吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年2月26日/〈日記〉100・津屋崎の自然保護の系譜

2007-02-26 13:54:32 | 日記
写真①:パンフレット「つやざき八景」(1994年、津屋崎町観光協会発行)の表紙を飾った柴田治さんが津屋崎の海岸植物を描いた石版画
     =福津市津屋崎で、2007年2月26日午前10時16分複写

 きょう2月26日は、ブログ〈日記〉の100回目です。記念すべき日の掲載テーマは「津屋崎の自然保護の系譜」にしました。

 1991年に「津屋崎の自然と開発を考える住民の会(花田アサノ会長)」が、宗像郡津屋崎町(現福津市津屋崎)の美しい自然を広く知ってもらおうと、活動資金の一部に充てるため、絵はがき集「津屋崎の浜辺――この自然を子や孫に」を出しました。

 花田会長は津屋崎町天神町生まれの元小学校長で、私より随分年配のいとこです。二人いた副会長のうち原田活男さんは津屋崎人形窯元で、津屋崎郷土史研究会(現津屋崎郷土史会の前身)会長、のちに町教育委員長も務められました。もう一人の副会長安部郁郎さんは同町在自出身の元小学校長で、福岡植物研究会会長。私の津屋崎小学校時代の同級生、安部千春君(弁護士)のお父さんです。小学校の遠足かなにかで東郷公園に登った時、咲いていた黄色い花・通称キンポウゲ(キンポウゲ科)の名前を尋ねて、〈ウマノアシガタだよ〉と和名を教えてもらった記憶があります。

 「住民の会」会員は、主婦、自営業の人などもいて総勢約80人。絵はがき集は、津屋崎町出口に住む会員の元中学校教諭柴田治さんの作品=写真①=です。津屋崎に自生する海岸植物のコマツヨイグサが咲く白石浜を描いた「いか釣りのころ」や、ハマヒルガオ、ミヤコグサなどが咲き誇る東浜海水浴場の「五月の浜」、「オニユリ咲く入江」など5枚1組3百円で販売。

 柴田さんは、93年8月に結成された「津屋崎町街並み保存協議会(原田活男会長、約130人=事務局・町観光協会内)」の事務局長として、明治の商家・旧上妻邸を「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」として保存、町興し拠点として活用する住民運動でも活躍。柴田さんが2002年3月に亡くなり、協議会は解散しましたが、『藍の家』の運営は現在のNPO(特定非営利活動)法人「つやざき千軒いきいき夢の会」にバトンタッチされ、「津屋崎千軒 海とまちなみの会」会員でもある夫人の富美子さんが柴田さんの遺志を継ぎ、『藍の家』の運営スタッフを続けておられます。

 「津屋崎の自然と開発を考える住民の会」が発足した当時は、玄界灘一帯に大規模リゾート(保養地)を造る「玄界レク・リゾート構想」で、津屋崎海岸を埋め立て、ヨットやボートを収容できるマリーナ建設計画が浮上し、町民の間から「津屋崎の自然を守ろう」という声が高まり、90年12月に会が結成されました。「津屋崎の海をきれいに」と、91年1月に海岸のゴミを一掃する「カモメ大作戦」と名付けた大掃除をしたり、絵はがき集を発行、自然を守り、行政任せでない町の発展も考える会として町づくり活動を展開しました。

 津屋崎千軒の古い町並みや美しい海も、豊かな自然環境の保護=写真②=があってこそ、その良さが生かされます。「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の活動目的も、歴史的な景観の保全と伝統的建造物群の修復保存、海の自然・生態系の維持を図り、〈津屋崎千軒〉通りの活性化と福津市のまちづくりに寄与することにあります。


写真②:「干潟を守ろう」と環境保全を呼びかける福津市の建て看板
     =「津屋崎干潟」東岸で、06年11月15日午前11時38分撮影

 ハマボウ(アオイ科)は、神奈川県三浦半島が自生北限で、7、8月に美しい黄色の花を付ける〝日本のハイビスカス〟ともいえる南方系直物です。かつては、津屋崎の浜辺にも多く自生していましたが、護岸工事で自生地が少なくなったといわれています。こうしたハマボウをはじめ、津屋崎の浜辺や河口周辺に自生する固有の植物を守り育てていくことも必要ではないかと思っています。
コメント
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