イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 」読了

2020年02月04日 | 2020読書
鈴木真哉 「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 」読了

僕は、雑賀孫市は和歌浦周辺を本拠地として活躍していたとばかり思っていたが前回読んだ小説ではそうでもなさそうだとわかってしまった。
僕としては雑賀孫市を統領とする雑賀衆は和歌浦の国道沿いにある雑賀城を拠点にして無頼な生き方を全うしていた人々だと思いたかったのだが、小説では雑賀孫市は十ヶ郷という今でいると紀ノ川の北側、平井というところが活動拠点になっていて、今の和歌浦近辺である雑賀郷とは関係があるとはいえ支配下にある場所でもなんでもなかったらしい。ネットで調べる程度の情報だが事実もどうもそうらしい。
僕の出身地は和歌浦から少しだけ北に位置しているところなので先祖代々ここに暮らしていたとしたら、ご先祖様も孫市の元でスナイパーではなくとも玉込役くらいでは活躍してくれていたのではなかろうかとひとりで悦にはいっていたのだが、拠点が違えば話が違ってくるんじゃないかと関連本を探してみた。

雑賀衆と言われた人たちが歴史の資料に登場するのは西暦1048年のことだったそうだ。そして歴史から消えてゆくのは1585年。関ヶ原の前には消息がわからなくなってしまったということらしいのだが、ここからはこの本から読みとれる、僕が思い込んでいたこととの違いを列挙しながら雑賀衆と孫市の歴史を書きとめてゆきたい。

雑賀衆という人々はどこに暮らしていた人たちなのかということから書いてゆきたい。
拠点は和歌山市周辺でいくつかの自治組織に分かれていたということは知っていたれども、当時は五つの地域に分かれていたようだ。それは雑賀郷(和歌浦、雑賀崎周辺)、十ヶ郷、中郷(田井ノ瀬あたりから根来の手前まで)、宮郷(日前宮のあるあたりから東の方、太田地区)、南郷(三葛から名草山周辺)と呼ばれていたようで、雑賀郷と十ヶ郷は海側で塩分が多い砂地の地域ということで農作業には不向きなので漁業と交易が主な生業であった。対して中郷、宮郷、南郷は肥沃な土地で農業が盛んであった。現代とは地形がかなり変わっているようだが、まあ、こんな感じのようだ。
それぞれ雑賀衆といってもそこに住んでいる人全員が一丸となってひとつのことに向かっているのではない。戦闘集団としての雑賀衆はこの土地の支配階級のことをいうのであって、農民、漁民は支配者が変わってもやらなければならない仕事はかわらなかったのである。これは歴史用語でいうと、国人(支配階級)と惣(被支配階級)という関係であったのだ。最終的に雑賀衆は歴史から消えていったということを思うと、僕がここにいるのは支配されていた側だったからということになりそうだ。多分、玉も込めていなかったのだろう・・。まあ、それはそれで僕らしいのではあるけれども・・。
そして、この地域の人たちはみんな浄土真宗=門徒と思っていたけれどもそうではなかったようだ。浄土宗を信仰する人もいたし、根来に近い地域はそれこそ真言宗(真義真言宗)を信仰する人たちであったのだ。石山合戦に参加した人たちはその中の真言宗の信者たちだけであって、雑賀郷、十ヶ郷の人たちが内陸地域をたびたび攻め入ったというのは肥沃な土地を羨んだということばかりではなく、宗教観の違いでもあったのである。
著者はそのイメージをこうまとめている。

・紀ノ川下流域五荘郷にわたる地縁的な集団であった。
・国人など在地領主的な人々の集団であった。
・農業を主たる基盤とする集団であった。
・本願寺門徒の集団であった。
・鉄砲隊と水軍を備えた集団であった。
・傭兵集団であった。

鉄砲との関係はどうか。津田監物が種子島に伝わった2丁の鉄砲のひとつを持ち帰ったのは事実だそうだ。監物は根来寺の僧兵として小説にはよく出てくるけれども実際は根来寺の塔頭、杉ノ坊から指示を受けて種子島に行ったということだ。杉ノ坊の門主は津田家が代々勤めていたらしく、ようは身内であって行人(僧兵)ということではなかったようだ。
あまり仲のよくない中郷と雑賀郷、十ヶ郷だが、どうしてそこでも鉄砲隊が組織されるほど鉄砲が生産されたか、そこはどの文献にも詳しくは書かれていない。ただ、鉄砲というのは意外と簡単な構造で、材料と鍛冶屋さえあれば比較的簡単に作れたのではないかと著者は考えている。もともと雑賀鉢という兜を作れる腕前の人たちがいたのだからお茶の子さいさいだったのかもしれない。
それよりも鉛玉や火薬の材料をどうやって調達するかそれの方が問題であった。海側の人たちは漁業に加えて交易も生業にしていたので海外から材料を調達できたのであろう。種子島にやってきた鉄砲の存在も雑賀郷からもたらされたのかもしれない。仲が悪いといいながら、そういった情報交換や物流というのはけっこう密にあったのかもしれない。
しかしながら1570年、第一次石山合戦では孫市の一党は石山本願寺側についたが、大半の雑賀衆、中郷、宮郷などは信長側についていたそうだ。石山本願寺を攻めきれない信長はその原因を雑賀衆の敢闘にあるとみて1577年、とうとう雑賀郷を攻めるわけだが、その時には一致して迎え撃ったというのだからみんな仲が悪くても人がいいというところだろうか・・。孫市は信長軍に北側か攻め入られ平井から撤退して雑賀城を拠点に戦いを続けた。この時の戦いが有名な和歌川(雑賀川)に壺を埋めて騎馬兵を足止めしたという戦いだ。
僕の心のヒーローである雑賀孫市はどちらかというと雑賀衆のなかのひねくれものという位置づけになってしまっているのではないだろうかと悲しくなってきた。石山側についたのも、信仰と自由を守るためというよりも、自分の地位を強化するためという理由のほうが大きかったようだ。というのも、信長の高野、根来攻めの時には信長に通じ、太田城の水攻めのときには豊臣方に与して太田党と戦ったというのだからどうみてもここら一帯を俺のものにしてやろうという魂胆にしか思えない。自由のために戦うというよりも日和見で得する方につくコバンザメみたいじゃないかとさえ思えてくる。もう、周りの人たちからはきっと何をしでかすかわからない厄介者くらいに蔑まれていたに違いない。地元の方言で言うと、「あいつ、またあんなことやってらいしょ~。かなわんな~。ひとを巻き込むのもええ加減にせぇよ。」という感じだろうか。
本能寺の変があった1582年、信長は高野山、根来寺を含めて三度紀州を攻める。先に書いたようにその頃には孫市はなぜだか信長側に寝返り雑賀郷の土橋守重と対立した。明智光秀に信長が討たれたの報を聞き、裏切りものと誹られることを恐れた孫市はどこかに姿をくらましてしまったそうだ。
その2年後、小牧の役では秀吉側の布陣に名前が出てくる。これも先に書いたように太田城水攻めの際にも秀吉側についている。
このあたりで孫市の消息は途絶えるのだが、小説の中に出てくる孫市は弱気を助け強いものに正面から立ち向かう任侠の人であったけれどもそういうものには程遠い人であった感じがする。少し養護するならこの時代、裏切りというのは日常茶飯事で、とくに傭兵を生業としていた雑賀衆にとってはこれが普通の生き方であったのかもしれないということだ。この本に使われた主要な資料として「佐武伊賀守の覚書」というものがあって、孫市とも行動を共にした人だったそうだが、この人も何も悪びれることなく裏切りと寝返りをしていたそうだ。

そして雑賀衆も太田城の水攻めのあと勢力が衰え歴史から消えてゆく。
一族は残るも紀州を離れ広島や尾張に士官するものもあったそうだ。そのなかの一部の人たちは“孫市”の名前を引き継いでいった。僕がこの名前は世襲で引き継いでいかれたと思っていたのはこのことらしい。当の鈴木重秀は“孫一”という署名は使ったが“孫市”という名前は使ったことがないそうで、これは後の人が使ったか講談や物語の中で使われた名前だったのである。
性格はさておき、それだけ武勇は世間に轟いていてそれにあやかろうということで名前が残っていったというのはそれはそれですごいことだろう。

だから、僕の中のヒーローは、あくまでも想像上の“孫市”であるのだが、まさしく相手が権力者であろうがそんなの関係ないと無頼に生きた“孫一”もこれはこれでカッコいいということにしておこう。


1547年 鉄砲伝来
1570年 摂津三好党を信長が攻撃 雑賀衆3000丁。三好党側に孫市つく。第一次石山合戦
1572年 講和
1575年 石山本願寺再度攻撃 孫市このときも招集
1577年 信長雑賀攻め この年2回あった
1578年 上杉謙信死去 信長西を目指す
1582年 本能寺の変 この年にも信長の紀州攻めあり。高野山、根来も攻めるが報を受け信長軍撤退
1584年 小牧の役 雑賀勢西側から秀吉を脅かすがこのとき孫市は秀吉軍の一員
1585年 太田城水攻め。この時も孫市秀吉軍。その後消息は途絶える。
1592年 文禄の役
1598年 慶長の役、豊臣秀吉死去
1600年 関ヶ原の戦い
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
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