『“壇ノ浦の戦い”で二位の尼に抱かれた安徳天皇は入水し、源平最後の合戦は幕を下ろした。』が一般的な筋書きですが、九州各地には“壇ノ浦の戦い”後の、安徳天皇の足跡が各地で語り継がれ、史跡も残されています。
10/14~16日に掛けて、この地味な言い伝えを廻る旅をしたので報告します。
平清盛の後を継いだ、平重盛のお墓が意外な場所に見ることが出来ます。
大宰府長官を任じられた重盛ですから、その塚が九州は大宰府にあっても不思議ではありません。
鰹木、揚羽の蝶紋が描かれた社に、「小松内大臣重盛」の墓が収められています。
この場所は、大宰府小学校の校庭内にありました。驚きです!
壇ノ浦から逃れてきた平家の残党は、この地要川で最後の合戦を決意します。
しかしながら源平双方に、有力武将の名前はなく、どのような戦いかは想像できません。
合戦の舞台:要川公園の一画にあるお堂に納められた中央が閻魔大王、右が地蔵菩薩、左が脱衣婆と思います。
閻魔大王の本地は地蔵菩薩、閻魔大王の前に引き出される前に、脱衣婆によって衣類をはがされる話は有名です。
それにしても楽しそうな表情の象達ですね。
要川の合戦に先立ち平家側が物見を立てた“物見塚”に登る石段。
現在は天満宮が建てられている。
“平家の塔”(平家武将の墓)各種の塔が一堂に集められ祀られている。
戦いに跡残された平家の女官7人が、身を投じたと伝わる“七霊の滝(ひちろうのたき)”
要川(飯江川と待居川の合流点)は柳川市と大牟田市の間、みやま市にあります。
もつちやん平重盛の墓が大宰府の小学校の校庭内に有ったとか? 私も是非大宰府に行って見たく成りました。
今年も大河ドラマも後少しに成って来ましたので今年中
にはいってブログにお載せしなくてはと思って居ります。
笠井 文雄より
そうです、意外な場所にありますので、近所の人も知らないようですよ。