羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「高円寺お蔵スタジオ」と「メビウスの輪」

2020年04月09日 09時47分38秒 | Weblog

3月いっぱいで、蔵の工事は終了した。

この間、なんとなくの予定をイメージしながら、冬から初春を過ごしていた。

3月28日には「野口三千三先生を偲ぶ会」で、先生に報告をして、4月以降お披露目代わりに「体操つき見学会」を開こうと段取りしていた。

 

ところがコロナ禍で、「偲ぶ会」を早々に延期した。

4月入ってからもどなたもお呼び出来ないまま状態が継続しそうである。

 

ところが、3月末に急遽、youtubeに「野口体操ch」を開設する計画が持ち上がって、撮影場所として蔵を使うことになった。

第一回配信の撮影を、3月30日に行った。

第二回配信は、Zoomを使って、蔵と新井さんの自宅を結んで撮影した。

昨日までに、二本の動画をアップし終わった。

 

なんとなくホッとして新聞をひらた今朝のこと。

日経新聞朝刊「コロナと世界」 ジャック・アタリ氏(仏経済学者)「テクノロジーが権力に」を読んで思わず苦笑してしまった。

この中では、感染症がもたらす「権力の変容」について語られていた。

要約すると、15世紀ごろのペストの発生で、教会から治安当局に権力が移った。感染者を隔離するためである。

その後、感染症で人々は科学が問題を解決すると考えるようになった。そこで治安当局から医学へ権力の移転がおこった。

そして現代、新型コロナの対策ではテクノロジーが力を持っている。

アタリ氏は言う。

「問題はテクノロジーを全体主義の道具とするか、利他的かつ他者と共感する手段とすべきかだ。私が答える『明日の民主主義』は後者だ」

 

難しいことはさておいて、なぜ、youtubeにアップしたかったのか、と自分に問いかけている。

それは相当な期間、手を触れることのできる距離で、無事を確かめ・体操し・語り合うことが出来ない人と、あるいは今は疎遠になっている人と、あるいは見ず知らずの人と繋がって、体操を共有するための手段として発信したかったのだ、と。

出来立てほやほやの"高円寺お蔵スタジオ”の最初の使用は、デジタルで他者と繋がることだった!

今の時代の利器に、生かされている実感を得ている。

そのことを実現し、プロジェクトを進めてくれた新井英夫さんに感謝してもいる。

 

しかし、その一方で、こうしたテクノロジーを生んだ現代文明の危うさをも感じている。

単純ではすまされない。

そこで思い出されるのは、野口三千三先生の言葉だ。

「すべての物事は“メビウスの輪”」

肝に命じておきましょうぞ。

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坐禅 ふたたび 九十七日目

2020年04月09日 09時29分13秒 | Weblog

今朝も快晴。

外は静か。

坐っているうちに気づいたことあり。

いや、今までも気づいていたことだけれど、意識的に比較してみた。

息を吐く時に、これまでも口をすぼめて吐く方が最後の段階で腹筋が使いやすような感じを持っていた。

鼻から吐くと、ギリギリまで吐ききれないような感じを持っていた。

本日は、何回か吐くごとに、腹に手を置いて確かめてみた。

「それは邪道というもの」

誰だかわからないが、声が聞こえてきた。

なので、途中から、それはやめにして、任せることにした。

息を気持ちよく吐ききれる状態になるのは、口で吐く・鼻で吐く、どちらでもよしとしよう。

さらに気づいた。

呼吸のたびに、意識が揺らぐ。

その揺らぎは、脳の中で意識のありどころが瞬時にうつっていくことを感じさせてくれる。

深いところにストンと落ちた瞬間は、何も考えなくても、長く静かに吐ききれる。

そうしたあり方がしばらく続くと、腹の底から温かくなっていくのを感じることができた。

かくして、たった100回程度数える間に、呼吸と意識が連動したり、乖離したり、となかなかに面白い今日の坐り心地を体感した。

姿勢を戻し「真の動き」と「ひれ伏す動き」を行って、背骨に息を改めて通して終了。

 

 

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