イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

2024年10月02日 | 2024読書

西林克彦  『「わかる」のしくみ―「わかったつもり」からの脱出』読了

「わかったつもり」、僕には痛い言葉だ。このブログに書いている感想文も「わかったつもり」の塊である。
『人は時として、必ずしも十分にわかっていなかったにもかかわらず、「わかったつもり」の状態にある。それは対象に関する追究がそこで止まってしまっている状態であり、「わかったつもり」というのはある種の安定状態であり、人はそこに留まっていることが可能なのである。そして、それ以上の情報収集や探索を止めてしまう。』そうだ。

この本は、人がどうやって文章を読み進め「わかる」のかというメカニズムとそこからどうして「わかったつもり」になるのかということを解明しようとしている。
著者は教育心理学の学者で、日本の国語教育のなかで「わかる」ことがどう扱われているかということに対して批判を加えている。実は、著者として最も訴えたかったというところはここなのかもしれないが、そこはさらっといきたいと思う。

人は文章を読むとき、どんなことをしているかというと、「スキーマ」と「文脈」というものをガイドとして使って読んでいる。「スキーマ」とは、『我々の頭の中にあるひとまとまりの知識が活性化されて外部情報を処理するのに使われる知識群』というもので、「文脈」とはスキーマとよく似ているが、『外部にそもそも存在していたり、示唆・説明されたり、対象をわかるために、その時点でわれわれが仮設的に構築したりするもの。』である。
スキーマは、文脈によってどのようなものを使用すべきかが明らかにされ、文脈のもとで、文脈から得られる知識と共同で働くのである。
文章の構成というのはどれも一から十まで優しく詳しく書かれているものではない。「わかる」ためのガイドを使ってその不足分を補い解釈を進める。少し違うかもしれないが、これは細胞の中でたんぱく質が作られる工程に似ているような気がする。細胞はRNAの情報とリポソームの働きでたんぱく質を作るが、RNAとリポソームのセットがスキーマや文脈であり、できあがったたんぱく質が「わかったもの」に当てはまるものであるような気がする。

文章を読み始めると、自分の持っている文脈(スキーマと文脈はよく似ているものなのでこれから先は「文脈」という言葉だけを使うことにする。)をあてがって理解しようと試みる。この文脈ではこの文章にうまく合わないとなると別の文脈に替えてまた理解を試みるということを繰り返している。
確かに自分でも、読み始めのペースは遅く、大体50ページほど読み進めるとだんだんと速くなっていく。よく読む作家の本ならばそういうことなく最初からペースは変わらないように思う。おそらく無意識に適切な文脈を探っているのだろう。
では、そういう読み方の中でなぜ「わかったつもり」が生まれるのか。簡単にいうと使う文脈が間違っていることになる。所どころはその文脈に当てはまるが全体を通してみると整合性がないということになってしまうのである。
部分的には「わかったこと」になっているのでそれで心地よくなり冒頭に書いた状態になるというのである。
逆に、「統一的な文脈」によって部分間に無矛盾に関連がつけば、それこそが「わかった」ということになるのである。
これはまさに僕の読書そのものだ。感想文を書いているとそれがよくわかる。最初の部分からまとめてゆくと途中でつじつまが合わなくなることが度々ある。そういう部分はきっと僕の文脈がその本に合っていなかったということであり適切なレベルの文脈を持ち合わせていないということでもあるのだろう。
これは文章だけでなく、映画やドラマを観ているときも同じで、途中でストーリーを追えなくなるときやこの作品は何を言いたいのかということがわからなかったりネットに上がっている映画評やドラマ評と自分の感想が違っているときなどは僕の文脈が間違っていたり評を書いた人と僕の文脈が異なっているということなのである。

これはなかなか面白い考え方であり、確かにその通りだよなと膝を打ってしまう内容であった。

このように、文章にはすべてのことが書かれていないので読み手は文脈を使い、少し違うかもしれないが“行間”を読んでわかろうとする。著者は国語教育の問題点がそこに生まれるという。
ある文章が問題文として取り上げられ、「著者のその時の気持ちを述べよ」と問われたとき、答えとしては本来は文章に書かれている内容からのみ類推されることが求められる姿だが、よりよく読ませて「統一的な文脈」を見つける指導がされていなかったり、教師によっては自分が感じたことを正解として押し付けようとすることもある。そういうことは教育としてどうなのかというのである。
確かに、客観的というか、公平というか、そういう読み方というのが正しいとされるのだろうけれども、なんだか味気ない気もする。論理的な読みものでないかぎり、想像することが文章を読む楽しみであるはずである。これはきっと国語教育の限界点なのだろうとも思うのである。最初に書いた通り、これは僕にはあまり関係のないことなのでサラッと通過して感想文を終わりたいと思うのである。
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