館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2020冬マイルで行く島!島田叡・荒井退造の足跡を訪ねるその2。

2020-02-08 05:11:05 | 旅は続く
2日目は島田・荒井たちのいよいよ、南部へのある意味「敗走」の軌跡を追うのだが・・・
南部・・・とても歩いて回れる距離では無い。仮に歩いて探したら、行き倒れ間違いなし!!
沖縄でほとんどお世話になっていたのは、個人タクシーの運転手、砂川さんだ。僕は彼と(彼が居たからこそ)最南端、喜屋武岬から最北端辺戸岬、そして高江や辺野古へも難なく行けた。観光客がほとんど行かない場所も、彼が居たからこそ行けたのだ。
その砂川さん・・奥様が病気になって事前の約束が出来ない状態になって2年が過ぎた。奥様の病状も気になっていた。
前日電話すると、明日なら大丈夫とのことで、2年ぶりの再会を果たした。現在は、奥様も復活途中で、リハビリなど連れて行ったりと、昼間はケアに努め、夜タクシーを流しているとのことだった。

さて、南部・・・折角なので、気になっていた場所(ここは、島田・荒井とは関係は無い)にまず、連れて行ってもらう。




ひめゆり達は、南風原の病院豪に配属されるのだが、その病院豪から2キロほどの所にあった「津嘉山経理部」にも一部配属される。
この一帯は、32軍司令部壕などもあり、国道507号の改修工事で多くの発掘があった場所だ。127個のコンドームの発掘など興味深い発掘品もあった。ここの旧軍施設の周辺には3か所の日本軍「慰安所」も確認されている。
南風原は、住民の4割・・3505人が地上戦に巻き込まれた、「戦場の村」でもあった。
写真は、その507号線の改修工事の場所だ。



次にやってきたのは「南風原文化センター」・・何度も案内して連れてきている場所だが、僕自身が見てない場所があるわけさ・・・




ひめゆり達の炊事場の跡さ。
飯上げの道の道路をまたいで反対側。




こんな地下道があるとはな!砂川さんも知らなくて、一同驚いた次第。



ここいら?かな?という、ことしか今はわからず、私有地となっているのだった。




さて、いよいよ、島田・荒井を追うテーマが始まった。
首里陥落後、未明、闇に紛れてシッポウジヌガマを出て、距離にすれば6キロほど(米軍の砲弾の合間を縫い、林の中など潜り抜けるのは、6キロが倍にもなったであろう)の東風平村志多伯の壕にたどり着く。5月24日早朝のことだ。
案内も何もないので、たぶんこの辺り・・と、地形などから確認する以外にないのだ。
遠く、沖縄自由民権運動で倒れた「謝花昇」の像が建つすそ野あたりであった。
この壕も戻ってきた軍に追い出され2泊であった。



南部を目指す以外に無いのだが、現在の糸満にあった、秋風台の壕・福地森の壕・大城森の壕など転々とするようである。みな、報徳橋(むくえばし)の近くのようなので、報徳橋を目指し進み、砂川さんと近くの森など歩いた。
皆、歩兵32連隊(山3475部隊)が使用していた壕のようだが、連隊は別任務でいなくなっていたようだ。
この壕にたどり着くのは5月27日だ。

首里の大本営は5月27日に摩文仁への撤退を開始する。軍の動きなど情報を得るべく、手を尽くしていたというのが、ここに至って出来ることはあまりに少なかったようだ。

5月31日には米軍は首里城に突入し、星条旗を掲げるのだった。



近くに、戦後周辺の住民が拾い集めた遺骨を集め、慰霊した碑が建っていた。




こんもりした林、小高い山などの周辺を歩いた。この辺りが壕かも?という、感じ?
小集団で移動していた、警察や県庁職員もここで、再度合流など出来たようである(できず、まだまださまよっている者たちも少なくなかったようだ。そして、荒井はここで、体調を崩す。アメーバー赤痢に罹患したのだ。




やがて6月3日・・・島田たちは糸満南部の「轟の壕」に向かう。大きな3階建ての自然壕で、住民・敗残兵と沢山の避難者であふれる壕だったようだ。
ここでも、もはや敗残兵の日本の兵隊は、泣く子を殺したり、子供から奪った黒糖を返してもらおうと挑んできた子供を撃ち殺したりしているのだった。

太田中将は6月5日に陸軍の牛島司令官に「訣別の親書」を送り、6月6日にはあの「沖縄県民斯く戦えり」の打電をおこなっとぃる。そして13日自決である。

島田は3日「今をもって、警察部含む沖縄県庁を解散する」「これからは自由です。自分の命を守ることに、力を尽くしてください」と、県庁解散を宣言するのだった。




県庁解散後も情報収集を行い、32軍司令部が摩文仁に居ることをつきとめ、軍と今後を共にしようと14日荒井と、摩文仁を目指し出発した。

島田がここについたのは16日、体調を壊し遅れて18日に荒井も到着したようである。

今、この島守の塔の建つ奥に、軍医部壕がありそこに逗留する。司令部壕はそこより南に位置するが数百メートルの距離だ。
島田は牛島に行動を共にしたいと申し出るが、軍人ではない知事がここにいる必要はないと拒否される。
牛島が自決するのは23日のことである。この日沖縄で組織的戦闘が終わるのであった。





第27代沖縄県知事・島田叡、警察部長・荒井退造をはじめとする県庁職員458人を合祀した塔である。財団法人島守の会が設置管理者。戦後、元県庁職員らで碑の話が進められ1951年6月25日、糸満市摩文仁に建立された。



島田の座右の銘「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」である。




島守の塔をさらに登ると、両名の「終焉の地」の碑が建っている。



その奥には、絶壁状態の割れ目の中、軍医部壕がぽっかり口を開けているのだった。

26日早朝・暗い中、北の知念方面を目指し歩いてゆく姿が目撃されている、しかし、その後二人の痕跡は全く消えてしまうのだった。
自殺を想像するもの・艦砲射撃で死んだとするもの・様々だが、彼らの遺体や遺品とおもわれるものはその後見つからず現在に至っている。

南部敗走後の戦時行政は、実際何もできなかったというのが実態と思われる。知事として警察本部長としての矜持はずたずたであったか?

島田は一緒に敗走を共にした部下たちに「僕ほど県民の役に立たなかった知事はいないだろうねぇ」と言っていたという。

本土の日本人としての僕は、それでも、沖縄県民に後ろ指をさされず、尊敬の念をもって語られる彼らが居たことは、救いであるのだった。

栃木県・・・我がG県のお隣で、関係や交流もある。如何だろう?栃木県民の方?荒井退造を訪ねることは大事な気がするのだが?
そういえば、この島守の塔の隣は、栃木県の塔ではないか。
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