須藤靖 「宇宙人の見る地球」読了
一般向けの科学読み物のページ構成でよくあるのが、都度本文の語句や文節の右肩に番号が振られていてページの下5分の1ほどがその脚注のような部分になってる構成だ。
老眼で小さい字が見えないのと、読書と言ってもほとんど読み飛ばしている状態で読んでいるものだからつい右肩の番号を見過ごしてしまう。ページを読み終わって見過ごした脚注に目を落とすとその脚注が一体どの部分の脚注かまた本文に戻って探すのに難儀する。根が短気なものだからいつもイ~!!となってしまう。どうしたら効率よく読み進めることができるのかいつも悩まされてしまうのだ。
そしていつも思うのだが、この注釈の部分も本文に入れてしまっておいてくれたらもっと読みやすくなるのではないかと思うのだが、本を書く人たちというのはいったいどんな基準で本文に入れたり脚注として分けたりしているのだろうか。
ちなみに、脚注が本の最後や章ごとの最後に書かれているものについてはほとんど読まないことにしている。こういったタイプの構成の脚注の場合ほとんどは引用した文献やホームページのURLだったりするのでまあ、読むこともなかろうと読むこと自体を放棄してしまっているのだ。
タイトルと表紙のイラストを見ていたら、難しい宇宙の話や物理理論を易しく解説してくれている読み物かと思ったが内容は本人が雑文と書いている通り、宇宙物理学者が感じる日常の矛盾や不可解、研究生活の裏話というような内容である。確かにこの本、科学の書架ではなくて日本文学の書架に並んでいた。
(しかし、ヒロシの本は日本文学の書架ではなく、演芸の書架に入っていた。ヒロシの本はどちらかというと人生論っぽかったからこれは日本文学だろう。その倣いでいくならこの本は科学一般という分類になるのだと思うが・・。図書館の分類というのもけっこういい加減だ・・)
東京大学が出版しているPR誌に掲載されているエッセイを集めたものらしいが、よくこの内容で掲載していて文句を言われなかったものだという感じだ。
科学者の少し変わった習性を自虐的に書いている下りというのはこういう象牙の塔のようなところでは命取りになってしまうのではないかと心配になってくる。本人も自分は学内では要注意人物とみられているというようなことを冗談交じりで書いているけれどもそれ以上に実力があるので許されているのであろうから、きっと偉い学者さんであるのだろう。
この本の大きなテーマとしては、「外から自分の世界を見ることの重要性」というものを取り上げている。
それを「宇宙人の見る地球」というように表現しているのである。ある時は自分の国の文化を海外に住んでみて改めて見直してみる。あるときは自分自身と世間とがどれくらい感覚として乖離しているか。そういうことを見つめ直す必要があるのではないかと問題提起している。
もっと大きな規模で外からの世界を見るということが、地球規模のことを宇宙人の視点で考えてみる必要があるということになってくる。
そういうことを堅苦しくなく、例えば、「村上春樹の文学を宇宙人は理解することができるか。」とか、「中華料理は作るのに失敗することが難しい。」「腰痛の原因は“対称性の自発的破れ”が起因している。」というような感じで書かれている。
中でも面白かったのは、科学者は疑い深いということに関し、世間一般のひとたちも科学者的感覚を持ったほうがいいのではないかという提案というか、苦言だ。元々科学者という人たちは他の学者が論文で発表した成果を鵜呑みにして信じないというのが普通だそうだ。その内容を疑って現象の再現性を確認してそれができれてはじめて信じるというのを通例としている。
この文章が書かれた時というのは、2009年に新型インフルエンザが流行った翌年に書かれたものらしく、海外で流行っているインフルエンザだが日本でも警戒してほとんどの人がマスクをしているというマスコミの報道を例に挙げ、マスコミが報道するマスク着用の光景はそこだけ見るとみんなマスクをしているようだがたまたま同じ地域に滞在していた筆者にはそうは見えなかった。だから部分だけ切り取られたところだけを見て全体として信じるなと言う。
くしくもこのコロナ下、午後8時の会食を控えよという政府のお達しを聞いて、昼間ならいいのだと解釈する人たちにはもっと科学者的感覚を持つべきではないかという思いが浮かび上がる。こんな人たちはウイルスって夜行性だとでも思っているのだろうか?(そうじゃないという証明もないのだが・・)。そして猫も杓子もいつでもどこでもマスクをつけているのもどうなのだろうかと思う。ほとんど人のいない夜の通りではマスクをつける必要はあるのだろうか・・?そもそも、あの紙製のマスクの感染防止機能というのはどこまで信頼がおけるものなのだろうか?昨夜、あとから陽性とわかった人とマスクなしで10分会話したら感染したという報道をしていたが、マスクをしていても結果は同じではなかったのだろうか。どうしてマスクを着けていなかったということをテレビは協調するのだろうか?
まったく自分の意思と責任で行動できない人たちがいつでもどこでも少なからずいるというのは滑稽だ。と書きながら、僕自身もそういう情報をネットやテレビでしか得ていないわけでお昼は大丈夫と思っている人たちが世間にどれだけいるのかなんていうことを本当に知っているわけではないので同じ穴のムジナということかもしれない。
前半はこんな感じでかなりくだけた内容だが、後半は別の雑誌などに寄稿されたものらしく、注釈もなくてもう少しお硬い内容になっている。
テーマとなっているのは、「山の頂は見えないほうが楽しい。」ということだ。宇宙の大きさはどれくらいという疑問から始まるのであるが、一般的に宇宙の大きさというのは観測可能な範囲と言われている。これは地球に光が届く範囲と同じなのだが、実は、入れ物としての宇宙は無限大だと考えられている。(ここらあたりでやっぱり理解の限界がやってくる・・)だから今は、その観測可能領域の先のことはわからないし、別には多重宇宙論という考えもある。著者は、そういった宇宙の果ての向こうや別の宇宙にはこの世界とまったく異なる物理法則があるかもしれない。もっと足元でも、現在の量子論や相対論がこの宇宙のすべてを語っているわけではない。新しい理論が出てきてもその先にはまた新しい謎が待っているはずだという。
そして究極は「宇宙原理」ともいうべきものであるという。「人間原理」という考えがあって、この宇宙の中に人類が生存しているのは、この宇宙を観測するためであり、逆にいうと人類が存在しなければ観測されるべき宇宙も存在しないのだという、一見非科学的な考えなのだが、宇宙原理はそれに対して似て非なる考えで宇宙のどの部分を見ても特殊な場所はなく、すべて平等である。という考えである。その平等な状態を観測、記述することがすなわちすべてを解明することである。
著者の考えでは、宇宙のすべてが解明されるときは永遠に来ないという。だから謎を追い求めることができるのだ。それを「山の頂は見えないほうが楽しい。」と表現している。
現在でも、古典力学が適用されるマクロの世界と量子力学が適用されるミクロの世界の境界線さえも分かっていないらしい。(量子力学が適用される世界というのは、不確定性原理というやつで、原子の中にある電子の位置は観測するまで確定していないというあれだ。対して古典力学では物質は固定されている。不確定の物質がどこまで集まれば固定されるのかという境界のことを言っている。)
著者はその説明に、『髪の毛が1本しかなければハゲと呼ばれる。2本であっても同じ。では、何本生えていたらハゲとよばれなくなるのか。』という例えを使っている。
お堅い話といいながやはり著者はものすごくウイットに富んでいる。
著者はこの本の前に、2冊同じような本を出版しているそうだ。機会があれば読んでみたい。結局、そういったウイットに富んだ注釈はけっこうおもしろいというのがこの本を読んだ僕の結論だ。
一般向けの科学読み物のページ構成でよくあるのが、都度本文の語句や文節の右肩に番号が振られていてページの下5分の1ほどがその脚注のような部分になってる構成だ。
老眼で小さい字が見えないのと、読書と言ってもほとんど読み飛ばしている状態で読んでいるものだからつい右肩の番号を見過ごしてしまう。ページを読み終わって見過ごした脚注に目を落とすとその脚注が一体どの部分の脚注かまた本文に戻って探すのに難儀する。根が短気なものだからいつもイ~!!となってしまう。どうしたら効率よく読み進めることができるのかいつも悩まされてしまうのだ。
そしていつも思うのだが、この注釈の部分も本文に入れてしまっておいてくれたらもっと読みやすくなるのではないかと思うのだが、本を書く人たちというのはいったいどんな基準で本文に入れたり脚注として分けたりしているのだろうか。
ちなみに、脚注が本の最後や章ごとの最後に書かれているものについてはほとんど読まないことにしている。こういったタイプの構成の脚注の場合ほとんどは引用した文献やホームページのURLだったりするのでまあ、読むこともなかろうと読むこと自体を放棄してしまっているのだ。
タイトルと表紙のイラストを見ていたら、難しい宇宙の話や物理理論を易しく解説してくれている読み物かと思ったが内容は本人が雑文と書いている通り、宇宙物理学者が感じる日常の矛盾や不可解、研究生活の裏話というような内容である。確かにこの本、科学の書架ではなくて日本文学の書架に並んでいた。
(しかし、ヒロシの本は日本文学の書架ではなく、演芸の書架に入っていた。ヒロシの本はどちらかというと人生論っぽかったからこれは日本文学だろう。その倣いでいくならこの本は科学一般という分類になるのだと思うが・・。図書館の分類というのもけっこういい加減だ・・)
東京大学が出版しているPR誌に掲載されているエッセイを集めたものらしいが、よくこの内容で掲載していて文句を言われなかったものだという感じだ。
科学者の少し変わった習性を自虐的に書いている下りというのはこういう象牙の塔のようなところでは命取りになってしまうのではないかと心配になってくる。本人も自分は学内では要注意人物とみられているというようなことを冗談交じりで書いているけれどもそれ以上に実力があるので許されているのであろうから、きっと偉い学者さんであるのだろう。
この本の大きなテーマとしては、「外から自分の世界を見ることの重要性」というものを取り上げている。
それを「宇宙人の見る地球」というように表現しているのである。ある時は自分の国の文化を海外に住んでみて改めて見直してみる。あるときは自分自身と世間とがどれくらい感覚として乖離しているか。そういうことを見つめ直す必要があるのではないかと問題提起している。
もっと大きな規模で外からの世界を見るということが、地球規模のことを宇宙人の視点で考えてみる必要があるということになってくる。
そういうことを堅苦しくなく、例えば、「村上春樹の文学を宇宙人は理解することができるか。」とか、「中華料理は作るのに失敗することが難しい。」「腰痛の原因は“対称性の自発的破れ”が起因している。」というような感じで書かれている。
中でも面白かったのは、科学者は疑い深いということに関し、世間一般のひとたちも科学者的感覚を持ったほうがいいのではないかという提案というか、苦言だ。元々科学者という人たちは他の学者が論文で発表した成果を鵜呑みにして信じないというのが普通だそうだ。その内容を疑って現象の再現性を確認してそれができれてはじめて信じるというのを通例としている。
この文章が書かれた時というのは、2009年に新型インフルエンザが流行った翌年に書かれたものらしく、海外で流行っているインフルエンザだが日本でも警戒してほとんどの人がマスクをしているというマスコミの報道を例に挙げ、マスコミが報道するマスク着用の光景はそこだけ見るとみんなマスクをしているようだがたまたま同じ地域に滞在していた筆者にはそうは見えなかった。だから部分だけ切り取られたところだけを見て全体として信じるなと言う。
くしくもこのコロナ下、午後8時の会食を控えよという政府のお達しを聞いて、昼間ならいいのだと解釈する人たちにはもっと科学者的感覚を持つべきではないかという思いが浮かび上がる。こんな人たちはウイルスって夜行性だとでも思っているのだろうか?(そうじゃないという証明もないのだが・・)。そして猫も杓子もいつでもどこでもマスクをつけているのもどうなのだろうかと思う。ほとんど人のいない夜の通りではマスクをつける必要はあるのだろうか・・?そもそも、あの紙製のマスクの感染防止機能というのはどこまで信頼がおけるものなのだろうか?昨夜、あとから陽性とわかった人とマスクなしで10分会話したら感染したという報道をしていたが、マスクをしていても結果は同じではなかったのだろうか。どうしてマスクを着けていなかったということをテレビは協調するのだろうか?
まったく自分の意思と責任で行動できない人たちがいつでもどこでも少なからずいるというのは滑稽だ。と書きながら、僕自身もそういう情報をネットやテレビでしか得ていないわけでお昼は大丈夫と思っている人たちが世間にどれだけいるのかなんていうことを本当に知っているわけではないので同じ穴のムジナということかもしれない。
前半はこんな感じでかなりくだけた内容だが、後半は別の雑誌などに寄稿されたものらしく、注釈もなくてもう少しお硬い内容になっている。
テーマとなっているのは、「山の頂は見えないほうが楽しい。」ということだ。宇宙の大きさはどれくらいという疑問から始まるのであるが、一般的に宇宙の大きさというのは観測可能な範囲と言われている。これは地球に光が届く範囲と同じなのだが、実は、入れ物としての宇宙は無限大だと考えられている。(ここらあたりでやっぱり理解の限界がやってくる・・)だから今は、その観測可能領域の先のことはわからないし、別には多重宇宙論という考えもある。著者は、そういった宇宙の果ての向こうや別の宇宙にはこの世界とまったく異なる物理法則があるかもしれない。もっと足元でも、現在の量子論や相対論がこの宇宙のすべてを語っているわけではない。新しい理論が出てきてもその先にはまた新しい謎が待っているはずだという。
そして究極は「宇宙原理」ともいうべきものであるという。「人間原理」という考えがあって、この宇宙の中に人類が生存しているのは、この宇宙を観測するためであり、逆にいうと人類が存在しなければ観測されるべき宇宙も存在しないのだという、一見非科学的な考えなのだが、宇宙原理はそれに対して似て非なる考えで宇宙のどの部分を見ても特殊な場所はなく、すべて平等である。という考えである。その平等な状態を観測、記述することがすなわちすべてを解明することである。
著者の考えでは、宇宙のすべてが解明されるときは永遠に来ないという。だから謎を追い求めることができるのだ。それを「山の頂は見えないほうが楽しい。」と表現している。
現在でも、古典力学が適用されるマクロの世界と量子力学が適用されるミクロの世界の境界線さえも分かっていないらしい。(量子力学が適用される世界というのは、不確定性原理というやつで、原子の中にある電子の位置は観測するまで確定していないというあれだ。対して古典力学では物質は固定されている。不確定の物質がどこまで集まれば固定されるのかという境界のことを言っている。)
著者はその説明に、『髪の毛が1本しかなければハゲと呼ばれる。2本であっても同じ。では、何本生えていたらハゲとよばれなくなるのか。』という例えを使っている。
お堅い話といいながやはり著者はものすごくウイットに富んでいる。
著者はこの本の前に、2冊同じような本を出版しているそうだ。機会があれば読んでみたい。結局、そういったウイットに富んだ注釈はけっこうおもしろいというのがこの本を読んだ僕の結論だ。