日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「スリランカ人、バングラデシュ人、インド人は、『首を横に振って』頷く」。

2013-06-17 10:14:39 | 日本語の授業
 曇り。お空が安定していなかった土曜、日曜。そして、今日は、曇り、昼過ぎには、晴れ間もあるとのことです。

 さて、学校です。

 今年のスリランカの学生達は、何を聞かれても、一様に「判ります。先生」と言います、首を横に振りながら(まあ、前もそうでしたが)。

 この、「首を横に振る」というのは、スリランカやバングラデシュ、インドから来ている学生にも見られることで、もしかしたら(日本人などが考えている)、「『首を縦に振る』ということは、『判る』とか、『はい』の意味である」ということ自体、怪しいのかもしれません。

 とはいえ、ここは日本ですから、こうされますと、思わず「どちらですか」と問いたくなってしまいます。

 すると、また首を横に振りながら、一段と声を高めて「判ります」と言います。きっと、彼の方では、「聞き取れなかったのかな」とか、「判る」と言っているのに、それを信じていないのだろうとか思っての、この、「一段と声を高めて」のことだったのでしょう。

 首をどう振るかはさておき、「わかる」とか「判らない」とかを言えることほど、何かを学ぶ上で難しいことはないのでしょう。また、それこそが、教師にとって、学生を理解する上での、大切なことなのです。

 今、「わからない」と言えるということは、これまで「判っていた」からで、「これまで「判っていなかった」ら、今も、相変わらず「判っているのか判っていないのか判らない」といった茫漠とした表情をするしかないのでしょう。

 どちらにせよ、ぼんやりしたとらえどころのない表情ではなく、「判らない」と言い始められたことが、「判る道」への一歩なのです。

 自分の経験からも、「学問を致すに、知ると合点との異なる処、ござ候」(横井小楠)は本当のことだと思います。   

 ただ、学生達に言って、それが那辺に落ち着くかは、彼らの、相手(この場合は日本)の文化や歴史習慣への理解や、あるいは想像力によることも関係してきます。教師などというのは、そのお手伝いをチョコッとできるに過ぎぬのです。私たちは、彼らの質問などを聞きながら、この学生はここまで理解できているなあとか、この学生はいまだに五里霧中であろうななどと考えているのです(これは『中級』以上です)。

 これは、何も意地悪でしているのではありません。こういうことが判る、あるいは感じ取れるようになるには、人それぞれに異なった時間が必要なのです。もしかしたら、自分には不要であると、そういうことを考えずに終わってしまう人もいるのです。またこれはその人にとって何が大切かということとも絡んできますから、他人の口出しできることではないのかもしれません。

 実際、不必要のことかもしれませんが、(実務の上からは一見不必要と見えることも、ここは「日本語学校」ですから、)判る可能性のある人がいたり、この人には判らせねばならぬと思われる人がいる限り、教師という者は、言い続けておかねばならぬと思うのです。
 
 勿論、これは何を以て必要とするかも、すぐれて個人的なことですから、他の教師はこういうことは、彼らに告げぬかもしれぬし、告げるかもしれぬ、また、(それではなく)他のことを大事と思い、そのことについて言うかもしれません。

 とはいえ、学生達を見ていると、(彼らにとって、日本語の)文章を理解するのが難しいというのは、読解力の問題ではなく、(日本に対する)知識不足からきているにすぎぬ場合が多いのです。その時には、その知識を多少なりとも注入しておけばすむことで、読解力を必要とする部分の説明を諄くする必要はないのです(知識さえ入れれば、事足りるのです)。

 これは、もし、私が彼らの国の言葉を学ぶとして、「ある文章を理解できないから、この人は読解力がないなどと思われたら、たまらんなあ」という気持ちからも来ていることなのですが(これは私だけのことではありません。友人もアメリカでそういわれて腹が立ったと言っていました)。

 こんなことは、数年、教師をし、またある程度の教師としてのセンスがあれば、ほっておいても理解できることなのですが、これがないと、これがなかなか難しい。定年退職まで公教育で働いてきた人でも、外国人に教える時に(『初級』の授業でです、20分も30分も導入に手間取っている人がいました。しかも戻ってきた時に、「どうして、こんな簡単なことが判らないのでしょうね」と言っていました)。

 一般的に、日本語教師というのは、言語学から入っている人が多いようで、教育学方面の知識や技能が足りない人が、思いの外、多いのです。言語学の知識は豊富ですから、それを学生に「言いたい」という思いが強すぎ、時にはそれが邪魔をして学生の理解が理解できなくなっているということもあるようですし。

どういう相手にどういう風に教えていったらいいのかも問題ですし、時には、それを削った方がいい(教える必要はない)という時もある。それに、また、ある時には余分なことと思われる方に手間をかけた方がいいこともあるのです。

 彼らの希望は日本語学ではありません。学生は別に日本語学をやりたいというわけではないのです。大学受験に必要だから、「日本語で話せるようになりたい、読めるようになりたい、書けるようになりたい、聞き取れるようになりたい」でしかないのです。いわば日本語は道具でしかないのです。彼らの中において、日本語とは、それほどの「地位」でしかないのです。

 ところが、教える方では、「日本語、日本語」というわけで、いつの間にか日本語が目的になってしまい、「本末転倒」で空回り、ということにもなりかねないのです。

 特に『初級』などでは、教師の導入は、2、3の文(あるいは、一つか二つのミニ会話)で終わりにすべきで、それで学生が理解できなければ、教師の負けで、次に移った方がいいのです(練習しているうちに判るくらいの心のゆとりで)。「判らない」と言われ、例文を出せば出すほど学生の頭は混乱してしまいます。だいたい4カ国か5カ国の人達に彼らの母語で、彼らが理解できるように教えていくなんて不可能です。まして、それを日本語でやるなんて無理です。それに何より、「今現在」わからなくとも、「二週間後」あるいは「一ヶ月後」くらいには判るようになっています。それが日本に暮らしている者の強みなのです。気にする必要はないのです。何と言いましても、彼らは日本語の聖地、日本にいるのですから。その時点で、何より必要なのは、口慣らし、口頭練習なのです。

 瑣末なことに拘り、この練習が疎かになってしまいますと、日をおかずして、『初級』の学生は「言えない」「聞き取れない」で、直ぐにやる気を失ってしまいます。『初級』段階では、そちらの方が問題なのです。口頭練習は、特に『初級』の間は、「10回よりも11回、11回よりも12回、一回でも多く」が鉄則なのです。

日々是好日
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