節分の日、隣のおじさんが車ごと川へダイブした事件について
詳細を聞きたがる人が多いので、このところ義母ヨシコは対応に忙しい。
その日も近所の人と、庭先で話し込んでいた。
外で1時間も立ち話をしていたため、ご飯を食べるのに
手がかじかんで箸が持てず、うろたえるヨシコ。
「お湯に手をつけて…ストーブより早いから」
私は蛇口から適温の湯を出し、切羽詰まったヨシコは従順に従う。
「本当だ!手だけじゃなくて、体までサッと温かくなった!
よく知っていたわねえ!」
いつになく感心するヨシコ。
「子供の頃、お祖父ちゃんに聞いた」
と私。
「他にもあるよ…ゲップの出にくいジュースの飲み方とか」
「ワハハ!お祖父さん、面白い人だったのね!」
と笑うヨシコ。
そうなのだ…亡き祖父は、役に立つのかどうかわからないことを
私と妹によく教えていた。
ゲップの出にくいジュースの飲み方は、簡単である。
グビグビ飲まずに、少しずつ飲むだけだ。
そのタマモノかどうかは知らないが、私はこれまでゲップをしたことが無い。
ゲップ…一度でいいからやってみたい、夢の行為である。
そんなことを話すとヨシコが爆笑するので、いい気になり、もっと話す。
「それから、船が爆撃で沈没した時に生き残るコツとか…」
戦争中、戦地に物資や兵隊を運ぶ輸送船の乗員として
太平洋を往復していた祖父は、何度かこういう経験をしていた。
「え…?どうやるの?」
「海に投げ出されたら、まず冷静になって周りを見回して
自分のつかまってる板より、もっと大きい板を探す。
泳いで行ってその板をつかんで、また周りを見回す。
みんな必死だから、奪い合いもあるし死人もいるけど、極力気にしない。
その繰り返しでだんだん大きな板を手に入れて
最終目標は、上に乗っかれる板。
その板の上でサメをよけながら救援を待つ、わらしべ長者方式」
…ギャハハ!ヨシコはのけぞって笑う。
他にも手旗信号やら、敬礼の仕方やら、切腹の作法やら
祖父は幼い孫に向かって真剣に言い聞かせ、訓練させるのだった。
幼い私と妹は、戦争や原爆で何度も九死に一生を得た祖父の中に潜む
かすかな狂気を感じていた。
逆らうと面倒臭いことになるので、おとなしく非常時向けの訓練に従った。
実用性はあまり無さそうな訓練に加え、我々姉妹は小学生の頃から
出産に備えたトレーニングを毎日行っていた。
祖父が日頃主張する数々の事柄の中に
お産で身体を痛める女性が多い、というのがあったからだ。
強い母胎を育成することが、ひいては自分や家族の幸せにつながると言う。
体の弱い妻と娘を見てきたからであろう。
たいしたトレーニングではない。
腕立て伏せと逆立ちだ。
逆立ちのほうは、最初、引力を利用して
私の首を長くするために行われていたが、そのうち目的がこっちになった。
これを祖父の号令のもと、何年も続けていた。
その成果は、長男の出産で証明されることになる。
今はどうだか知らないが、30数年前
出産後の子宮は、数週間かけて元通りのタマゴ大に戻るのが一般的だった。
しかし私の子宮は、出産直後から驚異的な速さで回復を始めた。
医師は就寝中の看護学生を急いで起こすよう指示し
寝ぼけまなこで集まった学生達に、代わる代わる私のお腹を触らせて
収縮の過程を触診させた。
入院中、レアな子宮を持つ産婦として、私はちょっとしたスターであった。
産後の経過も良く、祖父のおかげだと思った。
やがて退院の日。
産後は夫の実家で厄介になることに決まっていたので、私は迎えを待った。
しかし、迎えはなかなか来なかった。
午後になっても、日が暮れても来なかった。
ついぞ昨日まで、娘と毎日やって来てワイワイと賑やかだった姑が
退院となったら来ないのを病院の人々はいぶかしみつつ
「ごちそう作ってくれてるのよ」
「きっとお布団干してくれてるんだわ」
口々にそう言ってなぐさめてくれた。
レアな子宮の持ち主は、誰も迎えに来ない気の毒分野においても
レアケースとなったもよう。
夜9時を回って、やっと夫とヨシコ登場。
「ヒロシが野球に行って、なかなか帰って来なくてねえ」
ヨシコはヘラヘラ笑いながら言った。
ようするに私と新生児は、野球に負けたのだった。
しょせん、その程度の存在でしかなかった。
その後もよそのおネエちゃんに負け続けることになるのだが
当時は知るよしもなかった。
約30年後、両親の面倒を見る運命になることも当然知らなかった。
亭主の浮気もきつかったが、精神面だけの問題であった。
老人相手のほうは、浮気より精神的苦痛が少ない分、肉体労働が加算される。
浮気と比較して、ダメージはプラマイゼロというところか。
どうにか続いているのは、産後の面倒を見てもらった恩義があるからだ。
さて、ヨシコはなおも祖父の話を聞きたがるので
私は調子に乗り、やがて話は我が実家に伝わる珍妙なオキテに及ぶ。
「トイレ、刺身、おでん…この単語の使用は禁止。
トイレはご不浄、刺身はお造り、おでんは関東炊きと呼ばないと怒られた」
「なんで?」
「知らん」
「ワハハ!」
他にも、赤飯を家で炊くのが禁止とか、行ってはいけない島というのがあった。
何代か前、赤飯を炊いたら死人が続いたり
一族の誰かが用事や観光でその島に行ったら、留守中に家が火事になったり
やはり死人が出たので、相性が悪いんだろう、という結論になったそうだ。
私が小学一年の時、父が用事でたまたまその島に行くことになったので
付いて行ったら、翌朝うちの祖母が死んだ。
中学の遠足でも行ったが、その時は何も無かった。
今、赤飯を炊いて問題の島へ行ってみたら、どうなるんだろう…
時々そう考えているのは、秘密だ。
「あと、ミカンを焼いて食べるの禁止」
「ミカンを?なんで?」
「貧乏になるから」
その時、折悪しく、ヨシコはストーブでミカンを焼いていた。
焼いて温まり、甘さを増したミカンは、ヨシコの大好物なのだ。
「だから貧乏になったのかしらねっ!」
ヨシコは怒って部屋を出て行った。
ま、いいか…祖父が私に一番多く語った内容は、話してないから。
「あの会社は、潰れるぞ。
チンピラ上がりの社長をいつまでも相手にしてくれるほど
世の中は甘くない。
あいつらは見栄っ張りだから、ギリギリまでそれを隠すだろう。
常に潮の流れをよく見て、早めに撤退しなさい。
船と一緒に沈むのは、船長だけでいい」
逃げ遅れて沈没したけど、例の教えの通り
より大きい板を模索しながら救援を待った私を、祖父が見たら何と言うだろうか。
あの世に行ったら聞いてみたいが、返事はおそらくこれだろう。
「プラマイゼロ!」
詳細を聞きたがる人が多いので、このところ義母ヨシコは対応に忙しい。
その日も近所の人と、庭先で話し込んでいた。
外で1時間も立ち話をしていたため、ご飯を食べるのに
手がかじかんで箸が持てず、うろたえるヨシコ。
「お湯に手をつけて…ストーブより早いから」
私は蛇口から適温の湯を出し、切羽詰まったヨシコは従順に従う。
「本当だ!手だけじゃなくて、体までサッと温かくなった!
よく知っていたわねえ!」
いつになく感心するヨシコ。
「子供の頃、お祖父ちゃんに聞いた」
と私。
「他にもあるよ…ゲップの出にくいジュースの飲み方とか」
「ワハハ!お祖父さん、面白い人だったのね!」
と笑うヨシコ。
そうなのだ…亡き祖父は、役に立つのかどうかわからないことを
私と妹によく教えていた。
ゲップの出にくいジュースの飲み方は、簡単である。
グビグビ飲まずに、少しずつ飲むだけだ。
そのタマモノかどうかは知らないが、私はこれまでゲップをしたことが無い。
ゲップ…一度でいいからやってみたい、夢の行為である。
そんなことを話すとヨシコが爆笑するので、いい気になり、もっと話す。
「それから、船が爆撃で沈没した時に生き残るコツとか…」
戦争中、戦地に物資や兵隊を運ぶ輸送船の乗員として
太平洋を往復していた祖父は、何度かこういう経験をしていた。
「え…?どうやるの?」
「海に投げ出されたら、まず冷静になって周りを見回して
自分のつかまってる板より、もっと大きい板を探す。
泳いで行ってその板をつかんで、また周りを見回す。
みんな必死だから、奪い合いもあるし死人もいるけど、極力気にしない。
その繰り返しでだんだん大きな板を手に入れて
最終目標は、上に乗っかれる板。
その板の上でサメをよけながら救援を待つ、わらしべ長者方式」
…ギャハハ!ヨシコはのけぞって笑う。
他にも手旗信号やら、敬礼の仕方やら、切腹の作法やら
祖父は幼い孫に向かって真剣に言い聞かせ、訓練させるのだった。
幼い私と妹は、戦争や原爆で何度も九死に一生を得た祖父の中に潜む
かすかな狂気を感じていた。
逆らうと面倒臭いことになるので、おとなしく非常時向けの訓練に従った。
実用性はあまり無さそうな訓練に加え、我々姉妹は小学生の頃から
出産に備えたトレーニングを毎日行っていた。
祖父が日頃主張する数々の事柄の中に
お産で身体を痛める女性が多い、というのがあったからだ。
強い母胎を育成することが、ひいては自分や家族の幸せにつながると言う。
体の弱い妻と娘を見てきたからであろう。
たいしたトレーニングではない。
腕立て伏せと逆立ちだ。
逆立ちのほうは、最初、引力を利用して
私の首を長くするために行われていたが、そのうち目的がこっちになった。
これを祖父の号令のもと、何年も続けていた。
その成果は、長男の出産で証明されることになる。
今はどうだか知らないが、30数年前
出産後の子宮は、数週間かけて元通りのタマゴ大に戻るのが一般的だった。
しかし私の子宮は、出産直後から驚異的な速さで回復を始めた。
医師は就寝中の看護学生を急いで起こすよう指示し
寝ぼけまなこで集まった学生達に、代わる代わる私のお腹を触らせて
収縮の過程を触診させた。
入院中、レアな子宮を持つ産婦として、私はちょっとしたスターであった。
産後の経過も良く、祖父のおかげだと思った。
やがて退院の日。
産後は夫の実家で厄介になることに決まっていたので、私は迎えを待った。
しかし、迎えはなかなか来なかった。
午後になっても、日が暮れても来なかった。
ついぞ昨日まで、娘と毎日やって来てワイワイと賑やかだった姑が
退院となったら来ないのを病院の人々はいぶかしみつつ
「ごちそう作ってくれてるのよ」
「きっとお布団干してくれてるんだわ」
口々にそう言ってなぐさめてくれた。
レアな子宮の持ち主は、誰も迎えに来ない気の毒分野においても
レアケースとなったもよう。
夜9時を回って、やっと夫とヨシコ登場。
「ヒロシが野球に行って、なかなか帰って来なくてねえ」
ヨシコはヘラヘラ笑いながら言った。
ようするに私と新生児は、野球に負けたのだった。
しょせん、その程度の存在でしかなかった。
その後もよそのおネエちゃんに負け続けることになるのだが
当時は知るよしもなかった。
約30年後、両親の面倒を見る運命になることも当然知らなかった。
亭主の浮気もきつかったが、精神面だけの問題であった。
老人相手のほうは、浮気より精神的苦痛が少ない分、肉体労働が加算される。
浮気と比較して、ダメージはプラマイゼロというところか。
どうにか続いているのは、産後の面倒を見てもらった恩義があるからだ。
さて、ヨシコはなおも祖父の話を聞きたがるので
私は調子に乗り、やがて話は我が実家に伝わる珍妙なオキテに及ぶ。
「トイレ、刺身、おでん…この単語の使用は禁止。
トイレはご不浄、刺身はお造り、おでんは関東炊きと呼ばないと怒られた」
「なんで?」
「知らん」
「ワハハ!」
他にも、赤飯を家で炊くのが禁止とか、行ってはいけない島というのがあった。
何代か前、赤飯を炊いたら死人が続いたり
一族の誰かが用事や観光でその島に行ったら、留守中に家が火事になったり
やはり死人が出たので、相性が悪いんだろう、という結論になったそうだ。
私が小学一年の時、父が用事でたまたまその島に行くことになったので
付いて行ったら、翌朝うちの祖母が死んだ。
中学の遠足でも行ったが、その時は何も無かった。
今、赤飯を炊いて問題の島へ行ってみたら、どうなるんだろう…
時々そう考えているのは、秘密だ。
「あと、ミカンを焼いて食べるの禁止」
「ミカンを?なんで?」
「貧乏になるから」
その時、折悪しく、ヨシコはストーブでミカンを焼いていた。
焼いて温まり、甘さを増したミカンは、ヨシコの大好物なのだ。
「だから貧乏になったのかしらねっ!」
ヨシコは怒って部屋を出て行った。
ま、いいか…祖父が私に一番多く語った内容は、話してないから。
「あの会社は、潰れるぞ。
チンピラ上がりの社長をいつまでも相手にしてくれるほど
世の中は甘くない。
あいつらは見栄っ張りだから、ギリギリまでそれを隠すだろう。
常に潮の流れをよく見て、早めに撤退しなさい。
船と一緒に沈むのは、船長だけでいい」
逃げ遅れて沈没したけど、例の教えの通り
より大きい板を模索しながら救援を待った私を、祖父が見たら何と言うだろうか。
あの世に行ったら聞いてみたいが、返事はおそらくこれだろう。
「プラマイゼロ!」