観光ボランティアの研修会で、準地元の福山城へ久し振りに行きました。
現在は同じ広島県でも、江戸時代は備後と安芸に分かれており、敵対していた?間柄です。
福山城内に、福山きっての出世企業「福山通運」がお屋敷を作りました。
結構な眺めで、この御座敷で福山名物“埋み御飯“をいただきました。
お庭にはこのように矢穴が残された、巨大な石が置かれています。
割り損なったと思いますが、贔屓目に見れば矢穴がアクセントになっています。
禅宗寺院建築でもないのに、華頭窓が配されています。
額縁に見立ててお庭を狙って見ましたが…
焼け焦げ跡?が残る樹木が大切に養生されています。余程の由緒があるのでしょう。
良く見ると“ひこばえ”が芽吹いています。無事に育てばよいのですが…
初代福山城主は徳川譜代の水野勝成、一族郎党を引き連れて福山入りしたようです。
それ故か備後弁≒名古屋弁と言う人もいるようです。
水野家も広島入りした福島正則と同じ“沢潟紋”尾張地方はこの紋と関係が深いのかな?
徳川家の出城とも言える福山城、天下普請に近い状況で短期間に築城したようで、礎石には刻印が…
福島氏を川中島へ追いやり、浅野氏を紀伊から無理やり広島へ移し、備後地方の10万石を割譲して水野氏へ与える。
浅野氏は42万石と言われるが、水野氏10万石と上下天領の3万石を差し引けば、福島時代の49万石ー13万石=36万石となってしまう。徳川氏の露骨な外様いじめと映るがどうであろうか?