「この上に東洋のマチュピチュがありますよ」・・・・そういう案内を受けてキューブをさらに標高高く持っていく。途中、幅の狭い道を走る。ここはクルマ同士の離合というのも困難なところで、道の真ん中には石が落ちていたりして結構デンジャラス。
おまけに悩まされたのが、雨ではなく霧。視界は不良と言ってよく、走行時にはランプをつけて対向車に自分の存在を示さなければならないほど。それでも前方に急にクルマが現われてヒヤッとブレーキを踏むことも。これまでいろいろな山道を走ってきたが、その中でも一・二を争うくらいのハードな道のり。
マイントピア別子を出て30分ほどで東平(とうなる)地区に到着。ここでパッと開けて広い駐車場に出る。ここが「東洋のマチュピチュ」か・・・。
ここはかつての別子銅山で栄えた集落であるのだが、今は正確に言えば「跡地」ということになっている。先ほど別子銅山記念館で、鉱山で働く人たちの日常生活を写した写真などを見てきたのだが、その舞台がこの東平地区。その賑わいも閉山とともにいつしかさびれていき、とうとう「廃村」という形で集落全体が「廃墟」となったところである。
それにしても霧が濃い。数十メートル先の視界は全くといっていいほど効かない。それでも数台のクルマが停まっており、ここを訪れる人がいるのだということがわかる。鉱山の歴史を体感するというのもあるだろうし、昨今の「廃墟ブーム」というのも手伝っているのかもしれない。
かつての貯鉱場跡やら、索道の駅跡などが保存されている。そのレンガの残り具合の生々しさ。
私はもちろん行ったことがないのだが、こういう景色がマチュピチュを彷彿とさせるのだろう。これぞ文字通りの産業遺産。
進むうちに「娯楽場・病院跡」という看板を見つける。これに従って歩くのだが完全な山道である。周りはうっそうとした森に覆われており、その霧がモノトーンの景色を演出する。この写真は決して白黒モードで撮ったものではない・・・。
あの~、銅山が閉山になったのって昭和の時代。それも私が産まれた頃の話なので、まだ30数年のことよね。これがこういう姿になるんですな・・・・。
何とも生々しい姿である。しばしその場で動けなくなった。じっとしていると聞こえるのは風の音だけ。これは夜には絶対一人で来ることはできないな・・・。何とも物悲しい姿である。
鉱山の歴史をどう伝えようかというのはあると思う。先ほど訪れたマイントピアは子どもでも楽しめるような鉱山跡を目指そうとしている。そしてその一方でこの東平のような生々しさ。こちらは完全に大人向けのスポット。知る人ぞ知るというのでちょうどよい。
これほどうなった廃墟跡は、長崎の軍艦島を海上から見た時以来かな(あれも6~7年前の話だ)。いつかまた季節を変えて、周囲の景色がちゃんと眺められる時期、ここにある記念館(2月いっぱいまで冬季休館中だった)がオープンしている時期に来たいものである。
これで午前の部は終了。ここから高知に向けて移動することにする・・・・。(続く)