殿は今夜もご乱心

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あの世の扉

2023年08月31日 09時12分17秒 | みりこん流
高齢化社会と言われる昨今、周りの老人たちを眺めていて

つくづく思うことがある。

語弊満載を承知で言うなら

彼ら彼女らは、ただの長生きではないのではないか…と。

長生きには二通りあって、まだこの世に必要な人と

あの世の扉が開かない人に分かれるのではないか…と。


“まだこの世に必要な人”という意味は、誰でもわかると思う。

人格卑しからず、誰かの精神的あるいは経済的な支えになっていたり

各分野で活躍していて、当面、いなくなったら困る人のことだ。

そして“あの世の扉が開かない人”の方は

「こんなのに来られたら困るから、そっちでもうちょっと修行せぇ」

ということで、あの世へ行く時期を先延ばしにされている人のことだ。


あの世で「いらん」と言われる人が、この世でいるわけないじゃんか。

どっちの世界にも歓迎されぬまま、不平不満を口にしながら生きながらえるのが

“あの世の扉が開かない人”である。

「ああ、あの世の扉を開いてもらえないのよね。

扉が開くまで、この世でのたうち回るしかないのよね」

周囲の年寄りに翻弄されっぱなしの私は、そう思うことにしているのさ。

そうでもしなきゃ、やっとられんのさ。


なんてひどいことを…明日は我が身じゃないか…

私の本心を知った人々は言うだろう。

しかしそれは、親と暮らしてないから言えるのだ。

いっぱしのことが言いたかったら、イメージではなく

まず老親と同居するという人生を棒に振る大チャレンジを

やらかしてからにしてもらおうではないか。


長生きをするとは、愛する家族や気の置けない友を

一人、また一人と見送る悲しみを重ねることだ。

それでなくても年を取ると孤独感が増し、大勢の中にいても寂しくなって

自分だけが取り残されているような気持ちになる。

自動的にそうなるらしいのは、自分の祖父で知っているつもりだ。

饒舌な彼から、そういう気持ちを日々延々と聞かされて成長した。


それでも健気に自身を鼓舞し、明るく楽しく生きたいと願うのが人間というもの。

しかし、周りがそうはさせてくれない。

「ささ、おじいちゃんは、おばあちゃんは、あっち」

「その話はもういいから、ね?」

愛想笑いの向こうに透けて見える、「邪魔なんだよ」。

年寄りの勘は、若い者の何倍も鋭いのでわかるのだ。


経験を重ねて勘が磨かれた人もいるだろうけど

あの世が近づく年齢になると、勘は自然に鋭くなっていくもの。

あの世は感覚の世界だからだ。


そのための準備として、勘を含む感覚が徐々に敏感になっていく。

道路標識や道しるべなんか無いのに

方向音痴でも漏れなくあの世に到達できるところをみると

そうとしか思えない。

昔、記事にしたことがあるが、40年以上前

家庭内のアクシデントによって

図らずもそういうことになった私はそう思っている。


今はナビがあるかもしれない。

携帯電話だって普及しているかもしれないので

現在地と目的地を調べることができるかもしれない。

その分、研ぎ澄まされるべき感覚は偏り

勘も敏感も必要な箇所には働かず、不要な箇所にはやたらと働いたりする。


特に自分が中心でない時、その感覚は過敏に働く。

そりゃ情けない。

腹が立つ。

我慢ならない。

文句を言いたくなる。

周囲の我慢によって細々と保たれていた上辺の平和は

一瞬で崩壊。

冷たい空気と置かれた距離に、寂しさはますますつのり

その気も無いのに「早く◯にたい」とまで口にする。


言い方を変えれば、自分がいつまでも中心でいたい人に

このような誤作動が起こるのではなかろうか。

あの世の扉が開かない人は、自分がいつまでも主役でいたい人ではないのか。

年を取っても脇役に回りたくない老女優…

周りを見回すと、そのような人ばかりである。

その根性は見上げたものだ。

長生きがしたければ、そうなればいい。

皆に愛され、尊重され、健康で、そこそこ幸せで…

そんな長寿はまず無いと思うことだ。


どうしてそんなことになるかというと

アレらの日常は「気が済まない」を軸に回っている。

行かなければ気が済まない、やらなければ気が済まない

言わなければ気が済まない…。


気が済まないという感情は、気持ちの中で最も強い。

強気はけっこうなことなのだが、問題はこの“気が済まない”が

周囲にとって不都合な場面で発動することだ。


家事をしなければ気が済まない、お小遣いを上げなければ気が済まないなど

良いところで発動するのであれば周囲は喜ぶ。

しかし、それは起きない。

“気が済まない”の発動は、必ず誰かの協力や忍耐を必要とする事柄に限定。

しかも急で頻繁。

そして言い出したらきかない。

これが老化というものなのである。


車でどこそこへ連れて行ってもらわなければ気が済まない。

気になった片付けや作業を人にやってもらわなければ気が済まない。

つまらぬことや言ってはいけないことを口に出さなければ気が済まない。

言うなれば我々子世代の生活は、老人の“気が済まない”に支配されているのだ。


そしてアレら自身もまた、この世の残留期間が長引くにつれて

“気が済まない”に支配される割合が増えていく。

肝心なところで発動せず、見当違いの場面で急に気が済まなくなるのだから

関わったらロクなことは無いということで、周囲から敬遠される。

それでも“気が済まない”の気持ちはおさまらない。

願いが叶って気が済む状況を身悶えしながら欲する。

その気持ちは辛くて苦しいと思う。

しかしこれが老化なので、どうしようもないのである。


その痛みを知りつつも、こっちは支配なんてされたくない。

せっかく生まれてきたんだもの、私も自分の人生を生きたいよ。

年取ったらなおさらだよ。

だけどその生は、そもそもアレらに授けられたもの。

諦めて支配される身の上に甘んじ、何とか折り合いをつけて

アレらにあの世の扉が開かれ、静かになるまでと歯を食いしばりながら

どうにか息をしているというのが、紛うことなき現実である。


これほど頑張ったんだから

扉のオープン後はさぞや幸せな晩年が待っているだろう…

なんて思ってない。

「親を大切にしてると、いいことあるよ」

そう言ってくれる人もいるけど、無責任なこと言うな…と思ってしまう。

いいことなんか、あるもんか。

長い長い同居や介護生活の果てに、待ち構えているのは自身か伴侶の病気だ。

同じ境遇の人々を観察してきたが、おしなべてそういうことになっている。


ここでもお馴染み、一回り年上の友人ヤエさんも半世紀以上に渡り

大舅、大姑、舅、姑を看取るという大仕事をやってのけたが

全てが終わるとすぐに精神を病んだ。

心だけでなく、身体の方もボロボロだ。

もう会っても私がわからない。


だからそうならないように、一生懸命をやめた。

真面目に取り組まない。

観察から、「我慢したら後でいいことがある」という考えこそ

自分の心身を追い詰めるとわかったので、絶対思わない。

アレらがキレて、「もう◯にたい」なんて口走ったら

「どの方法がお好み?」

「失敗したらどうするん?自◯は健康保険証きかんよ」

と言う。


そんな一生懸命を辞めた私と義母ヨシコが今、ハマってるのはミョウガの収穫。

庭の片隅に自生してるんよ。

長いこと気がつかなかったんだけど、今年、ひっそりと成っているのを発見。

二人で見つけるの、楽しい。



もう終わりで、花が咲き始めてる。

ミョウガは私の大好物、そしてヨシコの大嫌いな食品。

自分は嫌いなのに、私が喜ぶから探す…

その姿を見て、ありがたいと思う…

私に許されているのは、そんな小さな幸せ。

それでいいと思っている。

私には、小さな幸せがお似合いだ。


ミョウガの親というか葉っぱはこれ。

コメント (6)
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