日経新聞2020年4月29日朝刊「大機 小機」を読んだ。
野中郁次郎(一橋大学名誉教授)は、「暗黙知」と「形式知」という概念を提唱した、という話から始まる。
簡単にまとめる。
「形式知」とは、活字や映像で伝達可能なもの。
「暗黙知」とは、フェーストゥフェースで対話・議論することで生み出され伝達されるもの。
今回のコロナショックは、暗黙知と形式知の境界を大きく変えつつある、という。
テレワークの導入で、案外、直接集まらなくても会議はできる、とか、Web上でも親睦会や飲み会が楽しくできることに気づいてしまった人がいる、という。
私とて、これまで数名の人と話し合いを持つのに、移動時間を考慮して日時を調整することが難しかった。
ところがZoomとFB messengerビデオ機能で、話し合いが案外楽にできることを知った。
人生の機微に触れるようなことではないとしても、画面を通して会う回数を重ねるうちに、それぞれが現在コロナ禍で置かれている状況を察することができるようになる。
いい意味でだが、かなり踏み込んだ生活状況や精神状態にまで、表情や言葉から伝わってくるのである。
そこで、面と向かった話し合いでは、暗黙知領域に気遣って、忖度してしまう傾向が自分の中にあったことに気づいた。
インターネットという第三の介入があることで、正確に言葉を発しようとし、正確に言葉を聞こうとし、正確に相手の表情を読み取ろうとしている。
記事によると、暗黙知と形式知の間に「中間知」とも言うべき領域が広がっている、という。
確かに会って話さなければならない、微妙な暗黙知領域があることは、この記事によらなくてもわかることだ。
野口体操をオンラインでレッスンしたり、YouTubeに載せてみると、“ないよりはまし” 以上の反応をいただいた。
誤解もあろう、伝わないこともあろう、対面でなければ伝えきれない暗黙知は、当然のことに存在する。
発信者も受信者もそれを承知して発信し、受信している。
その感覚はかなり信じていいことのように感じられるには、楽天的すぎるだろうか。
書物だって、ビデオ記録・DVDだって、誤解・錯覚・偏見・主観による独りよがりの理解はありうる。
それでも伝わることはあるはずだ。
すべてオンライン・レッスンでいいとは誰も思っていない。
すべてYouTubeで理解できるとは、誰も思っていない。
伝達手段を補完する「中間知」(仮にこの言葉を借りておく)が、私たちの暮らしを、後戻りできない方向で変えていくことになることにま違いない。
では、インターネットを使うことは不自由、こうした手段を得られない場合は、社会から置いてきぼりになる、という問題は、複雑で、簡単ではない。
そういう環境にも配慮される何かが生まれてくるに違いないし、配慮しなければならない。
「いい・わるい」を超えているところに、“どうしようもなさ”はある。
だけれど、こちらの方向への転換に抗ってみたところで、どうにもならないほどコロナ禍は「中間知」の存在意味を加速してしまった。
逆に、こうした状況だから、私にとって絶対と言っていいほど純粋な暗黙知、深い襞に隠された機微に触れる暗黙知、それが何であったのかを知る機会になってしまった。
一番大事なこと、どうしても伝えたいことは、コロナ禍が一応の収束を見せた後に、直接に会って伝えたいと思っていることを、いくつも挙げることができる。
それが昨今の私の現状である。
記事の表題『変わりゆく「暗黙知」の価値』
変わっていくものと変わらぬもの、変えていいものと変えてはいけないもの、不易流行・・・・。
変わらぬ「暗黙知」によって、ほんものは何か、が厳しく問われることになろうとは思いもかけないことだった。
あまりの変わりように、年初の時の記憶が薄らいで、思い出の輪郭が溶け出してしまっている。
本日で四月は終わる。
五月晴れの日々がなんともはや恨めしい月替りである。