反撃するものではありません。
何卒当方は御心配なく上御維新の翼賛に邁進しました。
表へ出た大隊長は、近く迄来た戦車を元の位置迄戻されました。
栗原は
「 安藤さんの方へ行って来る。皆は陸相官邸にいつて居るように 」
と 申して去りました。
そこで中橋、池田、中島、林等が先づ集りました。
此の時午前九時頃 と思ひます。
坂井、高橋、麦屋の三人が 別室で同志以外の将校に説得されて居るらしいので、
中橋、池田等が迎へに行ったが帰って来なかったので 迎ひに行ったが、
夫れでも帰って来ませんでした。
今度は同志が 「 私に行け 」 と 申しますので行きまして、
「 生死一如の翼賛 」 を 説き三人共漸く諒解して呉れました。
私は安心して皆の所に帰ろうとしますと、
憲兵が 「 皆の処にお連れするから 」 と 欺いて 別室に拉致し、施縄しました。
・・・
澁川善助の四日間

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
俺は絶對死なぬぞ。

肉体は亡びても魂はあくまで此の世に残って、楠公の七世討奸のように、永刧に志を遂げる迄戦うのだ。
俺達は命が惜しいと言うのではない。
明治維新に於て有為な人材を失ったと同じことを、 今日再びくりかえすことによって、
日本が亡國たらんとすることを慨歎するのだ。
君達はどうか、俺のこの言葉を忘れないで記憶して置いて貰いたい。
事ここに至っては、一切は君達の双肩にかかっているのだ。
冥々の加護を信じて奮闘してくれ。 それだけが願いだ。
観音経に修羅を以て得度するものには即ち修羅の身を現じて云々とある。
 然り、我々も修羅と化して七生討奸を念じている。
処刑の前日の11日
眞崎、荒木、山下等の将軍連中の名を挙げて、
物凄い形相で
『 彼等は我々をたきつけておきながら、イザという時になったら裏切った。
 だから この首を打ち落ちたら、 虚空を飛んで行って 彼等の首つたまに食らいついてやる 』

白装束。
本当に殺しちまいやがった! 
畜生!
繃帯が額を鉢巻にして顎にまわされている。
銃丸が眉間と顎を貫通しているに違いない。
誰が撃ちやがったのだ。
面会の時言われたように、
歯を食いしばって、半眼に開かれた眼が虚空をにらんでいる。
・・・ 昭和11年7月12日 (六) 澁川善助 


昭和維新・水上源一

2021年04月10日 13時52分31秒 | 昭和維新に殉じた人達

私ガ日本大學に入校シマシタ當時、
校内ニ於テ、學生ガ共産主義ヲ云々シ、演説練習ニ共産党理論ヲ口説シ、
畏クモ皇室ノ尊嚴ヲ冒瀆スルガ如キ言辭ヤ私有財産制度ノ非認ヲ云々スルガ、
學生間ニ非常ナ拍手感動ヲ與ヘテ居ルノデ、
田舎出ノ私ニハ共産党トハ如何ナルモノカ分ラナカッタガ、 
皆ニ嚮ツテ
「 日本ハ他國ト國體ヲ異ニシ 立派ナ國ノ筈ダ 」
トテ 國體観ヲ述ベタガ弥次ラレテシマッタ様ナ狀態デ、當時ハ各大學共左翼化シ來テイタ時代デアリマシタ。
ソレカラ私ハ共産党ノ理論ヲ研究シテ見タガ、私ノ國體観ガ正シイノダト信ジマシタ。 
然シ、コウシタ學生間ノ叫ビノ内ニ我國ノ何処カニ欠陥ガアルヨウニ感ジマシタ。
ソレカラ一度議會ノ傍聽ニ行ツタ際、
神聖ナルベキ國會議場ガ、マルデ政權爭奪ノ修羅場ノ如クデアルノデ、
コレデハ立派ナ政治ガ行ハレナイト感ジマシタ。
ソレハ田中大將ノ張作霖爆死事件等 議場ノ問題トスベキモノニ非ザルニ、
政權爭奪ノ具ニ供シ、 
議會ニ於テ暴露スルガ如キハ 徒ラニ國際關係ヲ惡化スルモノト思ヒ、
政党ニ對スル不満ヲ抱クヨウニナリ、
又、續イテ起ツテ來タ ロンドン軍縮會議ニ於ケル 政府特權階級ノ私利私慾ニ基ク屈辱的條約ニ締結
及ビ政党財閥ニヨル弗買ヒ、満洲事變時ニ於ケル塩賈事件等
私利私欲ノタメニハ國家國民モ眼中ニナキ輩 ( 特權階級 ) ニ對スル不満ヲ
一層感スルニ至リマシタ。
ソレカラ
「 コノ儘テハイケナイ、何ントカセネバナラヌ 」
ト考ヘタガ如何トモ出キマセンデシタ。
其処デ私ハ昭和七年五月十六日、自ラ主唱シテ學生間ニ愛國團體 救國學生同盟 ヲ設立シ、
事務所ヲ千駄ヶ谷ニ置イテ合法的運動デ進ンデイマシタ。
當時ノ會員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等デ、約4百名アリマシタガ、
之ハ、既ニ解散シ、
昭和九年二月十一日 日本靑年党 ヲ設立シ、同十年八月 郷軍同志會 ヲ設立致シマシタ。
コウシタ私ノ氣持ガ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナツテ居リマス。
・・・反駁 ・ 牧野伸顕襲撃隊 1 水上源一 

 
水上源一

栗原中尉ト知リ合ヒタル後ハ時々出入シ、國家改造ヲ論議シ來リシガ、
栗原中尉ヨリ、二月二十三日頃満洲ニ出征スルカラ面會ニ來イトノ事デ、
二十四日ニ同中尉ヲ訪問シタルガ、
今日ハ多忙デ面會出來ヌカラ二十五日ノ午後九時頃來イトノ事デ、
二十五日午後九時頃栗原中尉ヲ訪レタルニ、明朝午前五時ヲ期シテ決行スル旨聞キ、
始メテ維新斷行ノ決行ヲ知リ、參加ヲ承諾シ、參加セリ
栗原中尉ヨリ日本刀ヲ与ヘラレ、
午前零時三十分頃、 航空兵河野大尉外六名ト共ニ營門前カラ自動車二台ニ分乗シ、
神奈川県湯河原ニ嚮ケ出發、
午前五時頃湯河原伊藤旅館別館ニ到着、
河野大尉ノ指示ニ從ヒ同館ヲ襲撃、放火後、同七時頃自動車ニ分乗、
河野大尉負傷シタルヲ以テ熱海病院ニ嚮ヒ、到着后三島憲兵隊ニ同行セラレタリ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二月二十五日夜、麻布霞町ノ家カラ歩一ヘ嚮イ、
コノ日初對面ノ河野大尉ノ指揮下ニ入ツテ牧野前内大臣ノ逗留先湯河原ヘ嚮ウ。
一隊ハ
所沢飛行學校在學中ノ陸軍航空兵河野壽、
歩一第六中隊歩兵軍曹宇治野時參、
歩一歩兵砲隊歩兵一等兵黒澤鶴一、
民間カラ
豫備歩兵曹長宮田晃、同ジク中島清治、
豫備歩兵上等兵黒田昶、
水上源一、綿引正三 ヲ加エタ八名カラ成ツテイタ。
二十六日午前五時ヲ期シ襲撃開始直後、
河野大尉ト宮田晃ハ警官ノ銃彈ニヨリ負傷。
計畫變更ヲ餘儀ナクサレテ伊東屋別館ヘ放火。
女装ニカクレテ牧野伸顕ハ逃ゲノビタ。
宮田晃を湯河原の病院へ入院させ、
七名は前夜東京カラ乗ツテキタ二台ノ乗用車デ 熱海ノ陸軍病院ヘ嚮イ、
ココデ河野大尉ハ胸部盲貫ノ彈丸摘出手術ヲ受ケ、三月六日ニ自決スル。
殘ル六人は二十六日中ハ病院内ニトドマリ、
二十七日ニ三島憲兵隊ヘ収容サレタ。
・・・反駁 ・ 牧野伸顕襲撃隊 1 水上源一 



河野は胸部の盲貫銃創で、すでに行動の自由を失っていた。
「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」
軍刀を杖に、辛うじて身を支える河野の声が暁闇に響いた。
しかし、この命令にこたえて、再び邸内に躍り込む人はいなかった。
失望の色が河野の面上に深く、身もだえして切歯した。
「 万事休す!」
一刻の猶予も許さない場合である。
最後の手段は、不本意だった。やりたくなかった。
しかしいまとなってはそれよりほかに方法がなかった。
河野は牧野伯の寝室に向って、屋外から機銃の掃射を命じるとともに、
放火もまたやむをえないと決意しなければならなかった。
偶然にも、炭の空俵が勝手口に立てかけてあった。
塵紙に点火してこれに火を移したのは水上であった。

・・・ 牧野伸顕襲撃 2 「 俺に代って誰か邸内に突っ込め 」

「 やられた、と いつて河野大尉が軍刀を杖にして出て来ました。

 胸から血が流れていました。
つづいて出て来た宮田は、首をやられていました。
河野大尉は道に腰を下して指揮をとりました。
しかし事実上の指揮者は、そのころから水上源一となったのです。
水上は、別荘の屋根の瓦を狙って機関銃で威嚇射撃をするように云いました。
私は中島と二人で屋根を狙ったところ、屋根瓦が躍って飛散しました。
機関銃のすさまじさにいまさらのようにおどろきました。
火をつけなけりゃダメだ、という水上の叫び声がしました 」 ・・・黒沢鶴一
・・・牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」 

 判決報道
水上源一は求刑では禁錮十五年、
そして死刑の判決を下された。


昭和維新・相澤三郎中佐

2021年04月09日 16時48分20秒 | 昭和維新に殉じた人達

しばらくでした
いつこられたんですか
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか 奥さんが知っています
承知しました
いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい

・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 

相澤三郎 
わしは仙台の藩士で、御維新の時には小義に囚われて官軍に抗し申訳ないことをした。
お前はどうか何時迄も天皇陛下に忠義を尽くし、此の父の代りを務めて呉れ。
これがわしの遺言じゃ ・・・父の遺訓

相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 ) クリック して頁を読む

「 偕行社で買物をして赴任する。」

永田軍務局長を刺殺したあと、相澤中佐はこういった。
決行の前夜、 西田税のうちに来合わせた大蔵大尉が 「 明日の予定は・・・・」 と、きいたときもこういったし、
決行直後山岡重厚中将から 「 これからどうするか 」 と きかれたときもこういった。
・・・・ 私もこのことばをはじめて聞いたときは奇怪に思った。
禅的な表現かとも思った。
禅的な表現には禅に通じない私などからみれば、飛躍があって、思念の追随しかねる場合がある。
が、相澤中佐の公判で述べたことのあとをたどれば、
奇怪であると思った ことばの意味が、おぼろげながら私にも理解できそうである。
先ず相澤中佐自身が 「 認識不足 」 という 当時の流行語によって
「 偕行社で買物をして赴任する 」 を 否定している。
偕行社で買物をして赴任しようなどと考えたことが、
認識不足だったことに、決行後すぐ気づいたと、述懐しているのである。
八月十二日、 すなわち決行の日の朝、西田のうちを出るまえに、 ひそかに書きしるした手記のなかに
「皇恩海より深し。然れども本朝のこと寸毫も罪悪なし」
の 句がある。

十一月二十日事件のあとの 昭和九年の年末から、十年の年頭にかけてのころ、
はじめて相澤中佐は永田軍務局長を斃す決意を抱いた。
十一月二十日事件は結局、
青年将校を弾圧しようとする永田軍務局長の策謀の一つの現れで、
辻政信の如きは、そのお先棒をつとめたにすぎないというのが相沢中佐の判断であった。
が 最初の決意は大岸大尉の反対にあって、一応おさめた形になっていた。
その後 天皇機関説問題をめぐる真崎教育総監の更迭があり、
そのいきさつに統帥権干犯事実があることに憤慨、 七月の上京となり、
その途中むかしの箱根越えに該当する丹那トンネルにさしかかった際、 頼三樹の詩を吟ずるうち、
ふと 永田少将一刀両断の決意を再燃させたが、これは自らの反省によって思いとどまった。
が、八月になって 磯部、村中が不穏文書配布を理由に免官となり、自分自身は台湾に転任ときまった。
ひとたび雲煙万里台湾に渡ってしまえば、内地の土を踏むことは容易でない。
このまま台湾に渡ることは、 相澤中佐の 「 尊皇絶対 」 の 信念がゆるさなかった。
思えば半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 であり、
したがって 「 偕行社で買物をして赴任する 」 だった。
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 決意だったのだろう。
この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相澤中佐の祈念であり祈願だったのだろう。
が、それは決行前後のしばしのあいだの安心だった。
決行後まもなく、それがたちまち峻険の難路と変じた。
それに気づいたことが 「 認識不足 」 の 自覚であり、嘆きだった。
決行後、麹町憲兵隊に収容された相澤中佐は、
そこで直ちに底意地の悪い憲兵曹長の取調べをうけなければならなかった。
それが 「 認識不足 」 を 自覚させられた最初だった。
が、それは同時に自分の無力に対する嘆きだった。
自分の力が足りないから人々を正道へ導くことができなかった、
自分がもっと偉大であったら、それができたであろうにという・・・。
「 偕行社で買物をして赴任する 」 は、狂愚のことばでなく、
決行前後のひととき、ようやくたどりついた安心の境地から発したことばだった。
それが意外に執拗強靭な抵抗の前に、
はかなく崩れて 「 認識不足 」 の 自覚を強いられることとなったのである。
たとえ かすかであっても、光明さしいれる一つの破壊孔を打通すれば、
闇を闇と さとらぬものも、さし込む光明に闇をさとり、
ひとたび打通された破壊孔を力あわして、
さらに拡大し、もっと光をさし入れる努力をすべきはずだった。
が 闇に慣れたものはそうはしなかった。
闇に慣れた習性から突然の光明に、かえって目がくらむのか、
それとも闇に適合さした自分の姿を光明にさらすのを恐れるのか、
わずかながら打通された折角の破壊孔を、再びふさぐことに懸命になるのだった。
そこに 「 認識不足 」 が あった。
偕行社で買物をすることもできず、台湾に赴任することもできず、
相澤中佐は代々木の衛戌刑務所の狭い官房に大きな体を収容された。
そこは相沢中佐が、天誅成就を祈願した明治神宮とは、
あいだに代々木練兵場をはさむだけのすぐちかくだった。
・・・・ 相澤中佐の決行は、
平素から中佐が抱懐する 「 尊皇絶対 」 の 信念が、時に遭って閃発したものだった。
相澤中佐における 「 尊皇絶対 」 は、中佐自身が公判廷でも述べているように、
同時に 「 国民も絶対 」 と いうことだった。
君主主義は同時に民主主義でなければならないということである。

日夜 民安かれとのみ祈る天皇の主観、
すなわち 大御心における民主主義国日本は 同時に
君の御為には、わが身ありとは思わぬ、
国民主観における 君主主義国日本でなければならないということである
ひたすらに民安かれと祈る大御心は
「 天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば」
の御宸念となる。

とすれば一人どころか、
おびただしい貧窮に泣く農村青年を部下に持つ青年将校が、
抽象的に軍人勅諭の忠節を信奉し、それを部下に向かって説くだけで、
わがことおわれりと、澄ましておられるかどうか。
尽忠報告の義務のみあって、その国に拠って生活する権利を保障されていない兵。
その兵に代表される庶民にかわって、腐敗堕落の財界、政界、軍閥権力層に、
革新の鉾先を向け反省を促することは、軍人勅諭の忠節の具体的実践であるはず。
ただそこに権力層が、とってもって己の安泰のためのとりでにしている法があった。
如実に自己権力の擁護のためには、
その源泉である私有財産と国体との抱き合わせを法に規定することも憚らなかった。
しかし法は法である。
それは必ずしも権力層の利益のためのみとは限らない。
その法を超越するところに青年将校の苦悩があった。
相澤中佐 半歳の苦悩もそれだった。
が 苦悩の果てに開かれたものが
「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 「 尊皇絶対 」 の 安心の境地だった。
法を犯した相澤中佐は 法によって裁かれればよかった。
しかし 「 尊皇絶対 」 は 如何に裁かれようとするのか。
まずくすれば尊皇絶対、国民絶対の維新があきらめられて、
あとに、国民絶対、尊皇排斥の革命のみが残る憂いがある。
・・・本朝のこと寸毫も罪悪なし


廿八日の永田事件、相澤中佐の公判は 午前十時五十五分再開後
身許調査、賞罰、経歴、家庭の事情、健康状態、趣味等につき尋問があって、次に相澤の思想、信念を訊く
法  『 被告の日頃の感慨は・・・・ 』 
相澤中佐は一段と聲に力を入れ 直立不動の姿勢で
私は小さい時から賢父に次のことを教へられました。
私の父は明治維新の際 大義名分を誤り、賊となつた事を残念に思ひ
「 お前が大きくなつたら陛下の御為めに盡さなくてはいけない、今一つは世の中には自分のものは一つもない、
総て天子様からお預かりしているもので、恩返ししなくてはならない 」
と 教へられました。
かうして私は大きくなりました恭しく思ひまするのに、
天皇陛下は天照皇大神と共に天地創造の神であります。

大君 絶對であらせられます
吾々がこの世に生れた眞の意義は顕官や富豪になるといふやうな生物的慾望であつてはならない、
東西を通じて人間の眞の使命は道徳の完成と眞理の究明に向つて進むべきにある。
日本人は大神の広大無邊の懐に包まれて生まれているのであつて、
日本の使命は天の大岩戸を開いて廣く全世界に御稜威を輝かすにあります。
私の信念は以上述べました處によつて私利私慾の根源をなくするため明治維新の版籍奉還則り、
この總ての財を陛下に奉還するにあると思ひます 』
・・・ 新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 


相澤公判は、二日か三日おきぐらいに行われた。
その第三回目の二月一日だった。
鵜沢弁護人は、佐藤裁判長に師団司令部にもたらされた血書二通を提出した。
佐藤少将がいちおう眼を通してから、これを相澤中佐に示すと、彼は深く頭をたれて涙をふいていた。
やがて、頭をあげると、軍隊や陸士教育の欠陥を論じ、
「 ---私慾のために、ほらが峠をきめこんで、いつも利口に立ちまわっているようなものは、
 あくまでも一刀両断にすべきであります 」

と 結んだ。

第四回目の二月四日には、 前三回にくらべ、相澤の態度はずっと落ちついていた。
もういうべきことは言ってしまった、 と いう安堵感があったのであろう。
劈頭、裁判長が 「 何か話したいことがあるか 」 と たずねたのに対し、
相澤は、
「 この尊い法廷において、相澤の信念を暴露させていただいたことは、無上の光栄と思います。
 また、鵜沢先生のような尊敬すべき方から弁護をうけることは、なによりもありがたいことであります。
自分は、さきに三長官会議にふれて、輔弼の責任云々といって、
参謀総長宮殿下に言葉をおよぼしましたが、これは考えるだに畏れ多いことであります。
最後に斎藤内府が、今期の陸軍定期異動について、『 この異動は大御心に副ったものである 』 と いったが、
その点全く同感でありまして今後側近にあって、ますます重責を果されることを願ってやみません 」

いかにも最後の挨拶のような陳述をしたが、
裁判長は、

「 なお、審理上必要があるので、いま少したずねたい。 重複をかえりみずに答えるよう 」
と、諭した。
これから審理はつづけられ 相澤の決行と国法との関係、
決行の決意、決行後の台湾赴任などの神がかり問答が行われた。
「 被告は今回の決行と国法との関係を、どういうふうに考えたか 」
「 決行を決意するにいたりましたのは、絶対の境地においてであります。
 主観と申しますか、絶対の境地になったときは、
尊い気持が支配しておりますから、ほかのことは考えなかったのであります 」

「 原因動機をきけば、決して発作的でなく、

熟慮を重ねたのちの決行で、決行前に法的関係を考えなかったのか。
人を殺害すること、ことに上官を殺害することは、軍人としては重大なことだ。
上官を殺害すれば どうなるか、その点を考えなかったというのか 」
「それは、しじゅう考えていましたが、いま申し上げましたような心境になっていたので、
 決行は正しいから、法はかえりみる必要はないと思っていたのであります 」

「 国法をかえりみないというのは、国法を尊重しなくてもよいというのか 」

「 教育勅語に国憲を重んじ、国法に遵い、とあります。 自分はこの勅語を重んじ、遵うものであります 」
「 それでは、被告は国法の大切なことは知っているが、
今回の決行はそれよりも大切なことだと信じたのか 」
「 そうであります。  大悟徹底の境地に達したのであります 」
さらに、この決意にいたるまでの事実認識について、

「 なにをもって、かかる事実を信じたのか 」
「 前、述べたような私の真剣な感じと、実際見聞した点からであります 」
「 永田局長に辞職勧告の日、西田方における会合の模様はどうか 」

「 大蔵大尉以外には会わず、 翌朝帰福し、村中からの文書を受け取ったのであります 」
「 それを真実と思ったのか 」

「 そうであります 」
「 そのとき、せっかく事情を確めるために上京したのだから、
なぜ、もう少しほかの方面で確めなかったのか 」
「 その時の気分は、ちょうど軍人が戦場において、刃の下で向かい合っているような鋭い気分で、
いま、この法廷で考えられるような 暢気なものではありません 」
訊問はここでも、相澤精神の不可知論に突きあたった。

「 では、要するに、その瞬間の事情が、永田局長の術策によるものと信じたのだね 」
「 南、林閣下らが、元老、重臣、官僚、財閥たちとともに、
 背後にいて、永田閣下にやらせていた、と 固く信じていました 」
「 その意見が、どういう根拠から出たかということを、いま少し、考える余地はなかったか 」

「 私は どこまでも御奉公する、という気分で、他に考えはありませんでした 」
このようにして、相澤の神がかり問答は、決行後の台湾赴任におよび、

彼のいう認識不足の問題、即ち、うまくいけば無罪放免、悪くいけば殺されるということ
--- しかし 、彼のやったことは、うまくいかなかった。
そこに認識の不足があったと述べたことから、
杉原法務官との間に、この 「 認識不足 」 の問題をめぐって、二、三の押問答がくりかえされた。
すると、鵜沢弁護人が立って、
「 被告は、決行した行為自体が認識不足と思ったのか、決行後、目的の維新に達しんかったのが、認識不足というのか、
 はっきりしないものがある。 この点をはっきりとていただきたい 」
と 発言したので、杉原法務官が相澤に問いただすと、
「 決行することに認識不足はありません。 よいことだと思っています。
 決行後のことが認識不足であったのであります 」

「 それでは、維新が来るという、それができなかったと解釈してよろしいか 」

と 鵜沢博士が念を押すと、「 そのとおりであります 」 と 相澤は、はっきり答えた。
・・・所謂 神懸かり問答 「 大悟徹底の境地に達したのであります 」 

私位幸福者は有りません
兎に角、自分の思ふ通りに凡てを実行して来たのですから、
之で一切の仕事は終つたので喜んで大往生が出来ますよ
ですから何も 恨みも悲しみも有りません


昭和維新・菅波三郎大尉

2021年04月08日 14時16分41秒 | 昭和維新に殉じた人達

« 十月事件 »
定刻をすぎても橋本中佐らは現われなかった。
ほかにも一つ会合があって、それが済んでからこちらにまわるということだった。
それを告げに私たちの小部屋にはいってきた参謀本部の通訳将校、
天野(勇)中尉が、このとき私にとっては奇怪なことをもらした。
「これはまだいわないほうがいいかも知れないが、
橋本中佐はクーデターが成功したら、 天保銭を廃止して、諸君に鉄血章をやるといっている。」
前には二階級昇進のことを後藤少尉の口を通じてきいた。
信頼する野田中尉も、このとき同じ小部屋にいた。
私は野田中尉が何か抗議でもするかと、その顔をみた。
が 野田中尉は別に何もいわなかった。
私は 菅波中尉の現れるのを待った。
菅波中尉はこの夜、まだ来ていなかった。
ぶっつける言葉は準備していた。
随分遅れて橋本中佐らがやってきた。
ようやく広間で宴会が始まろうとして、芸者や女中の動きが活発になった。
控えの小部屋小部屋から将校が広間のほうに移動しはじめた。
私は広間に行く気がせず、小部屋に残って菅波中尉を待っていた。
やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。 道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、 十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。 私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。
広間の床の間を背にして参謀懸章を吊った軍服姿の橋本中佐らが坐っていた。
部隊将校や諸学校の将校は、申し合わせたように着物に襟をつけていた。
広間はぎっしりつまっていた。
芸者にまじって酒を注いでまわる将校もいた。
遅れて座についた私は注がれるままに、ただ盃を干した。
参謀本部の将校も起って酒を注いで廻った。
「君かね、抜刀隊長は・・・・・」 と私に酒を注ぐものもいた。
酒が廻るにつれ、にぎやかになり座は乱れかかった。
その時片岡少尉が気色ばんで、それでも声は落としていった。
「ちょっと来てください。 菅波中尉が小原大尉と組み打ちをやっている。」
私が片岡少尉のあとにつづいてはいった部屋は、広間につづく小部屋だった。
組み打ちは終わっていた。
やっと仲裁者によって引き分けられたところだった。
小原大尉も菅波中尉もまだ息をはずませて、にらみ合っていた。
仲裁をしたらしい数人の青年将校が、これもみな顔面を紅潮さして、壁にくっついて坐っていた。
鉄血章が原因で口論になり、その果ての組み打ちだったことはきくまでもなかった。
・・・末松太平 ・ 十月事件の体験 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」 

菅波三郎

「 直接行動を何故とらなけりゃならんのですか 」
「 医者が腫物を手術する場合に、いかに立派な名医でも、膿だけ出して血は一滴も流さぬということは不可能でしょう。
 国家の場合においてもそれと同じです。勿論直接行動は、無暗矢鱈に為すべきものではありません。
これをしなれば、国家が滅びるという時こそ、われらは起たねばならぬと思うのです 」
「 でも、軍隊を勝手に動かしてよいものですか 」
「 勿論わたくしどもは、命令によって動くのが望ましいのです。
 しかし戦闘要領には、独断専行ということが許されていて、いや鼓吹されておるでしょう。
命令を待たずして行っても、それが上官の意図、天皇陛下の御意図に合すれば、よいのです。
とくにかかる行動は、偉くなるとその責任が重いので、ともすれば上官は事勿れ主義になり易いのです。
自分でよしんばしたいと思っても、命令を下すほど奇骨のある人は、そうありますまい。
口火を切るのは、われわれ青年将校を措いて他にない、と 思うのです 」
・・・
歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 

« 五 ・一五事件 »
・・・いろいろ討議の結果、
午後十一時頃西田の手術の結果をみまもるいとまもなく、後ろ髪をひかれる思いで、
菅波、村中、朝山、栗原の各中尉及び私の五人は、自動車を飛ばして陸相官邸に乗りつけた。 
荒木陸相は、閣議に出席して不在。 真崎中将がかわって面接した。
約三十分にわたって開陳した。
私達の意見に対して、 真崎は善処する決心を披瀝しつつ、私達に十分自重するよう要望した。
終わって私達は、奥の一室に導かれた。
そこには、小畑敏四郎少将と黒木親慶とが待っていた。
黒木は、小畑少将とは同期生の間柄で かつてシベリヤ出兵に際して、 少佐参謀として従軍し、
白系ロシアのセミョーノフ将軍を援けて軍職を退き、 今日に至っている。
その縦横の奇略と底知れぬ放胆さは、当時日本の一逸材で、
陸軍大学校幹事の職にある小畑少将と共に、 荒木陸相の懐刀的存在であった。
「 今夜の事件は残念至極だ。
 もっといい方法で、革新の実を挙げるよう、 政友会の森恪らと共に着々準備を進めていたんだ。
すべては水泡に帰した」 と、小畑少将はいかにも残念そうだ。
「 閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ 」
菅波中尉は、 滔々と懸河の熱弁を振るった。
「 今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
 もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、 ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。 停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、 前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ 」
私達は繰り返し主張した。
いろいろ意見を交わし、 議論を闘わせつつ、まだ結論を出せず到らず、
これからだという時、 各部隊長から呼び戻しの命令が来て、残念ながら私達はそれぞれ部隊長の許に引致された。
時に午前四時を少し過ぎていた。
・・・菅波三郎 ・ 懸河の熱弁

案内されて大広間に来ると、 省部の佐官連中が綺羅星のように並んでいる。
「オッ、菅波こっちへ来い」 永田大佐は広い大広間の片隅に、菅波を誘って対座した。
永田鉄山とはこれで二度目の対面である。
昨年の十月、 安藤輝三が是非にと、菅波をさそって陸軍省の軍事課長室に鉄山を訪ねた。
安藤は永田に大変目をかけられていた。
菅波は永田と革新論について語りあったが、菅波は承服しなかった。
永田のくれた印刷物をみて 「 ハハア統制経済をやる考えだな 」 と、とっさに感じたと、語っている。
陸士、陸大とも優等で通して 「 鉄山の前に鉄山なく、鉄山の後に鉄山なし 」 と、もてはやされた秀才である。
「 秀才ではあったであろうが、肝っ玉の小さい人であった 」 と 菅波は評する。
その永田が、この夜は開口一番、
「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
と、菅波に鋭くつめよった。
「 自分も全く寝耳に水で驚いています。 上海から帰還以来、復員業務に忙殺されて、士官候補生たちに会う機会がなかったのです。
 常日頃から自重するよう、やかましく訓戒してきましたが、今日起つとは夢にも思っておりませんでした 」
菅波は永田の両眼を見すえたまま静かな口調で答えた。
そこへ向うの席から好奇心をもったらしい東条英機大佐 ( 当時、参謀本部の編制動員課長 ) が、ゆっくりと近づいてきた。
「 君はあっちへ行ってろ 」
永田の一喝で、東条は苦笑しながらひき返した
一期違いだけれど、東条は永田には頭があがらない。一目も二目もおいていたといわれる。
三十分あまり対談したのち、菅波は大広間を出ようとすると、
始終同席していた東京警備司令部の参謀、樋口季一郎中佐が寄ってきて、
「 お前たちの気持はよくわかっているよ 」 と、肩をたたいてくれた。
樋口は菅波に同情的で理解者の一人であった。
大蔵や安藤たちはもう帰っており、菅波はひとりタクシーをひろって北青山の下宿に帰った。
・・・菅波三郎 ・ 「 今日の事件は、お前がそそのかしてやらしたのだろう 」
 
退院して四、五日起ったある日、
会いたいという電話で菅波が西田の家を訪れると、西田はやや緊張ぎみである。
「 何か変わったことでもあったのですか 」 と、問うと、
「 いや、実は君に重要なことをお願いしたいのだが、
ことによると迷惑がかかるかも知れないので、君にはまことにすまないけれど 」
「 それで 」 不審そうな菅波の目の前に、
西田は机上にあった紫の袱紗包みを取り上げ
「 これをね、秩父宮殿下を通じて、天皇陛下にまで差し上げたい。
精魂をこめて認めたものです 」 と いう。
菅波は一瞬迷った。 殿下は快くお受け取りになるであろうか。
お取り上げになっても、殿下に累が及ぶようでは困る。
「 拝見していいですか 」
「 どうぞ 」
菅波は姿勢を正して一読した。
「 特権意識にこり固まった重臣層にとりまかれていらっしゃる天皇陛下に、おそらくこんな大英断はできまい 」
と いうのが、菅波の読後感であった。
しかし、建白しないより、幾分でも効果があれば建白したほうがよい。
「 承知しました 」
「 ありがたい、この通りです 」 西田は深々と頭を下げた。
顔をあげた西田は愉快そうに笑った。
菅波もつられて微笑んだ。
あくる日、菅波は安藤をよんだ。
「 夕方、殿下にお目にかかりたいが 」
「 承知しました。殿下に申し上げておきます 」
昼食の時、殿下が承知されましたと、安藤は小さい声でささやいた。
隊務の一切が終わると、菅波は安藤と二人で地下道から第六中隊長室に行った。
秩父宮は一人でお待になっていた。
「 今日は殿下にお願いがあって参りました 」
「 何だね 」
「 実は西田さんから、 殿下を通じて天皇陛下に建白書を奉りたいというので、預って参りました 」
「 ほう 」
秩父宮は渡された紫の袱紗包みをとかれると、奉書に認められた建白書に目を通された。
「 よろしい、承知した。 明後日参内して、陛下にお目にかかる事になっているから、その時にさし上げよう 」
秩父宮は無造作にカバンの中に入れられた。
菅波はお礼を言って起ち上がろうとすると
「 時に、西田はすっかり全快したかね 」
「 はい、快癒いたしたようであります。近く温泉に療養に行くように申しております 」
「 それはよかった、よろしく言ってくれ給え、身体にはくれぐれも注意するように 」
菅波は再びお礼を言って辞去した。
・・・紫の袱紗包み 「 明後日参内して、陛下にさし上げよう 」


昭和維新・大蔵榮一大尉

2021年04月07日 14時11分36秒 | 昭和維新に殉じた人達

しばらくでした いつこられたんですか
二時間前に着いたばかりですよ
大蔵さん、さっき明治神宮にお参りしましたが、お月様が出ましてね
月がですか
ちょうど参拝し終わったとき、雲の切れ目からきれいな月がのぞいたんですよ
いつまで滞在の予定ですか
明日、お世話になった方々に転任の挨拶をしたいと思っています
それが終わり次第、な るべく早く赴任する予定です
じゃ、これでもう会えないかも知れませんね
時に大蔵さん、今日本で一番悪い奴はだれですか
永田鉄山ですよ
やっぱりそうでしょうなァ
台湾に行かれたら、生きのいいバナナをたくさん送って下さい
承知しました うんと送りますから、みなで食べて下さい
なるべく早く内地に帰るようにして下さい じゃ、これで失礼します
あなたの家に、深ゴムの靴が一足預けてありましたね
明日の朝早く、奥さんに持ってきて頂くよう頼んで下さい
そんな靴があったんですか
奥さんが知っています
承知しました いい靴があるじゃありませんか
いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ
わかりました お休みなさい

・・・今日本で一番悪い奴はだれですか 


大蔵栄一

君は武力行使をどう思っているのか
と、彼が突然質問を発した。

無暴に行使すべきではないと思います。
だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい。

僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある。
それは出来ない相談ではないと思っている。
蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ。

軍刀をガチャつかせるだけですね。

そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね。

私もそう思います。だが、若い連中に無血が理想だなんてことを、
少しでもにおわしたら、それこそ大変ですよ。

もちろんそうだ。しかし、そういう考えを胸中奥深く秘めて、
僕は若い連中に対処したいと思っている

・・・ 
「 軍刀をガチャさかせるだけですね 」 


「 その結婚の件で、どうつきあえというんだ 」
「 ことわりたいんですよ、私からはいい出しにくいので、その役をあなたにやってもらいたいんです 」
戦場では金鵄に輝く さすがの末松も、こんなことでは気が弱かった。
「 本気でことわるんだな 」
「 本気ですよ 」
「 じゃ、いっしょに行こう。建設は苦手だが、破壊ならやれそうだ 」
私は縁談のぶちこわし役を引き受けた。
・・・ 末松の慶事、万歳!! 

幹事殿は、ただいま、
命令とあらばあえて国を売るようなことでも平気でやるといわれましたが、
これは驚くべきことで、許し難い行為といわなければなりません。
それはかたちだけの命令服従であって、決して真の服従ではないと思います。
いいかえればそれは単なる盲従で、かえって統帥を破壊するものであります。
わが国の統帥は、そんなかたちだけのものではありません。
命令を下す上官は、その態度においていささかの私心も許されません。
すべてを天皇に帰一したかたちにおいて命令は下るべきであります。
命令を受ける部下もまた、 天皇に帰一したかたちにおいてその命令に従うべきであります。
幹事殿が問題として出されました
『 ここに がんぜない子供がいる。殺してこい 』
という命令には、私は断じて無批判に服従すべきではないと思います。
・・・
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」


ある夜、私ら数名のものが西田の家に集まった。
その席上、だれいうともなく林大臣に対する批判が持ち上がった。
そもそも荒木前大臣との更迭のいきさつからいっても、
林大臣の現在のような煮え切らぬ態度は合点のいかぬことばかりだ。
いったい大臣が何を考え、何をなさんとしているのか。
大臣の心境を叩いてみる必要があるのではないかということになった。
「 ヨーシ、オレがこれから行って一騎打ちを試みてみよう 」
と、私は立ち上がった。
「 よかろう、やってくれ、頼むぞ 」
みんないっせいに賛成した。
「 だれか一人、審判としてきてくれ 」
私は一同を見回した。
「 私が行きましょう 」
といって立ち上がったのは 丸亀から来た将校学生、江藤五郎中尉であった。
私と江藤五郎とが陸相官邸に着いたのは午後八時ごろであった。
さっそく刺を通じたところ大臣は在邸していた。
「 閣下、今晩は閣下に二、三おうかがいすることがあって参りました 」
大臣が応接間に姿を現わして着座するや、 私はいきなり主題に触れた。
「 まず軍の統制について閣下の方針をおうかがいいたします 」
私のこの漠然とした、どちらかといえば抽象的と思われる質問に対して、
林大臣は大きなテーブルの灰皿の横に置いてあったマッチを取り上げた。
そのマッチ箱の中から数本の軸をとり出して、まず三本の軸を縦に行儀よく並べた。
「 これが皇道派としよう 」
といいながら、 次に二十センチぐらい離して同じように三本の軸を縦に並べた。
「 これを統制派としよう 」
といいながら、 今度はマッチの軸遊びかと錯覚させられるような手さばきで、
皇道派の列と統制派の列とのまん中に三本の軸を縦に並べた。
「 オレは皇道派にも偏せず、統制派にも偏せず、そのまん中の道を中庸をとって進む 」
と、大臣はまん中のマッチの軸の列を指した。
大臣自らが軍内を二分するような、
皇道派・統制派を口にするとは、全く度し難いと私は思った。
「 閣下、皇道派とか統制派とか、
 軍を二分するようないまわしい言辞を大臣閣下から承わることは、
まことに心外に存じます。
でありますが それはそれとしまして、
皇道派と称せらるる方々の考えていること、やっていることと、
統制派と称せらるる方々の考えていること、やってることの、
どちらが正しいと大臣閣下は思っていられますか 」
「 それは皇道派の方が正しいと思っている 」
「正しいことと、そうでないこととの中間は決して中庸ではないと思います。
閣下、正しいと思っている皇道派の先頭をなぜ進まないのですか。
むしろそうする方が中庸の道にかなっているのではありませんか。
さきほど承わりました閣下の歩まんとされる中庸のみ道は、
どっちつかずの妥協の道で、
かえって国軍を混乱におとし入れることになるのではないでしょうか。
閣下、いかが思われますか」
「・・・・・」
・・・林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」 

中橋中尉の監房と直通になった。
まず手を振ってあいさつをした。
中橋が右隣の竹嶌中尉に知らせたらしく、
竹嶌中尉が格子と格子との間から両手を出して合掌しているその手が、
約一分間ぐらいかすかに見えた。
左隣の坂井中尉から、大きな声がとんできた。
「 大蔵さーん、坂井は永久に陸軍歩兵中尉だぞ、
死んでからも東京の上空を回りつづけるぞ 」
つづいて香田大尉の声が聞こえた。
「 大蔵ッ、わかるか ッ・・・・・・」
「 わかるぞッ、
 貴様らの蒔いた種は決して枯れることはない、必ず芽をふくから安心しろッ 」
私もたまりかねて大きな声を上げた。
「 後をたのむぞッ 」
「 ヨーシ引き受けた。
 安心してあとをふり返らず、まっすぐ前を向いて笑って死んでゆけッ 」
わたしの両頬には、涙がポロポロ流れた。
「大蔵さーん、安田だッ、
 いろいろ書いておいたから、あとで受け取って下さい」
安田少尉の声が、右端の方からきこえた。
そのころ方々のガラス窓が開けられたとみえて、
各人各様の話し声が飛び交わされていた。
間もなく 「万歳」 「万歳」 の叫び声がどよめいた。
私は、出征兵士を送っているような錯覚におちいった。
気がつくと代々木練兵場の方から
小銃、軽機関銃などの空砲の音がひっきりなしに聞こえてくる。
この日は風のないどんよりした日であった。
万歳の声がひとしきり続いて、やがて静かになると、空砲の音は いよいよ激しくなった。
私はたまりかねて
「 北先生、お経を上げて下さい 」
と、お願いした。
五つ六つ離れた監房にきこえるくらい大きな声であった。
「 これで維新は成ったなァ―。
 君、お経はいらないよ、
すべての神仏がお迎えにきておられるから、ボクのお経は必要ないよ 」
北一輝のドスの聞いた返事が返ってきた。
だが、 「 お経は必要ない 」  と いった口の下から、その踊経がはじまった。
最初は小さな声がすすり泣くようであったが、その声もだんだん大きくなっていった。
その声は、はんぶん泣きながらの踊経であった。
・・・長恨のわかれ 貴様らのまいた種は実るぞ! 


昭和維新・末松太平大尉

2021年04月06日 14時01分17秒 | 昭和維新に殉じた人達

私が桜会の会合に出席するようになって、
すつかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「 このクーデターが成功したら、二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にもその行賞の及ぶことを伝えたい好意からいったにちがいなかったが、
これは聞き捨てにならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか一瞬ためらた。 
が 思いきっていってみた。
「 ちょっと待った。 
それはおれの考えとはちがう。 
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。 
失敗もとより死、成功もまた死だとおもっている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「 そういわれてみればその通りです。わかりました。 
 われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
私はやはりいつてよかったとおもった。
後藤少尉がすっかり私に気を許すようになったのは、このことがあってからである。
・・・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」


末松太平 クリック

昭和五年頃は
全国の農村のいたるところで
頻々と小作争議が発生していた。
この年の夏、
仙台の大岸中尉に呼ばれた末松少尉は、
大岸から次のような話を聴かされている。
  大岸頼好
木曽川流域でも小作人が川の堤防を切り崩して、
地主の田畑を水びたしにする騒動があって、軍隊が鎮圧に出動したことがあった。
このときの状況を部隊の下士官だった分隊長が日記をつけていた。
「 もし小隊長が農民に射撃を命じたら、果して自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。
 自分もそうだが、部下もその多くが小作農民の子弟である 」
大岸中尉はわざわざ青森から招いた末松少尉にこの話をしながら
「 社会の根本的改革をしなければ兵の教育はできない。軍隊は存立し得ない。
いま 軍当局は 良兵良民 を強調するが、これはむしろ 良民良兵 でなければならない 」
と いう趣旨を語り 末松も共鳴している。
・・・「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」

村中孝次  
ある日 村中大尉をつかまえて私は膝づめ談判をした。
「一体やるのですか、やらないのですか。」
「いまさら、なんのことだ。」
村中大尉はけげんそうな面持ちだった。
「渋川はこの秋には東京は起つといっていたが・・・・」
「それはなんかの間違いだよ。」
私はここで欝憤をぶちまけた。
「東京の連中は、いずれにしても起つ気はもうないんでしょう。」
流石に温厚な村中大尉も憤然とした。
「やるときがくればやるさ。」
いつもは蒼白いほどの顔面を真赤にして、

激しい語調で叱りつけるようにいった
・・・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」

予め たしかめなかった私も悪かった。
肝心の澁川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、
といって叱られれば、
そうですか、 と ひき下がるほかはなかった。
が、私は腹の虫がおさまらなかったので、 見当違いの尻を西田税にもっていった。
「 東京の連中はだらしないですよ。
あんたも、この連中とはいい加減手をきって、
あんたは、あんた自身の才能を生かす政治の面に、正面切って進んではどうですか 」
相手が西田税だからいえる無警戒な、穏当を欠く いいがかりだった。
私は西田税の笑顔を予期していたが、 西田税の反応は意外に真剣で、しんみりしたものだった。
「 僕の存在が 君らの運動の邪魔になっていることは前から知っている。
できることなら 青年将校たちから、手を切った方が君らのためにもなるし、
僕自身も、君のいうとおり、僕に適した方面に進んだ方がいいと思う。
まだしたいことが沢山あるしね。
が、磯部君などが、いろいろ相談を持ちかけてくるんでね 」
もちろん正確に、この通りにいったわけではない。
が、記憶をよびおこすと、西田税は大体こんな意味の述懐をしたように思う。
自分の存在が青年将校運動の邪魔になると、 卒然といいだした西田税のことばは、
当時私にとってはショックだったし、いまだに忘れえない。
十月事件以来の西田税の心の疵に、私のことばが、まともにふれたのだと思った。
しかも私は 十月事件のときの轍をふむまいと用心して、
このとき千葉で結集した青年将校たちを、つとめて西田税に近づけまいとしていた。
西田税の、浪人であるが故の悲哀を、 私は非情に衝いたことになったと思って内心狼狽した。
「あんたが邪魔になるなんて、そんなことはありませんよ」
内心の狼狽をかくして、私は西田税の心の疵をかばおうとした。
こんなことまであったのに、
十一月二十日事件とやらいうものはデッチあげられて、
それを知ったかぶる者は、知ったかぶっている。
・・・悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

相澤中佐は沈痛な顔で、考えこんでいた。
昨夜は一睡もしなかったのかも知れないと思った。
しばらく考えこんでいた相澤中佐は、急に床の上に起きあがって坐ると、 笑顔になって、
「 どうだ、もう一度一緒に東京へ行かないか。」 と 私をさそった。
私はこれはことわった。
一緒に行くとは、時によっては一緒に永田鉄山を斬ることでもある。
軍刀も拳銃も持ってはいた。
が 東京に行って、すぐその足で、というわけにはいくまい。
すると三日の勅諭奉読式に間に合わず、軍規をみだることになり、
それはいいとしても 同時に怪しまれて事前に手をうたれる心配がある。
未遂はみっともない。
それで私はことわった。
相澤中佐の顔から笑いが消えた。
私は東京への同行はことわったものの、このまま相澤中佐を突き放すに忍びなかった。
「 東京へ行かれたら、まだ大岸さんはいると思いますから、 もう一度相談してみてはどうですか。
その上で最後の決心をされては・・・・。 それとも、もう大岸さんに相談せず、やりますか。
いずれにしても、やる決心がついたら電報を打って下さい。
きいた以上は放っておけないし、やる以上は討ち損じないよう加勢します。
電文はチチキトクでもハハキトクでもいいですから・・・・。 一応私は青森にかえります。」
・・・ 「 永田鉄山のことですか 」 

私は菅波中尉に、『 日本改造方案大綱 』 は 金科玉条なのか、

それとも単なる参考文献なのか、単なる参考文献であるとすれば、別に妙案があるのか---といった点をただした。
これに対して菅波中尉は
「 実はそのことで自分も考えているところだが、『 日本改造方案大綱 』 を 金科玉条とみるわけにはいくまい 」
といった意味のことをいった。
そのとき
「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。 ( ・・・『 皇政維新法案大綱 』  )
これは私も前に見ていた。
青森の聯隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』
などを参考文献に起案したものである。
『 日本改造方案大綱 』 を めぐっての建設案については菅波中尉と私の意見は一致した。
「 内地に帰ったら、みなとよく相談してみてくれ 」
と 菅波中尉はいった。
 菅波三郎

私はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。
だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。
座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。
磯部浅一  
しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。
・・・
改造方案は金科玉条なのか 


昭和維新・山口一太郎大尉

2021年04月05日 15時06分16秒 | 昭和維新に殉じた人達

五・一五事件は、随分奇妙な事件である。
あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。
憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。
行動の隠密性が悪かったためである。
私も五月の始め頃から西田税に情勢を知らされた。
かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。
海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、
陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。

小畑敏四郎少将に御会いして見ると考えは全く同じであった。
「 陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。西田君とも相談して宜しく頼む 」
ということだった。
これまた随分おかしな話だ。
小畑少将は知る人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月一五日ということは五月十日頃わかった。
私と西田とは日に二度位会った。
陸軍将校の参加は西田が完全に思いとどまらせた。
陸軍士官学校生徒の参加をも止めようとしたが、
その説得役の村中 [孝次](陸軍士官学校区隊長、中尉)が 生徒に接近することを
学校当事者が勘違い(煽動と)の結果 阻止したので、 ついに目的は達せられなかった。
私も西田も、日ごと夜ごと焦燥感を空しくなめるばかりであった。
このような東京をあとにして、 私は富士裾野、滝ケ原の演習場に行かなければならなかった。
かねて私の設計していた機関砲の実弾射撃が予定を繰り上げ、
五月十四日から十六日までになったからだ。
恐らく技術本部首脳部が、事件の計画をうすうす知り、
五月十五日に私が東京に居ないように計らったものであろう。
御殿場の大きい宿屋数件は
技術本部長緒方勝一大将以下数十人のメンバーによって占められた。

五月十五日の演習が済むと、
私は転がるように自分の宿にかけ戻り、帳場のラジオにかじりついた。
ラジオは海軍将校と陸軍士官学校生徒によって決行された五・一五の大事件を報じ、
ひとびとは目を丸くして刻々の報道に聞き入っていた。
私にとってはすべてあるべき事が、スケジュール通り行われただけなので、
一向驚くことはなかった。
しかし報道が進むにつれ、本当に驚かなくてはならなかった。
それは予定にも何もない 西田が狙撃され、
順天堂病院に収容されたが、生命はおぼつかないということだ。
西田の呼吸、脈ハク、輸血の状況などは、
要路の大官なみに刻々と報ぜられた。
私がラジオの前を去ったのは夜半すぎていた。

・・・五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)

小畑少将に会った。
「若い連中(青年将校)がなにをやらかすかわからん。
西田君はやられ、君は富士だろう?困っていた所だ。
事件がこれ以上拡大して、陸軍の連中が動くということになると大変だ。
これは何としても食いとめたい。」
「私は取りあえず順天堂に西田君を見舞おうと思ってます。
あそこへ行けば色々の事がわかるでしょうから・・・・・。
この事については難波さんにも同意を得てあります。」
「そうか、そうしてくれるか。じゃあ僕も一緒に行こう。」
「おやめください」
「いかんか」
「いけませんね。 [参謀本部第三部長]閣下が参謀肩章いかめしく、順天堂にいって御覧なさい。
いい新聞種になります。 さわぎが大きくなるだけです。」
「でもねー。西田は陸軍の連中が思い止るよう説得したために撃たれたのだ。
僕が間接の加害者みたいなもので、気がすまないんだが・・・・・」
と 面を伏せ、奥にはいってから、
「ではこれで、花でも買って慰めてくれ給え。その他の事もくれぐれも頼むよ」
と 花の代金百円と花につける名刺を渡された。
飯田橋の花屋で豪華な花を買って順天堂病院にはいった。
その他の事を処理するため・・・・・。
 
山口一太郎    北一輝 

西田の病室を出た私は北一輝に会った。
北は私の手を握って心から喜んだ。
「やあ、実にいい時に来てくれました。
幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、
私やここに来ている民間人も、 いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、
憲兵隊から自動車を提供されているので、 市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、 事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること ・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、 私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「何です?」
「あの向こう側の室にいる連中(菅波、香田、安藤輝三、栗原)が弔合戦をやるんだと、 さわいでいるんですよ。」
「そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「僕も全く同感です。
きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、
急速に態勢を立て直し、 警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。
何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
また憲兵も青年将校を敵視しない。 これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、
山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が 「たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ」
と いうので、 私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、
そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った 「ア、山口さんだ」 一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、 「今まで北さんと根本的な打合せをした。
結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、 情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ」 と 言う。
と 「ぢゃ我々だけで相談させてくれ」 と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
(今の全学連とすることは似ている)
そして菅波三郎が代表して私に
「北さん、山口さんが、云うのだから」 と 私が戻るまで何もしないことを約束した。
私は乗ってきた車に再び憲兵軍曹を同乗させて、憲兵隊に行き難波隊長に会った。
私は隊長に云った。
「たった今まで、順天堂に居ました。
若い連中はなかなかいきり立っているので、北さんと二人でなだめています。
何しろ情勢が全くわからないので、一応連絡に来ました。」
隊長は云う。
「困っているのは君だけじゃないんだ。われわれも全く手も足も出ないで弱っているのだ。
君みたいに自由の立場にないんでね。」
私は直ちに、 その場で小畑少将に電話した。
陸軍で一大尉が、少将に、しかも憲兵隊長の目の前で、直接電話をするということ、
これは当時は、大したことなのである。
小畑少将のこのときの立場をいうと、
彼は陸相、荒木貞夫のスタッフの随一、
すなわち荒木貞夫は、 柳川平助(騎兵監)、小畑敏四郎、山岡重厚、黒木親慶等を相談役とし、
この難局を切り抜けるべく徹夜の打合せをしているのであった。
黒木親慶という人は、 小畑と陸士同期、”シベリヤ出兵”に出征した退役騎兵少佐で、
白系露軍セミヨノフの参謀長をしたこともあり、知略縦横の豪傑でもあった。
従って小畑少将、黒木親慶に話をすることは、陸相荒木に話をすることであり、
この時点の陸軍首脳の考えが把握できるわけである。 小
畑家に電話して 「山口ですが」
というと小畑夫人が出て 「主人は今黒木さんのところにいます」 という。
直ちに黒木家に電話すると、陸相官邸にすぐきてくれという。
当時陸相官邸は、現在の三宅坂の社会党本部のすぐ裏手である。
私は直ちに陸相官邸に行くわけにもいかず、ともかく電話に小畑少将に出てもらった。
なおこれまでの電話、次の電話は、すべて警視庁の盗聴をおそれ、
全部、私達の符牒で話しをしたのである。
小畑 「どこにいる。」
山口 「憲兵隊長のそばにいます。」
小畑 「連中は大丈夫か。」
山口 「実は大変なことになつている。北さんの心配の通りになりそうだ。」
小畑 「現在はどうなんだ。」
山口 「全体の情勢をのみこんで、順天堂に私が帰るまでは、なにもしない。
         寿司でも喰べていることになつている。」
小畑 「あの連中に、がたがたされたのでは今立案中の計画も全部オジャンになる。
     陸相官邸では、大臣、参謀総長、次官、参謀次長、軍務局長が集って、
         協議しているところだ。」
結局、私が順天堂で名刺をもらった連中を北一輝と私が、
目下おさえているということで、その処置について話あった。
将校の処罰、カク首等は、 師団長から陸軍大臣に上申して行われるもので、申請の権限は師団長にある。
この場合、近衛、第一師団連絡協議会で決定されるだろう。
しかし、小畑少将は、
この協議会を形成する、時の近衛師団長、同参謀長、第一師団長、同参謀長を
「世の裏の裏を知らぬ純軍人」と言い 隊長職権でなんらかの処置に出るとしても、
最後的な決定は陸軍省人事局補任課に於いて行われる。
そして陸相官邸における協議の成り行きによれば、陸軍省、参謀本部の最高首脳は、
順天堂にいる青年将校の最後の身分を確実に保証したのであった。
小畑少将に代り 黒木は
「北さんに、近衛、第一師団は強硬に出てくるが憤激せず、 若い人が落着くようよろしく願う」
と云い、 結局次のように決まった。
① 近衛師団長、第一師団長、及び教育総監の意図で若干の青年将校を軟禁するかもしれない。
② 憲兵隊は保護検束も尾行もしない。
③ カク首の上申があっても陸軍省は請けつけぬ。
④ 以上北一輝に善処せしめるよう。
かくて私は五月十七日の朝三時か、四時頃に順天堂にかえった。
青年将校を集めて前記の四項目を伝えると、
栗原などは
「俺達は何もしておらん、軟禁とはなんだ」
と 憤激している。
私は 「最終的な責任は俺がもつ、まあ軟禁ぐらいはしようがない、ここらぐらいでおとなしくしろ」
と言うと、 やがて菅波三郎、香田清貞が代表し云った。
「山口さんが責任をもつというのでしたら、おまかせいたします。大変なお骨折りでしたね。」
北一輝は二人きりになると、 涙ぐんで長いこと私の手を握り、
たったひとこと。 「ああ助かった」 と言った。
・・・五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)

・・・山口一太郎大尉 壮丁父兄に訓示 

山口一太郎 

山口一太郎大尉の四日間 1 「 大臣告示 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 2 「 総軍事参議官と会見 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 3 「 総てを真崎大将に一任します 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 4 「 奉勅命令が遂に出た 」 
・ 山口一太郎大尉の四日間 5 
・ 山口一太郎大尉の四日間 6
軍事参議官との会見 「 理屈はモウ沢山です 」 

事件直前、山口は計画の全容を知って驚愕した。
何しろ部隊を使った大規模な蹶起である。
襲撃目標も想像を超えるものであった。
いまさらやめろといってもきく相手ではない。
さりとて意見を異にしても、後輩の同志将校たちだ。
密告して事前に一網打尽にする気にもならぬ。
彼は悩んだ。
後に、彼はこの時の心境をバウンダリー ・コンディションという言葉を用いて説明している。
物理学で境界状況という語である。
門外漢の私には良くわからぬが、
極めて複雑な問題が入り組んですぐに答えが出せるような問題ではないということだろう。

・・・山口一太郎大尉 「バウンダリー ・コンディシン」


昭和維新・満井佐吉中佐

2021年04月04日 15時11分12秒 | 昭和維新に殉じた人達

帝国ホテルの一室では
三島から急遽上京してきた重砲兵聯隊長橋本欣五郎大佐、
戒厳参謀に予定されていた石原莞爾作戦課長、
それに参謀本部部員田中弥大尉、
陸相官邸からかけつけた満井佐吉陸大教官らが集まって 事態収拾について協議していた。
彼らはこの機会に強力内閣を組織して国家革新を断行すべきだ と いうことでは意見が一致していたが、
その強力内閣に誰を首班とするかについては議がわかれたいた。
石原大佐は皇族内閣を主張した。
東久邇宮を推すもので当時の参謀本部幕僚たちの意見を代表するものであった。
満井中佐は蹶起将校の要望する真崎内閣柳川陸相案を強く支持し、
橋本大佐は建川美次中将を推していた。
こうした意見の相違からこの際、
陸軍から首班を求めることをやめて海軍から出してはどうかと 提案したのは満井中佐であった。
「皇族内閣には蹶起将校は断乎反対の態度をもっているし、
建川中将も大権干犯の元兇として彼らはその逮捕を要求しているので、
これらを強行することは事態収拾にはならない。
真崎首班は彼らの熱望するところであるが、
それが参謀本部側で強い難色があるというのであれば、
この際は陸軍部内のイザコザに全く関係のない海軍からこれを求めるより途はない。
山本大将はかつてロンドン条約当時艦隊派の雄として活躍せられ革新思想にも理解があるので、
蹶起将校たちも納得して必ず平穏裏に維新に進むことができよう」
この満井の提案には石原も橋本も賛成した。
そしてこの意見は石原より杉山参謀次長に申達されることになった。
なお、これに関して、
「午前四時三十分
参謀本部の反対激烈にして到底真崎内閣の成立は期待すべからざるも
更に これを徹底的に断念せしむるため山本英輔大将に勧告せられたし
との部内の意見を聴取す」
と 杉山次長は手記しているところから見ると、
石原は部内の意見としてこれを具申したように思われる。
そこで彼らは 山本大将と昵懇だという亀川哲也を呼んで意見を聞くことになった。

亀川は二十五日夜西田税と協議して事態収拾のための上部工作を担当していたが、
この朝未明、彼は真崎邸を訪ねてその奮起を懇請し、
また西園寺工作のため興津におもむく鵜沢博士を品川駅にとらえてその努力を要請し、
また、政友会領袖、久原房之助とも事態収拾について話合っていたが、
一方かねて知遇を得ていた山本海軍大将とも連絡することを忘れていなかった。
彼はこの朝すでに電話をもって山本大将に事件発生を告げて、
海軍として時局収拾に努力されるよう懇願していたし、
また、午後には海軍省に同大将を訪ねて山本内閣説をにおわせていた。
彼にしてみれば山本内閣は真崎内閣に次ぐ第二の腹案だったわけであったのだ。
したがって、この満井の提案した山本内閣案は 満井自身のものでなくて亀川の構想であったのである。
亀川が自動車で帝国ホテルに駈けつけたときは、 ちょうど、石原大佐が出て行くところだった。
二人は入口ですれ違ったが別に挨拶もかわさなかった。
亀川がボーイに案内されて一室に入ると、
そこには満井、橋本、田中その他二、三名の将校、それに右翼浪人の小林長次郎がいた。
満井が亀川にこれまでのいきさつを説明したのち、
「この際、山本大将に出てもらうことが一番よいということに意見の一致を見た。
そこで石原大佐から杉山次長に電話して、これが諒解を得た。
次長は機を見てこれを上聞に達するということになっている。
ついては山本大将と親交のあるあなたに意見を伺うと思って来ていただいたのです」
「それはいいでしょう。 だが、それにはまず部隊の引きあげが先決ではないでしょうか、
蹶起部隊は一応目的を達したのだから、 いつまでも首相官邸や陸相官邸を占拠していてはいけません。
彼らは速やかに現在の場所から撤去させなければなりません」
と 亀川は問題を投げた。
この亀川の意見には満井も橋本も同意し、
部隊を戒厳司令官の指揮下に入れて警備区域はそのままとして帰隊せしめよう、
と 提案、 一同それがよかろうということになり、 満井は車を陸相官邸にやり村中をよんできた。
村中を説得して引きあげさせようとしたのだ。
亀川はこの村中説得の事情をつぎのように述べている。
「そこで満井と私は村中を別室に呼び、
まず私から目的を達したかと聞きますと村中は達しましたという返事なので、
私はそれでは早く引きあげればよいではないか、といいますと、
村中は、事態をどうするか決まらないのに引きあげるわけにはいかない、との返事でした。
私は引きあげさえすれば事態は自然に収拾されるのだ、といいました。
この時、満井は、
「部隊を戒厳司令官の指揮に入れ警備区域は現場のままとする」
という条件は持ち出し、早く引きあげた方がよいと話したので、
村中は
引きあげるということは重大だから 外の者にもいわなくてはならん、
そして西田にも相談しなくてはならん
と いいました。
この時私から 西田の方は私が引き受けるから、
若い人たちの方は君が引き受けて早速引きあげてくれ、と話ました。
すると村中は
帰りましたら早速引きあげにとりかかりましょう 
ということで
わずかな時間で話がまとまって村中は帰って行きました」
こうして彼らはこの協議をおえて帝国ホテルを出た。
もう夜が明けかかっていた。
満井はその足で戒厳司令部に赴き、石原参謀を訪ね、右の顚末を伝え、
さらに、 「維新内閣の実現が急速に不可能の場合は、
詔書の渙発をお願いして、建国精神の顕現、国民生活の安定、
国防の充実など国家最高のご意思を広く国民にお示しになることが必要である。
そしてこれに呼応して速やかに事態の収拾を計られるよう善処を希望する」
亀川はホテルから自宅にかえったが、そこで山本大将と久原に右の報告をした。
それから真崎邸を訪問したが不在だったので車を海軍省に向けここで山本大将に会い、
組閣の心組みをするよう申言したが、山本は相手にしなかった。
八時頃 北一輝邸に西田税を訪ね帝国ホテルにおける部隊引上げの話をした。
西田は憤然として、
「 そんなことをしては一切ぶちこわしだ、一体誰の案か、村中は承諾したのか 」
と 詰問した。
亀川が、大体承諾したようだと口をにごすと、 西田はすっかり考え込んでしまった。

・・・ 帝国ホテルの会合 


満井佐吉 

( 二十六日 ) 午后一時頃
自發的に情況を見るべく陸相官邸に次官を訪ね様と思って自宅を出ましたが、
警戒嚴重で容易に警戒線内に入ることが出來ないので、
迂廻して海軍省の前より 蹶起部隊の將校に名刺で通過願を出し、許可して貰って、( ・・・鈴木少尉 )
三回に亘り訊問 ( 誰何・・・歩哨線 「 止まれ !」  ) を受け、
陸相官邸に着いたのは午後三時頃でありました。
官邸では古莊次官が居られましたが、
次官より、

「 先刻君に來て貰うと電話したが、今出掛けたとのことであつた 」
と 申して居られ、

それで、 「 自分 (次官) は 靑年將校の言分は聞いたが、君も聞いてやって呉れ 」 とのことで、
次官同席にて、廣間に集って居た  野中、村中、磯部 其他七、八名の將校に面會し、靑年將校の言分を聞きました。
其時、蹶起趣意書 を貰ひ、同紙の裏に 「 午後三時貰ふ 」 と書き、所持して居ります。
其時 靑年將校の言分は、
強力内閣を作り昭和維新に移して貰ひたいこと 及 肅軍に關する希望を述べて居りました。
それで次官が別室に私を呼び、大臣が宮中に參内して居るとのことで、
大臣と次官とが別れて居ては補佐も出來ないと思って、

「 次官閣下も宮中に參内せられては 」 と 申しました処、
次官は山下少將が來る様になつて居るからそれ迄待つとのことでありました。

暫らくして山下少將、鈴木大佐、小藤大佐、馬奈木中佐が來られましたので、
互に事態の重大性に就て會話しましたが、
馬奈木中佐は靑年將校の希望や要求等を聞いて居りました。
古莊次官は間もなく宮中に參内の爲出發し、吾々は留守を命ぜられ、
次で山下少將は鈴木大佐を留守に殘し、參内の爲出發されましたので、
私(満井) と馬奈木中佐も同乗し( たが )、山下少將のみ參内し、
(従って) 馬奈木中佐と同道 憲兵司令部に行き、
馬奈木中佐は当時憲兵司令部内に在りし參謀本部幕僚に 大臣邸に於ける靑年將校の情況を報告し、
私は自動車にて待って居りましたが、容易に來たらざるを以て陸相官邸に引歸しました。
其時は夕刻でありました。

それから官邸に情況の推移を待って居りましたが、
午后九時頃に至り 山下少將が
荒木、林、眞崎、植田、阿部、寺内、各軍事參議官を伴って來られましたので、
私は当時事態の重大性と、公判關係等を通じて軍の實情を速に収拾する爲、
最高の輔弼を適正にして昭和維新に嚮ふ様にすると共に、
蹶起部隊を速に集結せしめる等の処置の必要性を申述べ、
次で 靑年將校が入換って、意見を詳細に渉って申述べて居りました。
(  ・・・リンク → 軍事參議官との會見 )

其後間もなくして、
橋本欣吾郎大佐より電話がありましたので、

官邸の事情を述べ、來邸を勧め、
前述出入の際教つた合言葉 ( 尊王討奸 )、及 三銭切手を手に貼る事を教へましたが、
暫らくして橋本大佐の來邸あり、( ・・・リンク→「 ようし、通ってよし ! 」 )
同大佐からも阿部大将に事態の重大性を説いて居られた様でした。

帝國ホテルに行き、

氏名所属を言って責任を明にして、
電話の借用等に便宜を与へて貰ひ、

先づ石原大佐を呼出し、其時橋本大佐より電話がありましたので、
兩大佐に來て貰ひました。
其理由は事態を惡化せしめざる爲、官邸に於ける蹶起部隊の事情を石原大佐に傳へ、
適切なる処置を爲すのに參考にしたいと思ったからであります。
ホテルは石原、橋本兩大佐及私の三人で會談しましたが、小林長次郎は別の所で休んで居りました。
話の内容は、石原大佐より宮中に於ての話があり、
私に鞏力内閣等につき意見を求められたので、私は一寸意見を述べ、
速に兵を集結せしめ事態惡化を防ぐ要あるを述べ、
宮中の輔弼と、部隊の処置と相應じて善処せらるゝ様に、意見を申しました。
橋本欣五郎大佐からも、右同様な意見がありました。
それは日時を經過せば事件が全國に波及し、事態惡化を虞れられたからであります。
そして石原大佐は戒嚴司令部に歸り、橋本大佐は三島に歸るべく急いで辭去せられました。

更に私は萬一蹶起部隊と兵力の衝突を見、帝都の混亂に陥ることを憂慮して、
龜川哲也にも村中を説得して貰ひたいと思って、同氏の自宅に電話をしホテルに來て貰ひ、
村中を帝國ホテルに呼出し、龜川と二人で村中に對し、
宮中方面の努力は軍中央部の首脳者に任せて、
蹶起部隊は一先づ歩一の兵營にでも集結してはどうかと懇々と説得しましたが、
村中は私共の精神のあることを諒とし、
成るべく趣旨に添ふ如く努力して見るが、

同志は必ずしも其の意見に依って動くかどうかは請負ひ兼ねる旨を申して退去しました。
其時は ( 二十七日 ) 午前三時半頃であつたと思ひます。
( ・・・リンク → 帝國ホテルの會合 )

それから私は、
一人で憲兵司令部に行き石原大佐に面會し、村中を説得し置きたる狀況を傳へ、
今後の善処を希ひ、次官に届けて、私は軍人會館に行きました。
其時は夜が明けて居りましたので、朝食をとり、食堂で馬奈木中佐、菅波中佐其他の人々と 雑談し、
二十七日午前十時半頃自宅に歸りつきました。

帰宅後間もなく憲兵司令部、兵務課より、來て呉れとの電話がありましたので、直に自動車にて憲兵司令部に行きました。
憲兵司令部では山本少尉と會ひましたが、山本少尉より、
「 満井中佐の説得ならば、靑年將校も聞き入れると思ふ 」 との話あり、
憲兵司令官、東京隊長その他の憲兵將校より 山本少尉と私に、
行って靑年將校を説得して貰ひ度いとの依頼あり、下士官二名同乗して、 陸相官邸に行きました。
其時は蹶起部隊は新議事堂の広場及首相官邸の二ケ所に集結して居りましたので、
右二ケ所に行って將校に對し、從順に行動する如く、何れ法に依って處分せらるゝものと 思料するが、
御上に於かせられては御慈悲もあることゝ思ふから、思ひつめた行動を採らない様にと注意を与へ、
憲兵隊長に復命をしました。

二月十八日午前四時、
戒嚴司令部砲兵少佐參謀より電話にて、直に來て呉れとのことでありましたので、
五時前に自動車にて出掛け、 戒厳司令部に行って見ますと、事態が惡化してあることを知りました。
それは
「 昨夜 眞崎、西、阿部の三參議官と蹶起將校との會談 の結果、 
 情況は楽観せられて居るに、本朝の情況は惡化し、蹶起將校の主張は鞏硬で、
位置移動を肯ぜざる態度を示しあるを以て、速急説得して貰ひたい 」
とのことでありましたので、
リンク ↓
・・・軍事參議官との會談 1 『 國家人無し 勇將眞崎あり、正義軍速やかに一任せよ 』
・・・軍事參議官との會談 2 『 事態の収拾を眞崎大將に御願します 』

小藤大佐、松平大尉と共に、午前七時頃陸相官邸に行き、
小藤大佐より、命令受領の爲蹶起將校を集合せしめたるに村中、香田大尉が官邸に來りたるを以て、
種々説得したるも、

彼等は小藤部隊の警備區域たる現位置に暫らく位置せしめ
昭和維新に嚮ふ如く上司に於て処置あらんことを熱望し、容易に動かすべくもあらず。
當時村中は昂奮しあり、
理論にては説得不可能と考へられたるを以て、

大命に背き、大義を過らざる様に注意して、
柴大尉と共に、小藤大佐の命令下達に先立ち、官邸を出て戒嚴司令部に歸り、

戒嚴司令官、陸軍次官、參謀次長、軍事參議官若干名の席上にて
右の旨報告すると共に、次の様な意見を申述べました。
意見は私が二月二十八日、戒嚴司令部に於て、
簡単な原稿を作成して申上げたのであります。
意見
(一)、維新部隊は昭和維新の中核となり、現位置に位置して、昭和御維新の大御心の御渙發を念願しつつあり。
  右部隊將校等は、皇軍相撃つの意思は毛頭なきも、維新の精神仰壓せらるゝ場合は、 死を覺悟しあり、
又、右將校等と下士官兵とは大體に於て同志的關係にあり、 結束堅し。
(二)、全國の諸部隊には未だ勃發せざるも、 各部隊にも同様維新的氣勢あるものと豫想せらる。
(三)、此の部隊を斷乎として撃つ時は、全軍全國的に相當の混亂起らざるやを憂慮す。
(四)、混亂を未發に防ぐ方法としては、
1、全軍速に維新の精神を奉じ、輔弼の大任を盡し、速に維新の大御心の渙發を仰ぐこと。
2、之が爲 速に鞏力内閣を奉請し、維新遂行の方針を決定し、諸政を一新すること。
3、若し内閣奏請擁立急に不可能なるに於ては、軍に於て輔弼し維新を奉行すること。
4、右の場合には、維新に關し左の御方を最高意思を以て御決定の上、
   大御心の渙發を詔勅して仰ぐこと。
「 維新を決行せんとす。
 之が爲、

(1)、建國精神を明徴す。
(2)、國民生活を安定せしむる。
(3)、國防を充実實せしむる。」
5、萬一右不可能の場合は、犠牲者を最小限度に限定する如く戰術的に工夫し、
   維新部隊を処置すること。 但し、此際全軍全國に影響を及ぼさざることに關し、大いに考慮を要す。
之が實行は影響する処大なるべきを以て、特に實行に先立ち、先づ現狀を上奏の上、
御上裁を仰ぐを要するものと認む。

以上の如く意見を開陳し、

戒嚴司令部を出て途中偕行社に立寄り、
滞在中の軍事參議官若干名に面會し、事態の重大なるに鑑み善処を御願ひして、
正午過ぎ自宅に歸りました。

歸宅して、 今回の事に付 熟々事態を考へるに、
或は私の公判に於ける弁護人としての弁論が刺戟を与へたことに關係せるにあらざるや
との責任感より恐懼を感じ、 次の如き進退伺を書き、
( 満井佐吉 『 進退の件御伺 』 )

其の夕刻直に陸大幹事岡部少將宅を訪問、之を提出し、
御許を得て、再び戒嚴司令部に至り

右旨を届出、挨拶をして、
御呼出しは陸軍大學を経て爲されたしと申述べ、夜半歸宅しました。
爾後謹愼して今日に至りました。
・・・満井佐吉中佐の四日間 


昭和維新・大岸頼好大尉

2021年04月03日 09時01分52秒 | 昭和維新に殉じた人達

昭和五年頃は 全国の農村のいたるところで頻々と小作争議が発生していた。
この年の夏、仙台の大岸中尉に呼ばれた末松少尉は、
大岸から次のような話を聴かされている。

木曽川流域でも小作人が川の堤防を切り崩して、
地主の田畑を水びたしにする騒動があって、軍隊が鎮圧に出動したことがあった。
このときの状況を部隊の下士官だった分隊長が日記をつけていた。
「 もし小隊長が農民に射撃を命じたら、
果して自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。
自分もそうだが、部下もその多くが小作農民の子弟である 」
大岸中尉は
わざわざ青森から招いた末松少尉にこの話をしながら
「 社会の根本的改革をしなければ兵の教育はできない。
軍隊は存立し得ない。
いま 軍当局は 良兵良民
を強調するが、
これはむしろ 良民良兵 でなければならない 」
と いう趣旨を語り 末松も共鳴している。
・・・「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」

昭和五年に入ると、
一世を聳動した浜口内閣のロンドン軍縮にからんで、
政府の統帥権干犯、
これにつづく宮中での加藤軍令部長帷幄上奏阻止の問題がおこった。
新聞もかきたてたが、革新右翼はいかった。
このとき陸軍に 「 兵火事件 」 なるものがおこった。
昭和 五年四月のことである。
仙台陸軍教導学校の区隊長だった大岸頼好中尉は、
浜口内閣の統帥権干犯、
ことに、浜口政府が宮中の側近と結んで、加藤軍令部長の帷幄上奏
を阻止したことに痛憤し、
同志達に蹶起を促そうと、
「 兵火第一号 」 を 四月二十九日 ( 天長節 ) 附を以て秘密出版し、同志に配布し、
さらに、引きつづき 「 兵火第二号 」 を印刷配布して、同志を激発しようとした。
その第二号、戦闘方針を定むべしという項の中で、
一、東京を鎮圧し宮城を守護し天皇を奉戴することを根本方針とす。
 この故に、陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす
一、現在、日本に跳梁跋扈せる不正罪悪--宮内省、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々を明らかに摘出し、
 国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ
一、陸海軍を覚醒せしむると共に、軍部以外に戦闘団体を組織し、この三軍は鉄のごとき団結をなすべし。
 これ結局はクーデターにあるが故なり。
 最初の点火は民間団体にして最後の鎮圧は軍隊たるべきことを識るべし
と 書いている。
・・・西田税と青年将校運動 2 「 青年将校運動 」


 
大岸頼好 

私はしかし 『 改造方案 』 批判よりも、
それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで、
「 では 『 改造方案 』 に代わるものがありますか 」
と きいた。
大岸大尉は
「 あるにはあるがね 」
と いったきりで口をつぐんだ。
いやに勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、
ともおもった。
韜晦もいい加減にするがいいや、とも思った。
私は無理にきこうとはしなかった。
私は西田税のうちでも不満だった。
ここでも不満だった。

「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・」
と いって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇国維新法案 』  銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造方案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前編だけで、完結していなかった。
私がそれを読み進んでいるとき大岸大尉は
「 将軍たちがえらく 『 改造方案 』 を きらうんでね 」
と つぶやきもした。・・・改造方案は金科玉条なのか 

末松と同じく、北の思想や改造法案に納得できないものを感じていた大岸が、
皇政維新法案大綱  』 という試作品を経て、
1934年 ( 昭和9年 ) に生み出した新たなフムログラムが 『 皇国維新法案 』 になる。
しかも、北の改造法案が上層部にも受けが悪いことを知っていたことが、
大岸が別案を模索するきっかけにもなっていた。
かつての 『 皇政維新法案大綱 』 が国家改造運動における横の連携を目指すものだったとすれば、
今度の 『 皇国維新法案 』 は上層部の支持を取り付けるまではいかないまでも、
反発を和らげることが意図されていた。・・・大岸頼好と 『 皇国維新法案 』 


昭和維新・野中四郎大尉

2021年03月22日 11時20分05秒 | 昭和維新に殉じた人達

天壌無窮
遺書
迷夢昏々、万民赤子何の時か醒むべき。
一日の安を貧り滔々として情風に靡く。
維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。
彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。
民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。
我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。
只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。
即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。
皇軍遂に私兵化されんとするか。
嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。
久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、
其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。
我将来の軟骨、滔天の気に乏し。
然れども苟も一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。
或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。
我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、
其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。
近くは満洲、上海事変に於て、国内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戦士なり。
我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。
英霊に答ふる辞なきなり。
我狂か愚か知らず
一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日
於週番指令室
陸軍歩兵大尉 野中四郎   
・・・あを雲の涯 (一) 野中四郎

安藤は、
「此の間も四、五人の連中に、是非君も起ってくれとつめよられた。
 しかし、自分はやれないと断った。
この事は週番中の野中大尉に話したら
『 何故断ったか 』 と叱り、
自分たちが起って国家の為に犠牲にならなければ、かえって我々に天誅が下るだろう。
自分は今週番中である。今週中にでもやろうではないか、
と言われ、自分は恥かしく思いました」

と いう。
西田は
あの生真面目でおとなしい野中すら起つ決心をしているのか、
事態は容易ならぬところまで来ていると感じた。

 野中四郎 

ビルディング式の歩兵第三聯隊の兵営に、一寸目につかぬ低地がある
営門を這入ると、
西はずっと開けて青山墓地が見渡され、右手はあの巍然たる建物である
だから営門を這入るや直ぐその左手に、
こんな低地があろうとは余程勝手を知ったものでなければ、わかる筈がない
桜の老樹の植わった台端から斜に径を下りると、
その低地に陰気くさい、 三十坪程の平家があり、
入口には将校寄宿舎と書かれた木札がかかっている
若い青年将校の独身官舎で、兵営内でもおのずから別天地をなしている
昼間はひっそりとして誰もいないが、夕食が済む頃になると、俄然賑やかとなる
廊下を通る足音で、直ぐかれは誰だと判断がつくほど、みんな親しい仲である
隊務にかまけて草むしりなど一向に気づかぬ連中とて、
この宿舎の近辺はと角雑草が伸びがちだが、
中にたった一人、
日曜等の暇をみては、
誰にも云わず黙々と、この伸びた雑草を片づけている人があった
年長者の野中という中尉で、かれは滅多に外出することもなかった。
そして居住室の誰からも、「野中さん」 「野中さん」 と 尊敬されていた

・・・
歩兵第三聯隊の将校寄宿舎 

野中大尉は自筆の決意書を示して呉れた。
立派なものだ。
大丈夫の意気、筆端に燃える様だ。
この文章を示しながら 野中大尉曰く、
「今吾々が不義を打たなかったならば、吾々に天誅が下ります」 と。
嗚呼 何たる崇厳な決意ぞ。
村中も余と同感らしかった。
蹶起趣意書
野中大尉の決意書は村中が之を骨子として、所謂 蹶起趣意書 を作ったのだ。
原文は野中氏の人格、個性がハッキリとした所の大文章であった。


« 二十五日 »
その夜九時頃
鈴木少尉 (週番士官に服務) の指示で、
下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、
「十中隊もきてくれたか」
と いってすぐ切り出した。

話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、
蹶起の時期
と いったやはり私が予想していたことの
具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、
しばし声なく数分間の沈黙が流れた。

やがて私は、
「 賛成します」 と答えた。

・・・
下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」 

« 二十六日 »
〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」

「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
すると側に居た常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、 この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」 と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し 庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。
・・・「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」

« 二十七日 »
午前四時頃 陸相官邸の大広間で ふたたび蹶起将校と軍事参議官との会談が行われた。
この場合 反乱将校側は ほぼ全員、立会人として山下少将、鈴木、小藤両大佐、山口大尉が同席した。
まず、野中大尉が立って、
「 事態の収拾を真崎大将にお願い申します。
その他の参議官は真崎大将を中心としてこれに協力せられることをお願い致します 」

と 申し入れた。
すると 真崎大将は、
「 君らがそういってくれることは誠に嬉しいが、
今は君らが聯隊長のいうことを聞かねば何の処理もできない 」
と 暗に撤退をほのめかした。
阿部大将はこれをとりなすように、
「 われわれ参議官一同心をあわせて力をつくすことを申しあわせている。
真崎大将がもしその衝に当ることになれば、われわれも勿論これを支持するし、
また、他に適当な方法があったならばこれに協力するにやぶさかではない 」
と いい、 西大将も
「 阿部閣下のいわれる通りだ 」 と そばから言い添えた。
野中は更に、
「 この事柄をどうか他の参議官一同へもはかってご賛同を願います 」
と 懇請すると、 阿部大将は、
「 諸君の意のあるところは充分に参議官に伝えよう 」 と あっさり承諾した。
すると野中は、
「 それでは軍事参議官一同ご賛同の上は、
 われわれの考えと参議官一同の考えが完全に一致した旨を、 是非、ご上奏をお願いします 」
と 切り込んだ。
阿部大将は、
「 そういう事柄は手続き上にも考慮せねばならないので即答はしかねる、 よく研究してみよう 」
と 逃げてしまった。
今まで だまって聞いていた真崎大将はこのとき、
「 われわれ軍事参議官は、 御上のご諮詢があって初めて動くもので、その外は何の職権もない。
 ただ、軍の長老として事態の収拾に骨を砕いているのだ。
だから君らがわしに時局収拾を委すというなら無条件でまかせてもらいたい。
しかし 時局の収拾は君らが速やかに、統率の下に復帰することだ。
それ以外に手段方法はない。 戒厳令はとりもなおさず奉勅命令だ。
もし、これにそむけば錦旗に反抗することになる。
万一、そのような場合が生じたら、 自分は老いたりといえども 陣頭に立ってお前達を討つぞ、
大局を達観して軍長老の言を聞いて考えなおせ。
赤穂四十七士が全部同じ金鉄の考えなりしや否や不明だ。
今日出動した部隊も同様で、蹶起後日数もたち疲労している。
思わざる色々のことがおこるかも知れない。早く引きとるようにせよ 」
会談は 彼らの考えとは逆な方向に向けられてしまった。
真崎、今日の説得は迫力があった。
阿部大将口を開いて、
「それでは 君らの申し入れの意思はよくわかったから
 他の参議官ともはかって後刻返事することにしよう 」
と 会談を打ちきった。
三大将は説得ほぼ成功とふんで喜んで偕行社にかえった。
・・・「 国家人無し、勇将真崎あり 」


« 二十八日 »

野中が帰って来た。
かれは蹶起将校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と会見して来たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。
それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。

「 何うしてです 」
渋川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。 全国の農民が、可哀想ではないんですか 」
渋川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
・・・渋川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」


文相官邸にいる野中四郎大尉を訪れた。

時刻は午後五時三十分頃であった。
文相官邸の一室で 舞 師団参謀長、渋谷歩三聯隊長、森田大尉の三人は野中四郎大尉と面談した。
秩父宮殿下ノ歩兵第三聯隊ニ賜リシ御言葉
一、今度ノ事件ノ首謀者ハ自決セネバナラヌ。
二、遷延スレバスル程、皇軍、国家ノ威信ヲ失墜シ、遺憾ナリ。
三、部下ナキ指揮官 ( 村中、磯部 ) アルハ遺憾千万ナリ。
四、縦令軍旗ガ動カズトスルモ、聯隊ノ責任故、今後如何ナルコトアルモミツトモナイコトヲスルナ。
      聯隊ノ建直シニ将校団一同尽瘁セヨ。

森田大尉は、 まず秩父宮との会談内容を伝えると、野中はうなだれたまま黙然と聞いていた。
森田は軍人らしく自決することをすすめた。
普段温厚な森田だけに、野中にとってしみじみと胸に迫るものがあったろう。
「 貴様の骨は、必ず俺が拾ってやる 」
と、森田がいうと、 傍の舞参謀長が
「 殿下の令旨だぞ ! 」 と、強調した。
森田は最後に、
「 だがな野中、すでに奉勅命令は下達されているのだ。今度の事件で、貴様が最先任であることを忘れるなよ 」
と、野中の手を握って別れた。
ついに野中はさいごまで何もいわなかった。
森田大尉は後ろ髪を引かれるような思いで、舞参謀長、渋谷聯隊長、と表に出た。
寒気ひとしお厳しかった。
と、後から野中大尉が迫って来て、
森田に、通信紙をもう一度見せてくれといって、再び丁寧に読み返して確認した。
「 ありがとう。森田、世話になったな 」
と、これが森田大尉がこの世で聞いた野中四郎大尉の最後の言葉であった。
・・・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 


                                                     ↑ 29 日
« 二十九日 »
村中は今朝未明 野中部隊と一緒に新議事堂に移っていた。

まだ夜は明けきっていないのに、 遠くに拡声機をもって何事か放送しているのがわかる。
じっと耳をすまして聞くがよく聞き取れない。
しかし確か奉勅命令という言葉が二度ほど聞き取れた。
奉勅命令というところを見ると、一昨日の奉勅命令が下ったのではあるまいか、
すると軍はいよいよ奉勅命令をもって、われわれを討伐するのだろう。
彼の心のうちは悲憤に煮えくりかえって 思わず涙が頬を伝わってきた。
八時頃になると飛行機から 宣伝のビラがまかれ、議事堂附近にもヒラヒラと舞いおりる。
兵の拾ったものを見ると、
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日  戒厳司令部
それは明かに下士官兵に帰営をすすめているものだった。
村中は、野中と話合って 兵を返すことにした。
野中大尉は部隊の集合を命じた。
傍らにいた 一下士官は、
「 中隊長殿、兵隊を集合してどうするのですか、 我々を帰すのではないでしょうね 」

と 泣きながら訴えた。
「 奉勅命令が下されたことは疑いがない。大命に従わねばならん 」
村中は、よこから、こう諭した。

下士官は、
「 残念です。私は死んでもかえりません 」

と、その場に号泣した。

一三・〇〇 少し前、
果然 全員集合がかかった。
急いで前庭に整列すると、
野中大尉が苦悩の色を浮かべながら別れの訓示を述べた。
「 残念ながら昭和維新は挫折した。
俺は中隊長として全責任をとるからお前たちは心配せずに聯隊へ帰れ。
出動以来の労苦には心から感謝している。
満州に行ったら国の為に充分奉公するように。
ではこれで皆とお別れする。
堀曹長に中隊の指揮を命ずる 」
野中中隊長はいいおわると静かに台をおりた。
代って 常盤少尉も同じように別れの辞をのべると
兵隊の中から感きわまってススリ泣く声がおこった。
訓示が終わった直後 兵隊たちは少尉の周囲に集り 「教官殿、別れないで下さい。
自分達はどこでも一緒に行きます」
と 口々に叫び帰隊を拒んだ。
これに対し少尉は情況と立場を説明して諄々と納得を求めたが、
兵隊たちは一向に聞き入れようとしないので、
少尉は遂に嗚咽し握りしめた拳を目にあて天を仰いだ。
我々も泣いた。
ここで野中大尉や常盤少尉と離別するのは忍びがたく、
すべてが終わった今、 落城の心境は只々涙にとざされるばかりであった。
やがて兵隊たちは思いなおし、 列を整え私の号令でお別れの部隊の敬礼を行った。
「中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ」
私はその時万感胸に迫り、刀を握る手が小刻みに震えていた。
野中大尉は感慨深そうに一同を見渡しながら長い時間をかけて答礼した。
大尉の手が静かにおろされ 答礼が終わっても私はなかなか「直れ」の号令が出なかった。
「もうこれで野中中隊長等とは永別するかも知れぬ」
そういった悲しみが切々と胸を打ち、
日頃機械的に行っていた敬礼の動作とは異なり、
心から慕う者だけがなり得る精神的衝動にかられたからである。
別れの儀式がおわると
野中大尉、常盤少尉、桑原特務曹長の三名は 陸軍大臣官邸に向かって出て行った。
一三・三〇、 服装を整え、 清掃をすませた我々は帰隊の途についた。

・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 

昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉 


昭和維新・香田淸貞大尉

2021年03月21日 14時07分15秒 | 昭和維新に殉じた人達

七月十二日、處刑の朝
香田淸貞大尉が聲を掛けた。
六時半をまわったころだった。
香田は彼らのなかで年長者の一人である。
皆、聞いてくれ。
殺されたら、 その血だらけのまま 陛下の元へ集まり、
それから行く先を決めようじゃないか

それを聞いた全員が、 そうしよう、と 聲を合わせた。
そこで 香田の發生で皆が、
「天皇陛下萬歳、大日本帝國萬歳」
と 全監房を揺らすらんばかにり叫び、
刑場へ出發していった。


香田淸貞 
・ 香田淸貞大尉の四日間 1
・ 香田淸貞大尉の四日間 2 


« 昭和六年 »

「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。
兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。
あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。
余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。
いまの社会は狂っている。
一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。
何とかしなけりゃいかんなァ 」
と、香田が私に慨嘆したことがあった。

・・・後顧の憂い 「 何とかしなけりゃいかんなァ 」

大臣閣下! 大臣閣下! 國家の一大事でありますぞ!
早く起きて下さい。
早く起きなければそれだけ人を餘計に殺さねばなりませんゾ !!

・・・香田清貞大尉 「 国家の一大事でありますゾ ! 」 

二月二十六日 午前五時やや前、
武装した将校三名が下士官若干名を率い、陸軍大臣官邸に来り、
まず 門衛所におった憲兵、巡査を押え、
官邸玄関にて同所におった憲兵にむかい、
「 国家の重大事だから至急大臣に面会させよ 」 と 強要した。
憲兵は官邸の日本間の方に進むことを静止したけれども、
彼等は日本間に通ずる扉を排して大臣の寝室の横を過ぎ、女中部屋の方へ行く。
この時 「 あかりをつけよ 」 との声が聞えた。
事態の容易ならざるを感知して、大臣夫人が襖の間から廊下を見たところ、
将校、下士官、兵が奥にむかって行くのが見えたので、 夫人は なにごとならんと そちらへ行く。
憲兵は大臣夫人の姿を見て 「 危険ですから お出にならん方がよろしい 」 と 小声にて述べたるも、
夫人は 「 なんてすか 」 とこいいながら 彼等を誘導し 洋館の方に至る。
夫人は 「 夜も明けない前に何事ですか 」 と 問いたるに
「 国家の重大事ですから至急大臣にお目にかかりたい 」 と いう。
夫人は 「 主人は病気で寝ているから夜明まで待たれたい 」 と 述べ、
「 待てない 」  応酬す。
夫人は 「 名刺をいただきたい 」 旨 述べたるに、香田大尉の名刺を渡す。
夫人はこれを大臣にとりつぐ。
この間 憲兵が大臣寝室に来て、
「 危険の状態だから大臣は出られない方がよろしい。
そのうち麹町分隊より大勢の憲兵の応援を受くるから寝ておってくれ 」
と 言うので、大臣はしばらく臥床して状況を見ようとする。
夫人は 「 寒いから応接間に案内いたします。暖まるまでお待ち下さい 」 と 述べるに対し
「 待てない、ドテラを何枚でも着て来てもらいたい 」 と 言う。
夫人は憲兵に応接間の暖炉に火をつけさせる。
この頃、総理大臣官邸の方向に 「 万歳 」 の声が聞え、ホラ貝の音がする。
これを聞いた彼等は 夫人にむかい 「 相図が鳴ったから早く大臣に来てもらってくれ 」 と いう。
憲兵は憲兵隊に電話しようとするも、「 ベル 」 が鳴るとすぐ押えてしまい、 十分目的を達し得ない。
書生を赤坂見附交番に走らせようとしたけれども、門の処で静止せられて空しく帰って来る。
隣接官舎 (事務官、属官、運転手、馬丁小使等居住) 方に通ずる非常ベルが鳴らぬので、 女中を起こしに走らせる。
これは目的の官舎に行くことが出来たけれども、官舎からは一向に誰も来ない。
麹町憲兵分隊からもまだ来ない。

その内に彼等はまたやって来て 「 早く来てくれ 」・・陸相に対し と  急がす。
夫人は日本間と洋間との境のところにて 「 それでは襖越しに話して下さい 」 と 述べる。
彼等は靴のままで日本間の方へ行くのを躊躇するので、
「 さっきはそのままで奥の方へ行ったではありませんか。それでは敷物を敷きましょう 」
と いうと、彼等は 「 応接間の方へ来て下さい 」 と いって応接間の方へ引返して行った。
これまでの間において書生および女中の見聞せるところによりて、
門の周囲および庭内には多数の兵がおり、また門前には機関銃を据えおることもあきらかとなる。
しこうして兵などに聞けば演習なりと言いおれりと。
大臣はホラ貝も鳴り、呼びにやった人も来ず、
なにか大きな演習でもやったのかと思うけれども只事でもないようにも思われ、
状況の判断はつかぬけれども ともかく会うことに決心し、 袴をつけて机の前に座し一服しようと思う。
その時 彼等も切迫つまって大臣夫人にむかい 「 閣下には危害を加えませんから早く来て下さい 」 と 言う。
大臣は一服吸いつつある時、 小松秘書官 ( 光彦・歩兵少佐。29期・四十歳 ) が来た。
多分門衛の憲兵が塀を乗り越えて知らせに行ったのであろうと思う。
秘書官は玄関で将校と話して来たらしく、 「 閣下、軍服の方がよございます 」 と いうので軍服に着がえる。
憲兵は三名ぐらいに増加していたらしい。
それから便所に行き、憲兵は面会を止めたけれども彼等に面会するために談話室に入った。
室のなかでは将校三名がなにか書いており、ほかに武装の下士官が四名いた。
憲兵三名が大臣を護衛していたが、憲兵を室のなかに入れないので
やむなく室外でいつにても内に飛びこめる用意をしていた。
当時廊下入口および玄関には下士官がおって警戒しておった。 
大臣が室に入ると将校三名 ( 内二名は背嚢を負い拳銃を携帯す ) は 敬礼し、
歩兵第一旅団副官香田大尉であります。
歩兵第一聯隊付栗原中尉であります。
と 挨拶す。
他の一名はなんとも言わなかったので 「 君は誰か 」 と 問えば 「 村中です 」 と 答えた。
大臣は 「 今時分なんの用事で来たのか 」 と たずねたところ、 今朝襲撃した場所を述べる。
「 ほんとうにやったのか 」 と たずねたところ 「 ほんとうであります。
只今やったという報告を受けました 」 と 答う。
「 なぜ そんな重大事を決行したのか 」 と たずねたのに対し、
「 従来たびたび上司に対し小官らの意見を具申しましたが、おそらく大臣閣下の耳には達していないだろうと思います。
ゆえに ことついにここに至ったのであります。すみやかに事態を収拾せられたいのであります。
自分たちの率いている下士官以下は全部同志で、その数は約千四百名であります。
なお満洲朝鮮をはじめ その他いたるところにわれわれの同志がたくさんおりますから、
これらは吾人の蹶起を知って立ち、全地方争乱の巷となり、
ことに満洲および朝鮮においては総督および軍司令官に殺到し、大混乱となりましょう。
しこうして満洲および朝鮮は露国に接譲しておりますから、
露軍がこの機に来襲するの虞おそれがあり、国家のため重大事でありますから、すみやかに事態を収拾せられたし 」
と 言い、「 蹶起趣意書 」 なるものを朗読する。
・・・ 陸相官邸 二月二十六日 

陸相官邸の大広間、 
正門の幅二間もあろうかと思われる墨絵の富士山の額を背にして、川島陸相が軍服姿で小松秘書官とならび、
その前に大きな会議机を隔てて香田、村中、磯部が立っている。
大臣の前に蹶起趣意書がひろげられていた。
香田は静かに蹶起趣意書を読み上げた。
その力強い一語一語は、この冷たい部屋の空気に響いて人々の心をひきしめた。
     
 川島陸軍大臣    香田淸貞大尉           村中孝次             磯部浅一 

蹶起趣意書
謹ンデ推ルニ我神洲タル所以ハ、
万世一神タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、擧國一體生成化ヲを遂ゲ、
終ニ 八紘一宇ヲ完フスルノ國體ニ存ス
此ノ國體ノ尊嚴秀絶ハ
天祖肇國神武建國ヨリ明治維新ヲ經テ益々體制を整へ、
今ヤ 方ニ万万ニ向ツテ開顯進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
然ルニ 頃來遂ニ不逞兇悪の徒簇出シテ、
私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶對ノ尊嚴を藐視シ僭上之レ働キ、
万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、
從ツテ 外侮外患日ヲ遂フテ激化ス
所謂 元老重臣軍閥財閥官僚政黨等ハ 此ノ國體破壊ノ元兇ナリ、
倫敦海軍條約
並ニ 教育總監更迭 ニ於ケル 統帥權干犯、
至尊兵馬大權ノ僣窃ヲ圖リタル 三月事件 或ハ 学匪共匪大逆教團等
利害相結デ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ、
ソノ滔天ノ罪惡ハ流血憤怒眞ニ譬ヘ難キ所ナリ
中岡、佐郷屋、
血盟団 ノ先駆捨者、
五 ・一五事件 ノ噴騰、相澤中佐ノ閃發トナル 寔ニ故ナキニ非ズ
而モ 幾度カ頸血ヲ濺ギ來ツテ 今尚些カモ懺悔反省ナク、
然モ 依然トシテ 私權自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ
露支英米トノ間一触即發シテ
祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ 一擲破滅ニ堕ラシムルハ 火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
内外眞ニ重大危急、
今ニシテ國體破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ
稜威ヲ遮リ 御維新ヲ阻止シ來レル奸賊ヲ 芟序除スルニ非ズンバ皇謨ヲ一空セン
恰モ 第一師團出動ノ大命渙發セラレ、
年來御維新翼賛ヲ誓ヒ殉國捨身ノ奉公ヲ期シ來リシ
帝都衛戍ノ我等同志ハ、
将ニ万里征途ニ上ラントシテ 而モ願ミテ内ノ世狀ニ憂心轉々禁ズル能ハズ
君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中樞ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク爲スベシ
臣子タリ 股肱タルノ絶對道ヲ 今ニシテ盡サザレバ破滅沈淪ヲ翻ヘスニ由ナシ
茲ニ 同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、
奸賊ヲ誅滅シテ 大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顯ニ肝脳ヲ竭シ、
以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス
皇祖皇宗ノ神霊 冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉野中四郎
外 同志一同


香田はこれを読み終わると、
蹶起将校名簿を差し出した。
そして机上に一枚の地図をひろげて、今朝来の襲撃目標と部署とその成果について地図をさし示しながら説明した。
大臣は一言も発しない。
・・・ 「 只今から我々の要望事項を申上げます 」 

« 二十九日 »

午前一時 香田大尉殿より達し有り、
「 皆の者此処に聯隊長殿が来て居られ、皆を原隊に帰させると言ふが 帰りたい者は遠慮なく言出よ 」 と、
其の時の兵の気持 悲壮と言ふか
「 声をそろえて帰りたくない、中隊長達と死にます 」
と いった。
香田大尉も感激し 「 良く言ってくれた 」 と、
それから 各処々に陣をはり いつでも来いと応戦の用意、
営門出かけてより此の方、此の位緊張した気持ちはなかった。
亦 今日が自分達最後の日かと覚悟した。
・・・ 「 声をそろえて 帰りたくない、中隊長達と死にます 」 

午前十時頃と思はれる頃、
三階から外を見ると、
電車通りも行動隊の兵士が ( 白襷を掛けて ) 整列して居って、
階下に下りて来て先程の部屋を見ると
安藤、香田の両大尉及下士官、七、八名も居り
緊張して居り安藤か香田に何か大声で話をして居りました。
安藤大尉は
「 自決するなら、今少し早くなすべきであった。
 全部包囲されてから、オメ オメと自決する事は昔の武士として恥ずべき事だ。」
「 自分は是だから最初蹶起に反対したのだ。
 然し君達が飽迄、昭和維新の聖戦とすると云ふたから、立ったのである。」
「 今になって自分丈ケ自決すれば、それで国民が救はれると思ふか。吾々が死したら兵士は如何にするか。」
「 叛徒の名を蒙って自決すると云ふ事は絶対反対だ。自分は最後迄殺されても自決しない。」
「 今一度思ひ直して呉れ 」
と テーブルを叩いて、香田大尉を難詰して居りました。
居合せた、下士卒は只黙って両大尉を見詰めて居るばかりでした。
香田大尉は安藤の話をうなだれて聞いて居たが暫らくすると、頭を上げ、
「 俺が悪かった、叛徒の名を受けた儘自決したり、兵士を帰す事は誤りであった。
 最後迄一緒にやらう、良く自分の不明を覚まさせて呉れた 」
と 云って手を握り合ひました。
安藤大尉は、
「 僭越な事を云って済まなかった。許して呉れ 」 と 詫び
「 叛徒の名を蒙った儘、兵を帰しては助からないから、遂に大声で云ったのだ。
 然し判って呉れてよかった。最後迄、一緒にやって呉 」
と 云ってから
「 至急兵士を呼帰してくれ 」
と 云ったので、香田大尉は其処に居た下士に命じ、呼戻させ、又戦備をつかしめたり。

・・・ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」


御宸襟を悩し奉り恐懼に堪えず。
論告に民主革命を実行せんとしたとあるも、これは自分の考えとはぜんぜん異なるところにして、
決行したのは国体の障碍を目した者を除き、国体の真姿を顕現し
特に公判において述べしごとく、昭和元年の御勅諭の精神が実行せられないので、
御勅諭の精神を実行する人が出ることを念願し、そのような人が出る世の中に致したしと希望したるため。
自分が建設計画を有するごとく誤解されたるも、それは建設計画にあらず希望に過ぎず。
つぎに暴力を用いねば現状打開ができぬように妄信したとの点については、
決して妄信にあらず、他に手段なしと考えて直接行動を是認したるなり。
自分の根本の考えは、直接行動はできるだけ避けて、昭和元年の御勅諭に現われた大御心を実現せんとしたるも、
ついにこれを是認したのは、他の同志中にも策を有するものもなく、また信ずべき上官にあたりたるも策なきように考えたるがためなり。
つぎに現状の認識において、立派な御世であるのに自分等が立派な御世でないように考えたとの点については、
昭和の聖代が立派なことは認めます。この立派な御世に生れたことを光栄に思います。
しかし なお不足があると考えたのは、
現在の日本の使命は より以上のことをしなければならぬ時機に到達していると考えたのと、
御勅諭にもそのことが言われているので 左様だと考えました。
さらに兵力を使用し 軍紀を破壊したとの点については、
実行前にそのことは考えたが、前に言いたるように大なる独断と考えたのであって、
独断の正非にかかわらず、このことに関しては陛下の御裁おさばきを受けねばならぬとは考えてはおりましたが、
大臣告示が出て、また 戒厳部隊に編入されて、その独断の出発点において認められたと思って安心しました。
しかし それをもって全部の責任が終ったとは考えませぬでした。
つぎに論告に粛軍に邁進し政府が国政一新に向って進んでいるとあった点については、
私は蹶起の使命が遂行されたと喜んで居ります。
刺激を与え、それによって国民全部が大御心を体し、一致して良くなっていると聞き喜んでおります。
この公判において 先程の論告を聞き、
かねて国家の盛衰に関する重大事件なれば思いきった御裁をしていただきたいと思っておりましたが、
その御方針で邁進しておられることを感じ喜んでおります。
世評はいろいろありましょうが、自分の気持は捨石となることにあるのですから、
それによって国家の躍進ができれば満足の至りです。
ただ形の上より言えば一時は後退に見えるかもわからぬが、
前進し居ることを先程言われ、証拠づけられているように思い喜んでおります。

・・・ 最期の陳述 ・ 香田清貞 「 自分の気持は捨石となることにある 」


昭和維新・安藤輝三大尉

2021年03月20日 11時11分44秒 | 昭和維新に殉じた人達

森田さん、まことにすまないが、
私は昔 千早城にたてこもった楠正成になります。
その頃、正成は逆賊あつかいされたが、
正成の評価は、 正成が死んでから何百年かたった後に正しく評価され、
無二の忠臣といわれました。
私も今は逆賊、叛乱軍といわれ、やがて殺されることでしょうが、
私が死んでから何十年、いや何百年かたった後に、
国民が、後世の歴史家が必ず正しく評価してくれるものと信じています。
秩父宮殿下にも、聯隊長殿にも 森田さんにもまことにすまないが、
今度ばかりは、どうか安藤の思うように、信ずるようにさせてください。
これが安藤の最後のお願いです

・・・「 私は千早城にたてこもった楠正成になります 」 


安藤輝三
二十二日の早朝、
再び安藤を訪ねて決心を促したら、
磯部安心して呉れ、
俺はヤル、
ほんとに安心して呉れ
と 例の如くに簡単に返事をして呉れた。
・・・磯部浅一 行動起  第十 「 戒厳令を布いて斬るのだなあ 」 

其内に 「 タンク 」 の音がしたので安藤大尉始め皆電車通りに出て行きました。
私は 「 ホテル 」 の中で見て居ると 安藤大尉始め下士卒約三十名は一斉に電車線路に横臥してしまひました。
私も出て見ると、赤坂見附方面から 「 タンク 」 が続いて進んで来ました。
私は 「 タンク 」 の前面約二十間計の処で見たのですが、
前面に
「 今からでも遅くない。下士、兵卒は早く原隊へ帰れ云々 」
と 書いた帰順勧告の貼紙が付いてありました。
安藤大尉は兵士に向ひ、
「 タンクに手向ひするな、皆此処でタンクに轢殺されろ 」
と 横臥の儘命令して居りましたが
タンクは其為か赤坂方面へ順次に引き返して行きましたが、
其時タンクから、謄写版刷の帰順勧告のビラを沢山撒布しました。
安藤大尉はそれを拾って見て非常に憤慨して居りました。

タンクが帰って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十数名の兵士を率ゐた将官 佐官の様な人が来ました。
電車通り迄来た時に、安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」 と 云って道路に坐してしまひました。

閣下らしい人は、
「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」 と 数回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
「 今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、此中に、下士、兵卒とあるが、将校と兵卒の間に如何なる相違があるか 」
「 将兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。」
「 其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。 あなたは左様な精神で皇軍を教育して来られたのか。」
「 今や満州の地に於いて隣邦と戦端を開かれ様として居るが、
 若し開戦された場合斯様な宣伝に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。」
「 あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
 左様な人の云ふ事は私は信ずることが出来ませんから、何事も聞く訳には行きません 」
と 云ふと 閣下らしい人は、
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」 と 云って居りました。
安藤大尉は
絶対に聞く事は出来ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する訳には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから来られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が断行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御為に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒厳令とはならず、
却て自分達を攻める為のものとなって居るではありませんか。

「 昨夜から自決せよと云って来て居られるが、安藤は自決しません、自決せよと云ふなら殺して呉れ 」
 と 云って軍刀を前に出しました。
すると 佐官の人が安藤大尉の傍に来ました。
安藤大尉は、
「 あなたは何故斯うなる迄放って置かれたか、斯様な事態になったのもあなたにも責任がある。
 安藤は絶対に自決しません。だから殺して下さい 」
と 云ふて軍刀を突き出しながら、路上に坐りました。
佐官の人は
「 左様か。成程自分も悪かった。お前が左様云ふなら、お前を切って、自分も死ぬ 」
と 云ひながら、此処で両人の間に切り合ひが始まり層になりました。
双方の兵士も各四十名計り互に銃を向け合ひ正に危機一髪と云うふ状態になりました時、
私は先に行動隊の或る兵士から預って持って居た、「 天下無敵尊皇討奸 」 と書いた、日の丸の小旗を持って、
安藤大尉の傍に居りましたが、此状況を見るや三尺計りの間に飛び込み、手を広げて、
「 射ってはいけない、切るなら自分を切ってからやって呉れ 」 と止めました。
此為か、双方の気合いが挫けた様でありましたが、瞬間双方の兵士も銃を引き、双方の将校を引き離しました。
・・・安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」 


「 安藤!  兵隊がかわいそうだから、兵だけはかえしてやれ 」
と 伊集院少佐は安藤に詰めよった。
安藤はこの少佐の言葉に、憤りの色を見せ、 声をふるわせて、
「 わたしは兵がかわいそうだからやったんです。 大隊長がそんなことをいわれると癪にさわります 」
と 反発した。
突然、安藤は怒号した。
「 オーイ、俺は自決する、自決させてくれ 」

彼はピストルをさぐった。
磯部は背後から抱きついて彼の両腕を羽がいじめにした。
そして言った
「 死ぬのは待て、なあ、安藤! 」
安藤はしきりに振りきろうとしたが、 磯部はしっかり抑えて離さなかった。
「 死なしてくれ、オーイ磯部!  俺は弱い男だ。
いまでないと死ねなくなるから死なしてくれ、俺は負けることは大嫌いだ。
裁かれることはいやだ。
幕僚どもに裁かれる前にみずからをさばくのだ。死なしてくれ磯部!  」

もがく安藤をとりまいて、 号泣があちこちからおこった。
悲劇、大悲劇、 兵も泣く 下士官も泣く 同志も泣く、涙の洪水の中に身をもだえる群衆の波
まさしくこの世における人間悲劇の極限というべきか。
伊集院少佐も涙にくれて、
「 オレも死ぬ、安藤のような奴を死なせねばならんのが残念だ」
鈴木侍従長を拳銃で撃ち倒した堂込曹長が泣きながら安藤に抱きついた。
「 中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お伴いたします」
「おい、前島上等兵 ! 」

安藤は当番兵の前島が さっきから堂込曹長と一緒に彼にすがりついているのを知っていた。
「 前島 !  お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある、 中隊長殿はいつ蹶起するんです。
 このままでおいたら、農村は救えませんといってね、 農民は救えないな、
オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、 どうしても維新をやりとげてくれ。
二人の曹長は立派な人間だ、イイかイイか 」
「 曹長 !  君たちは僕に最後までついてきてくれた。ありがとう、後を頼むぞ 」

群がる兵隊たちが一斉に泣き叫んだ。
「 中隊長殿、死なないで下さい! 」
「 中隊長殿、死なないで下さい! 」

磯部は 羽がいじめの腕を少しゆるめながら、
「 オイ安藤、死ぬのはやめろ !  人間はなあ自分で死にたいと思っても神が許さぬときは死ねないのだ。
 自分が死にたくなくても時が来たら死なねばならなくなる。
こんなにたくさんの人が皆 とめているのに死ねるものか、
また、これだけ尊び慕う部下の前で貴様が死んだら、一体あとあはどうなるんだ 」
と、いく度もいく度も、自決を思いとどまらせようと、説きさとした。
・・・ 「 中隊長殿、死なないで下さい ! 」 

中隊長安藤大尉と第六中隊 


安藤輝三
明くれば二十九日
払暁を破るかのように鎮圧軍の陣地から気ヲツケラッパが亮々として鳴り響いた。
我々も戦闘態勢に入る。
いよいよ楠軍と足利軍との戦いが始まるのだ。
そのような緊迫した所に大隊長伊集院少佐がやってきて血を流さんうちに帰隊せよと盛んに説得したが
安藤大尉は頑として拒否し
「 そのお心があったら軍幕を説いてくれ 」
と絶対に動こうとしなかった。正に大尉の気魄は鉄の如く固まっていたのである。
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに続く。
もし中隊長に一発でも発射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵学校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵学校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は国家の現状を憂いて、ただ大君の為に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。自分の認識が不足であった点を後悔しています 」

「 歩兵学校では種々有益な戦術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
少佐は教導隊の生徒を率いて鎮圧軍に加わっていたのである。
次いで歩三、第十一中隊長浅尾大尉がやってきた。
「 安藤大尉、お願いだから帰ってくれ 」
浅尾大尉殿、安藤は帰りませんぞ。
 陛下に我々の正しいことがお判り頂くまでは帰るわけには参りません。
十一中隊は思い出の中隊でした。帰りましたら十一中隊の皆さんによろしく伝えて下さい。
 木下特務曹長をよろしくお願いいたします 」
二人が話している所へ戦車が接近してきた。
上空には飛行機が飛来し共にビラを撒きはじめた。
これを見た中隊長は憤然として 「 こんなことをするようでは斬るぞ 」 と叫んだ。
正に事態は四面楚歌であった。
再びホテルに戻ってくると第一師団長、堀中将がきて説得をはじめた。
「 安藤、兵に賊軍の汚名を着せて陛下に対し申訳ないと思わんか、黙ってすぐ兵を帰隊させよ 」
すると安藤大尉はムラムラッと態度を硬化させて
「 閣下! 何が賊軍ですか、尊皇の前には将校も兵も一体です。
 一丸となって陛下のために闘うのみです。我々は絶対に帰りません。また自決も致しません 」
「 師団長閣下、安藤は閣下に首を斬られるなら本望です 」
すると側に居た伊集院少佐が
「 安藤、お前はよく闘ったぞ、では閣下に代わってこの伊集院がお前の首を斬る、そして俺も死ぬのだ 」
といった。
すると安藤大尉はグッと少佐を睨みつけ
「 何をいうか、俺を殺そうとまで図った歩三の将校団の奴らに斬られてたまるか、斬れるものなら斬ってみろ 」
と 起ち上がったため附近にいた私たちが中に入ったので事なきを得た。
師団長は兵のことを考えてくれといって帰っていった。

一三・〇〇頃、
歩一香田部隊が武装解除して帰ろうとしていた。
それを見た安藤大尉が憤り香田大尉に詰め寄った。
「 帰りたいなら帰れ、止めはせん、六中隊は最後まで踏止まって闘うぞ。
 陛下の大御心に我々は尊皇軍であることが解るまで頑張るのだ。
昭和聖代の陛下を後世の物笑いにしない歴史を作るために断乎闘わねばならない
この言葉に香田大尉は感激したらしく、意を翻して最後まで闘うことを誓い再び陣地についた。
我々はここで志気を鼓舞するために軍歌を高唱した。
その声は朗々として山王ホテルを揺るがした。
最期まで中隊長の命を奉じて闘い そして死んでゆく気概がありありと感じられた。
軍歌が終わった頃再び伊集院大隊長がきた。
「 安藤、さきほどは済まないことをした。俺はあやまる、何としても皇軍相撃を見るに忍びないのだ。
どうか俺の言葉に従って帰ってくれ 」
板ばさみになっている大隊長の苦悩がよく判る。
何としても部下の兵隊を帰したい気持ちがありありと浮かび出ていて
大隊長は涙を流しながら安藤大尉を説得した。
しかし大尉の決心に変わりなく、
「 何度いわれても同じことです。私たちにいう言葉があったなら、軍幕臣を説いて下さい。この上いうなら帰って下さい 」
 とはっきりいい切った。

一四・〇〇頃、
尊皇軍の幹部全員が山王ホテルに集まった。
安藤、香田、磯部、山本、村中、丹生、栗原の各将校の面々は重要会議を始めた模様である。
ここに至っての会議といえば事件処理の善後策以外に考えられない。
やがて重苦しい雰囲気の中に会議が終り解散となった。
その頃山王ホテルの周囲は鎮圧軍がひしめき、盛んに降伏を呼びかけていた。
間もなく安藤大尉は全員を集め静かに訓示した。
「 皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。
 中隊長は心からお礼を申上げる。皆はこれから満州に行くがしっかりやってもらいたい 」
安藤大尉の訓示は離別を暗示していた。
そこで
「 中隊長殿も満州に行かれるんでしょう 」
と 兵が口々に叫んだ。
すると大尉は 「 ウン、いくとも・・・・」
と 悲しげに答えた。
そこへまた大隊長がきて
「 安藤、いよいよ死ぬ時がきた。俺と一緒に死のう 」
と 迫った。
中隊長はすでにさきほどの気概が消え、恰も魂の抜がらのようになっていた。
「 ハイ、一緒に死にましょう 」
そういって無造作に拳銃を取り出したので私は咄嗟に中隊長の腕に飛びついた。
同時に磯部主計が背後から抱き止めた。
「 離してくれ・・・・」
「 いや離しません 」
「 安藤大尉、早まってはならん 」
中隊長も止める者も皆泣いた。
大隊長は
「 なぜ止めるのか、離してやれ、可愛いい部下を皆殺しにできるか、
俺と安藤の二人が死んで陛下にお詫びするのだ、
昭和維新は十分に目的を達したのだ、喜んで死ぬのだ 」
と 彼もまた号泣した。
中隊長は腕を抑えている私に
「何という日本の現状だ・・・・前島、離してくれ、中隊長は何もしないよ、
するだけの力がなくなってしまった。
随分お世話になったなあ。
いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、
と 叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。
しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなった
中隊長の目からこぼれ落ちる涙が私の腕を濡らした。
側にいる磯部、村中の両大尉が静かに話しかけた。
「 安藤、死ぬなよ、俺は死なないぞ、
死のうとしても止める時は死ねないものだ。死ぬことはいつでもできるのだ 」
「 ウン、しかし俺は死ぬのがいやで最後まで頑張ったのではない、
ただ何も判らない人間共に裁かれるのが嫌だったのだ。
しかし正しい事は強いな、けれども負けることが多い、日本の維新はもう当分望まれない 」
そこへ山本又少尉がやってきて
「 安藤大尉殿、靖国神社に行って皆で死にましょう。
大隊長も靖国神社に行って死ぬことを誓ったので喜んで帰ってきました。一緒に行きましょう 」
「 ウン、行こう、兵士と一緒ならどこへでも行く 」
これを堂込曹長が止めた。
「 行っては困ります、中隊長殿、死ぬなら私たちと一緒にお願いします 」
私はここで中隊長の腕をはなした。
すでに将校たちは死を決意し死場所を求めているのである。
そこへ戒厳司令部の参謀副官がきて、早く靖国神社に行けと催促した。
同居していた歩一も勧告されたのか武装を解いて原隊に復帰し
香田大尉は陸軍省に集合したとのことである。
中隊長は出発にあたり物入れのボタンが落ちているのでつけてくれというので私は黒糸を使って縫いつけた。
そこへ参謀副官が再びきて 「兵隊だけは原隊に帰えせ」 といった。
すると中隊長は憤然として
「 最後までペテンにかける気か、皆も見ておけ、軍幕臣という奴はこういう人間だ 」
と 副官をなじりあくまで兵と一緒に行くことを強調した。
かくして 
一五・〇〇、
中隊がホテル前の広場に集合した時、参謀副官は我々に向って
「 お前たちはここで中隊長とお別れしなければならぬ 」 といった。
これを大隊長が一応とめたが安藤大尉はどういうわけか聞き流し、整列した我々に対し最後の訓示を与えた。
「 俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。
 お前たちが聯隊に帰るといろいろなことをいわれるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。
聯隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。
満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう 」
やがて合唱がはじまった。
昭和維新の夢破れ、
反乱軍の汚名を着せられて屈伏した今、
安藤大尉の胸中如何ばかりか察するにあまりあるものがある。
無念の思いをこめて歌う合唱がどのように響いたかかは知らないが、
我々の心は等しく号泣に満ちていた。
一、鉄血の雄叫びの声  竜土台    勝利勝利時こそ来たれ吾らが六中隊
二、触るるもの鉄をも砕く わが腕    奮え奮え意気高し 吾らが六中隊
以下三、四番 略
合唱が二番にうつる頃、安藤大尉は静かに右方に移動し隊列の後方に歩いていった。
私は変な予感を抱きながら見守っていると、やおら拳銃を引抜き左あご下にあてた。
「 ダーン!」
突然の銃声に驚いた一同は ワッと叫びながら安藤大尉の元にかけより口々に  「 中隊長殿!」 と叫んだ。
倒れた大尉の頭から血が流れ出しコンクリートを赤く染めた。
負傷の状態をみると左あご下からこめかみ上部にかけての盲貫銃創でしかも銃弾が皮膚と骨の間を直通したかのようであった。
早速衛戍病院に連絡し救急車を呼び、私一人が付添い人となり病院からきた衛生兵二名と共に病院に護送した。
安藤大尉がすぐ病室に収容されるのを見届けると私はそのまま聯隊に帰隊した。
なお山王ホテルの方の主力は永田曹長の指揮で聯隊に帰った。
・・・「 農村もとうとう救えなかった  2」


昭和維新・河野壽大尉

2021年03月19日 10時27分33秒 | 昭和維新に殉じた人達

これより先、河野は余に
磯部さん、私は小学校の時、
陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました。
今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか。
私も兄も、父の問に答へなかったら、
父が厳然として、
とびついて行って殺せ
と 云ひました。
私は理屈は知りません、しいて私の理屈を云へば、
父が子供の時教へて呉れた、賊にとびついて行って殺せと言ふ、
たった一つがあるのです。
牧野だけは私にやらして下さい、
牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ

と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、
余は強く肺肝をさされた様に感じた。

・・・第八 「 飛びついて行って殺せ 」 


河野壽

磯部さん、
ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戦はしてはいけない、
それでは永久に決行出来ぬ事になるから、
この度は真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、
二月十一日に決行同志の会合を催してもらいたい、
其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん

・・・ 第七 「 ヤルトカ、ヤラヌトカ云ふ議論を戦わしてはいけない 」 

牧野伸顕伯襲撃
河野大尉が、 「 デンポウ! デンポウ! 」
と 叫びながら台所の扉をたたく。
だれも出てこないので、蹴破って中に侵入した。
郡靴でドカドカと歩きまわるのがきこえる。
すると、パ、パーン、と 銃声がきこえた。
わたしの足もとに、銃弾がうなりを生じて飛んで来た。
皆川巡査の射ったものだった。
頭の毛が、ゾーと立ちあがってしまって、わたしは完全に足の力を失った。
そんな状態が五分ぐらい続いた。
さらに、ピストルの音が激しくなったころ、 「 やられた! 」 という声が聞こえる。
ふと足もとをみると、河野大尉が軍刀をつえにしながら、台所から出て来る。
軍服の二ツ目のボタンと、三ツ目のボタンの間を射たれて血が流れている。
その弾が、筋骨をすべって横腹に頭を出している。
だから、二カ所から血が噴き出ていた。
私は、それをみて、がっかりした。
総指揮者がやられた、というショックは大きかった。
河野大尉は、大きな意志に腰をかけ、軍刀をついている。
・・・牧野伸顕襲撃 1 「 デンポウ ! デンポウ ! 」 

伊東屋別館の火事に 最初にかけつけた元消防組の子頭、岩本亀三氏は
「 その朝、わたしの経営していた旅館で五時半に早立ちする客があり、
タクシー会社に電話で連絡して待っていると 川向うの家の壁が真赤になっている。
着がえの仕度をするひまもなく、シャツに股引の姿で長靴をはき 半鐘櫓のところへとんでゆくと、
そこに兵隊がいて、半鐘を叩いてはいけない、という。 あとで、それが水上源一という人らしいと分った。
伊藤屋別館の前に行くと兵隊たちが立っている。
その中の航空将校がわたしを見て、「 とまれ、君はなにだ 」 と 咎めた。
「 消防だ。あんたらは何だ」 と 云い返した。
「 われわれは国家の革新のためにやっている 」
「 民家に延焼するじゃないか 」
「 その点はやむを得ない 」
こんな問答をしているうちに、家の中で女たちの騒ぐ声が聞えた。
将校は 「 女がいるらしい。君、女を助けてやってくれ 」 と いった。
そこで門の中に入って石垣の塀と家の間のせまいところを伝って山の斜面側に行ったところ、
便所のところで行詰りになっている。
高い塀を乗りこえ、斜面に上り、どこから下に降りようかと考えているとき、
女ものの着物を頭からかぶった牧野さんを先頭とする一行が塀のところにきた。
写真で見覚えの顔なので、はじめて牧野さんと知った。
牧野さんは顔を土色にして 「 助けてくれ 」 と 私に云った。
私が一メートル半ばかりの塀を降りようとする前に、牧野さんが塀をよじ登ってきた。
私はその首根ッ子をつかまえ力まかせに引上げた。
その瞬間、私は左脚を丸太ン棒でたたかれたように感じた。
兵隊の撃つ弾丸が当ったのだが、そのときは分らなかった。
牧野さんを塀のこっち側に移すと、幸い行きが積もっていたのでその上をいっしょにずり落ちた。
そこへ近くの旅館の工事をしている人たちや警防団の人たちが来てくれたので、
牧野さんのことを頼んだ。
そのとき 「 撤収用意 」 という声がした。
つづいて 「 撤収 」 という声がした。

・・・牧野伸顕襲撃 3 「 女がいるらしい、君、 女を助けてやってくれ 」 

「 不覚の負傷でした。大失敗でした。 おかげでなにもかもめちゃめちゃです。
 私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはなかったでしょう。
それよりも東京の同志達が逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。
それが なによりも一生の遺憾です 」
「 きっと、血気にはやる栗原が事態をあやまったに違いありません。
私がいれば栗原を抑えることができたと思うと残念でたまりません。
取返しのつかないことをしてしまいました 」
栗原中尉ともっとも親しく、もっとも相通じていた弟としては、
この間の事情について、一抹の予感があったらしく唇を噛んだ。
事件に関する話は避けたいと思った心遣いもいまは無駄だった。
弟の心中には、事件のこと以外には考えるなにもなかったようだ。
「 勅命に抗するに至っては、万事終りです。
いろいろと複雑な事情はあるに相違ありませんが、
ことの如何を問わず、勅命に抗し、逆賊になるにおよんでは、大義名分が立ちません。
こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。
無念この上もありません。死んでも死にきれない思いです 」
暗然として黙考する弟の姿に、返すべき言葉もなかった。
「 兄さん、どうか許してください。
こと 志と違い、いやしくも逆賊となり終った今日、私一人はたとえその圏外にあったとはいえ、その責め同断です。
この事態に処すべき私の覚悟は、すでに充分にできました。立派に死んでお詫びをいたします 」
はっと 胸を衝くものがあった。 弟は死を決意している。
弟の参加を知って以来、日毎に悪化する情勢のなかで、 事件のもたらす最悪の結果がなによりの傷心の種であった。
が、規模こそちがえ、血盟団や五・一五事件等、 この種の結末になにかしら心のよりどころを求めて、
どうしても最後的な死を考えようとはしていなかった。
あるいは そう考えることが怖ろしかったからであろう。
血盟団、五 ・一五の人々のことが、弟の言葉を聞きながら脳裡をかすめる。
「 しなないでも 」 という 気持ちが浮んでくるが、言葉にはならなかった。
ややあって、弟は再び語をついだ。
「 実は、昨夜以来 まんじりともせず熟慮しました。
それがいつの間にか叛乱部隊となり、帰順命令がでて事態の収拾を見た、
という 最悪の結果を知らされたときは、ただ、呆然として、泣くに泣けませんでした。
しかしこの絶望の中にも、なお一縷の望みは、
私たち同志が叛徒として処断されるようなことは よもやあるまいということでした。

この最後の命の綱も、先刻の宮内省発表ですべてが終りました。
圏外にあった私も、抗勅者として、同様に位記の返上を命ぜられました。
国家のため、陛下の御為に起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・・」
弟は涙を流し、ふるえる唇を噛みしめて言葉を呑んだ。
「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、 ということについては、 一つの考えを持っていました。
 それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、
綺麗であるが、 反面安易な、弱い方法である。

われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」
弟の眼にはもう涙はなかった。
沈重な面持に、低く重く、悲壮な信念が一言一句、強く私の肺腑を衝いた。
「 東京の同志たちは この叛徒という厳然たる事実をなんと考えているのか諒解に苦しみます。
私共の日頃の信念であるところの、 あらゆる苦難を排して最後まで闘い抜く生き方も、
現実の私どもの冷厳なる立場は、絶対にそれを許さないのです。
私どもはたとえ、こと破れたさいも、恥を忍んでも生きながらえ、
最後まで公判廷において所信を披瀝ひれきして世論を喚起し、
結局の目的貫徹のために決意を固めていました。
しかし 日本国民として、絶体絶命の 叛徒 となった現在、なにをいい、なにをしようとするのでしょう。
東京の同志たちが、もしあえてこの現実を無視して、公判廷に立つことができたとしても、
叛徒の言うことが、どうしても、世論に訴える方法があるでしょうか。
たとえその途が開けたとしても、その訴えるところが世論の同調をえることがあるとすれば、
それはいたずらに叛徒にくみする者を作ることになります。
そのあげくは、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないということを、 深く考えねばなりません。
こと志とまったく相反して、完全に破れ去った私どものとるべき唯一の途は、
その言わんとし、訴えんとするところのすべてを、これを文章に残し、
自らは自決して 以て闕下にその不忠の罪を謝し奉るより他はありません 」
弟が考え抜き、苦しみ抜いた最後の決意はこれであった。
不動の決意を眉宇に輝かせながら語る弟の語に、
何一つ返す言葉もなく、私はただ無言でうなずくばかりであった。
弟は語調を改めて、すくなくとも自分一人は、幸か不幸か熱海にあって、
勅命に抗した事実はいささかもないことを認めてもらいたいこと、
なお、亡父母もこのことだけは喜んでくださると思うと、
苦悩のうちにも、わずかに自ら慰めるところのある心境を語った。
・・・河野壽大尉の最期 

陸軍大臣閣下
一、蹶起自決ノ理由別紙遺書ノ如シ
二、遺書中空軍ノ件ニ関シテハ      
      特ニ迅速ニ処置セラレスハ国防上甚タシキ欠陥ヲ来サン事ヲ恐ル
三、小官引率セシ部下七名ハ小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ
   御考配ヲ願フ 四、別紙遺書 ( 同志ニ告ク ) ヲ
      東京衛壱成刑務所ノ同志ニ示サレ更ニ同志ノ再考ヲ促サレ度シ
     尚ホ 在監不自由ノ事故
      特ニ武士的待遇ヲ以テ自決ノ為ノ余裕ト資材ヲ附与セラレ度ク伏シテ嘆願ス
同志ニ告グル
全力ヲ傾注セシモ目的ヲ達シ得サリシ事ヲ詫ブ。
尊皇憂国ノ同志心ナラスモ大命ニ抗セシ逆徒ト化ス。
何ンソ生キテ公判廷ニ於テ世論ヲ喚起シ得ヘキ。
若シ世論喚起サレナハ却ツテ逆徒ニ加担スルノ輩トナリ不敬を来サン
既ニ逆徒トナリシ以上自決ヲ以テ罪を闕下ニ謝シ奉リ
遺書ニ依リテ世論ヲ喚起スルヲ最良ナル尽忠報国の道トセン
寿  自決ス  
諸賢再考セラレヨ


時勢ノ混濁ヲ慨なげキ皇国ノ前途ヲ憂ウル余り、 死ヲ賭シテ此ノ源ヲ絶チ
上  皇運ヲ扶翼シ奉リ
下 国民ノ幸福ヲ来サント思ヒ遂ニ二月二十六日未明蹶起セリ。
然ルニ事志ト違ヒ、大命ニ反抗スルノ徒トナル。
悲ノ極ナリ。 身既ニ逆徒ト化ス。 何ヲ以テ国家ヲ覚醒セシメ得ヘキ。
故ニ自決シ、以テ罪ヲ闕下に謝シ奉リ、一切ヲ清メ国民ニ告グ
皇国ノ使命ハ皇道ヲ宇内ニ宣布シ、
皇化ヲ八紘ニ輝シ以テ人類平和ノ基礎ヲ確立スルニ在リ。
日清、日露ノ戦、近クハ満州事変ニヨリ
大陸ニ皇道延ヒ極東平和ノ基礎漸ク成ラントスル今日、
皇道ヲ翼賛シ奉ル国民ノ責務ハ重且大ナリ
然ルニ現下ノ世相ヲ見ルニ国民ハ泰平に慣レテ社稷ヲ願ス、
元老重臣財閥官僚軍閥ハ天寵ヲ恃ンテ専ラ私曲ヲ営ム。
今ニシテ時弊ヲ改メスンハ皇国ノ招来ハ実ニ暗然タルモノアリ、
国家ノ衰亡カ内的ニ係ルハ史実ノ明記スル所ナリ
更ニ現時ノ大勢ハ外患甚タ多クシテ 速カニ陸海軍ノ軍備ヲ充実シ、
外敵ニ備ユルニ非ンハ、 光輝アル歴史為ニ汚辱ヲ受ケン事明ナリ、
軍縮脱退後ノ海軍ノ現状ハ衆知ノ事ニテ、
陸軍ハ兵器資材ノ整備殊ニ航空ノ充実ヲ図リ、
至急空軍を独立セシメ列強空軍ト対立セシムルヲ要ス。
右 軍備充実ノ為ニハ国民ノ負担ハ実ニ大ナルモノアランモ、
非常時局ニ直面シ皇道精神ヲ更生シ以テ喜ンテ之ノ責務ニ堪ヘ、
又 政ヲ翼賛し奉ル者ハ国家経済機構ノ改革ヲ断行シ、
貧ヲ援ケ富ヨリ献セシメ以テ 国内一致団結シ皇事ニ精進サレン事ヲ祈ル
今自決スルモ七生報国尽忠ノ誠ヲ致サン

・・・あを雲の涯 (七) 河野壽 


昭和維新・竹嶌繼夫中尉

2021年03月18日 09時02分20秒 | 昭和維新に殉じた人達

今まで公判廷で申上げたことは一点の偽もありませんが、
これが最後と思いますから、他の者に及ばぬかも知れませんが、
考えて居ることを述べます。
私どもの蹶起により上京し事実においては種々な謀議をやっていますが、
豊橋の最古参として仮令たとえ自分の與あずからぬ計画があっても責任を負う考えであります。
絶対に民主革命を企図したものではありません。
自分の心が大御心たりとの不逞の根性はありません。
ただ 斯くすることが大御心に副い奉る所以なるべしと考えたのみであります。
勝手に判断して大御心を僭上したのでは絶対ありません。
大臣告示、戒厳司令官の隷下に編入せられたことは、大光明に照らされたような気がいたしました。
故にその後の行動は軍隊としての行動であります。
頑張って一定地域を占拠したものではありません。
告示は戒厳司令部が説得要領としてた強弁せられますが、 われわれは神聖なる告示と考えました。
また 二十九日まで総ての者が説得したように強弁せられますが、
激励ばかりを皆の人から受けたのであります。
兵力使用の点については、豊橋において 皆 必死に議論いたしました。
これが統帥権干犯なることは明かでありますが、
統帥権の根源を犯されていては、統帥権全部が駄目になるが故に
末を紊みだして根源を擁護せんとしたのであります。
ちょうど毒蛇に噛まれ手首を切断し 命を助ける同筆法であります。
もちろんそのことに対しての責任は充分に負います。
残虐な殺害方法だとのお叱りを受けましたが、
残虐をなすつもりでやったものではなく、
若い者が一途に悪を誅するための天誅の迸ほとばしりに出たことで、
一概に残虐と片づけるのは酷なことと存じます。
本年 命を終るに際し、
事志と違い 逆賊となり、
修養の足らぬ心を 深く 陛下にお詫び申上げる次第であります。
・・・最期の陳述 ・ 竹嶌継夫 


竹嶌繼夫
私は満洲にあった第二師団に属し奉天に駐屯していたが、当時聯隊旗手でした。
満洲事変の勃発した九月十八日夜から十九日にかけては
軍旗を奉じて奉天城の攻略に参加しました。
そこではいくたの戦友の血が流されました。
私は戦友たちの尊い犠牲を無駄にしてはならぬと思いました。
その後聯隊本部にあって各種の情報を見る機会を与えられましたが、
政府の内外にわたる事変態度から眼は国内に向けられ
心はその政治のあり方に疑問を生むに至りました。
いわば戦争状態と国内政治体制との矛盾を発見したとが、
私が国家革新へと志向した動機となりました・・獄中で

彼はその初陣において血をもって自覚したものが、国内政治への開眼であり、
また それから維新運動に挺身するに至ったというのである。
彼は昭和八年一月満洲より帰還後は、聯隊の先輩植田、松平等と 皇道維新塾をつくり、
地方青年の育成に力を用いたが、間もなく豊橋に転じてからは、
同じ区隊長として對馬勝雄と机をならぺるに及んで、愈々国家革新の熱をあげていた。
実母が東京淀橋区上落合に居住していたので、
しばしば休暇あるいは衛戍線外外出の許可を得て上京し、
その機会に村中、磯部、渋川などの錚々たる闘士に接し 維新発動を待機していた。
豊橋における西園寺襲撃を中止し對馬と共に上京、二十六日午前二時頃 歩一に入ったが、
爾来、陸相官邸、首相官邸、農相官邸、幸楽、山王ホテルなどに居り、
反乱首脳部と行動を共にしていたが、部隊の指揮に任じたことはなかった。
「 豊橋方面の関係については、自分が先任者として指導したものであるから、
自分に全責任を負わしめられたい 」
と、その意見を述べていた。