イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「NHKラジオ深夜便 絶望名言2 」読了

2020年12月17日 | 2020読書
頭木弘樹、 NHK〈ラジオ深夜便〉制作班 「NHKラジオ深夜便 絶望名言2 」読了

以前に読んだ、「絶望名言」の続編だ。「文豪たちの憂鬱語録」よりもこっちのほうがひとりひとりの人物について深く書き込まれているので共感を得やすい。

そして最初から僕の心の内を見透かされてしまったかのような名言が紹介されている。
その人物は中島敦だ。「山月記」という小説の作家だということしか知らないし、山月記の内容がどんなものかさえも知らないが、この作家は若いころから体が弱く、作家として名声を得たのはなくなる前の数か月だけであったそうだ。
そんな人物が心の奥底に抱えていた闇が、『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』であった。中島敦は詩人を志してはいたが、はたしで自分がそれで大成することができるかどうかが不安であったために、誰かに師事したり、求めて詩友とまじわったりすることはなかった。それは、自ら努力をして失敗することで自尊心が傷つかいないように、あらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行くという行為であった。
何かをしようとしたとき、常にそういう気持ちがあったように思う。これをやってみてもうまくできることはないのだから最初からやらないでおこうと言い訳を作って結局やらない。いまではこういう心理行動を、セルフ・ハンディキャッピングと言うらしい。
だからたいした資格も取ることもなく、大きな仕事も成し遂げたことがなかった。ひとから見られると、それは“逃げている”と受け取られる。そう、いつも何かから逃げている人生だった。
それでも中島敦は死の直前、たくさんの傑作をこの世に残すわけだが、ぼくの方はというと、あと何年でここから逃げ出すことができるのか・・。そればかりを考えている。

次はベートーベンの名言が紹介されている。
ベートーベンは難聴で苦しむのであるが、偶然襲われた不幸に対してどんな気持ちで臨んだかそんなことが書かれている。「ハイリゲンシュタットの遺書」という書簡集が残されているそうだがそこにはベートーベンの様々な心の葛藤の跡が残っているそうだ。
偶然襲った不幸に対して人は必然を求めるものだが、ベートーベンはそうはしなかった。運命を乗り越えたいと思う一方で、『あきらめとは何と悲しい隠れ家だろう。』といいながら、希望に別れを告げる道を選ぶ。仏教では欲望を捨て去るためには諦観というものが必要と説くけれども、ベートーベンもそうした諦観を見つけることができたのか、その時期は「傑作の森の時代」と呼ばれ、「英雄」「運命」「田園」などの作品が生まれたときと一致する。
しかし、その諦めとはうらはらに、こんな言葉も残している。
『ああ、神様、歓喜の一日を私にお与えください。心の底から喜ぶということがもう、ずっとありません。』そういえば僕も心の底から喜んだことがないなと、ベートーベンでもそうなのだから仕方がないと思うわけだが、やはり、偉人は違う。自分の仕事に対しては、『自分が使命を感じている仕事を成しとげないでこの世を見捨ててはいけないように思われるのだ。』と言っている。やはり逃げの一手の僕とはまったくちがうのだと当たり前だが思ってしまうのだ。

その次は、向田邦子の名言が紹介されている。
向田邦子のドラマの脚本「家族熱」のなかに家族とは何なのかという問いかけがある。
『昔の暮し、すっかり忘れたつもりでいるでしょ。そうはいかないのよ。体の中に残ってるのよ。』別れた家族の思い出が無意識の中にこびりついていることを魚屋で買う切り身の数に見てしまうのであるが、著者とアシスタントはこんな会話をする。『家族っていう言葉はですね、あたたかとかぬくもりとか、かけがえのないものというふうにとらえられていまして、現実にそうでしょうけれども、しかし、うっとうしいもの、そこからのがれたいと思っている人もけっこういる。そういう存在でもありますね。家族というのは、なかなか一筋縄ではいかない。完全無欠の健康体というものがないように、完全な家庭というものもあるはずがない。』
きっとそれもそういうことなのかもしれないと思うのだ。家族って、何なのだろうと思わせられる。

また、“食べる”ということについて、別のドラマのこういうセリフを紹介している。
『じいちゃんは悲しかったのだ。生き残った人間は、生きなくてはならない。そのことが浅ましく口惜しかったのだ。』
どんなに苦しくても人は食べてしまう。食べなければ死ぬ。今でも奥さんは毎日弁当を持たせてくれるが、どんなにクズみたいな仕事をしていてもお昼になれば弁当を食べる。メシなんか食う資格があるのだろうかと思いながらも食べている。たしかに、浅ましく、口惜しいといつも思っているのだ。向田邦子の言っていることは正しい。

そしてゴッホ。
このひとは存命中にはまったく絵が売れずに苦労したというのだから、たしかに絶望のひとであったのかもしれない。
努力しても報われない自分を、『怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者』などではなく、『心の中では活力への大きな欲求にさいなまれながらもなにもしていない不本意なのらくら者』なのだと言っている。
ゴッホは、何をしても一所懸命になりすぎ、から回りするきらいがあったらしい。そして常に誰かを助けたいという気持ちを持ち続けていたという。そのひとつの手段として絵を描くことがあったそうだ。画家として活動したのは晩年の10年間だけ。それまでは伝道師をしたり、職を転々としていたらしい。

“炎の画家”と呼ばれているが、春に対する感情は、『春なのだ、しかし、なんと沢山な、沢山な人々が悲しげに歩いていることか。』であった。これも、内に秘めたるものはあるけれども、やりたくてもうまくできないという気持ちの現れであるというが、僕の春に対する毎年の感覚とよく似ている。
春は山菜やワカメ、チヌも大型が釣れるといううれしい季節なのだが、反面いつも憂鬱な気分を抱えている。なにか悪いことが起こる(人事異動を含めて・・)のはいつも春だという印象が大学受験を失敗したころからずっと続いているからだろう。
ゴッホの感じ方とはまったく違うとは思うのだが、春は何か暗いイメージがつきまとう。

何人かの著名人の絶望名言が紹介されているわけだが、絶望名言というよりも、これらすべては自分の望みをかなえるためのもがきの言葉であるように思える。すべてのひとたちは最後にはそれぞれの立ち位置で立派な業績をあげているではないか。
この人たちは、きっと、失望はしていても絶望はしていなかったのだと思う。絶えたものは生まれ変わることはないけれども失ったものはまた見つければいい。この本の登場人物はみんな、再びまたそれを見つけたのに違いない。

僕はどうだろうか。すでに見つけ直すための気力が枯渇してしまっている。『ため息をつくのは強制的な深呼吸である』そうだが、強制的に酸素を注入しても、再び燃え出すものは何も残っていないのだ・・。やはり絶望している・・。
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