2020年4月12日(日)朝日新聞 文化・文芸欄に『「ネガティブ・ケイパビリティ」のススメー結論急がず 悩みに耐える』作家・精神科医 帚木蓬生
朝刊を読み進んでいくと、この記事に目が止まった。
《生半可な知識や意味付けを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。中ぶらりんの状態を持ちこたえる力》
思わず膝を打った。
現在のコロナ感染拡大とそれに伴う様々な問題はもちろんのこと、自分の問題に引き寄せてみると思い当たる節がある。
少しずれるけれど、蔵の床が落ちてスタジオができるまでの5ヶ月以上の期間に、何度も(気が狂いそうになって)悩み耐えることの連続だった。
進捗状況をひたすら待ち、決定しなければならないことに対してその都度一人で判断を下す。
誰にも相談せずに、向かうおよそ160日を過ごした。
時間を遡ってみる。
26歳の時に出会った「野口体操」は、まさにネガティブ・ケイパビリティ 耐える力を養わせてもらえた、と思う。
野口三千三先生の話はわかるようなわからないようなわからない。
いや、無理やりわかろうとしなかった。
うじうじ、もぞもぞ、はらはら、時にいらいら、ウゥーん、ため息、・・・「なんでおもちゃなの?」「なんで漢字の字源なの?」「 なんで大和ことばの語源なの?」
話は面白い。
話はわかる。
自分が求めたいたものはこれだ、と思える。
しかし、それが体操の動きに、どのように繋がっていくのか、道筋が掴めない状態が長かった。
途中で諦めた。
諦めようとした。
わかろうとしないようにしようか。
無理に先生の話を体操に結び付けないようにしようか。
イメージが浮かばなかったら、浮かばないまま、そのままにしておこう、と思えるようになるまでに相当な時間を要した。
野口体操の動きは、手も足も出なかった。
力を抜こうとするとさらに力が入って、全く動けなくなる。
悲しい、悔しい、悩ましい・・・・・
「今日でやめよう」
見切ろうとするのだが、次の週にはまた教室に出かけていく。
その繰り返しが年単位で続いていた。
しかし、拙速に帳尻を合わせなくても、だんだんに 少しずつ 折り合いが着くようになっていった。
からだでわかる、ということは時間がかかるのだ。
それでいい、と思えた時から、気持ちよさを少しずつ積み重ねることができるようになっていった。
でも思うようにからだは動いてくれなかった。
《わかりたい、意味づけしたい、わかったつもりに早くなりたい》
もちろんそうだ。
グッと抑えて耐えて、野口体操を自分から排除しなかった結果が良くも悪くも、いまの自分だ、と思う。
これで全てよし、これが正解だ、これで何もかも解決する、なんてことはない、ことを知った。
からだ(動き)を通して、実感できるようになりつつある。
残された時間は短いけれど、わからないことをわからないまま、そっと自分の中で熟成していく行為は、今も変わらずに大事にしたい。
優柔不断でいいじゃないの。
すぐに気のきいたことばが返せなくたっていいじゃないの。
器用に立ち回れなくたっていいじゃないの。
悩みも不安も怒りも自分の懐におさめて、墓に持っていたっていいじゃないの。
それでも楽しいことも喜ばしいことも嬉しいこともいろいろある。
『豊かさとは、「ちょっと・すこし・わずか・かすか・ほのか・ささやか・こまやか・・・・」といようなことをさやかに感ずる能力から生まれる』
野口三千三先生の言葉だが、何かに耐える時の支えになる言葉だし、心の持ちようだし、これから老いていく生き方の極意だ、と思う。
そんなことを思いながら、記事を切り抜いて読み返している。