中野江古田病院は、我が町からはすこし離れてはいるが、車で15分くらいの距離だ。
近いこともあってご近所の高齢者は、お世話になっている方も少なくない。
年も月も日にちも失念してしまったが、小学校の時に習わなかったにもかかわらず、大人になってから友人・知人として親しくしていただいた先生のお母様をこの病院で看取った。
その時、先生から母危篤の電話が入った。
父が運転する車に飛び乗って、病院に向かった。
到着するとすぐさま病室に引き入れられた。
「たった今、臨終だったの。手を握ってあげて頂戴」
言われるままに、手をとってゆっくりと握りしめた。
あたたかかった。
お顔も、手も、肌の色は生きている。
対面はそれほど長い時間ではなかった。
看護師さんに促されて、病室を出た。
ご親族の誰よりも、私の到着が早かった。
再び入室し、お姉さまがいらっしゃるのを待って、病室をお暇した。
ニュースで病院の名前を聞いた時、あの時の手の温もりが蘇った。
その方の他に、私には年月日がはっきりしている人との別れがある。
一人は、野口三千三先生 1998年(平成10年)3月29日深夜 享年83歳
日付が変わるギリギリの時間だった。
知らせを受けて病院までタクシーを走らせた。
赤信号続きで、止まってばかりいる道路を、あれほど憎んだことはない。
病院に到着しても夜間の入り口がわからない。
なんとか病室にたどり着いた時には、日付は完全に変わっていた。
なぜか手を握ることはできなかった。
すでにあたたかみは失われている。
自分勝手な理由だが、死の現実の冷たさを記憶したくなかったのだ、と今頃になって思う。
もう一人は父だ。
銀行に病院の支払いをおろしに行って帰宅すると、病院から急ぎの電話があった、と母の顔白が変わっていた。
野口先生と同じ病院である。
中央線に飛びのって、病室に駆けつけた。
担当医が心臓マッサージをしていた。
父の顔を見ると血の気が失われていて、本当は間に合わなかったことを悟った。
私を認めて心臓マッサージの手を止めて、すこしの間の後に「ご臨終です」と一言。
私が病室に到着した時間を、最期の時としてくれた。
温情に違いない。
2002年(平成14年)12月29日暮れ方 享年80歳
それから18年
2020年 冬からはじまって季節は初夏へ
コロナ禍、パンデミック 世界中で多くの方が命を落とされている。
連日の報道では、何人、何十人、何百人、何千人、何万人・・・数で読み上げられている。
聞いたその時には、悼む間もなく驚きと恐怖が忍び込んで、自分には関係ないと思いたい気持ちが心を占領してしまう。
数字としてもたらされる死は、個人にとって不可逆的な出来事であることを忘れさせてしまう。
しかし、たとえ身寄りがない人でも、すでに生きてはいないかもしれないが父が母がいて、そのほかの身内や友人や知人がいたはずなのだ。
こう思いたい。
死は、残された人々の中で、記憶という衣をまとって新たに生き続けるための個人の通過儀礼ではないのか、と。
そうあってほしい、と思うのは身勝手なのだろうか。
ふと思い出した言葉がある。
「memento mori 死を忘るなかれ」
今、この瞬間、生の裏側には死がべったりと張り付いていることを忘れるな。
世界を覆うパンデミックは、メメント・モリ の現実を、あからさまに見せてくれる。
祈り。
ただそれしかできない自分をはがゆく思う、101回目の坐禅中のこと。