館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

沖縄与太話し・・・石垣りんさんの「崖」という詩が、この場所ではいつも浮かぶのだった。

2015-12-05 05:17:35 | 生活雑感
昨日呑みすぎ(忘年会・・)たようで、まだ体に残ってる感じ・・・・・あきれた話はさておき・・・

辺野古の訴訟が始まった。翁長知事、沖縄県民の頼みは、本土の世論だと思う。裁判の世界は、権力とグルが多い・・

そういえば、昨日の新聞で、辺野古受注業者からの自民・おおさか維新・生活の議員へのあからさまな献金が発覚した。
前知事も、結構もらっていたねぇ・・・・旧態依然、いいかげんにしろってんだ!


さて、僕の沖縄の話が、続く。






荒崎海岸・・・・鋭利にとがった、古琉球石灰岩が一面を覆い、写真ではわかりにくい(高低差がわからない写真だぜ)が、右の浪打際へは、ほぼ90度の絶壁・・高さは10mはくだらないのだ。



有名な「喜屋武みさき(きゃんみさき)」・・・慰霊の広場になり、象徴する碑が建っているが、その碑の向こうは、断崖絶壁・・およそ20mではきかないだろう絶壁、そして紺碧の海が広がる(濃い色の海は深いのだ)・・左右みやれば、太平洋と東シナ海・・海に目印は浮かんではいない。まあ、人間が付けた海の名前なんぞは、海からしたら、海は留まらずまじりあい、1つの海だと主張する。


『崖』 石垣りん


戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。



美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

火だの男だのに追いつめられて。




とばなければならないからとびこんだ。

ゆき場のないゆき場所。

(崖はいつも女をまっさかさまにする)



それがねえ

まだ一人も海にとどかないのだ。

十五年もたつというのに

どうしたんだろう。

あの、

女。


沖縄のこの地に立つと、いつも、この詩が、僕を突き上げる。

詩の言葉の通り、戦後15年にできたことがわかる。
しかし、現在、戦後は、はるかかなた・・・さらに年月は流れたが、いったい「あの、女。」海に届いたのだろうか?

同時代の女性詩人として、互いに認め合い、「朋友」とも呼ぶべき詩人の、茨木のり子は、この詩についてこのように書いている。

「辞書をひかなければわからないという言葉はなく、詩的修飾もまるっきりほどこされていないのだが、しかし、きわめて難解な詩だともいえよう。最終連の、物体としての女は確かに海へ落ちたのだが、実体としての女は落ちず、行方不明なのだということがわからなければ・・・・・。私の考えによれば、行方不明の女の霊は、戦後の私たちの暮らしの中に、心のなかに、実に曖昧に紛れ込んだのだ。うまく死ねなかったのである。自分の死を死ねなかったのである。」


荒崎海岸に、1度、裸足で立ってみた・・・その、鋭利な岩は、動けば必ず、僕の素足を切り裂くと確信した。だが、ここは、あのひめゆりたちが追い詰められ、背中に火炎放射の炎がせまり、見上げた海には、米軍の何十隻もの艦隊が見え、そこからは艦砲射撃の銃弾が降り注ぐのだった。そうして、命を落とし、自決さえ、行われた「崖」なのだった。

喜屋武岬も、同じように追い詰められた、学徒・住民がサイパンの崖同様に、「とばなければならないからとびこんだ」場所だ。


命の重さ・・・・沖縄で無念の死を遂げた人々のこと・・・・この原点を、中心に据えて、アメリカのポチになって、辺野古の基地をさらに大きくしようとする今の沖縄を考えるべきだと僕は思う。そうしてみると、今、沖縄の人たちが訴えている「辺野古に新基地は作らせない」という、言葉がわかる気がする。

自分の死を死ねなかった・・・・・この、無念さは、100年経ってさえ、消えるとは、僕には思えない。このことに、想いを致せないとすれば、まさに「平和ボケ」だな。

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