まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第1回九州西国霊場めぐり~神仏習合の歴史ある英彦山神宮

2021年04月09日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりの最初の札所、第1番の霊泉寺を訪ねる。これで新しい札所めぐりが始まったわけだが、霊泉寺に加えて英彦山神宮もセットで訪ねることで第1番を回ったことになるようだ。

もっとも、それを言いだすと英彦山そのものが修行の地で、御本社である上宮がある英彦山の頂上まで行って初めて英彦山にお参りしたことになる・・・と話が広がりすぎるので、とりあえず一般的に行ける奉幣殿まで雨の中行くことにする。

英彦山は福岡近郊の日帰り登山のスポットでもあるようで、銅の鳥居、霊泉寺から続く石段もルートの一つになっているようだ。奉幣殿までは900メートル、410段の石段が続く。まずはそれを淡々と上る。雨の中だが、かろうじて桜の花も残っている。石段といっても、初めは段差も緩やかである。

石段の両側には神仏習合当時の霊仙寺の頃にあった僧坊の跡が並ぶ。跡地として更地になっているところもあれば、現在も人が住んでいるとおぼしき建物もある。石段の横に解説板があり、中世~江戸時代からの歴史が語られる。銅の鳥居が佐賀鍋島藩主から寄進されたり、時の法皇の揮毫による扁額があったり、江戸時代がもっとも賑わっていたのではないかと思う。

かつての石灯籠や土産物が建つ一角を過ぎて、さらに進む。

途中から急な石段となり、ちょっと息切れもしたが、無事に奉幣殿がある一角に到着。

奉幣殿というのはここ独自の呼び方なのかな。かつての霊仙寺の時には大講堂として使われていた建物だという。建てたのは小倉藩主だった細川忠興で、以後小倉藩の保護を受けて維持されたという。先ほど、銅の鳥居が佐賀藩主から寄進されたと触れたが、英彦山は藩の枠を超えて信仰を集めたのだなと感じさせる。

奉幣殿の横に石段がある。ここから英彦山の頂上にある上宮に向かうのだろうが、そこまで行かないとしても、下宮への案内がある。ちらりと建物も見えるので、そのくらいならと上がってみる。

下宮の脇には天狗の石像が立つ。英彦山は天狗が住む聖地としての信仰を集めている。

下宮からは奉幣殿を見下ろし、天気がよければ遠方の景色も楽しめるのかなというところで再び石段を下りようとすると、拝殿の中から祝詞のようなものが聞こえる。何かなと中をのぞくと、座っているのはなぜか「南無大師遍照金剛」の白衣を着けた人が何人か座っている。山伏姿の人もいる。また、彼らを撮影するカメラの人もいる。さらに、ちょうど石段を上がって来た人が「間に合った」といいながら拝殿に上がる。何か行事があるのかな。

外からその様子を眺めていると、先達らしい年輩の方が何やら祝詞を捧げた後で、私も札所めぐりで耳にしたり自ら唱えたりした真言宗の一連のお勤めに入って行く。神社にしては異例だなと思いつつ、どんなものか靴を脱いで中に入ってみると、ちょうど般若心経を唱えだした。

その後の祝詞を聞くに、天狗を崇める内容のようだ。そして最後に一同が「オン~~」と真言を唱えたが、間に「テング」という言葉もあったことから、天狗にも真言があるようだ。これは初めて触れた。そもそも、英彦山神宮の境内でこうしたお勤めに接するとは全く想像していなかった。近年ではかつての神仏習合の歴史も見直されていることもあり、こういう光景を目にする機会も増えるのかなと思う。九州の山深いところで、よいものを見ることができた。

下宮で折り返しとして、参道から少し脇に歩いて英彦山修験道館に向かう。ちょっとした雨宿りにもなる。こちらは英彦山の信仰の歴史や貴重な宝物も展示されている。銅の鳥居に掲げられた「英彦山」の扁額の元となった霊元法皇の宸筆も残されている。九州北部を中心に多くの檀家を持っていた歴史も紹介されている。中央の歴史の教科書には登場しないスポットではあるが、地方に行けばその土地に根差した深い歴史があるものだなとうなるばかりである。

そろそろ下山とするが、帰りは石段を下りずに「スロープカー」に乗ってみる。英彦山神宮にはクルマで行くことはできず、バリアフリーの観点から2005年に開通したとある。上りもこれに乗れば早く着いたわけだが、まあ、往路くらいは昔の道をたどるのがよいかなと。さすがに文明の利器で、数分で花駅に到着。

こちらはかつての英彦山小学校の建物があり、博物館や土産物コーナーとして活用されている。博物館をのぞいてみると、こちらにも英彦山の信仰に関する貴重な史料が並ぶ。

ただその中にあって、明治の神仏分離にともなって行われた廃仏毀釈の歴史もある。「神理無敵」と称して破壊された仁王像、その一方で唯一救い出された仏像も展示されている。この廃仏毀釈という行い、ある意味日本の歴史上の汚点であり、こういうものを見せられると非常に不快に思う。「国家として」神道を保護した結果、その後の日本に何が起こったのか、どれだけ多くの人を犠牲にしたのか。

バスでやって来て2時間半あまりをどう過ごすかと思っていたが、石段で英彦山神宮の参道を上がったり、修験道館などを見学するうちにいい時間となった。再び銅の鳥居のバス停に戻り、12時12分発、先ほどと同じジャンボタクシーの町営バスに乗り込む。運転手も同じ人だ。今度はわざわざ「どちらまで」と訊かれるまでもなく、そのまま彦山駅まで走る。

昼の時間ということもあるのか、駅前には朝よりも多くのクルマが停まっている。駅前の食堂で食事を取るひとの駐車場にもなっているが、それ以外にも駅の内外でカメラを向ける人の姿がちらほらある。駅舎が解体されるのを前に見物に来たのかな。

ここから添田に戻る。12時30分発の代行バスがあるが、こちらは田川構内自動車が運行するジャンボタクシー。添田~彦山の区間運転を担当しているようだ。家族連れ一組と一緒に乗り込む。添田までは13分の道のりだから、代行バスというより送迎タクシーに乗る感覚だ。

今後、日田彦山線の添田~彦山~夜明~日田はバス転換となり、彦山~宝珠山はBRTとして鉄道の軌道跡を活用した専用道路を走る。ここがクリアになれば大型車両を添田~日田で直通することもできそうだが、実際の運行はどうなるのだろうか。添田~彦山、筑前岩屋~日田の区間運転はそこそこ走らせるとして、その間の専用道路区間は現在の1日4往復程度とするのかな。そうだとすると、わざわざ専用道路にするメリットはあるのかな。小型の観光バスやジャンボタクシーでも事足りるような路線だし・・。

添田に到着。ここから列車への乗り継ぎである。少し時間があるので、待合スペースにあった日田彦山線や添田線の写真パネルをちらりと見る。

こうして始めた九州西国霊場、こちらは札所をゾーンにわけて、その順番に訪ねることにする。次の中津・宇佐シリーズを訪ねるのはいつのことになるのだろうか・・・・。

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