あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・西田税 (三) 赤子の微衷

2021年04月25日 05時58分41秒 | 昭和維新に殉じた人達

私の客観情勢に對する認識 及び御維新實現に關する方針
私は現代日本に於て國民の國體信念が堕落混亂し、
之と併行して國家の組織制度が行詰りを來たし、
又國際關係に於ても建國精神に示された様になって居らず、
要するに日本の現狀が今日 及び 明日に処する日本として相應しからぬものである事を確信します
故に國勢の革新は絶對必要のものと信じて居ります
又日本の一切は 上御一人を中心とし奉って國體の本義を現實に宣明する事が根本であって、
國勢の革新も其の軌道の上からは外れてはならないと思って居ります
人類社會は不斷に進歩し永久に進歩するものである
日本は此の人類進歩の原則の上に之と一致した國體の本義を軌道として今日迄進歩し、
此の次は今日を足場として次の段階に進んで行くべきものと考へます
故に今日國家内外の矛盾も一面から見れば進歩する爲の一つの過程であります
右申上げた様な原則に因って、 私は日本の現狀打破、
云ひ換れば昭和維新を考へておるのであります
是は一個半個の勝れた指導的分子の先駆的啓蒙的実践も欠くべからざる要求と思ひますが、
他のより強力なる力は 社會の進歩を表徴する国家上下社會大衆其のものの革新的大勢であると思ひます
或時代を形成する思想及び組織は
必ずしも或一派の思想によってのみ出來上がるものではなくて
總ての總和である そして革新なるものは
決して一朝一夕に實現されるものではなく 相當永い年月を要するものであります
私は歴史的、地理的見地からも観、 世界大勢からも観、 總て又日本の建國精神から観て、
明日の日本は必ず全世界の人類に對して指導的役割を持たねばならぬと思って居ります
國民として指導的な國民ではなくてはならぬと思って居ります
大体體右の様な見地から私の昭和維新に對する方針は、
日本は日本の立場、日本國民の行詰った現狀に對する認識、
明日の日本が ある可き理論等を速かに全國各方面が夫々自主的に革新に進む如くありたい
そして革新的な躍動の總和が全體として 日本そのものの革新に落着く事を理想として居ります
だから 或一党一派的な力に依って 一擧に革新を敢行すると云ふ様な事は、
上御一人の大命であれば別ですが、
吾々臣下として考へられる事ではないと思って居ります
此の方針を最近の狀勢に照らし合せて見ますと、
總體に國體の本義は漸次進歩的に宣明せられ ( 國體明徴問題は其の一例 )
國家内外の政治的、經濟的狀勢も行詰りの中に或新しい前進を發見したかの様に考へられます
只 是等の革新的躍動は未だ全國的でもなく、局部的而も根本に於て歸一する処がなく
謂はばバラバラで夫れ等の努力も極めて不經濟な結果に落ちて居ると思ひます
各種勢力の自己反省竝に合同提携協力論が起って來て居るのも
狀勢の進みつつある徴候でありますが、
一面から見れば未だ出來てゐない證拠であります
元來革新は内憂外患が之を促進するものでありますが、
現在日本の對外關係は一面甚だしく切迫してゐると共に ( 例へば對露關係 )
他方欧州其のものが混亂して居りますので之に牽制されて或點減殺されて居ます
結局革新的な大勢は尚熟せず、對外關係は遣り方に依っては未だ餘裕もありますので、
吾々として此の時機を一面對外的關係の打開 ( 例へば對支政策 )
對内關係に於ては諸方面諸勢力の結合を急ぎ、
御維新準備を完成する事にあると思ひます
對露關係は相當緊張して居りますが、對支、對米方針を是正する事によって、
尠く共暫定的な緩和は期待し得ると思ひます
斯ふ云ふ時機に相澤事件がおこり、其の公判が開廷されたのであります
相澤様の決行は信念的に見れば國體に則った理由でありますが、
是を軍部内外の狀勢、社會狀勢から考察しますと、
永田さんの立場關係は
是迄申した私共の信念方針と背馳する中樞的なものであったと思ひます
之を契機として之を生かす爲には
現に公判に見る様な合法的に軍部内外の清掃は相當出來ると共に、
そう云ふ方面の革新的反省も可能であったと思ひます
彼の五 ・一五事件海軍公判が 如何に海軍の旧弊を合法的に一新し得たかを考ふるとき
理解出來ると思ひます
準備時代に於ては 成る可く犠牲を少なくして
各國家的要點、社會的勢力の重點を革新する事が大切と思ひます
今度の相澤公判は陸軍を中心とした 第二の五 ・一五海軍公判とも見るべきものであります
私の見た処では 今回事件を起した東京に於ける人達が嚴然として公判を監視し、
正しき態度で各方面に對して公判に對する努力をして居ればこそ
公判の進行があの様に進展したのであると思ひます
同時に此の人達を中堅として革新の大勢が遂次に擴大し鞏化されて、
是れからも發展するものと思って居りました
言ひ換れば 私の考へて居た大勢進展の貴重なる力であったと思ひます
私は相澤中佐の公判相澤公判を通じて
そして広く御維新の準備大勢結成のため 此の人達の存在を特に重視し乍ら
其の人達の努力と相俟って公判を有利に進め、
相澤中佐の志を出來る丈達せしむる様に考へて來たのであります
夫れが相澤中佐の先駆に續いて 同一性質の途に出る事に片寄った事は 私としては
前申した情誼關係に於て 己を得ないと云ふ理解は充分に致しますが、
私の本來の氣持から申しますと 誠に残念だと思ふ処があります
大體社會狀勢に對する私の認識 及 御維新實現に關する方針は大略以上の様なものであり、
私としては 若し事件を起して貰ふなら
今回起った以外の者に出て貰ひ度かった位であります
処が 私の最も大切に考へて居る方達が
斯様な事件を起す事になって仕舞ひましたので、
私としては不本意乍ら今回の様な立場となったのであります
・・・ 西田税 3 「 私の客観情勢に対する認識 及び御維新実現に関する方針 」

ある夜 西田宅で私と彼と二人だけの懇談のときであった。
「 君は武力行使をどう思っているのか 」
と、彼が突然質問を発した。
「 無暴に行使すべきではないと思います 」
「 だが、何れはやらねばこの日本はどうにもなりますまい 」
「 僕の理想は武力行使はやらずに維新が断行されることにある 」
「 それは出来ない相談ではないと思っている 」
「 蹶起すべき時には断乎として蹶起出来るだけの、協力な同志的結合の下にある武力、
 その武力をその時々に応じてただ閃かすことによってのみ、
悪を匡正しつつ維新を完成してゆく。 つまり無血の維新成就というのが理想だ 」
「 軍刀をガチャつかせるだけですね 」
「 そうなんだ。ガチャつかせることは単なる、こけおどしではいけない。
 最後の決意を秘めてのガチャつかせでなければならぬことは、もちろんだがね 」
・・・軍刀をガチャつかせるだけですね


西田税 

・・西田が、青年将校たちの態度がおかしいと感じ出したのは 二月の十日すぎであった。
二月十日  西田は四年前の五・一五事件の当日撃たれた時、
着ていたセルの着物を、東京控訴院から呼び出しをうけて受け取ってきた。
川崎長光に撃たれた弾痕の穴が数ヶ所もあり、 流れ出た血でどす黒くこわばっていた。
翌十一日昼ごろ、 磯部がたずねてきた。
西田が証拠品の着物が帰ってきた話しをすると、
磯部はその着物を拡げながら
「 血が帰るというのは、縁起が良いことですよ、今年は良い事がありますよ 」 とさりげなくいう。
西田は 「はてな」 と思った。
しかし、磯部の例の調子だ、 大したことはあるまいと思いかえした。
磯部はこの時、 同志の状況について話そうと思ったが止めた、 と 獄中記に書いている。
話せば反対されるに決まっていると思ったのであろう
その夜、磯部は相澤中佐の写真の前で 「 近く決行します 」 と誓っている。
獄中の相澤にも、彼等の激しい雰囲気が伝わったのか、
二月十四日  相澤から西田に会いたいという電話がかかってきた。
西田が陸軍刑務所に出向くと、 相沢は家事のことや公判の打ち合わせなどをしたあと、
「 若い大切な人達がこの際軽挙妄動することのないように、
殊にお国が最も大事な時に臨んでいる際だから、
くれぐれも自重するように貴方から言って下さい 」 と、頼まれている。
西田は、 「 間違いはありますまいが、この上とも気をつけますから御心配なさらないで下さい 」
と、答えている。
この時、西田は大したことはあるまいと 安心している。
一、 二日して、相沢公判の打ち合わせにきた村中が、
公判についていろいろ話し合った末、こんなことを口ばしった。
「 部隊側の青年将校の一部に、 公判の進行とは別に、維新の運動を進めなければいかん。
第一師団も近いうちに満州へ行かねばならぬ、
そうなれば当分そういう機会はない と 相当決意が高まっている 」
と、公判に熱中している自分に遠慮している風があるので、
気の弱いおとなしい自分はふみこんで行けないと苦衷をもらした。
西田も、相沢中佐からもその話しがあった、 自分もなんとか考えて見よう、と答えている。
同じ日に、 西田は山口一太郎大尉の私邸に行くと、山口からも青年将校の動きが伝えられた。
「 栗原が盛んに飛び巡っている。
 近く何かやりかねないというそぶりが見える、それでいいのか 」 と いう。
西田は、
「 栗原君はいつもそんな癖があるので、 真意は判らぬが、取り返しのつかぬ様な事になっては困る。
私から一度よく話してみよう。 私の家にくるよう話して下さらんか 」
と、言って別れた。
翌日、栗原を待ったが来ない。 その翌日というから十八日だろう。
午後山口大尉から電話があって
「 栗原に言ったけど、行く必要はないと言っている。
自分ではどうにもならんから、もう知らんぞ 」 と いう。
驚いた西田は、栗原を電話口によび出し
「 とにかく話があるから、家へ来てくれ 」 と 言うと
「 行く必要はありません、別に話はありません 」
と、いつになく栗原の強い語調に、西田は内心驚いた。
「 君になくても、私の方にあるのだ、とにかく来てくれ 」
と、叱りつけるように言うと、 ようやく来ることを承諾した。
午後六時すぎ、栗原がやってきた。
「 貴方には貴方の役割があるし、自分には自分の役目がある。
別に貴方には迷惑かけない積りだから、話す必要はない 」
と、いつにない強い態度である。
西田は言葉を尽して考え直すように迫ったが、栗原は承服しない。
結局、今はその時期ではない、 今事を起こせば、何もかも駄目になってしまう、
という西田に対して、 栗原は、
「 貴方からそういう様な事を言われるのは、一番困る、まあ考えて見ましょう 」
と、言って帰った。
西田は彼等の切迫した空気を、その語調の激しさから感じた。

翌十九日、 磯部が尋ねてきて大体の計画をうちあけた。
これは村中と相談の上である。
西田は鎮痛な顔色で聞いていた。
先日の栗原の言動から、大よそのことは察しがついていた。
磯部や村中が決意しているようではもう止めようがない。
磯部は、失敗したら累が西田に及ぶのは必至だから、その心配を言うと、
「 僕自身は五・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある。
僕に対する君等の同情はまあいいとしても惜しいなあ 」
と、西田は歎息した。
しかし、磯部や村中には部下がいない、 栗原は部下がいるけれど、大勢を動かす力がない。
西田は安藤の向背が気になった。 安藤の決意如何では大事件に発展する。
西田は安藤に会いたいと、磯部に伝言した。

翌二十日の夕方、安藤が来た。
「 私の方でも、貴方に会いたかった 」 と、いう。
西田は
「青年将校の間で、最近しきりに決行するといっているそうだが、
 状況はそこまで果していっているのか、君はどう思っているのか」
という問いに、 安藤は、
「 此の間も四、五人の連中に、是非君も起ってくれとつめよられた。
しかし、自分はやれないと断った。
この事は週番中の野中大尉に話したら 『 何故断ったか 』 と叱り、
自分たちが起って国家の為に犠牲にならなければ、
かえって我々に天誅が下るだろう。
自分は今週番中である。
今週中にでもやろうではないか、と言われ、自分は恥かしく思いました」 と いう。
西田はあの生真面目でおとなしい野中すら起つ決心をしているのか、
事態は容易ならぬところまで来ていると、感じた。
その野中は、 この時は既に遺書もしたためて決死の覚悟で起つ決意でいた。
我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ
昭和十一年二月十九日 於週番司令室
陸軍歩兵大尉野中四郎
・・・
と、結んでいる。 温厚で、思慮深い野中でさえ、この決意である。
安藤が語りたかったのは、 このような青年将校たちの猛りたった切迫した気持ちである。
「 今まで我々と貴方との関係をふりかえると、
 我々が事を起こそうとすると最後は貴方の力で押えてきました。
しかし、今日の状態は違います。 もし貴方が押えでもすると、必ず反撥します。
失礼な言い分ですが、 貴方を撃ってでも前進するという様に、ならんとも計りがたい。
それで一度貴方の御意見を聞きたかったのです 」
と、鎮痛な表情で安藤は語った。

いつもの穏やかな思慮深い安藤ではない。 苦悩に満ちた安藤である。
・・・
西田は現在の社会情勢と、自分の考えている維新運動のなりゆきからみて、
今起つことには賛成できないが、
しかし、君たちの立場を考えれば止むを得ないという気持ちもある、 と言った。
「春には第一師団は満州に行く、
最近の満州の状況から対露関係がしだいに険悪になっているから、
恐らく生きては帰れぬであろう。
今まで国家改造で苦心してきた君たちの心情として、
このまま満州へは行けないというのも無理はない。
私は元来どこにいても御維新の奉公はできると思っているし、
満州に出征するからその前に必ずやるというのは正しい考え方ではないと思う。
しかし、それは理屈であって人情は別だ」
と、西田は四年前の、盟友藤井海軍少佐 (戦死後昇進) とのやりとりを語った。
藤井は昭和七年一月の中旬、
上海出征前に事を起こしたいと、 西田に打ちあけたが、西田は絶対反対の返事をした。
藤井は非常に失望して出征し、二月五日上海の上空で散華した。
藤井の戦死はむしろ憤死ではなかったかと思う、 と 語り
「 結局、諸君がそれ程まで決心しているというなら、 私としては何も言い様がない。
とにかく、どちらがお国のために役立つかということを考えて、 最善の道を選んでもらいたい。
私も諸君との関係上、生命を捨てます。 人にはそれぞれ運命というものがある。
いくら知恵をしぼっても、それ以上は運賦、転賦に委せるよりしょうがない。 とにかく良く考えて下さい。」
という西田の言葉に、

瞑目して聞いていた安藤は 「 良くわかりました。自分も充分考えてみます」 と、言って辞去した。
磯部の「獄中記」によれば、 十八日の栗原中尉の家では安藤は蹶起に反対であった。
「今はやれない、時期尚早だ」と言って反対している。
四日たった二十二日の早朝、 訪れた磯部に対して
安藤は 「 磯部安心してくれ、俺はヤル、ほんとうに安心してくれ 」 と、起つ決意を語っている。
わずか四日の間に客観情勢が変わるものではない。
安藤の決意の裏には、西田の暗黙の内諾が大きく左右していると思われる。
この安藤の決意によって、 蹶起の規模が大きく変わって近代史上最大の事件に発展するのである。
西田税が二十六日早朝の蹶起を知ったのは二十三日の夕方である。
・・・
西田税 1 「 私は諸君と今迄の関係上自己一身の事は捨てます 」 

わたくしはあの事件の起きますことを、二月二十三日に知ったのでございます。
西田の留守に磯部さんが見えまして、
「 奥さん、いよいよ二十六日にやります。
西田さんが反対なさったらお命を頂戴してもやるつもりです。とめないで下さい 」
と おっしゃったのです。
その夜、西田が帰って参りましてから磯部さんの伝言をつたえました。
「 あなたの立場はどうなのですか 」
「 今まではとめてきたけれど、今度はとめられない。黙認する 」
西田はかつて見ないきびしい表情をしておりました。
言葉が途切れて音の絶えた部屋で夫とふたり、
緊張して、じんじん耳鳴りの聞こえてくるようなひとときでございました。
・・・
西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」



二月二十七日 
朝新聞に依って岡田首相以下五名許りがやられた事、
戒厳令が布かれ内閣が辞職した事を知り、
確か午前中に首相官邸に電話を掛け栗原君に
「 内閣の辞職した話や戒厳令が布かれたが何うなつたか 」
と云ひました。
又戒厳令が布かれ戒厳部隊に編入された様な話でありましたから私は
「 夫れでは其処を退去するのか 」
と聞きますと 同君は
「 此処に居て良い様な諒解が得てある 」
と云ふ様な話で、食料も聯隊から運んで居ると云ふ事でした。
其処で私は冗談に
「 夫れではまるで官軍の様なものではないか 」
と云ひました。又
「 被害者に就ての発表があつた事実は何うなつてゐるのか 」
と聞きますと 同君は
「 岡田、高橋、齋藤、渡邊等は完全にやつた 」
と云ふ話でした。
私が 「牧野はどうなつたか」 と聞きますと 同君は
「 良く判らんがやつた筈だ。
然し牧野の処へ行った者が帰って来ないので数も少なかったし 苦心したろうと思ひます 」
と云ふ事でした。
私は
「 消息が不明なら軍当局の方へ頼んで
其の人人は何うなつてゐるか速く調べて貰った方が良いではないか 」
と云ひますと 同君は
「 夫れは何か調べて居る様である 」
との事でした。又
「 軍事参議官全部と会って希望を出したが何うも上の方の人々は話が良く判らない 」
との話でしたから 私は
「 君が行ったのか 」
と聞きますと 同君は
「 外の方が行ったので自分は行かなかった 」
と云ふ事でした。
其処で私は
「 事態を早く収拾する為めに真崎大将辺りに上下共に万事を一任する様に
 皆で相談されたら何うか 」
と云ひますと 同君は
「 考へて見る 」
とか言ってゐました。
更に私は 「 村中君は居るか 」
と聞きますと 同君は
「 陸相官邸の方に居るのではないですか 」
との話でした。
同君との話は之位で切り
今度は陸相官邸やら陸軍省其他へも電話を掛け村中君を探しまして、
何処であつたか記憶しませんがやつと発見する事が出来 電話に出て貰ひました。
そして私から前申した真崎大将辺りに一任して速く事態を収拾したら何うかと云ふ事を話ました。
すると村中君は 
「 軍隊側の方の将校の意見は非常に強硬でなかなか仲間で纏らない 」
と云ふ話でした。又
「 上の方との話は皆で相談します 」
との事でした。
私から
「 部隊の方は何うなつたか 」
と聞きますと 同君は
「 今迄居った処を大部分引揚げて集結しつつある 」
との話でした。又
「 戒厳部隊に編入されて今の位置に居っても良いとの諒解を得ました。
然し兵隊の休養もさせねばならず今泊る処を探して居る 」
と云ふ事でした。
「 一方では強硬な人達が非常な決心で頑張ってゐる状態です 」
と云ふので 私は
「 それは誰か 」
と聞きますと 同君は
「 安藤君辺りである 」
との事でした。私は
「 良く皆の人と連絡を取られて意見の食違ひの起らぬ様にした方がよかろう 」
と話しました。同君は
「 仲々むつかしいと思ひますがやつて見ませう 」
との話で電話を切つたのでありました。
・・・西田税 2 「 僕は行き度くない 」 

結果に對する所感
一口には言へないが、
萬感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます。
私のみならず、皆を犠牲にしてしまひました。
尚、岡田さんが後になってのこのこ出て來たと云ふ事は、
此度の事件を如實に物語る證拠でありまして、
國家大局から見て、此度の事件は維新の爲めにも駄目だと思ひました。
そして、歴史と云ふものはこんな事かと思ひました。
丁度、蛤御門の戰爭のような氣がします。
陸軍の上の方が、維新に於ける薩摩藩の態度を執り、
長州藩が君側の奸を除かんとして宮闕に發砲した爲め、
遂に朝敵になったと同じような感じであります。
こう云ふ點を色々考へさせられました。
現在の心境としては、どうにも致し方がありません。
一時は自決しやうと思ひましたが、どうにも出來ず、捕まりました。
自分の修養の足りない點もあり、不明の至す點だと思ひます。
私は若い者がやれば、
今迄の關係から必ず引摺られなければならぬ事情にありましたので、
これも運命だと思って居ります。
・・・ 西田税 (二) 「万感交々で私としては思ひ切って止めさせた方が良かったと思ひます  」 


この記事についてブログを書く
« 昭和維新・西田税 (四) あを... | トップ | 昭和維新・西田税 (二) 天皇... »