あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・末松太平大尉

2021年04月06日 14時01分17秒 | 昭和維新に殉じた人達

私が桜会の会合に出席するようになって、
すつかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「 このクーデターが成功したら、二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にもその行賞の及ぶことを伝えたい好意からいったにちがいなかったが、
これは聞き捨てにならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか一瞬ためらた。 
が 思いきっていってみた。
「 ちょっと待った。 
それはおれの考えとはちがう。 
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。 
失敗もとより死、成功もまた死だとおもっている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「 そういわれてみればその通りです。わかりました。 
 われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
私はやはりいつてよかったとおもった。
後藤少尉がすっかり私に気を許すようになったのは、このことがあってからである。
・・・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」


末松太平 クリック

昭和五年頃は
全国の農村のいたるところで
頻々と小作争議が発生していた。
この年の夏、
仙台の大岸中尉に呼ばれた末松少尉は、
大岸から次のような話を聴かされている。
  大岸頼好
木曽川流域でも小作人が川の堤防を切り崩して、
地主の田畑を水びたしにする騒動があって、軍隊が鎮圧に出動したことがあった。
このときの状況を部隊の下士官だった分隊長が日記をつけていた。
「 もし小隊長が農民に射撃を命じたら、果して自分は部下に射撃号令をかけることができたであろうか。
 自分もそうだが、部下もその多くが小作農民の子弟である 」
大岸中尉はわざわざ青森から招いた末松少尉にこの話をしながら
「 社会の根本的改革をしなければ兵の教育はできない。軍隊は存立し得ない。
いま 軍当局は 良兵良民 を強調するが、これはむしろ 良民良兵 でなければならない 」
と いう趣旨を語り 末松も共鳴している。
・・・「 騒動を起したる小作農民に、何で銃口を向けられよう 」

村中孝次  
ある日 村中大尉をつかまえて私は膝づめ談判をした。
「一体やるのですか、やらないのですか。」
「いまさら、なんのことだ。」
村中大尉はけげんそうな面持ちだった。
「渋川はこの秋には東京は起つといっていたが・・・・」
「それはなんかの間違いだよ。」
私はここで欝憤をぶちまけた。
「東京の連中は、いずれにしても起つ気はもうないんでしょう。」
流石に温厚な村中大尉も憤然とした。
「やるときがくればやるさ。」
いつもは蒼白いほどの顔面を真赤にして、

激しい語調で叱りつけるようにいった
・・・ 村中孝次 「 やるときがくればやるさ 」

予め たしかめなかった私も悪かった。
肝心の澁川善助は統天塾事件で収監され不在だった。
何かの間違いだろうと村中大尉にいわれ、
起つときがくれば起つさ、
といって叱られれば、
そうですか、 と ひき下がるほかはなかった。
が、私は腹の虫がおさまらなかったので、 見当違いの尻を西田税にもっていった。
「 東京の連中はだらしないですよ。
あんたも、この連中とはいい加減手をきって、
あんたは、あんた自身の才能を生かす政治の面に、正面切って進んではどうですか 」
相手が西田税だからいえる無警戒な、穏当を欠く いいがかりだった。
私は西田税の笑顔を予期していたが、 西田税の反応は意外に真剣で、しんみりしたものだった。
「 僕の存在が 君らの運動の邪魔になっていることは前から知っている。
できることなら 青年将校たちから、手を切った方が君らのためにもなるし、
僕自身も、君のいうとおり、僕に適した方面に進んだ方がいいと思う。
まだしたいことが沢山あるしね。
が、磯部君などが、いろいろ相談を持ちかけてくるんでね 」
もちろん正確に、この通りにいったわけではない。
が、記憶をよびおこすと、西田税は大体こんな意味の述懐をしたように思う。
自分の存在が青年将校運動の邪魔になると、 卒然といいだした西田税のことばは、
当時私にとってはショックだったし、いまだに忘れえない。
十月事件以来の西田税の心の疵に、私のことばが、まともにふれたのだと思った。
しかも私は 十月事件のときの轍をふむまいと用心して、
このとき千葉で結集した青年将校たちを、つとめて西田税に近づけまいとしていた。
西田税の、浪人であるが故の悲哀を、 私は非情に衝いたことになったと思って内心狼狽した。
「あんたが邪魔になるなんて、そんなことはありませんよ」
内心の狼狽をかくして、私は西田税の心の疵をかばおうとした。
こんなことまであったのに、
十一月二十日事件とやらいうものはデッチあげられて、
それを知ったかぶる者は、知ったかぶっている。
・・・悲哀の浪人革命家 ・ 西田税

相澤中佐は沈痛な顔で、考えこんでいた。
昨夜は一睡もしなかったのかも知れないと思った。
しばらく考えこんでいた相澤中佐は、急に床の上に起きあがって坐ると、 笑顔になって、
「 どうだ、もう一度一緒に東京へ行かないか。」 と 私をさそった。
私はこれはことわった。
一緒に行くとは、時によっては一緒に永田鉄山を斬ることでもある。
軍刀も拳銃も持ってはいた。
が 東京に行って、すぐその足で、というわけにはいくまい。
すると三日の勅諭奉読式に間に合わず、軍規をみだることになり、
それはいいとしても 同時に怪しまれて事前に手をうたれる心配がある。
未遂はみっともない。
それで私はことわった。
相澤中佐の顔から笑いが消えた。
私は東京への同行はことわったものの、このまま相澤中佐を突き放すに忍びなかった。
「 東京へ行かれたら、まだ大岸さんはいると思いますから、 もう一度相談してみてはどうですか。
その上で最後の決心をされては・・・・。 それとも、もう大岸さんに相談せず、やりますか。
いずれにしても、やる決心がついたら電報を打って下さい。
きいた以上は放っておけないし、やる以上は討ち損じないよう加勢します。
電文はチチキトクでもハハキトクでもいいですから・・・・。 一応私は青森にかえります。」
・・・ 「 永田鉄山のことですか 」 

私は菅波中尉に、『 日本改造方案大綱 』 は 金科玉条なのか、

それとも単なる参考文献なのか、単なる参考文献であるとすれば、別に妙案があるのか---といった点をただした。
これに対して菅波中尉は
「 実はそのことで自分も考えているところだが、『 日本改造方案大綱 』 を 金科玉条とみるわけにはいくまい 」
といった意味のことをいった。
そのとき
「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。 ( ・・・『 皇政維新法案大綱 』  )
これは私も前に見ていた。
青森の聯隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』
などを参考文献に起案したものである。
『 日本改造方案大綱 』 を めぐっての建設案については菅波中尉と私の意見は一致した。
「 内地に帰ったら、みなとよく相談してみてくれ 」
と 菅波中尉はいった。
 菅波三郎

私はそれで菅波中尉と親京で約束したとおり、北一輝の 『 日本改造方案大綱 』 に対する
われわれの態度はどうあるべきかを一同にただした。
ぴたりと談笑がとだえた。
だれも意見をいわなかった。
西田税も口をつぐんだままだった。
座が白けた。
それにもかまわず、
「 それは金科玉条なのか、それとも参考文献にすぎないのか。」
と 私はたたみかけて誰かの意見の出るのを待った。
磯部浅一  
しばらくして磯部中尉が、
「 金科玉条ですね 」
とだけいった。
すかさず私は
「 過渡的文献にすぎないというものもある 」
と 応じた。
これに対しては もう誰も口を利こうとはしなかった。
・・・
改造方案は金科玉条なのか 


この記事についてブログを書く
« 昭和維新・山口一太郎大尉 | トップ | 昭和維新・大蔵榮一大尉 »