あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

あを雲の涯 (二十二) 北一輝

2021年07月02日 05時33分49秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)



獄窓一年刑死迫  

盡日讀誦妙法蓮華經
願滅百生
罪不受生死身
昭和十一年十二月 
北一輝



北 輝次郎  キタ テルジロウ

北一輝  キタ イッキ
明治16年4月15日、新潟県佐渡郡湊町に父慶太郎の長男として生れる

明治39年5月 「國體論及び純正社會主義」 を自費出版
明治44年10月中國・辛亥革命勃發に革命軍に參加
大正4年 「支那革命外史」
大正4年8月 「國家改造原理大綱」・・後の「日本改造法案大綱」
昭和12年8月19日 2.26事件民間側首魁として銃殺される

刑死二日前、弟、北昤吉が会ったとき、
「 わたしはこの事件に何ら関係はしない。
 しかしわたしの書物を愛読していた連中がやったので、責任を問われれば責任を負う。 
もし、ぼくが無罪放免になっても、他の諸君のあとを追うて自決する 」
と 語った といわれる  ( 北昤吉 『 風雲児北一輝 』 )
判決の当夜、北輝次郎の居室を覗いて見た。
そして判決に対する所感、といったようなことを聞いて見た。
そのとき
「 判決は有罪であろうが無罪であろうが、そんなことは考えていません。
ただ私の著書 日本改造法案大綱を愛読信棒したのが遠因で、青年将校等が蹶起したとしたら
私は責任上当然彼等に殉ずる覚悟でいました。 私に対する判決などどうでもよいのです。
死は二つありません 」
この覚悟のほどは、全く見上げたものである
二・二六事件、軍獄秘話 当時東京陸軍刑務所所長 塚本定吉・・から

子に与ふ
遺書
大輝よ、此の經典は汝の知る如く父の刑死する迄、讀誦せるものなり。
汝の生るると符節を合する如く、突然として父は靈魂を見、神佛を見、
此の法華經を誦持するに至れるなり。
即ち汝の生るるとより、父の臨終まで讀誦せられたる至重至尊の經典なり。
父は只此法華経經をのみ汝に殘す。
父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、
又 樂しき嬉しき時、此の經典を前にして南無妙法蓮華經と唱へ、念ぜよ。
然らば神靈の父 直に汝の爲に諸神諸佛に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。
經典を讀誦し解説するを得るの時來らば、父が二十余年間爲せし如く、
誦佳三味を以て生活の根本義とせよ。
即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸佛の加護、
指導の下に在るを得べし。
父は汝に何物をも殘さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり
昭和十二年八月十八日    父 一輝
・・註
これは彼が肌身から話さなかった法華経八巻末の余白に書き残したものである
北に実子はなく、大器は辛亥革命の同志・譚人鳳の孫を養子としたものである

 
北一輝の仏間
此処で霊告があった
今御經がでたから讀むと云って、
「 國家人なし、勇將眞崎あり、國家正義軍のために號令し、正義軍速かに一任せよ 」
 と 靈示を告げる。
余は驚いた。
「 御經に國家正義軍と出たんですか、不思議ですね、私共は昨日來、尊皇義軍と云ってます 」
 と云ひ、神威の嚴粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ。
・・・ 第十九 「 国家人なし、勇将真崎あり 」 

一夢五十四年ノ生涯
ヲ終ラント致候

獄中何カトノ御親切
小生ノミナラズ前行

同志将校等一同ニモ代ハリ
一筆謝意書残ス者也

十二月    北一輝
中村看守殿

平石看守に書き残した絶筆
 
獄裏讀誦ス妙法蓮華経
ハ加護ヲ拝謝シ或ハ血涙ニ泣ク
迷界ノ凡夫古人亦キ乎
北一輝
八月十九日

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