6月13日、琵琶湖西岸にある明智光秀ゆかりの場所を訪ねた。
坂本城跡
織田信長は比叡山焼き討ちの後、山門僧兵の勢力を抑えるため、明智光秀に坂本城を築城させ城主に命じた。
琵琶湖西岸の坂本の地に造られた“坂本城”は、安土城に次ぐ壮大さであると記されている。
盛安寺本堂:宝形造りだが、向背部分の瓦の葺き方が特異?
比叡山焼き討ちの際この寺も兵火に遭ったが、光秀によって再建されたと云う。“長谷川派”による襖絵が残る客殿も残されており、光秀
から手厚い加護を受けていた。
盛安寺客殿の襖絵の一部、年月を経たせいか傷みが激しいのは残念!
本能寺の変後、山崎で討たれた光秀の供養塔が墓所の一角に建てられている。(小さい方) 世間の目を憚ってか?小ぶりの五輪塔で
ある。
6月14日(私が訪ねた翌日)が光秀の命日の為、何方かが墓前に花を手向けています。
そして盛安寺の近くにある“東南寺”(盛安寺の東南に位置することから寺名は付けられた)には、明智一族の墓が一堂に集められてい
る。
主君に背いた逆賊と位置付けられていた明智光秀だが、近年その評価は随分と変わって来たようだ。
穴太積みの石垣
この地方は石垣作りの名手:穴太衆の本拠地。お城の石垣こそ残されていないが、お寺の基礎など随所に彼らの手になる石垣が見られる。