『嘆きの女王』
足の痛みが消え、いっときは喜んだ母だが
お産以来、初めて味わった激痛の記憶に怯え
一人暮らしの不安はさらに増した。
秋に90才になることを異様に意識し始め
「もうすぐ90になる」、「90年は長過ぎる」
「90になってまで、まだ生きないといけないのはつらい」
母の語録に“90”という数字が頻繁に登場するようになった。
そして周囲の幸せそうに見える人を数え上げては羨ましがり
「それに引き換え私は、みじめな一人ぼっち…」
そう嘆くのを繰り返したあげく
「あんたは家族に囲まれて楽しく賑やかに暮らしとるのに
何で私だけ、一人で寂しい老後を送らんといけんの?!」
と逆ギレ。
嘆きが高じると攻撃的になるのは人間の本能らしいが
母の嘆きに付き合う気は毛頭無い。
これらは皆、老いという病いのうわごとなのだ。
後から知ったが、母は同じ時期、自分の娘にも
「親を放っておいて平気なあんたは、冷たい子じゃ」
「“あんな婆さん、ほっとけ”いうて、旦那が言いようるんじゃろう」
などと、電話で責めていたらしい。
継子も厄介な立場だけど、ヘタに血が繋がっている実子は
遠慮の無い親の毒をダイレクトに受けなければならない。
実子も大変なのだ。
後から知ったというのは
母の実子…つまり13才年下の腹違いの妹マーヤと私が
何十年も前から意図的に連絡を取り合っていなかったからだ。
継子と自分の子が親しくすることを、母は昔から激しく嫌っていた。
これはなさぬ仲特有の心境だと思うが
自分の生んだ子供と、先妻の生んだ継子の間に
はっきりと線を引いて上下の身分差を作り
別ものとして扱いたい気持ちが強かったのである。
けれどもマーヤは、母が構築した特殊な環境に
影響されるタイプではなかった。
私と同様、父の遺伝子を多めに受け継いだマーヤは
大柄な身体つきや、のほほんとした考え方が似ており
小さい頃は姉ちゃん、姉ちゃんと慕ってくれたので可愛く思っている。
しかし、むやみに接触して母に知れると厄介が起きるのは確定であり
連絡を取り合うような用件も無かったため
結婚式や葬式以外で顔を見たことは無く、年賀状程度の交流を続けていた。
マーヤと連絡を取り合うようになったのは
母の問題がいよいよ深刻になってきた今年の初めからだ。
母と私は養子縁組をしてないので、戸籍上はあかの他人。
しかも同居人でもないとなると
入院や、亡くなった際の公的な手続きに支障が出る場合があるのを
私はこれまでに色々な人から聞いたことがあった。
こういうことは急に起きるものなので
準備のために連絡を取ったのが最初である。
さて、嘆きの女王は嘆き続けたまま、夏を迎えた。
この頃には、しきりに「しんどい」と言うようになり
母が長年、検診を受けている近所の内科医院へ
連れて行くことが増えた。
内科医院のA先生は、私より一つ上の男性。
家が近いので子供会が一緒で、彼が医大生の頃
なぜか一緒にカラオケをしたことがある。
あの頃の彼は、髪を肩まで伸ばしたイケイケあんちゃんだったが
何十年ぶりかに見たら、今は亡き先代の院長そっくりの
プックリした優しいおじさんになっていた。
母はこのA先生が大好き。
「先生…しんどいんです…」
倒れ込むように診察室へ入っても
彼の顔を見て、優しい声で優しい言葉をかけてもらうと
不思議に元気が出るのだった。
夏という季節柄、母は脱水症状の予防として
点滴を打ってもらうようになった。
点滴を打つと気分が良くなるので、母は毎日のように行きたがった。
しかしA先生が言うには月に3回程度しか打てないそうで
母は点滴の日を待ち焦がれながら、嘆き続けて秋を迎えた。
涼しくなっても嘆きの女王は相変わらず
どうにもならないことを嘆いていた。
しかし、ご記憶だろうか…
母は嘆きの女王である前に、歌姫でもある。
11月の文化の日、歌姫のコーラスグループは
市が単発的に主催するイベントにゲストとして招かれ
短い歌を一曲、歌うことになっていた。
「たった一曲のために行くのはしんどい」
母はそう言って、このイベントを早々に断った。
「早めに判断してエラい!」
歌姫の舞台を見に行かなくて済む私は、その決断を大いに賞賛した。
イベントの当日は、大雨が降った。
メンバーの人たちは、ドレスや靴の入った大荷物を持って
会場に集まるのが大変だったようだ。
所定の場所でドレスに着替えた後
舞台に上がるまでの道のりにも難儀をしたという。
参加したメンバーから、それを聞いた母は
「やっぱり行かなくてよかった!」
と大はしゃぎで電話をしてきたものだ。
けれども次の練習日…
共に大雨の試練を乗り越えたメンバーの間には
何やら特別な結束が生まれていた。
歌姫としては、これが面白くなかったようだ。
秋は芸術のシーズン。
イベントの翌週には、毎年恒例の市民音楽祭が開催される。
市内で歌や楽器の音楽活動をする面々が一堂に集まり
日頃の練習の成果を披露するのだ。
歌姫はこの音楽会に出たくないと言い出し
理由として、胸元や腕を出したドレスが寒いと主張した。
イベントの後、グループの雰囲気が変わっていたショックを
引きずっているのじゃな…
私にはピンと来たが、面倒なので余計なことは言わない。
好きにしたらいいのだ。
しかし、音楽会は来週じゃんか。
「出んのなら、先生に早う言わんと」
私は、もしや音楽祭を見に行かなくて済むかも…
そんな期待を胸に秘め、母にはそう言った。
《続く》
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