曇り。
「今日も寒い。まだまだ冬であるな」と思いながら学校に来たのですが、ふと見ると、「ツバキ(椿)」はもうすっかり花を落とし、「ウメ(梅)」の花も花びらが開ききっています。一歩進んで二歩下がるみたいな進み方でも、春は近づいているようです。
さて、学校です。
もうすぐ卒業しようという人たち、そして一年が過ぎようとしている人たち、一月に来たばかりの人たち。三つのクラスで授業をする機会があり、その違いに今更ながら驚いています。
卒業を控えた人たちも、あと半年…とまでは行かなくとも、あと三ヶ月ほどもあったら、かなり上のレベルにまでいけたのではないかと思える人たちが数人います。この人たちは、今、この時期に卒業させねばならぬことが本当に残念。
10月に来たと言うことは出発点からして半年ほども4月生とは違う。国で、ある程度勉強できるような環境があるならいざ知らず、そうでなければ、本当に不利。彼らの資質ややる気が見抜ければいいのですが、大学の方で。
とはいえ、あまり期待せぬ方が良さそうです。中国人なら上の大学を受験することもでき、そのときに見てくれる人に出会うこともあるでしょうが、そうでなければ、今の段階( 日本語レベル)で、それを求めるのは、ちと酷であろうというもの。
もちろん、その反対に、すでに、来日後三ヶ月か半年ほどで限界が来ている人もいました。適当に話すことができれば、それで御の字。文法練習や漢字の練習などは、けったるくて、やっていられるかというところなのでしょう。
10年ほど前はそういうスリランカ人ばかりで、本当に手を焼きました。はじめの頃は相手がそういう人たちだと見極めがつかず、ずいぶん無駄な努力を重ねていましたが、そのうちにこちらも知恵がついてきて、こういうのはある程度までは手をかけるが、それ以上はしないに限るということに気がついたのです。
親切で手をかけても、向こうにしたら、要らぬお世話。迷惑きわまりない、そのお節介は愚の骨頂というところだったのでしょう。最後には「自分は日本に来るために金を使った。その金が貯まったら、すぐに帰るから、勉強などはしたくない」とほざくような者までいましたね。
こちらも、教えてなんぼ、教えられてなんぼの世界ですから、学ぶ気が無い連中とは共通語がないのです。向こうだって、金をくれるアルバイト先やビザの関係で世話をしてくれる人とはある程度の関係を保とうとしていたようですが、教員なんて、稼ぎもできぬ、役立たずでしかなかったのでしょう。
「努力」を求める方が、どだい無理なのです。それなら、なぜ日本に日本語を学びに来たかと責めたくなるのですが、それを言い始めると、いたちごっこ、堂々巡りが始まります。拉致が明かないのです。勉強に来たわけではない…のがありありとしても、なかなかそれは言いませんもの。彼らからすると、「うそも方便」なのでしょうけれど。
とはいえ、「仏のうそを方便と言い、武士のうそを武略という」のとは違います。もちろん、来てしまえばもうこっちのもの。あとはアルバイトをし、楽しく遊べればそれでいいのでしょう。進学のために日々精出して勉強し、進学のために、節約して生活し、アルバイトの金を貯金するなんて、馬鹿者のすることくらいに思っていた輩もいたようですから。
こういう「大人」は、学校には向きません。
本当に向かないのですけれどもねえ。
日々是好日
「今日も寒い。まだまだ冬であるな」と思いながら学校に来たのですが、ふと見ると、「ツバキ(椿)」はもうすっかり花を落とし、「ウメ(梅)」の花も花びらが開ききっています。一歩進んで二歩下がるみたいな進み方でも、春は近づいているようです。
さて、学校です。
もうすぐ卒業しようという人たち、そして一年が過ぎようとしている人たち、一月に来たばかりの人たち。三つのクラスで授業をする機会があり、その違いに今更ながら驚いています。
卒業を控えた人たちも、あと半年…とまでは行かなくとも、あと三ヶ月ほどもあったら、かなり上のレベルにまでいけたのではないかと思える人たちが数人います。この人たちは、今、この時期に卒業させねばならぬことが本当に残念。
10月に来たと言うことは出発点からして半年ほども4月生とは違う。国で、ある程度勉強できるような環境があるならいざ知らず、そうでなければ、本当に不利。彼らの資質ややる気が見抜ければいいのですが、大学の方で。
とはいえ、あまり期待せぬ方が良さそうです。中国人なら上の大学を受験することもでき、そのときに見てくれる人に出会うこともあるでしょうが、そうでなければ、今の段階( 日本語レベル)で、それを求めるのは、ちと酷であろうというもの。
もちろん、その反対に、すでに、来日後三ヶ月か半年ほどで限界が来ている人もいました。適当に話すことができれば、それで御の字。文法練習や漢字の練習などは、けったるくて、やっていられるかというところなのでしょう。
10年ほど前はそういうスリランカ人ばかりで、本当に手を焼きました。はじめの頃は相手がそういう人たちだと見極めがつかず、ずいぶん無駄な努力を重ねていましたが、そのうちにこちらも知恵がついてきて、こういうのはある程度までは手をかけるが、それ以上はしないに限るということに気がついたのです。
親切で手をかけても、向こうにしたら、要らぬお世話。迷惑きわまりない、そのお節介は愚の骨頂というところだったのでしょう。最後には「自分は日本に来るために金を使った。その金が貯まったら、すぐに帰るから、勉強などはしたくない」とほざくような者までいましたね。
こちらも、教えてなんぼ、教えられてなんぼの世界ですから、学ぶ気が無い連中とは共通語がないのです。向こうだって、金をくれるアルバイト先やビザの関係で世話をしてくれる人とはある程度の関係を保とうとしていたようですが、教員なんて、稼ぎもできぬ、役立たずでしかなかったのでしょう。
「努力」を求める方が、どだい無理なのです。それなら、なぜ日本に日本語を学びに来たかと責めたくなるのですが、それを言い始めると、いたちごっこ、堂々巡りが始まります。拉致が明かないのです。勉強に来たわけではない…のがありありとしても、なかなかそれは言いませんもの。彼らからすると、「うそも方便」なのでしょうけれど。
とはいえ、「仏のうそを方便と言い、武士のうそを武略という」のとは違います。もちろん、来てしまえばもうこっちのもの。あとはアルバイトをし、楽しく遊べればそれでいいのでしょう。進学のために日々精出して勉強し、進学のために、節約して生活し、アルバイトの金を貯金するなんて、馬鹿者のすることくらいに思っていた輩もいたようですから。
こういう「大人」は、学校には向きません。
本当に向かないのですけれどもねえ。
日々是好日