藤村が謝罪に行かないので、ダイちゃんは焦った。
月末までに差額の入金が無ければ、ミスが発覚してしまうからだ。
単価の入力ミスなんて、世間にはよくある。
最終的に帳尻が合えば、どうってことない。
しかし9ヶ月間もそれに気づかないまま
金額がかさんでしまった事実は
曲がりなりにも経理部長の肩書きを持つ者にとって致命的である。
「支払いは1円でも少なく、入金は1円でも多く。
何ごとも積み重ねが大事」
日頃、部下や私に口うるさいダイちゃんであった。
その本人が凡ミスを200万円まで積み重ねたとなれば
恥以外のなにものでもあるまい。
そこで彼は、直属の若い部下に軽〜く命じた。
「君、謝りに行ってよ。
僕は忙しくて行けないから」
ダイちゃん、どうしても謝罪に行きたくないらしい。
謝罪に行くとは、ミスを認めることである。
宗教勧誘のパワハラで立場が危うくなった今
さらなる汚点が加わるのは耐え難いことだろう。
ダイちゃんの命令に当惑した部下は、別の上司に相談。
残念ながらこの時点で、ダイちゃんのミスは社内に知れ渡った。
しかしダイちゃんはそれどころではない。
藤村もダメ、部下もダメとなると、次のターゲットは夫。
「親戚でしょ?うまく言っておいてよ。
入金の方も頼んどいてね」
と軽〜く要請。
この場合に備えて、夫にはセリフを練習させてあった。
「先に正しい請求書を作ってください。
正確な金額がわからなければ、相手に話ができません」
ダイちゃんの性格上、これは困るはず。
彼はまず、差額を入金してくれるという確約が欲しい。
他人を謝罪に行かせて場を収めさせ、入金の約束をさせ
安全を確保した上で、最後に差額分の請求書を発行したいのだ。
向こうの機嫌がわからない時に発行する請求書と
入金の約束をした後で発行する請求書は内容が異なる。
自分のミスを隠すには、この順序でなければ都合が悪いに違いない。
裏を返せば、彼はそれだけ多くのミスを犯してきたと思われる。
だから自分を守る方法を知っているのだ。
彼の仕事を眺めて7年、私はそう確信している。
無駄な抵抗とはいえ、非を認めない者に対して
たとえ一矢でも報いたいではないか。
ダイちゃんは案の定、請求書の発行を渋り、藤村と夫を責め始めた。
藤村には「何のためにそっちに常駐しているんだ!」
夫には「自分の会社でしょ?無責任じゃないの!」
嫌い合っていた藤村と夫は、ダイちゃんの逆ギレに呆れると同時に
共通の敵と戦う同志として、たちどころに結束した。
しかし、グズグズしていてもらちがあかない。
二人はとりあえず先に謝罪することにして、A社へ行った。
A社の社長は夫の従姉妹の旦那。
「えらい黒字じゃけん、請求書がおかしいのは知っとったが
こっちから言うのもシャクなけん、黙っとったんよ」
差額の200万円は、修正された請求書を見てから
振り込んでくれることになり、夫と藤村はホッとした顔で戻ってきた。
ダイちゃんはこの朗報を待ち構えていたらしく
差額分の請求書はすぐにファックスで届いた。
「これは‥」
絶句する夫と藤村。
請求書は、A社に納入したことのない商品を
今月の適当な日付で何回かに分けて納入したことになっていた。
商品の単価は全て2500円にしてあり、その合計が差額分。
金額合わせのために取引をねつ造した、誠意のかけらもない書面である。
間違いではないけど、心象は悪い。
「こんなんで金もらえ言うんか」
「ワシ、よう持って行か〜ん」
困惑する二人に、私は説明した。
この請求書の作成画面は、長く保存されること‥
重役がその画面を閲覧する機会は、ゼロでないこと‥
だから一見、ただの3月分の請求書に見えなくてはならない‥
ミスを隠して保身に徹した、これは一つの作品なのだ‥
などとえらそうに解説していたら、天罰が。
「作り直してくれ」
夫に頼まれたのだ。
かくして私は、請求書を作り直す羽目に陥った。
過去をさかのぼって数字を拾い出し
差額の説明がつく請求書を作るのって骨が折れる。
賢い人なら簡単だろうが、こちとら無能なオバさんなので
思わぬ時間がかかった。
これで精も根も尽き果てたような気がする3月であった。
夫はできあがった請求書をA社に届け
社長は程なく差額の入金をしてくれて、この問題は終わった。
おそらくダイちゃん作の請求書でも払ってくれたと思うが
誠意や信用の面で、私の気は済んだ。
以後のダイちゃんは何事もなかったかのように、この件に触れない。
しかし先日、別の問題が浮上。
その日の午後、A社の社長が遊びに来た。
藤村は午前中でいなくなるため、我が社の来客は午後に集中するのだ。
「9ヶ月も失敗に気がつかんで、謝りにもよう来んヤツが
よう経理部長でおられるのう。
ワシなら恥ずかしゅうて辞表出すわ」
内情を知る社長は、苦笑するのだった。
そのついでとして彼が言うには
昨年の6月以来、つまりA社の事務がダイちゃんの手に渡ってからずっと
請求書に貼られた切手が料金不足だそう。
A社は毎月、不足料金を払って受け取ってくれていたのだった。
「バカが請求書作りょうるんは、ようわかったが
ええ加減にせえ、言うといてくれや。
10円や20円のことでゴタゴタ言いとうないけん、黙っとったが」
夫は大喜びでダイちゃんに電話し、料金不足の件を伝えた。
恥ずかしいから気をつけてくれ‥
もし手に余るようだったら、A社の請求書は女房に戻してくれ‥
夫にしては、かなりきつい発言であった。
「料金不足?そんなはずはない!
僕は毎月、ちゃんとハカリで計量してポストに入れているんだ!
勘違いじゃないの?!」
電話の向こうでいきり立つダイちゃんに、夫は言った。
「部長、重さは同じでも封筒の厚みで料金が上がるの、知ってます?」
「え?」
「封筒に伝票をたくさん入れると、分厚くなるでしょ。
規定の厚みを越えたら高くなるんですよ」
「そんなの、聞いたことない!」
まったく、往生際の悪い男だ。
郵送料を惜しむ彼は、何が何でも普通サイズの封筒を使う主義。
A社の伝票はかさばるので、巻いたり折りたたんだりして
ポンポンに膨らんだ封書を送っていたのだと思う。
わずかな経費を節約しようとして、プライスレスの信用を失うのは
商売を知らない頭でっかちがよく陥る現象だが
ダイちゃんは商売だけでなく、郵便のルールも知らなかったらしい。
私と同い年のダイちゃんは、来年の3月でひとまず定年になる。
定年退職者は本人が望めば、1年契約で再雇用されることになっているが
つい先日、ダイちゃんから出された再雇用の希望は
却下されたことがわかった。
宗教の勧誘問題によって、再雇用はおそらく無いだろうと言われていたが
今回、9ヶ月もミスに気づかなかったことが決定打となった。
「残りの人生は信仰一筋に生きる」
再雇用されないことを知って、ダイちゃんはそう言ったという。
本心なのか、負け惜しみなのかは不明である。
《完》
月末までに差額の入金が無ければ、ミスが発覚してしまうからだ。
単価の入力ミスなんて、世間にはよくある。
最終的に帳尻が合えば、どうってことない。
しかし9ヶ月間もそれに気づかないまま
金額がかさんでしまった事実は
曲がりなりにも経理部長の肩書きを持つ者にとって致命的である。
「支払いは1円でも少なく、入金は1円でも多く。
何ごとも積み重ねが大事」
日頃、部下や私に口うるさいダイちゃんであった。
その本人が凡ミスを200万円まで積み重ねたとなれば
恥以外のなにものでもあるまい。
そこで彼は、直属の若い部下に軽〜く命じた。
「君、謝りに行ってよ。
僕は忙しくて行けないから」
ダイちゃん、どうしても謝罪に行きたくないらしい。
謝罪に行くとは、ミスを認めることである。
宗教勧誘のパワハラで立場が危うくなった今
さらなる汚点が加わるのは耐え難いことだろう。
ダイちゃんの命令に当惑した部下は、別の上司に相談。
残念ながらこの時点で、ダイちゃんのミスは社内に知れ渡った。
しかしダイちゃんはそれどころではない。
藤村もダメ、部下もダメとなると、次のターゲットは夫。
「親戚でしょ?うまく言っておいてよ。
入金の方も頼んどいてね」
と軽〜く要請。
この場合に備えて、夫にはセリフを練習させてあった。
「先に正しい請求書を作ってください。
正確な金額がわからなければ、相手に話ができません」
ダイちゃんの性格上、これは困るはず。
彼はまず、差額を入金してくれるという確約が欲しい。
他人を謝罪に行かせて場を収めさせ、入金の約束をさせ
安全を確保した上で、最後に差額分の請求書を発行したいのだ。
向こうの機嫌がわからない時に発行する請求書と
入金の約束をした後で発行する請求書は内容が異なる。
自分のミスを隠すには、この順序でなければ都合が悪いに違いない。
裏を返せば、彼はそれだけ多くのミスを犯してきたと思われる。
だから自分を守る方法を知っているのだ。
彼の仕事を眺めて7年、私はそう確信している。
無駄な抵抗とはいえ、非を認めない者に対して
たとえ一矢でも報いたいではないか。
ダイちゃんは案の定、請求書の発行を渋り、藤村と夫を責め始めた。
藤村には「何のためにそっちに常駐しているんだ!」
夫には「自分の会社でしょ?無責任じゃないの!」
嫌い合っていた藤村と夫は、ダイちゃんの逆ギレに呆れると同時に
共通の敵と戦う同志として、たちどころに結束した。
しかし、グズグズしていてもらちがあかない。
二人はとりあえず先に謝罪することにして、A社へ行った。
A社の社長は夫の従姉妹の旦那。
「えらい黒字じゃけん、請求書がおかしいのは知っとったが
こっちから言うのもシャクなけん、黙っとったんよ」
差額の200万円は、修正された請求書を見てから
振り込んでくれることになり、夫と藤村はホッとした顔で戻ってきた。
ダイちゃんはこの朗報を待ち構えていたらしく
差額分の請求書はすぐにファックスで届いた。
「これは‥」
絶句する夫と藤村。
請求書は、A社に納入したことのない商品を
今月の適当な日付で何回かに分けて納入したことになっていた。
商品の単価は全て2500円にしてあり、その合計が差額分。
金額合わせのために取引をねつ造した、誠意のかけらもない書面である。
間違いではないけど、心象は悪い。
「こんなんで金もらえ言うんか」
「ワシ、よう持って行か〜ん」
困惑する二人に、私は説明した。
この請求書の作成画面は、長く保存されること‥
重役がその画面を閲覧する機会は、ゼロでないこと‥
だから一見、ただの3月分の請求書に見えなくてはならない‥
ミスを隠して保身に徹した、これは一つの作品なのだ‥
などとえらそうに解説していたら、天罰が。
「作り直してくれ」
夫に頼まれたのだ。
かくして私は、請求書を作り直す羽目に陥った。
過去をさかのぼって数字を拾い出し
差額の説明がつく請求書を作るのって骨が折れる。
賢い人なら簡単だろうが、こちとら無能なオバさんなので
思わぬ時間がかかった。
これで精も根も尽き果てたような気がする3月であった。
夫はできあがった請求書をA社に届け
社長は程なく差額の入金をしてくれて、この問題は終わった。
おそらくダイちゃん作の請求書でも払ってくれたと思うが
誠意や信用の面で、私の気は済んだ。
以後のダイちゃんは何事もなかったかのように、この件に触れない。
しかし先日、別の問題が浮上。
その日の午後、A社の社長が遊びに来た。
藤村は午前中でいなくなるため、我が社の来客は午後に集中するのだ。
「9ヶ月も失敗に気がつかんで、謝りにもよう来んヤツが
よう経理部長でおられるのう。
ワシなら恥ずかしゅうて辞表出すわ」
内情を知る社長は、苦笑するのだった。
そのついでとして彼が言うには
昨年の6月以来、つまりA社の事務がダイちゃんの手に渡ってからずっと
請求書に貼られた切手が料金不足だそう。
A社は毎月、不足料金を払って受け取ってくれていたのだった。
「バカが請求書作りょうるんは、ようわかったが
ええ加減にせえ、言うといてくれや。
10円や20円のことでゴタゴタ言いとうないけん、黙っとったが」
夫は大喜びでダイちゃんに電話し、料金不足の件を伝えた。
恥ずかしいから気をつけてくれ‥
もし手に余るようだったら、A社の請求書は女房に戻してくれ‥
夫にしては、かなりきつい発言であった。
「料金不足?そんなはずはない!
僕は毎月、ちゃんとハカリで計量してポストに入れているんだ!
勘違いじゃないの?!」
電話の向こうでいきり立つダイちゃんに、夫は言った。
「部長、重さは同じでも封筒の厚みで料金が上がるの、知ってます?」
「え?」
「封筒に伝票をたくさん入れると、分厚くなるでしょ。
規定の厚みを越えたら高くなるんですよ」
「そんなの、聞いたことない!」
まったく、往生際の悪い男だ。
郵送料を惜しむ彼は、何が何でも普通サイズの封筒を使う主義。
A社の伝票はかさばるので、巻いたり折りたたんだりして
ポンポンに膨らんだ封書を送っていたのだと思う。
わずかな経費を節約しようとして、プライスレスの信用を失うのは
商売を知らない頭でっかちがよく陥る現象だが
ダイちゃんは商売だけでなく、郵便のルールも知らなかったらしい。
私と同い年のダイちゃんは、来年の3月でひとまず定年になる。
定年退職者は本人が望めば、1年契約で再雇用されることになっているが
つい先日、ダイちゃんから出された再雇用の希望は
却下されたことがわかった。
宗教の勧誘問題によって、再雇用はおそらく無いだろうと言われていたが
今回、9ヶ月もミスに気づかなかったことが決定打となった。
「残りの人生は信仰一筋に生きる」
再雇用されないことを知って、ダイちゃんはそう言ったという。
本心なのか、負け惜しみなのかは不明である。
《完》