伊予小松の駅から真っ直ぐ吉祥寺に向かわず、一度讃岐街道まで向かう。駅からの道と讃岐街道が交わるところに寺の門がある。本善寺という。案内によれば小松藩士の菩提寺とある。
ここで小松藩というのに触れておく。江戸時代に一柳(ひとつやなぎ)家が治めた藩だが、わずか1万石という、大名としては最低限の石高でしかない。この一柳家の初代にあたる直盛というのが伊賀神戸や播磨の小野の辺りに領地を持っていたのだが、関ヶ原の戦いや大坂の陣の手柄により幕府から伊予西条の6万8千石を与えられた。しかし、伊予西条に赴任する途中、大坂で病没してしまう。
そこで幕府は、6万8千石のうち伊予西条の3万石を長男の直重に与えて西条藩とし、川之江の1万8千石と小野の旧領の一部である1万石を次男の直家に与えて川之江藩とし、三男の直頼に西側の1万石を与えて小松藩とした。これで丸く収まればよかったのだが、長男の西条藩は三代目の失政による咎めでお取り潰しに遭い、後に松平家が入った。また次男の川之江藩は直家が亡くなった時に後継ぎがいなかった(急遽後継ぎを立てたが認められなかった)ためこれも取り潰され、この家系は小野に移され、川之江は幕府直轄の天領となった。結局三男の直頼の1万石だけが一柳家の名跡として残った。
小松藩1万石は周りを幕府側に囲まれる形になったが、その中で小さな藩らしく慎ましい政治を行ったためか、取り潰されることなく明治を迎えることになった。その領地というのは現在の西条市と合併する前の旧小松町のエリアと、飛び地として別子銅山の西側の山中にあったくらいで、まさに小藩である。
そんな小藩に江戸中期からおよそ150年にわたって書き続けられた「会所日記」というのが残されている。現在でいうところの行政日誌のようなもので、ここまでまとまった形で残されているのも珍しく、また小藩だからか日常の身近な出来事や財政状況もつぶさに記されており、学術的にも貴重なものとされている。その内容をコンパクトに紹介した『小さな藩の奇跡』(増川宏一・著、北村六合光・原典解説 角川ソフィア文庫版)という一冊が出ている。藩の財政のやりくりに困り、時には藩士(といっても100人あまりしかいないのだが)の減給や町人からの借金で何とか回していた様子や、藩の中で起こる領民のもめごとなどについても書かれている。当時の小藩の実態というのがいろいろわかる史料としての評価も高い。「奇跡」というのはちょっと持ち上げすぎで、「軌跡」くらいでいいのではないかと思うが、小藩が愚直に政治に取り組んできた様子はうかがえる。
この一冊の舞台が、今回の八十八所めぐりで訪ねる小松である。1万石の大名ということで立派な城があるわけでなく、藩主の屋敷跡があるそうだ。それを訪ねてみようというものだ。
先の本善寺の近くに藩が迎えた朱子学者の近藤篤山の旧宅があり、後は讃岐街道を歩く。今では閑静な住宅地が広がり、ところどころに個人商店があるという景色だ。その中に「常盤組碑」というのがある。横に碑文を書き記した石碑があり、それを読むと、藩の財政が厳しく町家への課税も厳しい中で、町家の負担を軽くしようと頼母子講の制度を設けて藩にも認めさせたとある。
街道から一つ山側の小道、その名も「旧藩」という町名の一角に、小松藩陣屋跡の石碑がある。石碑と、かつての見取り図の看板があるだけで、別に門や屋敷の建物があるわけでもない。周りも住宅地や小さな畑になっている。街道に面したところまでが敷地だったのかなと思われる。
再び街道に戻る。ちょうど、白衣姿のご夫婦が通り過ぎていく。ここからはしばらく街道沿いに歩く。西条まつりの山車の写真を並べた酒屋があり、今は無くなったこの宅配便のブランドの看板が残っていたり。
小松藩の城下町の東の端になるか、街道が左に曲がる。途中には弘法大師の御加持水とされ、番外霊場とされる祠がある。水を掬っていると、少し離れたところから太鼓と歓声が聞こえてくる。祭りでもあるのだろうか。
その方向に行くと、この辺りの町内か、だんじりが出て若い連中が一節唱えているところ。地元の人たちも周りで見守っている。西条まつりは秋に行われるそうだが、春、端午の節句ということで男らしくだんじりを引いている様子だ。
また、町並みのあるお宅では高々と鯉のぼりと縦の幟が掲げられている。この辺りではこの形で男の子の成長を祝うのが風習なのだろう。この先少なくとも伊予西条に行くまで何ヶ所かこの形の幟を見かけた。
小松藩の名残を見ながらだったためか、伊予小松の駅から1時間近くかかって吉祥寺に到着。ここからお参りである・・・。
ここで小松藩というのに触れておく。江戸時代に一柳(ひとつやなぎ)家が治めた藩だが、わずか1万石という、大名としては最低限の石高でしかない。この一柳家の初代にあたる直盛というのが伊賀神戸や播磨の小野の辺りに領地を持っていたのだが、関ヶ原の戦いや大坂の陣の手柄により幕府から伊予西条の6万8千石を与えられた。しかし、伊予西条に赴任する途中、大坂で病没してしまう。
そこで幕府は、6万8千石のうち伊予西条の3万石を長男の直重に与えて西条藩とし、川之江の1万8千石と小野の旧領の一部である1万石を次男の直家に与えて川之江藩とし、三男の直頼に西側の1万石を与えて小松藩とした。これで丸く収まればよかったのだが、長男の西条藩は三代目の失政による咎めでお取り潰しに遭い、後に松平家が入った。また次男の川之江藩は直家が亡くなった時に後継ぎがいなかった(急遽後継ぎを立てたが認められなかった)ためこれも取り潰され、この家系は小野に移され、川之江は幕府直轄の天領となった。結局三男の直頼の1万石だけが一柳家の名跡として残った。
小松藩1万石は周りを幕府側に囲まれる形になったが、その中で小さな藩らしく慎ましい政治を行ったためか、取り潰されることなく明治を迎えることになった。その領地というのは現在の西条市と合併する前の旧小松町のエリアと、飛び地として別子銅山の西側の山中にあったくらいで、まさに小藩である。
そんな小藩に江戸中期からおよそ150年にわたって書き続けられた「会所日記」というのが残されている。現在でいうところの行政日誌のようなもので、ここまでまとまった形で残されているのも珍しく、また小藩だからか日常の身近な出来事や財政状況もつぶさに記されており、学術的にも貴重なものとされている。その内容をコンパクトに紹介した『小さな藩の奇跡』(増川宏一・著、北村六合光・原典解説 角川ソフィア文庫版)という一冊が出ている。藩の財政のやりくりに困り、時には藩士(といっても100人あまりしかいないのだが)の減給や町人からの借金で何とか回していた様子や、藩の中で起こる領民のもめごとなどについても書かれている。当時の小藩の実態というのがいろいろわかる史料としての評価も高い。「奇跡」というのはちょっと持ち上げすぎで、「軌跡」くらいでいいのではないかと思うが、小藩が愚直に政治に取り組んできた様子はうかがえる。
この一冊の舞台が、今回の八十八所めぐりで訪ねる小松である。1万石の大名ということで立派な城があるわけでなく、藩主の屋敷跡があるそうだ。それを訪ねてみようというものだ。
先の本善寺の近くに藩が迎えた朱子学者の近藤篤山の旧宅があり、後は讃岐街道を歩く。今では閑静な住宅地が広がり、ところどころに個人商店があるという景色だ。その中に「常盤組碑」というのがある。横に碑文を書き記した石碑があり、それを読むと、藩の財政が厳しく町家への課税も厳しい中で、町家の負担を軽くしようと頼母子講の制度を設けて藩にも認めさせたとある。
街道から一つ山側の小道、その名も「旧藩」という町名の一角に、小松藩陣屋跡の石碑がある。石碑と、かつての見取り図の看板があるだけで、別に門や屋敷の建物があるわけでもない。周りも住宅地や小さな畑になっている。街道に面したところまでが敷地だったのかなと思われる。
再び街道に戻る。ちょうど、白衣姿のご夫婦が通り過ぎていく。ここからはしばらく街道沿いに歩く。西条まつりの山車の写真を並べた酒屋があり、今は無くなったこの宅配便のブランドの看板が残っていたり。
小松藩の城下町の東の端になるか、街道が左に曲がる。途中には弘法大師の御加持水とされ、番外霊場とされる祠がある。水を掬っていると、少し離れたところから太鼓と歓声が聞こえてくる。祭りでもあるのだろうか。
その方向に行くと、この辺りの町内か、だんじりが出て若い連中が一節唱えているところ。地元の人たちも周りで見守っている。西条まつりは秋に行われるそうだが、春、端午の節句ということで男らしくだんじりを引いている様子だ。
また、町並みのあるお宅では高々と鯉のぼりと縦の幟が掲げられている。この辺りではこの形で男の子の成長を祝うのが風習なのだろう。この先少なくとも伊予西条に行くまで何ヶ所かこの形の幟を見かけた。
小松藩の名残を見ながらだったためか、伊予小松の駅から1時間近くかかって吉祥寺に到着。ここからお参りである・・・。
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