魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

人類進化

2018年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

またも親による、子の虐待死。やっぱり、虐待「Gメン」が必要だ。
どの虐待事件も、あまりにもかわいそうで、直視できない。昔はこんなことはなかったと言う意見を見聞するが、そんなことはない。昔はもっとひどかったかも知れない。様々な防止対策が注目される現代だから、明るみに出ているだけだ。

ただ、多くの目がある大家族の昔は、こんな一方的な虐待は起こりにくかった。家族の誰かが、なだめ役や引き留め役になったからだ。それでも、貧困による「まびき」や身売りがあり、ことに明治以前は、誘拐や人身売買が横行し、被害者は「神隠し」と理解するしかなかった。
芝居や、説話にも、「継子イジメ」や「嫁いびり」が多く、人身売買の「山椒大夫」など、幸せな人が「かわいそうだと思う事実」が存在した。
そんな時代ではない人権の現代、親による子供の虐待死が起こるのは、核家族化に法律が追いついていないからだ。

古来、子育ては、一族のささえを前提としていたが、核家族時代の今日も、この大家族観で、法と社会が営まれているために、大きな歪みが生まれる。
保育問題も、虐待問題も、さらに老後問題も、「家族が家族を扶養し、子供を育てる」大家族を前提にしているから起こる問題だ。
大家族を破壊した産業革命パラダイムは、人権意識を生むとともに、税と福祉、教育のシステム化を必要とした。社会のあり方を根本的に模索しなければならなくなったのだ。

大家族の消えた今となっては、「子は社会が育てるもの」であり、資格のある親だけが、子を育てることができる・・・そう考えるしかない。
これからは、親子の絆は当然ではない。社会が子供を育て弱者を保護をする。集団で子育てをする動物もいるが、人類はそれを社会システムとして、行わなければならなくなった。
家族や男女の情愛が、自然のもののように思えるのは、動物レベルであって、政略結婚や見合、婚姻制度と、既に人類は動物の段階を脱している。動物には、遠く離れた子供や家族に仕送りをするような、巨大社会は無い。
愛は自然に生まれるのではなく、社会システムに守られた中で、個と個が向かい合うことで生まれるもの。そう理解しなければならない時代が来ている。

「親が子を育てる」前提を捨て、愛情があり、要件を満たした者だけが、肉親と暮らすことができる、としても良いのではないか。
当然ながら、財産は個人間で相続しない。死ねば全て社会に戻される。社会が大きな家族となるからだ。これは、共産主義に似ているが、健常な成人の財産保有は自由であり、死ぬまで保証される。子供が社会に育てられる以上、子供に財産を残すために働くのではない。実際、社会のため、つまりは自分のために働く意識に、既に大きく変わりつつある。


福祉も社会制度も、その大きな流れを見据えて計画しなければ、全てが後手後手に回ってしまう。
児童虐待も、待機児童も、性差偏見も、空き家問題も、格差問題も・・・すべては、進化を念頭に置くビジョンが無いことに起因している。それが大げさだというのなら、せめて100年先を見据えた「今」を考える時ではなかろうか。