三浦佑之 「読み解き古事記 神話篇 」読了
去年の今頃も古事記の本を読んでいたが、その本は言葉遣いが難しすぎて何が何だかわからなかった印象があって、やっぱり古事記の真髄を理解するのは難しすぎると思ったが、こんな本を見つけてまた読んでみた。
古事記の本当に重要な部分は神話の部分ではなく、歴代天皇を称えた歌の部分だということを読んだことがあるが、やはり面白いのはこの神話の部分だ。この本はその、古事記の中の上巻、神話の部分に特化して解説している。
しかし、古事記というのはどうしてこんなに興味を引くのだろうか。ある人の見解では古事記というものには日本人のルーツが書かれているのだということだ。やはりそういう郷愁めいたものと自分たちはどこからやってきてどこへ行くのかということは人生の中の最大関心事ということなのだろうか。こう書いている僕自身も神々の出自と役割には非常に興味を持っている。
この本はそういうところを詳しく書いている。僕も古事記に出てくる神々の系譜とそれぞれどんな神様なのかということをまとめてみようとしたことがあったが途中で挫折してしまった。それをこの本はきっちりと書き出してくれている。
古事記の神話は、スサノオ、オオクニヌシの冒険譚を含めたクロニクルのような意味合いもあるのだが、一見つながりのない物語やエピソードの数々もこんなところでつながっているのだという考察も勉強になる。まあ、古代の人々がどこまで深く考えて古事記を書いたのかというのは疑問の残るところだが・・。
スサノオ、オオクニヌシだけでなくイザナギの黄泉の国への往還というのもこれまでどれだけの物語のベースになったのだろうというほどプロットとしては魅力的だ。
地底にある死者の国に行く話や、高貴な出自の若者が試練を乗り越えながら冒険を繰り返すという物語は世界中にあるけれども、どうしてこんなに似ているのかと思うものがある。
ギリシャ神話のオルフェウスの物語なんかは、冥界で奥さんの姿を見てしまったので別れなければならなくなったというところまでイザナギの話とそっくりだ。これなんか、ギリシャの神話がなんらかの形で日本に伝わったとしか思えない。
ペルセウスや、オイディプス、モーゼなどの貴種流離譚というのもどこの国にもあるそうだからますます不思議になってくる。
人間の心の構造というのはどこの国でも同じで結局同じような物語を生み出すことになるのだろうか・・・。
古事記を大まかなパートに分けると、
①イザナギとイザナミ
②アマテラスとスサノオ
⓷出雲に下りたスサノオ
⓸オホナムジ(オオクニヌシ)の冒険
⑤オオクニヌシの国作り
⑥制圧されるオオクニヌシ
⑦地上に降り立つ天つ神
となる。
イザナギとイザナミのパートの前には天地開闢のパートがある。そのときに現れる三柱の神様についてはこの三柱を含めた五柱の神様たちはすぐに姿を消したということになっているので特に注意を払うことがなかったのだが、その中の高御産巣日神(タカミムスヒ)、神産巣日神(カムムスヒ)は、古事記のなかでいたるところに出てくると言うのは、ボ~っと読んでいる僕にとっては初耳だった。
とくにタカミムスヒは天の岩戸の場面や、国譲りの算段という重要な場面に登場するのだ。古事記のなかでは知恵袋として働いているらしい。(といっても知恵を出すのはその子供のオモヒカネだが。)
カムムスヒも、オオクニヌシが兄の神々にいじめられて殺されたとき、オオクニヌシの母親に懇願されて蘇生させるという重要な役回りをしている。(これも実際に蘇生させたのは貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)という家来なわけだが・・)スサノオのオホゲツヒメ殺しの場面でも登場するので生き死にの境目で何かの役割をしている感じだ。
もうひとりの神様、天之御中主神(アメノミナカヌシ)は本当にこの場面1回限りの神様だ。この神様はまあ、数合わせということらしい。古代の聖数観念では一対となる偶数がよいとされてきたが仏教思想が入ってくると奇数が貴ばれるようになる。お釈迦様も阿弥陀様も脇侍を従えて3体で立っているのは奇数が尊い数字だからだそうだ。そういうことからこの最初の部分は古事記の中ではかなり遅く成立したらしく、だから数合わせがなされたというのが著者の見解だ。
と、いうふうにかなり緻密に様々なことについて説明されていて、系譜についても体系的に作られているのがこの本だ。
イザナギとイザナミのパートでは「黄泉比良坂」に興味が行く。前に読んだ小説のタイトルの一部だが、古事記は一応最後まで読んだつもりになっていた(もちろん口語訳でだが・・)がこんな言葉が出てくるというのを覚えていなかった。
イザナギはイザナミの姿を見てしまったために逆にイザナミに恨まれて追っ手を差し向けられるのだが、あの手この手で追い払う。最後は「黄泉比良坂の坂本(坂のふもと)」に生えている桃を投げ、追手がそれを食べている間に生還する。さて、その黄泉比良坂は地上界に属するのかそれとも冥界に属するのかという考察をしている。一般的にはこの坂本という場所は地上界の一部という見解になっているそうだが、著者は冥界の一部であると主張する。確かに文章を読めば冥界の追手がやってくることができる場所のようなのでそこはまだ冥界のような感じがするが、追手が冥界だけじゃなくて地上界でも生きる機能をもっていたとすると地上界でもいいのではないかと思える。
著者は、権威のあるひとが言ったことを鵜呑みにしてはいけないと書いているのだがそこは微妙な感じがする。たしかに権威に逆らって自論を主張し続けるというのは格好いいけれども・・。
この前見た新海誠の古いアニメでは冥界の魑魅魍魎は日光が当たるところでは生きていけないという設定だったので、この坂本も昼間か夜かで地上界だったり冥界だったりするという考えで折り合いをつけるというのはどうだろうか・・。
アマテラスとスサノオのパートでは、もとは天照大神と月読命が月と太陽で一対の神になるはずが、オオクニヌシの国譲りの物語につなげていく必要があるため、月読命と入れ替えたのだということが説明されている。天照大神と月読命はそれぞれイザナギの左目、右目から生まれた。スサノオは鼻から生まれ、三柱合わせて尊い「三貴子」と呼ばれるが、スサノオと天照大神と月読命の出自の違いがわかるので少し無理をして物語をつなげているということがわかる。
伊勢に行くと、内宮のそばに別宮として大きな月読宮があるけれども、古事記の中ではこの場面だけに出てくるだけである。かわいそうに・・。
ちなみに、天照大神のように意味がすぐにわかる神様は比較的新しい神様と考えられているそうだ。
このパートではスサノオが大暴れする。これもオオクニヌシのパートにつなげるための伏線なのだが、このスサノオという神様は善人なのか悪人なのかがよくわからない神様だ。
出雲に下りたスサノオのパートでは、ヤマタノオロチ退治が中心になるけれども、その前にスサノオはオホゲツヒメを殺している。一見サブプロットに見えるけれどもそこにも必然性がある。オホゲツヒメを殺したあと、カムムスヒがその死体から生まれた種を持たせて出雲へ下すがの、これがクシナダヒメとの結婚につながる。クシナダとは、稲田を意味すると解釈した著者は稲田に種を蒔くということから、両社が結婚することで地上に豊穣をもたらすのだというのだ。
しかし、せっかくおもてなしをしてくれた神様を殺してしまうとはなんともと思う反面、困っている老夫婦を助けるためにヤマタノオロチと一戦交えようというのだから善人だか悪人だかわからない。
オオクニヌシの冒険と国作りの間、スサノオが何をしていたかは知らないが、オオクニヌシの妻になるスセリビメの父親として再び登場する。オオクニヌシ自身もスサノオの何代目かの子孫に当たるのでこの辺は親戚関係がややこしい。
ここでも婿殿をいじめる役割なのでやっぱり悪人だと思うけれども最後はスセリビメと一緒に逃げてゆくオオクニヌシにエールを送っているというところはやっぱり善人だ。それも言葉のニュアンスとしては、「がんばれよ!コノヤロー。」というのだからかっこいいではないか。
そして、スサノオが住んでいた国が根の堅州国というところなのだが、ここからオオクニヌシが逃げ出すルートの途中にふたたび黄泉平坂が出てくる。こういうことも読み流していると同じ場所が出てくるということわからないけれども、こうやって解説してもらえると神話世界のマップが浮かび上がってくる。
かたや、オオクニヌシはその後、天からやってきた神々に国を取られるのだが、一般的には国譲りということで禅譲されたように言われているが、よくよく読んでみたらこれも武力制圧を暗示しているという。
天の原の神々は三度目の神様の派遣でやっとオオクニヌシの国を手に入れるのだが、だんだんと武器が派手になってくるという。(こういうものは3回というのが物語の定石だそうだ。ほかにも3回同じようなことが試みられるというシーンが出てくる。)そんな中に、どうしても出雲を手に入れたいという高天原の神々の思いが見て取れる。その神々の末裔は大和政権を作った天皇家なのだが、どうして出雲だったのかというと、出雲のその強大な国力を欲したのかもしれないという著者の推理だ。
出雲の国は、日本海での交易を通して越後や諏訪といった地方とつながっていたという証拠が諏訪神社や高志(こし:越)という地名に残っている。そして何を交易していたかというと、ヒスイと黒曜石だったそうだ。ヒスイは装飾品というか儀式に使うため、黒曜石は道具として貴重である。また出雲大社の巨大な社殿を造ることができる土木技術も魅力的であった。
国譲りのシーンでは、オオクニヌシが、大きな社殿を造ってくれたらそこに祀られてじっとしていますというお話になっているのだが、著者の解釈ではその社殿はそのときすでに出雲の技術で作られていたに違いないという。
それらも含めて出雲の国を合法的に手に入れたと正当化するのが古事記の最終的な目的であるということになるというのが一般的な見解になっているが、著者はそこに滅びへの眼差しが濃厚に窺えるという。
こういう読みはかなり深いと思うのだ。
古事記のなかでは出雲が舞台になっている部分が全体の4割にもなるそうだ。古事記は天皇家が歴史上も正当にこの国を支配しているのだということを主張するための物語だが、その過程で強大な経済力と技術を持った出雲の征服にはかなり手こずっていたことを示すものではないかという証拠である。そして長々と記録に残すことによって征服した相手に多大な敬意が払われているのがこのパートなのだというのが著者の見解だ。確かに日本では敵対する相手を滅ぼしたあとに神として祀るというようなことがその後も続くが、そのルーツともいうべきものがこの時代からあったということだろうか。
いよいよ最後の地上に降り立ち天つ神のパートでは神武天皇の誕生までを描いている。
最初に地上に降り立った神様はニニギノミコトであるが、この人の本名はやたらと長い。本名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)というそうだ。ほぼすべてが神を称える言葉で本当の名前の部分は番(ホ)だけらしい。こういう表現が「寿限無」につながっていくのだろうかと思うといかに古事記が日本人の心の中に浸透しているのかということを思う。
地上に降りたニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと結婚して海彦、山彦を生む。そして山彦が天皇家の直系の祖先となっていくのだが、古事記の中で初めて没年齢が記されているのがこの山彦である。580歳で亡くなったと書かれている。これは神が人に近づいてゆくということを物語っているそうだ。
そして山彦の子供の子供、ニニギノミコトのひ孫がカムイヤマトイハレヒコ(神武天皇)へとつながってゆく。
ここでこの本は終わるのだが、中巻の神武東征、下巻の十六代天皇から推古天皇の時代までも同じような本を出版する予定があるそうだ。続きが楽しみだ。
去年の今頃も古事記の本を読んでいたが、その本は言葉遣いが難しすぎて何が何だかわからなかった印象があって、やっぱり古事記の真髄を理解するのは難しすぎると思ったが、こんな本を見つけてまた読んでみた。
古事記の本当に重要な部分は神話の部分ではなく、歴代天皇を称えた歌の部分だということを読んだことがあるが、やはり面白いのはこの神話の部分だ。この本はその、古事記の中の上巻、神話の部分に特化して解説している。
しかし、古事記というのはどうしてこんなに興味を引くのだろうか。ある人の見解では古事記というものには日本人のルーツが書かれているのだということだ。やはりそういう郷愁めいたものと自分たちはどこからやってきてどこへ行くのかということは人生の中の最大関心事ということなのだろうか。こう書いている僕自身も神々の出自と役割には非常に興味を持っている。
この本はそういうところを詳しく書いている。僕も古事記に出てくる神々の系譜とそれぞれどんな神様なのかということをまとめてみようとしたことがあったが途中で挫折してしまった。それをこの本はきっちりと書き出してくれている。
古事記の神話は、スサノオ、オオクニヌシの冒険譚を含めたクロニクルのような意味合いもあるのだが、一見つながりのない物語やエピソードの数々もこんなところでつながっているのだという考察も勉強になる。まあ、古代の人々がどこまで深く考えて古事記を書いたのかというのは疑問の残るところだが・・。
スサノオ、オオクニヌシだけでなくイザナギの黄泉の国への往還というのもこれまでどれだけの物語のベースになったのだろうというほどプロットとしては魅力的だ。
地底にある死者の国に行く話や、高貴な出自の若者が試練を乗り越えながら冒険を繰り返すという物語は世界中にあるけれども、どうしてこんなに似ているのかと思うものがある。
ギリシャ神話のオルフェウスの物語なんかは、冥界で奥さんの姿を見てしまったので別れなければならなくなったというところまでイザナギの話とそっくりだ。これなんか、ギリシャの神話がなんらかの形で日本に伝わったとしか思えない。
ペルセウスや、オイディプス、モーゼなどの貴種流離譚というのもどこの国にもあるそうだからますます不思議になってくる。
人間の心の構造というのはどこの国でも同じで結局同じような物語を生み出すことになるのだろうか・・・。
古事記を大まかなパートに分けると、
①イザナギとイザナミ
②アマテラスとスサノオ
⓷出雲に下りたスサノオ
⓸オホナムジ(オオクニヌシ)の冒険
⑤オオクニヌシの国作り
⑥制圧されるオオクニヌシ
⑦地上に降り立つ天つ神
となる。
イザナギとイザナミのパートの前には天地開闢のパートがある。そのときに現れる三柱の神様についてはこの三柱を含めた五柱の神様たちはすぐに姿を消したということになっているので特に注意を払うことがなかったのだが、その中の高御産巣日神(タカミムスヒ)、神産巣日神(カムムスヒ)は、古事記のなかでいたるところに出てくると言うのは、ボ~っと読んでいる僕にとっては初耳だった。
とくにタカミムスヒは天の岩戸の場面や、国譲りの算段という重要な場面に登場するのだ。古事記のなかでは知恵袋として働いているらしい。(といっても知恵を出すのはその子供のオモヒカネだが。)
カムムスヒも、オオクニヌシが兄の神々にいじめられて殺されたとき、オオクニヌシの母親に懇願されて蘇生させるという重要な役回りをしている。(これも実際に蘇生させたのは貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)という家来なわけだが・・)スサノオのオホゲツヒメ殺しの場面でも登場するので生き死にの境目で何かの役割をしている感じだ。
もうひとりの神様、天之御中主神(アメノミナカヌシ)は本当にこの場面1回限りの神様だ。この神様はまあ、数合わせということらしい。古代の聖数観念では一対となる偶数がよいとされてきたが仏教思想が入ってくると奇数が貴ばれるようになる。お釈迦様も阿弥陀様も脇侍を従えて3体で立っているのは奇数が尊い数字だからだそうだ。そういうことからこの最初の部分は古事記の中ではかなり遅く成立したらしく、だから数合わせがなされたというのが著者の見解だ。
と、いうふうにかなり緻密に様々なことについて説明されていて、系譜についても体系的に作られているのがこの本だ。
イザナギとイザナミのパートでは「黄泉比良坂」に興味が行く。前に読んだ小説のタイトルの一部だが、古事記は一応最後まで読んだつもりになっていた(もちろん口語訳でだが・・)がこんな言葉が出てくるというのを覚えていなかった。
イザナギはイザナミの姿を見てしまったために逆にイザナミに恨まれて追っ手を差し向けられるのだが、あの手この手で追い払う。最後は「黄泉比良坂の坂本(坂のふもと)」に生えている桃を投げ、追手がそれを食べている間に生還する。さて、その黄泉比良坂は地上界に属するのかそれとも冥界に属するのかという考察をしている。一般的にはこの坂本という場所は地上界の一部という見解になっているそうだが、著者は冥界の一部であると主張する。確かに文章を読めば冥界の追手がやってくることができる場所のようなのでそこはまだ冥界のような感じがするが、追手が冥界だけじゃなくて地上界でも生きる機能をもっていたとすると地上界でもいいのではないかと思える。
著者は、権威のあるひとが言ったことを鵜呑みにしてはいけないと書いているのだがそこは微妙な感じがする。たしかに権威に逆らって自論を主張し続けるというのは格好いいけれども・・。
この前見た新海誠の古いアニメでは冥界の魑魅魍魎は日光が当たるところでは生きていけないという設定だったので、この坂本も昼間か夜かで地上界だったり冥界だったりするという考えで折り合いをつけるというのはどうだろうか・・。
アマテラスとスサノオのパートでは、もとは天照大神と月読命が月と太陽で一対の神になるはずが、オオクニヌシの国譲りの物語につなげていく必要があるため、月読命と入れ替えたのだということが説明されている。天照大神と月読命はそれぞれイザナギの左目、右目から生まれた。スサノオは鼻から生まれ、三柱合わせて尊い「三貴子」と呼ばれるが、スサノオと天照大神と月読命の出自の違いがわかるので少し無理をして物語をつなげているということがわかる。
伊勢に行くと、内宮のそばに別宮として大きな月読宮があるけれども、古事記の中ではこの場面だけに出てくるだけである。かわいそうに・・。
ちなみに、天照大神のように意味がすぐにわかる神様は比較的新しい神様と考えられているそうだ。
このパートではスサノオが大暴れする。これもオオクニヌシのパートにつなげるための伏線なのだが、このスサノオという神様は善人なのか悪人なのかがよくわからない神様だ。
出雲に下りたスサノオのパートでは、ヤマタノオロチ退治が中心になるけれども、その前にスサノオはオホゲツヒメを殺している。一見サブプロットに見えるけれどもそこにも必然性がある。オホゲツヒメを殺したあと、カムムスヒがその死体から生まれた種を持たせて出雲へ下すがの、これがクシナダヒメとの結婚につながる。クシナダとは、稲田を意味すると解釈した著者は稲田に種を蒔くということから、両社が結婚することで地上に豊穣をもたらすのだというのだ。
しかし、せっかくおもてなしをしてくれた神様を殺してしまうとはなんともと思う反面、困っている老夫婦を助けるためにヤマタノオロチと一戦交えようというのだから善人だか悪人だかわからない。
オオクニヌシの冒険と国作りの間、スサノオが何をしていたかは知らないが、オオクニヌシの妻になるスセリビメの父親として再び登場する。オオクニヌシ自身もスサノオの何代目かの子孫に当たるのでこの辺は親戚関係がややこしい。
ここでも婿殿をいじめる役割なのでやっぱり悪人だと思うけれども最後はスセリビメと一緒に逃げてゆくオオクニヌシにエールを送っているというところはやっぱり善人だ。それも言葉のニュアンスとしては、「がんばれよ!コノヤロー。」というのだからかっこいいではないか。
そして、スサノオが住んでいた国が根の堅州国というところなのだが、ここからオオクニヌシが逃げ出すルートの途中にふたたび黄泉平坂が出てくる。こういうことも読み流していると同じ場所が出てくるということわからないけれども、こうやって解説してもらえると神話世界のマップが浮かび上がってくる。
かたや、オオクニヌシはその後、天からやってきた神々に国を取られるのだが、一般的には国譲りということで禅譲されたように言われているが、よくよく読んでみたらこれも武力制圧を暗示しているという。
天の原の神々は三度目の神様の派遣でやっとオオクニヌシの国を手に入れるのだが、だんだんと武器が派手になってくるという。(こういうものは3回というのが物語の定石だそうだ。ほかにも3回同じようなことが試みられるというシーンが出てくる。)そんな中に、どうしても出雲を手に入れたいという高天原の神々の思いが見て取れる。その神々の末裔は大和政権を作った天皇家なのだが、どうして出雲だったのかというと、出雲のその強大な国力を欲したのかもしれないという著者の推理だ。
出雲の国は、日本海での交易を通して越後や諏訪といった地方とつながっていたという証拠が諏訪神社や高志(こし:越)という地名に残っている。そして何を交易していたかというと、ヒスイと黒曜石だったそうだ。ヒスイは装飾品というか儀式に使うため、黒曜石は道具として貴重である。また出雲大社の巨大な社殿を造ることができる土木技術も魅力的であった。
国譲りのシーンでは、オオクニヌシが、大きな社殿を造ってくれたらそこに祀られてじっとしていますというお話になっているのだが、著者の解釈ではその社殿はそのときすでに出雲の技術で作られていたに違いないという。
それらも含めて出雲の国を合法的に手に入れたと正当化するのが古事記の最終的な目的であるということになるというのが一般的な見解になっているが、著者はそこに滅びへの眼差しが濃厚に窺えるという。
こういう読みはかなり深いと思うのだ。
古事記のなかでは出雲が舞台になっている部分が全体の4割にもなるそうだ。古事記は天皇家が歴史上も正当にこの国を支配しているのだということを主張するための物語だが、その過程で強大な経済力と技術を持った出雲の征服にはかなり手こずっていたことを示すものではないかという証拠である。そして長々と記録に残すことによって征服した相手に多大な敬意が払われているのがこのパートなのだというのが著者の見解だ。確かに日本では敵対する相手を滅ぼしたあとに神として祀るというようなことがその後も続くが、そのルーツともいうべきものがこの時代からあったということだろうか。
いよいよ最後の地上に降り立ち天つ神のパートでは神武天皇の誕生までを描いている。
最初に地上に降り立った神様はニニギノミコトであるが、この人の本名はやたらと長い。本名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)というそうだ。ほぼすべてが神を称える言葉で本当の名前の部分は番(ホ)だけらしい。こういう表現が「寿限無」につながっていくのだろうかと思うといかに古事記が日本人の心の中に浸透しているのかということを思う。
地上に降りたニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと結婚して海彦、山彦を生む。そして山彦が天皇家の直系の祖先となっていくのだが、古事記の中で初めて没年齢が記されているのがこの山彦である。580歳で亡くなったと書かれている。これは神が人に近づいてゆくということを物語っているそうだ。
そして山彦の子供の子供、ニニギノミコトのひ孫がカムイヤマトイハレヒコ(神武天皇)へとつながってゆく。
ここでこの本は終わるのだが、中巻の神武東征、下巻の十六代天皇から推古天皇の時代までも同じような本を出版する予定があるそうだ。続きが楽しみだ。