福山城、これまでまったく鳴りを潜めていて脚光を浴びることはなかったが、ここへきて俄かに売り出し始めた。
水野勝成入城400年とかで、徳川譜代の水野氏が福山入府を記念して売り出してきた。
外観復元再建されている層塔型天守前に集まった人は60名、こんなことは珍しいのでは…
福山の人に失礼かな?
解説してくださるのは広島大学のⅯ.Ⅿ名誉教授、相変わらず歯切れよく聴講生を惹きつけていく。
最初に解説があったのは、この筋鉄御門をくぐって直ぐの位置にあった伏見御殿のこと。
福山城表御門は南西に位置しており、そのまま伏見御殿の入り口に向かう形になっている。これは通常のお城が南東側に御殿の入り口があるのとは逆で、豊臣系の構造になっている。
これは豊臣伏見城の遺構の一部を再利用したことがその理由だと言われた。
伏見御殿跡を本丸南西側から見る。
目の前にあった御殿に上がるとその先に応接間が設えてあり、向かって右に床の間、左に違い棚が配される逆勝手の座敷となっていた。
再建されることはないだろうが、由緒ある建物なので何とかならないのだろうか?
広島城も豊臣聚楽第を模した本丸御殿があったようだが、こちらはなぜか南東側に入り口があり、座敷も向かって左側に床の間がある、本勝手となっていた。
同じ豊臣の流れを受け継いでいるのに、この違いはなぜなのだろうか?
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