野口三千三先生が手本を示される「腕立て伏臥の腕屈伸」は、見事に姿勢が保たれて美しかった。
何を隠そう。それは戦前、戦中にキリッとした体操を身につけ、生徒にも教えていた長年の意識と訓練の賜物である。
敗戦になって、過去をきっぱりと捨てるというものの、身体と身体に刻まれた動きの記憶はパソコンの操作でリセットすることで一瞬にして消えてしまうようなわけにはいかない。
むしろ「上体のぶらさげ」然り、「おへそのまたたき」然り、「腕立てバウンド」然りなのだ。
代表的なこれらの動きは、「前屈運動」と「腹筋運動」と「腕立て伏臥の腕屈伸」という従来のやり方との比較によって、本質的な違いがはっきりする。
私自身の問題として、言葉としてはわかっていた。いや、実は「つもり」に等しかったが、似ていて非なるものこそ、慎重な比較検討が必要になることを痛感したのが、この二週間の出来事だった。
すでにこうした気づきにつながる予兆は、夏休みに資料整理をした中から9月になって取り上げた「腕立て伏臥の腕屈伸」のテーマから見えていた。
さて、本題にはいりたい。
私が野口体操を始めた1975年頃には、すでに「腕立てバウンド」という名前で呼ばれていた。ところが1968年頃の資料によると「腕立て伏臥のはずみ上がり」と記されていた。そのやり方は「伏臥姿勢」をとって、「腹筋を緩める」ことからはじめる動きだった。このとき女性の多くは、腹筋を緩める感覚を自覚することが難しかった。自覚できないということは、上手に腹筋を活かして使うことも慣れていないということの裏返しだった。何が起こるのか?緩めすぎた腹筋は、腹全体を床すれすれまで落としてしまう結果を招く。その状態からでは、はずみ上がりなど起こりうるはずもない。落ちっぱなしになってしまう。
その点、男性諸君は落としても尚も力を使って腹全体を押し上げることが可能だった。そこから波を生み出すことも。
で、女性にも腹筋を緩めすぎないという説明を行う。が、やはり分かりにくかった。そもそも腹筋の力が抜けた明確な自覚がない。(筋トレを行っている女性は別)
次に
「落としすぎないことです」
この言葉が有効に伝わる。もちろん野口先生もこういっておられた。
伏臥姿勢をとってから僅かに緩めて落としすぎないなかで波を作る意識を持つ。すると女性でも柔らかな「腕立て伏臥のはずみ上がり」が、少しずつこなせることに気づいていった。
そのうちに男性諸君も肩に余分な力が入って固まってくる、と舌に言葉を乗せて来る。
「左右の肩甲骨の真ん中を落とすことって、いいみたい」
そこで男女入り乱れて試すと、女性も腹筋を上手くいかすことができるようになっていく。しかし、である。やはり男性ほど「腹筋を緊張させている」といった明確な自覚は持ちにくかったのが事実のようだ。
男女の筋肉の質には、相当な違いがあり、そのことが自意識をつくりあげていく大元であることがわかってきた。
『筋肉は感覚器として働いたとき、はじめて筋肉としての役割を果たすことができる』とは、先生の考えだった。感覚器の働きの男女差は、上下ではなく良い悪いでもなく、"価値観を伴わない差異”として捉え直すことで、新しい筋肉の自覚を促すことになることに気づかされた。
女性の側にとりわけ福音が齎されることだけでなく、男性諸君にとっても「思っている以上に力を抜いても大丈夫だ」むしろ「もっと力を抜く感覚こそ大切なのだ」。更に、そうすることで「"ここだ”という部分の筋肉を鍛えることにもなる」ということを伝えるきっかけになった。
腹筋に恵まれ、力の入れ方を知ってしまった男性ほど、無意識に非意識の領域で余分な力を使っていることに気づいてほしい。それが昨日のキタムラさんのはなし「不随意筋の力を抜く」指摘につながるとブログを読ませてもらった。
女性でも男性でも意識とかかわりないところで「力め!」と脳からの指令が、生育時からしっかり届けられている人ほど、「おへそのまたたき」の実験で感情表現につなげることが不得意だった。(言ってしまってごめんなさい)とりわけ日曜日クラスの男性諸君の信じられないほどの悪戦苦闘ぶりには、こちらが申しわけない気分にまでなってしまった。(実験の内容を知らない方には通じにくいのは承知の上で書かせていただいてます。悪しからず。続けます)。
《交感神経、つまり闘争と逃走の神経が常に「力め!」状態で維持され、慢性的に過剰になっていると、力んだ状態がずっと維持され気づかない。それが自分だと思っている》キタムラさんの文章から概略。
そのことに気づけば、時間はかかるが多少の対処の仕方が見えて来るというもの。そして感情表現は演劇的な訓練だけではなく、或る条件のなかでは本気で「喜怒哀楽」に身を浸すことできる可能性を見たのも「おへそのまたたき」の実験から得られた収穫だった。
ここで問いたい。
心身一如の視点から、『「力がある」とは、如何なることぞ?』
心身一如の視点から、『「知・情・意のバランスがよい」とは、如何なることぞ?』
男女ともに、一考に値する。
11月16日は野口先生の誕生日である。その日を挟んで、素晴らしい気づきをいただいた。
『力を抜けば抜くほど力が出る』とは名言であった、と改めて思う、時は晩秋へ。
何を隠そう。それは戦前、戦中にキリッとした体操を身につけ、生徒にも教えていた長年の意識と訓練の賜物である。
敗戦になって、過去をきっぱりと捨てるというものの、身体と身体に刻まれた動きの記憶はパソコンの操作でリセットすることで一瞬にして消えてしまうようなわけにはいかない。
むしろ「上体のぶらさげ」然り、「おへそのまたたき」然り、「腕立てバウンド」然りなのだ。
代表的なこれらの動きは、「前屈運動」と「腹筋運動」と「腕立て伏臥の腕屈伸」という従来のやり方との比較によって、本質的な違いがはっきりする。
私自身の問題として、言葉としてはわかっていた。いや、実は「つもり」に等しかったが、似ていて非なるものこそ、慎重な比較検討が必要になることを痛感したのが、この二週間の出来事だった。
すでにこうした気づきにつながる予兆は、夏休みに資料整理をした中から9月になって取り上げた「腕立て伏臥の腕屈伸」のテーマから見えていた。
さて、本題にはいりたい。
私が野口体操を始めた1975年頃には、すでに「腕立てバウンド」という名前で呼ばれていた。ところが1968年頃の資料によると「腕立て伏臥のはずみ上がり」と記されていた。そのやり方は「伏臥姿勢」をとって、「腹筋を緩める」ことからはじめる動きだった。このとき女性の多くは、腹筋を緩める感覚を自覚することが難しかった。自覚できないということは、上手に腹筋を活かして使うことも慣れていないということの裏返しだった。何が起こるのか?緩めすぎた腹筋は、腹全体を床すれすれまで落としてしまう結果を招く。その状態からでは、はずみ上がりなど起こりうるはずもない。落ちっぱなしになってしまう。
その点、男性諸君は落としても尚も力を使って腹全体を押し上げることが可能だった。そこから波を生み出すことも。
で、女性にも腹筋を緩めすぎないという説明を行う。が、やはり分かりにくかった。そもそも腹筋の力が抜けた明確な自覚がない。(筋トレを行っている女性は別)
次に
「落としすぎないことです」
この言葉が有効に伝わる。もちろん野口先生もこういっておられた。
伏臥姿勢をとってから僅かに緩めて落としすぎないなかで波を作る意識を持つ。すると女性でも柔らかな「腕立て伏臥のはずみ上がり」が、少しずつこなせることに気づいていった。
そのうちに男性諸君も肩に余分な力が入って固まってくる、と舌に言葉を乗せて来る。
「左右の肩甲骨の真ん中を落とすことって、いいみたい」
そこで男女入り乱れて試すと、女性も腹筋を上手くいかすことができるようになっていく。しかし、である。やはり男性ほど「腹筋を緊張させている」といった明確な自覚は持ちにくかったのが事実のようだ。
男女の筋肉の質には、相当な違いがあり、そのことが自意識をつくりあげていく大元であることがわかってきた。
『筋肉は感覚器として働いたとき、はじめて筋肉としての役割を果たすことができる』とは、先生の考えだった。感覚器の働きの男女差は、上下ではなく良い悪いでもなく、"価値観を伴わない差異”として捉え直すことで、新しい筋肉の自覚を促すことになることに気づかされた。
女性の側にとりわけ福音が齎されることだけでなく、男性諸君にとっても「思っている以上に力を抜いても大丈夫だ」むしろ「もっと力を抜く感覚こそ大切なのだ」。更に、そうすることで「"ここだ”という部分の筋肉を鍛えることにもなる」ということを伝えるきっかけになった。
腹筋に恵まれ、力の入れ方を知ってしまった男性ほど、無意識に非意識の領域で余分な力を使っていることに気づいてほしい。それが昨日のキタムラさんのはなし「不随意筋の力を抜く」指摘につながるとブログを読ませてもらった。
女性でも男性でも意識とかかわりないところで「力め!」と脳からの指令が、生育時からしっかり届けられている人ほど、「おへそのまたたき」の実験で感情表現につなげることが不得意だった。(言ってしまってごめんなさい)とりわけ日曜日クラスの男性諸君の信じられないほどの悪戦苦闘ぶりには、こちらが申しわけない気分にまでなってしまった。(実験の内容を知らない方には通じにくいのは承知の上で書かせていただいてます。悪しからず。続けます)。
《交感神経、つまり闘争と逃走の神経が常に「力め!」状態で維持され、慢性的に過剰になっていると、力んだ状態がずっと維持され気づかない。それが自分だと思っている》キタムラさんの文章から概略。
そのことに気づけば、時間はかかるが多少の対処の仕方が見えて来るというもの。そして感情表現は演劇的な訓練だけではなく、或る条件のなかでは本気で「喜怒哀楽」に身を浸すことできる可能性を見たのも「おへそのまたたき」の実験から得られた収穫だった。
ここで問いたい。
心身一如の視点から、『「力がある」とは、如何なることぞ?』
心身一如の視点から、『「知・情・意のバランスがよい」とは、如何なることぞ?』
男女ともに、一考に値する。
11月16日は野口先生の誕生日である。その日を挟んで、素晴らしい気づきをいただいた。
『力を抜けば抜くほど力が出る』とは名言であった、と改めて思う、時は晩秋へ。