羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

memento mori(死を忘るなかれ)・・・・坐禅 新たなる旅立ち 101回

2020年04月14日 09時12分01秒 | Weblog

中野江古田病院は、我が町からはすこし離れてはいるが、車で15分くらいの距離だ。

近いこともあってご近所の高齢者は、お世話になっている方も少なくない。

 

年も月も日にちも失念してしまったが、小学校の時に習わなかったにもかかわらず、大人になってから友人・知人として親しくしていただいた先生のお母様をこの病院で看取った。

その時、先生から母危篤の電話が入った。

父が運転する車に飛び乗って、病院に向かった。

到着するとすぐさま病室に引き入れられた。

「たった今、臨終だったの。手を握ってあげて頂戴」

言われるままに、手をとってゆっくりと握りしめた。

あたたかかった。

お顔も、手も、肌の色は生きている。

対面はそれほど長い時間ではなかった。

看護師さんに促されて、病室を出た。

ご親族の誰よりも、私の到着が早かった。

再び入室し、お姉さまがいらっしゃるのを待って、病室をお暇した。

ニュースで病院の名前を聞いた時、あの時の手の温もりが蘇った。

 

その方の他に、私には年月日がはっきりしている人との別れがある。

一人は、野口三千三先生 1998年(平成10年)3月29日深夜 享年83歳

日付が変わるギリギリの時間だった。

知らせを受けて病院までタクシーを走らせた。

赤信号続きで、止まってばかりいる道路を、あれほど憎んだことはない。

病院に到着しても夜間の入り口がわからない。

なんとか病室にたどり着いた時には、日付は完全に変わっていた。

なぜか手を握ることはできなかった。

すでにあたたかみは失われている。

自分勝手な理由だが、死の現実の冷たさを記憶したくなかったのだ、と今頃になって思う。

 

もう一人は父だ。

銀行に病院の支払いをおろしに行って帰宅すると、病院から急ぎの電話があった、と母の顔白が変わっていた。

野口先生と同じ病院である。

中央線に飛びのって、病室に駆けつけた。

担当医が心臓マッサージをしていた。

父の顔を見ると血の気が失われていて、本当は間に合わなかったことを悟った。

私を認めて心臓マッサージの手を止めて、すこしの間の後に「ご臨終です」と一言。

私が病室に到着した時間を、最期の時としてくれた。

温情に違いない。

2002年(平成14年)12月29日暮れ方 享年80歳

 

それから18年

2020年 冬からはじまって季節は初夏へ 

コロナ禍、パンデミック 世界中で多くの方が命を落とされている。

連日の報道では、何人、何十人、何百人、何千人、何万人・・・数で読み上げられている。

聞いたその時には、悼む間もなく驚きと恐怖が忍び込んで、自分には関係ないと思いたい気持ちが心を占領してしまう。

数字としてもたらされる死は、個人にとって不可逆的な出来事であることを忘れさせてしまう。

しかし、たとえ身寄りがない人でも、すでに生きてはいないかもしれないが父が母がいて、そのほかの身内や友人や知人がいたはずなのだ。

 

こう思いたい。

死は、残された人々の中で、記憶という衣をまとって新たに生き続けるための個人の通過儀礼ではないのか、と。

そうあってほしい、と思うのは身勝手なのだろうか。

 

ふと思い出した言葉がある。

「memento mori  死を忘るなかれ」

今、この瞬間、生の裏側には死がべったりと張り付いていることを忘れるな。

世界を覆うパンデミックは、メメント・モリ の現実を、あからさまに見せてくれる。

祈り。

ただそれしかできない自分をはがゆく思う、101回目の坐禅中のこと。

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ピアノに湿気は大敵

2020年04月13日 09時35分12秒 | Weblog

蔵の中に入れたあったピアノを救い出して、弾き始めてのは、1月ごろだろうか。

キーを打った後も戻らないところが何箇所もあった。

そこで調律さんに電話をした。

彼曰く「湿気なので除湿機を使ってください。それで大方は大丈夫だと思います」

それから3月になって「高円寺お蔵スタジオ」にピアノをおさめてから除湿機をかけている。

すこしづつだが改善の兆しが見え始めている。

ここで調律もお願いしたい。が、コロナ外出自粛で、しばらくは来てもらえないだろうと覚悟した。

まずは、連日、除湿機を適度にかけて様子を見守っている。

「加湿器は売れますが、除湿機を買う人はいませんよ」

電気器具を扱う店の店長さんの言葉が、耳の底に残っている。

 

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坐禅 ふたたび 百日目

2020年04月13日 09時30分23秒 | Weblog

実は、昨日、100回目となった。

ただビデオ撮影しようと思いながら座っていて、実行してみた。

坐禅までの体操をいくつか映して、最後に坐っている姿勢を撮った。

思いの外下を向いていて、上体がまっすぐでないままであった。

そこで反省。

自分の身体感覚でゆとりあるまっすぐを見つけることは難しい、と気づいたのだった。

自己流はいけませんわ。

以上。

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「ネガティブ・ケイパビリティ」と『「豊かさとは、「ちょっと・すこし・わずか・・・・・・」』(野口三千三)

2020年04月12日 12時59分58秒 | Weblog

2020年4月12日(日)朝日新聞 文化・文芸欄に『「ネガティブ・ケイパビリティ」のススメー結論急がず 悩みに耐える』作家・精神科医 帚木蓬生 

朝刊を読み進んでいくと、この記事に目が止まった。

《生半可な知識や意味付けを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。中ぶらりんの状態を持ちこたえる力》

思わず膝を打った。

現在のコロナ感染拡大とそれに伴う様々な問題はもちろんのこと、自分の問題に引き寄せてみると思い当たる節がある。

少しずれるけれど、蔵の床が落ちてスタジオができるまでの5ヶ月以上の期間に、何度も(気が狂いそうになって)悩み耐えることの連続だった。

進捗状況をひたすら待ち、決定しなければならないことに対してその都度一人で判断を下す。

誰にも相談せずに、向かうおよそ160日を過ごした。

 

時間を遡ってみる。

26歳の時に出会った「野口体操」は、まさにネガティブ・ケイパビリティ 耐える力を養わせてもらえた、と思う。

野口三千三先生の話はわかるようなわからないようなわからない。

いや、無理やりわかろうとしなかった。

うじうじ、もぞもぞ、はらはら、時にいらいら、ウゥーん、ため息、・・・「なんでおもちゃなの?」「なんで漢字の字源なの?」「 なんで大和ことばの語源なの?」

話は面白い。

話はわかる。

自分が求めたいたものはこれだ、と思える。

しかし、それが体操の動きに、どのように繋がっていくのか、道筋が掴めない状態が長かった。

 

途中で諦めた。

諦めようとした。

わかろうとしないようにしようか。

無理に先生の話を体操に結び付けないようにしようか。

イメージが浮かばなかったら、浮かばないまま、そのままにしておこう、と思えるようになるまでに相当な時間を要した。

 

野口体操の動きは、手も足も出なかった。

力を抜こうとするとさらに力が入って、全く動けなくなる。

悲しい、悔しい、悩ましい・・・・・

「今日でやめよう」

見切ろうとするのだが、次の週にはまた教室に出かけていく。

その繰り返しが年単位で続いていた。

 

しかし、拙速に帳尻を合わせなくても、だんだんに 少しずつ 折り合いが着くようになっていった。

からだでわかる、ということは時間がかかるのだ。

それでいい、と思えた時から、気持ちよさを少しずつ積み重ねることができるようになっていった。

でも思うようにからだは動いてくれなかった。

 

《わかりたい、意味づけしたい、わかったつもりに早くなりたい》

もちろんそうだ。

グッと抑えて耐えて、野口体操を自分から排除しなかった結果が良くも悪くも、いまの自分だ、と思う。

これで全てよし、これが正解だ、これで何もかも解決する、なんてことはない、ことを知った。

からだ(動き)を通して、実感できるようになりつつある。

残された時間は短いけれど、わからないことをわからないまま、そっと自分の中で熟成していく行為は、今も変わらずに大事にしたい。

優柔不断でいいじゃないの。

すぐに気のきいたことばが返せなくたっていいじゃないの。

器用に立ち回れなくたっていいじゃないの。

悩みも不安も怒りも自分の懐におさめて、墓に持っていたっていいじゃないの。

それでも楽しいことも喜ばしいことも嬉しいこともいろいろある。

 

『豊かさとは、「ちょっと・すこし・わずか・かすか・ほのか・ささやか・こまやか・・・・」といようなことをさやかに感ずる能力から生まれる』

野口三千三先生の言葉だが、何かに耐える時の支えになる言葉だし、心の持ちようだし、これから老いていく生き方の極意だ、と思う。

そんなことを思いながら、記事を切り抜いて読み返している。

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坐禅 ふたたび 九十九日目

2020年04月11日 09時12分37秒 | Weblog

雲間に見え隠れするお日様の動きを背中に感じながら坐っていた。

100回を数えても、やめることができなくて、そのまましばらく坐り続けていた

東京の車の往来は、土曜日ということに加えて、自粛要請がきいているのだろうか。

大気に爽やかさが感じられる。

雲を揺らす風はゆっくり動いているらしいことがわかる。

目の前の襖に、刻々変化する淡い陰影を落としてくる。

街は今日も静かだ。時折、工事の音が東の方向から聞こえてくる。

何が自分の中で起こっているのだろう。

背中側からぐるり包まれて、腹の中心にあたたかな空気が流れ込んでくるような・・・・錯覚か。

何事もなく気持ちよく坐ることができる朝に感謝、である。

背骨に新鮮な空気が行き渡ったところで、終了した。

100回目を前に至福感あり。

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坐禅 ふたたび 九十八日目

2020年04月10日 09時43分50秒 | Weblog

いよいよ100回目が目前に迫ってきた、98回目。

昨晩の雨の後、ひんやりした朝を迎えた。

坐っていると、からだの下からこの季節とは思えない冷気が伝わってくる。

体操の後の薄着を悔いたが、そのまま座り続けた。

手の平も手の甲も、一本一本の指先も冷たくなっていくのを感じていた。

それではいかん。

途中から心を入れ替えて、なんとか最後まで数え切った。

確かに、呼吸を数えているうちは、坐禅とは言わないのだろう。

呼吸のことも忘れ、腹筋のことも忘れ、暑さ寒さも厭わず、ただひたすらに坐る、なんて私にできるのかな。

100日目を機に、やめるか、続けるか、思案してみよう。、なんて迷っているのだありました。

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「高円寺お蔵スタジオ」と「メビウスの輪」

2020年04月09日 09時47分38秒 | Weblog

3月いっぱいで、蔵の工事は終了した。

この間、なんとなくの予定をイメージしながら、冬から初春を過ごしていた。

3月28日には「野口三千三先生を偲ぶ会」で、先生に報告をして、4月以降お披露目代わりに「体操つき見学会」を開こうと段取りしていた。

 

ところがコロナ禍で、「偲ぶ会」を早々に延期した。

4月入ってからもどなたもお呼び出来ないまま状態が継続しそうである。

 

ところが、3月末に急遽、youtubeに「野口体操ch」を開設する計画が持ち上がって、撮影場所として蔵を使うことになった。

第一回配信の撮影を、3月30日に行った。

第二回配信は、Zoomを使って、蔵と新井さんの自宅を結んで撮影した。

昨日までに、二本の動画をアップし終わった。

 

なんとなくホッとして新聞をひらた今朝のこと。

日経新聞朝刊「コロナと世界」 ジャック・アタリ氏(仏経済学者)「テクノロジーが権力に」を読んで思わず苦笑してしまった。

この中では、感染症がもたらす「権力の変容」について語られていた。

要約すると、15世紀ごろのペストの発生で、教会から治安当局に権力が移った。感染者を隔離するためである。

その後、感染症で人々は科学が問題を解決すると考えるようになった。そこで治安当局から医学へ権力の移転がおこった。

そして現代、新型コロナの対策ではテクノロジーが力を持っている。

アタリ氏は言う。

「問題はテクノロジーを全体主義の道具とするか、利他的かつ他者と共感する手段とすべきかだ。私が答える『明日の民主主義』は後者だ」

 

難しいことはさておいて、なぜ、youtubeにアップしたかったのか、と自分に問いかけている。

それは相当な期間、手を触れることのできる距離で、無事を確かめ・体操し・語り合うことが出来ない人と、あるいは今は疎遠になっている人と、あるいは見ず知らずの人と繋がって、体操を共有するための手段として発信したかったのだ、と。

出来立てほやほやの"高円寺お蔵スタジオ”の最初の使用は、デジタルで他者と繋がることだった!

今の時代の利器に、生かされている実感を得ている。

そのことを実現し、プロジェクトを進めてくれた新井英夫さんに感謝してもいる。

 

しかし、その一方で、こうしたテクノロジーを生んだ現代文明の危うさをも感じている。

単純ではすまされない。

そこで思い出されるのは、野口三千三先生の言葉だ。

「すべての物事は“メビウスの輪”」

肝に命じておきましょうぞ。

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坐禅 ふたたび 九十七日目

2020年04月09日 09時29分13秒 | Weblog

今朝も快晴。

外は静か。

坐っているうちに気づいたことあり。

いや、今までも気づいていたことだけれど、意識的に比較してみた。

息を吐く時に、これまでも口をすぼめて吐く方が最後の段階で腹筋が使いやすような感じを持っていた。

鼻から吐くと、ギリギリまで吐ききれないような感じを持っていた。

本日は、何回か吐くごとに、腹に手を置いて確かめてみた。

「それは邪道というもの」

誰だかわからないが、声が聞こえてきた。

なので、途中から、それはやめにして、任せることにした。

息を気持ちよく吐ききれる状態になるのは、口で吐く・鼻で吐く、どちらでもよしとしよう。

さらに気づいた。

呼吸のたびに、意識が揺らぐ。

その揺らぎは、脳の中で意識のありどころが瞬時にうつっていくことを感じさせてくれる。

深いところにストンと落ちた瞬間は、何も考えなくても、長く静かに吐ききれる。

そうしたあり方がしばらく続くと、腹の底から温かくなっていくのを感じることができた。

かくして、たった100回程度数える間に、呼吸と意識が連動したり、乖離したり、となかなかに面白い今日の坐り心地を体感した。

姿勢を戻し「真の動き」と「ひれ伏す動き」を行って、背骨に息を改めて通して終了。

 

 

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野口体操ch 第2回配信

2020年04月08日 10時07分50秒 | Weblog

本日、野口体操ch第二回配信をいたしました。

テーマは『無理は無理だ。無理をしなければ無理ができる』野口三千三

高円寺お蔵スタジオとchファシリテーターの新井英夫さんの自宅をZoomでつないでいます。

画面を見ているときは、新井さんと向き合っていましたが、実際に配信されてみると、向きが違うことに気づきました。

まだまだ実験中です。

お聞き苦しかったり、ちょっと見えづらかったりするところはご容赦ください。

お知り合いの方にお伝えください。

忌憚のないご意見をいただけるとありがたく。

では、コロナ禍を無事に乗り切れますように祈りながら・・・・・

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坐禅 ふたたび 九十六回目

2020年04月08日 09時47分28秒 | Weblog

緊急事態宣言は7日に発令されたが、本日、8日が実質第一日目。

坐りながら街の音を聞いていた。

ヘリコプターの音、どこかわからないが工事の音、それ以外は聞こえてこない。

鳥の鳴き声も、大人も子供の声も、道を行き交う足音も、何も聞こえない。

シーンという音が自分の耳の中で鳴っているだけ。

静かだ。

ふと、昨日、母の入所している施設から、一週間に一度の電話連絡で聞いた母の声を思い出した。

いたって元気だ。ハリのある、腹の底から声が出ている。

はっきりと私の名前を呼んでいた。

ところが、こちらの声は、受話器から聞き取ることができないようだ。

耳が、聴力が、相当に失われて随分と時間がたった。

そばにいて、耳元近くで、ゆっくりはっきり話しかければ、反応してくれるのだが。

生の声を届けられないもどかしさを思っても仕方がない。

不要不急ではないけれど、お菓子でも届けることぐらい許してもらいたい。

そんなことを思いつつ、100回を数え終えた。

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坐禅 ふたたび 九十五回日目

2020年04月06日 10時09分47秒 | Weblog

本日も晴天なり。

再再開の坐禅、気持ちよく坐っていられるようになってきた。

苦痛にはならない短い時間が、私のとって丁度いい加減である。

前半はあれこれ考えてしまうが、50回をすぎる頃には、何も浮かばなくなる。

骨盤の位置は、雑巾掛けこそしなかったが昨日と変わらず安定していた。

午後から、新しいことに取り組む予定になっている。

コロナは暮らしに今までに経験したことのないことをもたらしている。

それもこれも一人ではできない。

支えてくれて、段取りをつけてくれて、協力してくれる人がいてこそ実現している。

10年若ければ、などと言っていないで、この年でもできることを助けられてやっていくのも楽しみになってきたと言うご報告も加えて。

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坐禅 ふたたび 九十四回日

2020年04月05日 09時42分09秒 | Weblog

今朝は、4時半に起床。

早めに蔵の二階の雑巾掛けを済ませた。

運動不足が少しでも解消できれば、との思いからだった。

さて、体操をして坐った。

途中で防災無線が、何か訴えている。

響きすぎて、こだまし過ぎて、内容は聞き取れない。

それも仕方がないと、じっと坐る。

不思議だ。

いつもなら途中で直す骨盤の傾き。それが一切ないまま100回を数えた。

おそらく雑巾掛けが良かったかも、と少し嬉しい。

地唄舞の竹原はんさんが、朝の日課としていたことは、お稽古場の掃除を終えて神棚に手を合わせ、舞の稽古をすること。

何かの雑誌で読んだことを思い出した。

なるほどね〜。

冬は寒いだろうな、といらぬ心配をした。

本日、71歳に到達、3日前のこと。

只今、修行中(笑)

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ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)

2020年04月05日 05時17分36秒 | Weblog

昨日、夕方からネットミーティングを行った。

前回は、Zoomだったが、今回はFBのmessengerのビデオ機能を使って3名で行った。

途中からFBを使っていないもう一人に携帯から電話をし、声で参加をしてもらったので、計4名のミーテイングとなった。

 

こうして移動がままならないコロナ禍に、離れている人をいとも簡単に繋いでしまう便利さに、慣れつつある。

それぞれが自宅に待機せざるを得ない状況下、濃密接触を避けながら、個人同士を繋ぐことで関係が成り立つ危うさはないのか、などというのはすでに野暮というもの。

2020年春、仕事や診療をテレワークで可能にする文明の利器は、一気に社会に浸透した感がある。

 

しかし急を要する用事、食材や日用品の買い物・健康維持の散歩など、外出をしなければ、自給自足できない都会の暮らしは成り立たない。

そこでコロナウィルスの感染拡大を防ぐ手立てとして常識となりつつあるのが、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)。他者と空間的に距離をあける行動だ。すでにニューヨークを中心にしてアメリカやアジア地域でも取り入れられている、と聞く。

 

想像してみよう。

どこまでも距離を伸ばすネットつながりの人間関係、一方で2メートルの間隔をあける人間関係。

何れにしても、微妙な言葉の配慮をしながら繋がるネット、実空間を上手に間合いをとって歩く行動の取り方が現代のコモンセンスとなっているようだ。

当初、テレビ放送のいろいろな場面で目にする不自然に2メートル隔てた人の立ち姿に違和感を覚えた。それがいつの間にか慣れてしまった自分に気づく。

すでに自分の中に、新コモンセンスが宿ったということだろうか。

だが、だが、・・・・人はいつまでその距離感に我慢できるのだろうか・・・・ここは、一つ踏ん張って耐えるしかないのだが。

果たしてコロナ禍が下火になった時、人々はどんな行動をとるのだろう。

握手して、抱擁して、向かい合って話し合い、何事もない日常を涙ながらにありがたく思う。

先は長い。

思わずつくため息も長い。

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決算準備

2020年04月04日 14時42分59秒 | Weblog

「野口体操の会」第3期 2019年度の決算の準備をほぼ終えた。

うっかり私が立て替えていた分を忘れていて手間取った。

それも解決して、今回は非常に早い時期に、事務局へ送ることができそうだ。

明日にでも、もう一度計算をし直して、よしとしたい。

コロナ禍がおさまってから、会員のみなさまにはお知らせすることになりそう?

いったいいつおさまるのか見当がつかないが。

今年は、いろいろなことを早め早めに済ましておきたい気持ちがなぜか働いている。

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坐禅 ふたたび 九十三日目

2020年04月02日 09時22分00秒 | Weblog

本日も晴天に恵まれ、昨日とうってかわって風も穏やかな朝。

ふたたび のふたたび 再再開の坐禅も5日目になって、坐り心地がよくなってきた。

回数を重ねる、繰り返してためすことの意味を実感している。

蔵の改造のお支払いも無事にすませ、落ちついた。

ようやく自分のstudioになったように思える。この感じは、いったいどこからくるのだろう。わからない。

 

これから名称を考えなければ、と思いながら坐ったが何も浮かんで来なかった。

70回を数える頃になると、脳の中心が別次元に切り替わった。日常の諸々を忘れてしまう。

肩の力がスーッと抜けて、背筋が伸びて、気持ちの良い身体感覚に包まれた。

 

3月の中旬以降、ことに4月に入ってまだ3日だが、できるだけ元の日常に戻そうと心がけて行動をとっている。

坐禅もその一つ。

状況が変わったり、思いもかけないことの中で暮らすことになった時に平常心を保つ、ということはなかなかに難しい。

ただ、体操したり、坐禅をしたり、ブログを書いたり、・・・・諸々を意識的だがやることの意味を少し感じている。

という再開5日目の報告でした!

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