老人に翻弄され始めた私は
夫ヒロシと愛人への興味を失っていった。
憎むことは気にすることであり、すなわち興味なのだ。
何十年も友達だった憎しみと疎遠になるにつれ
私は夫を不実な配偶者としてではなく
一人の人間として眺めるようになった。
憎しみのフィルターを取っ払うと、違う景色が見えてくる。
「この子、私なんかよりずっと苦労してきたのかも」
180度変わって、そう思うようになったのだ。
先頃、秘書に暴言を録音されて離党に追い込まれた
自民党の豊田真由子議員を覚えておいでだろうか。
ワイドショーで一連の騒動を眺めながら、私は懐かしく思った。
声を限りの罵倒が続いたかと思うと一転、低い声での脅迫に変わり
かと思えば自身の発する言葉に興奮して、また怒号に戻る‥
強弱の波が延々と続くパターンが、亡き義父にそっくりだからだ。
この習性は、私にも容赦なく炸裂した。
いつ何どき、何をきっかけに始まるか予測がつかない。
「お父さんを怒らせないように」
「お父さんの気に入るように」
義母からは再三言われたが
思いやりや気働きでどうにかなるものではなかった。
私は口答えをするので、義父も多少は遠慮しており
実家や友達にしゃべられるのも警戒していた。
しかし血を分けた息子である夫への仕打ちは
家族の誰よりも頻繁で激しかった。
義父も同じことをしているので、浮気の件には触れない。
夫のおどおどした態度や会社の備品の置き場所など、案件は何でもよかった。
時に怒鳴り、時にニヤニヤ笑いながら
長時間、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ続けるさまは
捕らえたネズミをいたぶる猫そのものだった。
私は何度も抗議したし、止めにも入った。
義父がくたびれて解放した後、ひそかに涙を流す夫が不憫だからだ。
夫がナンボ憎たらしい浮気者とはいえ
理不尽な扱いを受けるのは我慢ならなかった。
が、こういう人間にストップをかけたら、当然だが大騒ぎになり
後に訪れる報復も倍加した。
若かった私は、制止が正しいと思い込んでいたが
それはヒマラヤ級のプライドを持つ義父に恥をかかせることであり
ますます悲惨な結果になるという考えにまでは至らなかった。
私の青い正義感は、夫や義母にとって迷惑以外のなにものでもなく
「黙っていれば1時間かそこらで済むものが
長くなるからやめてくれ」
と言われて、やめた。
夫が言うには7才の時、父親にホウキで
腕を骨折するまで叩かれたことがあるという。
母親はかばってくれず、折れるまで見て
それから病院に連れて行かれたが
以来、父親が怖いし、母親は味方でないと知ったという。
夫からそれを聞いたのは、10年ほど前だったろうか。
加齢によって駆け落ちや外泊が無くなり
色狂いから、単なる浮気者に降格した頃だ。
もちろん驚いたし、最初は信じられなかった。
しかしこの話は、口の重い夫から数回に渡って聞き出したものであり
義母にもそれとなくたずねて確認済みでもあり
7才の夫が左手を包帯で釣った写真も存在しているため
残念ながら事実と認定するしかない。
タイムマシンがあるなら、私はその時に戻って夫を助けたかった。
義父にはカミナリ親父や頑固爺とは異なる病的なものを感じていたが
「やっぱり」という思いだった。
私がずっと疑っていたのは、サイコパスである。
こう言うと猟奇殺人者みたいだが
表向き、普通に生活している人はたくさんいるものだ。
他者を死に至らしめるほどではなくとも
ギリギリの所まで追い込む経緯を楽しむ性癖は
「そのケあり」と考えて遜色はないと思う。
それでも時折、孫をかわいがる普通のお祖父ちゃんに見える時がある。
私はそれをよすがに、いつか皆で笑える日がくると信じて耐え忍んだ。
しかし夫の浮気はいっこうに止まないばかりか、ひどくなる一方。
何もかもがほとほと嫌になり、ついに子供たちを連れて家を出るに至った。
絶縁状態は数年続いたが、年月が経つと
私は再び両親と交流するようになった。
望む望まないという段階ではなく、彼らの生活苦と病気による必然である。
彼らの苗字を名乗っている以上
彼らが我が子の祖父母である以上
やるべきことはやらなければならない。
私は古い人間なのだ。
義父のサイコパスは、すっかり影を潜めていた。
会社が倒産危機に陥り、昔のように威張れなくなったことや
体力が無くなったのもあろうが
本当の義父が内側から出てきたような気もした。
そんな義父に、夫は尽くした。
風呂好きの父親のため、最後に入院する前日までスーパー銭湯へ通った。
ほとんど歩けないので、車から風呂までお姫様抱っこで運んだ。
入院中、外泊で家に帰ると風呂へ入りたがるので
夫は動けない父親を抱いて湯船に浸かった。
どんなに大変でも夫は愚痴一つ言わず、顔にも表さない。
父親に触れることを喜んでいるように見えた。
私だったら自分の腕をホウキで叩き折った父親に、ここまでできない。
そればかりか、動けないのをいいことに仕返しをするかもしれない。
いや、きっとやる。
しかし夫は淡々と、そして楽しそうに父親の世話をする。
介護のノウハウを知らない夫は、時に義父を危険にさらしたが
義父は安らいだ表情で身を任せる。
2人の姿は胸に迫るものがあり、私の心は洗われていった。
今まで夫ばかり好き勝手をして
自分ばかりが酷い目に遭っていると思っていた。
酷い目に遭っているのに、ちっとも褒美が来ないのが不満だったが
わたしゃ腕まで折られたことはない。
それを体験した夫の方が、よっぽどの苦労人ではないのか。
義父も、夫も、本当は辛かったのだ。
見かけとは違い、繊細で気の小さい義父は
ひたすら猛威を振るうことで、苦い過去を払拭しようとした。
夫は父を赦し、忘れるために、よその女性の手を借りた。
冷淡で男性的思考の強い私では、役不足だったのだ。
私は彼らの何をも見てはいなかった‥そう思った。
《続く》
夫ヒロシと愛人への興味を失っていった。
憎むことは気にすることであり、すなわち興味なのだ。
何十年も友達だった憎しみと疎遠になるにつれ
私は夫を不実な配偶者としてではなく
一人の人間として眺めるようになった。
憎しみのフィルターを取っ払うと、違う景色が見えてくる。
「この子、私なんかよりずっと苦労してきたのかも」
180度変わって、そう思うようになったのだ。
先頃、秘書に暴言を録音されて離党に追い込まれた
自民党の豊田真由子議員を覚えておいでだろうか。
ワイドショーで一連の騒動を眺めながら、私は懐かしく思った。
声を限りの罵倒が続いたかと思うと一転、低い声での脅迫に変わり
かと思えば自身の発する言葉に興奮して、また怒号に戻る‥
強弱の波が延々と続くパターンが、亡き義父にそっくりだからだ。
この習性は、私にも容赦なく炸裂した。
いつ何どき、何をきっかけに始まるか予測がつかない。
「お父さんを怒らせないように」
「お父さんの気に入るように」
義母からは再三言われたが
思いやりや気働きでどうにかなるものではなかった。
私は口答えをするので、義父も多少は遠慮しており
実家や友達にしゃべられるのも警戒していた。
しかし血を分けた息子である夫への仕打ちは
家族の誰よりも頻繁で激しかった。
義父も同じことをしているので、浮気の件には触れない。
夫のおどおどした態度や会社の備品の置き場所など、案件は何でもよかった。
時に怒鳴り、時にニヤニヤ笑いながら
長時間、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ続けるさまは
捕らえたネズミをいたぶる猫そのものだった。
私は何度も抗議したし、止めにも入った。
義父がくたびれて解放した後、ひそかに涙を流す夫が不憫だからだ。
夫がナンボ憎たらしい浮気者とはいえ
理不尽な扱いを受けるのは我慢ならなかった。
が、こういう人間にストップをかけたら、当然だが大騒ぎになり
後に訪れる報復も倍加した。
若かった私は、制止が正しいと思い込んでいたが
それはヒマラヤ級のプライドを持つ義父に恥をかかせることであり
ますます悲惨な結果になるという考えにまでは至らなかった。
私の青い正義感は、夫や義母にとって迷惑以外のなにものでもなく
「黙っていれば1時間かそこらで済むものが
長くなるからやめてくれ」
と言われて、やめた。
夫が言うには7才の時、父親にホウキで
腕を骨折するまで叩かれたことがあるという。
母親はかばってくれず、折れるまで見て
それから病院に連れて行かれたが
以来、父親が怖いし、母親は味方でないと知ったという。
夫からそれを聞いたのは、10年ほど前だったろうか。
加齢によって駆け落ちや外泊が無くなり
色狂いから、単なる浮気者に降格した頃だ。
もちろん驚いたし、最初は信じられなかった。
しかしこの話は、口の重い夫から数回に渡って聞き出したものであり
義母にもそれとなくたずねて確認済みでもあり
7才の夫が左手を包帯で釣った写真も存在しているため
残念ながら事実と認定するしかない。
タイムマシンがあるなら、私はその時に戻って夫を助けたかった。
義父にはカミナリ親父や頑固爺とは異なる病的なものを感じていたが
「やっぱり」という思いだった。
私がずっと疑っていたのは、サイコパスである。
こう言うと猟奇殺人者みたいだが
表向き、普通に生活している人はたくさんいるものだ。
他者を死に至らしめるほどではなくとも
ギリギリの所まで追い込む経緯を楽しむ性癖は
「そのケあり」と考えて遜色はないと思う。
それでも時折、孫をかわいがる普通のお祖父ちゃんに見える時がある。
私はそれをよすがに、いつか皆で笑える日がくると信じて耐え忍んだ。
しかし夫の浮気はいっこうに止まないばかりか、ひどくなる一方。
何もかもがほとほと嫌になり、ついに子供たちを連れて家を出るに至った。
絶縁状態は数年続いたが、年月が経つと
私は再び両親と交流するようになった。
望む望まないという段階ではなく、彼らの生活苦と病気による必然である。
彼らの苗字を名乗っている以上
彼らが我が子の祖父母である以上
やるべきことはやらなければならない。
私は古い人間なのだ。
義父のサイコパスは、すっかり影を潜めていた。
会社が倒産危機に陥り、昔のように威張れなくなったことや
体力が無くなったのもあろうが
本当の義父が内側から出てきたような気もした。
そんな義父に、夫は尽くした。
風呂好きの父親のため、最後に入院する前日までスーパー銭湯へ通った。
ほとんど歩けないので、車から風呂までお姫様抱っこで運んだ。
入院中、外泊で家に帰ると風呂へ入りたがるので
夫は動けない父親を抱いて湯船に浸かった。
どんなに大変でも夫は愚痴一つ言わず、顔にも表さない。
父親に触れることを喜んでいるように見えた。
私だったら自分の腕をホウキで叩き折った父親に、ここまでできない。
そればかりか、動けないのをいいことに仕返しをするかもしれない。
いや、きっとやる。
しかし夫は淡々と、そして楽しそうに父親の世話をする。
介護のノウハウを知らない夫は、時に義父を危険にさらしたが
義父は安らいだ表情で身を任せる。
2人の姿は胸に迫るものがあり、私の心は洗われていった。
今まで夫ばかり好き勝手をして
自分ばかりが酷い目に遭っていると思っていた。
酷い目に遭っているのに、ちっとも褒美が来ないのが不満だったが
わたしゃ腕まで折られたことはない。
それを体験した夫の方が、よっぽどの苦労人ではないのか。
義父も、夫も、本当は辛かったのだ。
見かけとは違い、繊細で気の小さい義父は
ひたすら猛威を振るうことで、苦い過去を払拭しようとした。
夫は父を赦し、忘れるために、よその女性の手を借りた。
冷淡で男性的思考の強い私では、役不足だったのだ。
私は彼らの何をも見てはいなかった‥そう思った。
《続く》