羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『雨天炎天』を、声に出してよむことで……

2009年08月22日 09時22分11秒 | Weblog
 すでに四十年になるだろうか。
 はじめてピアノの先生のご紹介で、朗読家・女優の幸田弘子さんとであったのは。
 それ以来、毎年開かれている「一葉の夕べ」のご招待をいただくようになった。
 他にも芝居等も拝見している。

 さて、幸田さんが舞台で朗読を上演するようになったのは、お連れ合いの三善清達氏がNHKの洋楽部のディレクター(後に東京音大の学長)をなさっていたことがきっかけになった、と伺ったことがある。
「ピアニストが暗譜で演奏するように、文芸作品をテキストを持たずに朗読したい」
 つまりクラシック音楽コンサートのような文芸版を発想された。

 彼女も多く出演していたラジオ放送では、FMが古典でAMは現代の作品を朗読で聞かせる時間が組まれている。未だにこうした番組には根強いファンが多くいる。
 四十年も前に、舞台に乗せてライブで聞かせる新しい分野を開拓したのが幸田さんだ。
 それまでせいぜい十人から三十人程度に、喫茶店やサロンといった小さな空間で読書会の延長で朗読会が開かれていた。
 それを一挙に、百五十人以上、時に五百人、ことによるともっと多くの聴衆を対象にして行う朗読コンサートなのだ。

 実際に聞きに行くと、たとえば古典の作品など、言葉の隅々まで正確に聞き取って理解できなくても、その作品が云わんとしていることはしっかりと伝わってくることを知った。
 むしろ声に出して読まれることで、細部が生かされることさえある。
 
 つまり耳から耳に伝承られる‘口承文学’と、音楽演奏行為とは、‘身体の深部感覚’との間に通底するものがあるように思う。
 たとえ口承文学でなくとも、作品を声に出して読むという行為は、ピアノの演奏に通じている実感を、おそらく勝手な推察ではあるけれど幸田さんは得ておられるに違いない。

 さて、前置きが長くなったが、連日『雨天炎天』村上春樹を、声に出して読んでいて感じたことがある。
 それは新しいピアノ曲を弾き出すときに、まず初見で弾いてみるそのとき、最初からスラスラと音を出せる作品とそうでないものがあるように、文芸作品も声に出して読みやすいものとそうでないものがある。その意味から言うと、村上作品は(この『雨天炎天』に限らなくても)最初から初見で弾けるピアノ曲に共通する‘何か’があるのだ。

 ピアノを弾くように声に出して読みやすいのが村上作品なのだ!
 しかし、不思議だ。
 この作家の言葉の連なりからは、意味を超えて音楽が聞こえてくるのだから。
コメント (2)
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