イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「日本語の奥深さを日々痛感しています」読了。

2020年12月07日 | 2020読書
朝日新聞校閲センター 「日本語の奥深さを日々痛感しています」読了。

新聞社には「校閲センター」というところがあって、紙面のすべてをチェックし、使われている日本語が正しいかどうかということを監視しているらしい。

「言葉は変化していくもの」ということを前提に時代に即した言葉を紡いでいくというのが新聞の紙面のひとつの使命でもある。『本来の用法から少しずれる言葉遣いに新鮮さを見いだすのが、言語変化の一つのパターン』だそうだからそういったものも受け入れながら時代に合わせてゆくということを常に考えている。正しい日本語の砦というところだろうか。

この本は、朝日新聞校閲センターとうところが朝日新聞に週に1回連載している、「ことばサプリ」というコラムをまとめたものだ。ウチは朝日新聞をもう何十年も購読しているが、このコラムを読んだことがない。これはもったいなかった。いまだに何曜日の何面で連載されているのか見つけることができないが・・・。

「出れる。」とか、「見れる」という言葉は日本語としておかしいと偉そうなことを思いながら、話をするときや文章を書くときそんな言葉を使わないでおこうと思っていたが、まだまだ日本語としておかしいものがあり、僕もそれを知らずに当たり前のように使っているものもあった。
「姑息」というと、ずるいという意味によく使うが、本来はその場しのぎの意味らしい。たしかにその場しのぎで適当なことを言うのはずるい行為だと思うのでなんとなくつながりはありそうだ。
「普通においしい。」というのもよく考えたらおかしいが、今朝のテレビ欄にはそのままのタイトルの番組あって、こういうのも普通に使われるのだなと、自分も使うことがあるので仕方がないのかと思った。
「しくじる」という言葉もおもしろい。今は“失敗する”という意味で使われることが多いが、もとは過失などがあって解雇される、または出入りを差しとめられるという意味だったという。キャンディーズの歌に「わな」というのがあって、サビの歌詞が、「あいつは~ しくじった~」と歌われていたのを、一体何をしくじったのかと思って聞いていたが、それは、「私に不愉快なことをしたことで嫌われて同棲先から追い出されたのだ。」という意味だったということが今になってわかった。この言葉は40年以上前から僕のレベルくらいの一般人には違った意味で理解されていたようだ。

言葉は意思の伝達のための手段であるからそれがおかしい使い方であっても自分の意思が伝わればそれでいいと思うのだが、こういう人たちがいて、言葉の変化を監視しながら、それを記録してゆくというのはかなり大事なことなのではないかとこの本を読みながら思うのである。

例えば、「美味しいです。」というのは普通に使われていると思うのだが、形容詞に“です”という言葉をつけるというのは文法的は間違いだそうだ。正しくは、「おいしゅうございます。」なのだが、なんだかすでにこっちのほうがおかしい気がする。
何か欲しいかと問われていらないときに、「大丈夫です。」答えるが、普通は「けっこうです。」としなければならないそうだ。


そんなことを読んでいると、自分は正しい日本を使えずに、かといって今の人たちがよく使う短縮語みたいなものの意味が分からず、記号を組み合わせたような絵文字はどうしても使う気にならない。
また、日本人的な言葉の使い方としてはこんなことが紹介されていた。
新聞やテレビでの、「無職」という表記について、どこに所属しているのかが比較的重要視される日本人の習性がそれを求めているという。「無職」という所属先でも欲しいということらしい。
「~れる」「~られる」という主語の隠れた表現は、『自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の現われ』だそうだ。これなんかは奥ゆかしい感じがして文法的におかしくてもいいものだと思う。

古くからあるものが新しいものに取って代わられ、それがスタンダードになった時に、新語と区別するために逆に古いものが別の呼び名をつけ直されるということが起こる。それをレトロニムというそうだ。例えば、固定電話、フィルムカメラなんかがそうなのだが、そういえば、役に立たなくなった管理職もマネ〇ジ○ーなんていう言葉に置き換えられる。これもレトロニムのひとつというのなら、やっぱり僕は時代に取り残された人間なんだとしみじみ思うのである。


この本は2020年8月までの連載をまとめたということで、コロナウイルス関連の話題にも触れられている。「3密」「ソーシャルディスタンス」「テレワーク」「アマビエ」などの新しい言葉が生まれたと紹介されているが、どの言葉も今のところ、僕のパソコンの日本語システムでも予測変換で一発で出てこない。これから先、どの言葉が生き残っていくのだろうか。どれもすぐに消えてなくなって行ってくれるのが一番いいのだろうけれども、目に見えない疑心暗鬼は執拗なほど消えることはないのだろうなと思う。
しかし、3密というのはいかがなものかと思う。前にもブログで書いたが、おそらくは真言密教の「三密」をヒントにして誰かが考えたのだろうけれども、これは弘法大師に対して失礼ではないかといつも思うのである。
これだけは消えてなくなってほしいと思うのだ。
仏教つながりでいうと、旦那とドナーはどちらも梵語の、与えるという意味のdanaという意味から来ているそうだ。こういうことを知ると確かに日本語というのは奥深いものだと思うのである。
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